10 「作家性」──前近代とポストヒューマンの狭間で

[201907 特集:これからの建築と社会の関係性を考えるためのキーワード11 |Key Terms and Further Readings for Reexamining the Architects’ Identities Today]

藤田直哉
Jun 30 · 18 min read

「作家性」とは、何だろうか。日常的な用語法としては、「その作り手らしさ」「その作り手の個性」ぐらいの意味で使われていると思われる。しかし、意味を知っていると思い込んでいる様々な概念と同じように、厳密な意味を本気で考えだすと迷宮入りしてしまう。

こういう場合は、辞書や辞典の類に頼るのが早い。フランク・レントリッキア、トマス・マクローリン編『現代批評理論──22の基本概念』(大橋洋一訳, 平凡社, 1994)の「作者 Author」(ドナルド・E・ピーズ執筆)の項目を繙いてみることにする。「作家性」とは若干ズレるが、「作者」概念から手をつけるのが一番早い。

「作者」と〈大家〉

ピーズによれば、「作者Author」という言葉は、「イニシアティヴ、自律性、発明の才、創造性、権威、あるいは独創性」と結び付けられるという。いわゆるロマン主義的な、無から有を作る芸術家像としてぼくらがイメージしがちなものはこういうものだろう。

ランク・レントリッキア、トマス・マクローリン編『現代批評理論──22の基本概念』大橋洋一訳, 平凡社, 1994

そして、この言葉は「無名の行為者を名のある個人に変貌させる過程」に関係しており、「一般的な誰かを特殊な人物に変える」(p.233)機能を持つとされる。無名の存在と有名な存在を差異化し、ある固有名詞を特権化させて感じさせることに関係しているのがこの概念である。現在であれば、「ブランド名」を立たせる、キャラを際立たせる、ということに近しい。

そして長い間この言葉は論争の的であり、「個人は、個人の意思によって自己決定されるのか、それとも物質的・歴史的状況によって決定されるのか」(p.233–4)などの論点が繰り返されてきたという。現在に敷衍するなら、その創作物(絵画、小説、映画、建築など)を個人が自由に作り上げているのか、それとも、様々な諸条件の結果としてそれが出来上がっていると見るのか、という問題系に通じるだろう。

ピーズは、このような概念、考え方が発生してきた背景にある、政治・経済的な条件に注目して論じている。「作者」という言葉・概念が社会的に重要なものとして現れてきたのは、十五世紀ごろであり、〈大家〉と対比的な概念として現れた、とピーズは言う。

〈大家〉とは文化の中で権威と認められた存在で、「先例」として、人々が自身の周囲の事柄を理解するときの強い参照項になるものだった。何か問題が起こると、その〈大家〉が先例に基づいて解釈し、説明することで実際に解決ができたから、この権威が維持された。

しかし、ヨーロッパが〈新世界〉を発見すると、新しい未知の出来事に人々がたくさん出会うようになり、〈大家〉が権威を参照して説明するだけでは理解も説明も解決もできない事象が多くなってきてしまった。結果、〈大家〉の権威を信じる人々が減っていく。そして、先例の権威によることなく、新しい世界、「新しい人間」を、自分自身の個性や創意工夫に基づいて語るものたちが信頼を得ていくようになる。この新しいことを己自身の責任で語る者が「作者」である。

ヨーロッパが〈新世界〉を発見し外部に開かれていく過程に随伴し、それを正当性の根拠としながら「新しく」より「自由」で「自律的」な存在として「作者」は人々の支持を得ていき、文化的権威と影響力を持つようになっていく。

「作者」は革命家でもあった。中世から近代へ、社会の仕組みや人々の生き方が変わっていく際に、それを先導してきた人々でもあった。保守的な〈大家〉の文化的威信は低下し、「作者」のそれは二十世紀まで上昇し続けた。思想的には進歩主義、モダニズム、革新と親和性が強い主体が「作者」である。

社会変革的な力を失った「作者」──「天才」の20世紀

「作者」は、人々が社会的・文化的変動を求めている最中には、様々な他の領域と密接に繋がりを持った存在であった。しかし、世の中が中世から近代へと変容を遂げてしまい、安定してくると、邪魔な存在になってくる。「作者」は新奇性を齎し体制や状況をオルタナティヴに変えていく存在であるから、現状を変えていきたい人々にとっては英雄だが、現状のままでいたい人々にとっては疎ましい存在である。

そこで、「作者」の能力の発揮が、社会や生活に変容を与えないようにするために、彼らを切り離し、囲い込むようになってくる。「作者」が「「天才」 geniusの領域への昇格が起こった」のである。「天才」というとさも良いことと聞こえるが、それはつまり、日常の生活や社会とは切り離された(超越した)存在であると祭り上げることで、影響力を削ぐことが狙いであった。そして「天才」が活動する文化領域は社会とは関係のない「自律的」な領域と見做されるようになっていく。

「この「天才」なるものも、自己の営為を支えるものを、〈造物主〉の法則と同じであるかに考えた。その結果、天才の領域は、完全な自律性をもつものと定義されるにいたる」(p.239)。そして二〇世紀に入ると「天才」は「物質的制約から自由であると考えられ」、文化の領域だけを分離する考え方が主流になってくる。「作者の活動に物質的な基盤を与えていた経済的・政治的・心理的・歴史的な諸条件も、作者の活動を無関係であるとして否定されるようになる」(p.243)。

文化領域を超越した、神のごとき無から世界を創造する力を振るい、政治や経済や社会から自律した存在──現在の「アーティスト」や「クリエイター」像として、今でも大衆的なイメージに影響している「作者」像が成立した事情を、ピーズはこのように説明する。

繰り返しになるが、この「自由」で「自律した」存在として「作者」を「天才」に祭り上げるのは、社会と切り離して影響力を削ぎ、革命的な力を発揮できないようにするためである。

飯島洋一『「らしい」建築批判』青土社, 2014

これら芸術の領域における「作家」「作者」像の変化が、建築にも影響し、建築家を「作家」「作者」と考える傾向が生じたのだと思われる。飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社, 2014)は、建築を芸術のアナロジーで理解してしまう態度を「神話」だと呼んでいる。芸術の場合は美術館なりの制度があったが、建築の場合はそれに支えられておらず、芸術ほどには自由も裁量も効かない、だから建築は芸術ではない、と飯島は建築を芸術と考えることを批判している。

しかしながら芸術も、本当は純粋に自律的であるとは言い難い。たとえばブルデューは、芸術家や人々がそう考えるようになった背景にある、商業的な条件を指摘する。それまで教会や王などの権力者に従って描かされていた画家たちが、勃興した商人階級の注文に応じたことで、相対的に自由であるという感覚を得たからである、というのだ(ピエール・ブルデュー『芸術の規則Ⅰ・Ⅱ』石井洋二郎訳, 藤原書店, 1995–1996など)。だから持ち運びや売り買いに便利な、コンパクトなサイズのタブローが、美術の中心であると考えられるようになった。現在の日本でも、美術展で人を集めるのはそのような「近代絵画」「西洋絵画」である。

何度も繰り返すが、現在の「作家」「作者」「芸術家」像には、この時代の影が未だに投影されている。日本文学においても、芸術のために自身の私生活を犠牲にする度合いを競うように見せつけた「私小説」や「無頼派」、あるいは芸のために家族や周囲を犠牲にする作家たちが現実にたくさんいたし、作品に描かれてきた。良くも悪くもそれは現代日本の「作家」観に影響を及ぼしているだろう。

しかし、「芸術のための芸術」という考え方を、時代の状況と商業の条件が生み出したロマン主義的な錯覚として否定し去っていいのだろうか。確かに素朴なロマン主義に対しては、文化唯物論的な視点の提供による相対化は有用だし、必要なこともある。しかし、「芸術のための芸術」ではない、「何かのための芸術」が必ずしも良いものでもないことも事実だ。権力のため、教会のための芸術や、革命や社会のための芸術の中には、プロパガンダもあったし、つまらないものもあった。「芸術のための芸術」という考え方も、ひとつの理念もしくは抵抗の拠点となる概念としては、今でも必要な状況はあるのではないかと思われる。体制に奉仕する芸術に対する疑問や、ポリティカルコレクトネスに関する議論に形を変えて、今なおこの問題系は現在進行形である。

作者の死?──メディアと批評

話を「作者」概念の系譜に戻すと、この概念が再考される重要な時期として、一九六八年前後の議論を参照すべきである。ロラン・バルトが1968年に発表した論文「作者の死」(ロラン・バルト『物語の構造分析』花輪光訳, みすず書房, 1979年)と、それに対するミシェル・フーコーの反論「作者とは何か」(1969)が、教科書的に注目されるべき議論である。1968年という全世界で起こった若者の叛乱の時代に相次いでこれらの議論が出ていることにも注目してほしい。

ロラン・バルト『物語の構造分析』花輪光訳, みすず書房, 1979年

ロラン・バルトは「作者の死」を宣言した。「作者というのは、おそらくわれわれの社会によって生み出された近代の登場人物である。われわれの社会が中世から抜け出し、イギリスの経験主義、フランスの合理主義、宗教改革の個人的信仰を知り、個人の威信、あるいはもっと高尚に言えば、《人格》の威信を発見するにつれて生み出されたのだ」(『物語の構造分析』p.80)。

この主張のうち、歴史的経緯の部分は、これまで確認してきたことと重なる。バルトの指摘で重要な点は、「作者」が、それを論じる人々によって必要とされ、仮構された存在だと認識されている点である。「作者は今でも文学史概論、作家の伝記、雑誌のインタビューを支配し、おのれの人格と作品を日記によって結びつけようと苦心する文学者の意識そのものを支配している」(pp.80–81)。

バルトが「作者の死」という言葉で言わんとしたことをごく単純に言うと、作品を読解する際に、作者がオリジナルに作品を創造し制御しているというのを考えるのをやめて、様々な言葉同士の連鎖や影響の中で生まれているものと見做そう、というアイデアの表現である。建築であれば、「建築家」が無から創造したと考えるのではなく、構造の条件や、法律や、予算や、地域などの様々な条件の影響を受けてこうなっていると見よう、という話に近い部分がある。

バルトの考えでは、虚構の「作者」をでっちあげたがるのは批評家である。「批評は、作品の背後に『作者』(または、それと三位一体のもの、つまり社会、歴史、心理、自由)を発見することを重要な任務としたがる。『作者』が見出されれば、《テクスト》は説明され、批評家は勝ったことになるのだ」(p.87)。

つまり、批評家は、作品を論じ切ったということを示すために「作者」という仮の人格を作り上げる必要がある。この「批評」を「メディア」「商業」に言い換え、「作者」を「ブランド」などと言い換えれば、そのまま現代的問題であることが分かる。批評家とは違う目的ではあるが、メディア・ジャーナリズムこそが、虚構の「作者」像を必要とし、でっちあげ、それを演じさせるのだ。

バルトの「作者の死」は重要な問題提起である。作品読解の際に、「作者がこう考えていたから」「作者がメモに書いているから」ばかりを根拠にして論じるのが実証主義的な文学研究であると考える向きに対するカウンターとしては実にうまく機能もした。実際、この考え方があると、研究者は作者や家族に接近し、崇拝し、資料を見せてもらわなくてはいけなくなり、「作者」の権威を高め神秘化してしまうし、文学研究には確かにその傾向もある。「作者の死」概念は、実際に何がどう書いてあるのかを重視したり、同時代の事象や、ジャンルの系譜などから作品を解き明かすスタイルに研究・評論を開くような認識の変化を巻き起こした点では、今なお重要な文章である。

しかし、では「作者の死」のうち最もラディカルな考えを徹底し、「作者」を消滅させ、バルトの考える理想状態を実現させられるかというと、もちろんそれは難しい。

ビアトリス・コロミーナ『マスメディアとしての近代建築―アドルフ・ロースとル・コルビュジエ』松畑強訳, 鹿島出版会, 1996

バルトから少し離れて世俗的で俗っぽい例を出すが、商業的・知名度的に、「作者」というキャラクターを分かりやすく立てることの利益は計り知れない。セルフブランディングは多くの者が行っているだろうし、商業・ジャーナリズムの世界が要請するものでもあるだろう。建築で言えば、ビアトリス・コロミーナ『マスメディアとしての近代建築―アドルフ・ロースとル・コルビュジエ』(松畑強訳, 鹿島出版会, 1996)が、モダニズムの建築家であるアドルフ・ロースとル・コルビュジエを対比的に論じながら、そのやり口を明らかにしている。

このようなブランド名としての「作者」から自由であることは、大変に難しい。つまり、それは資本主義と、人間の脳の認知特性(分かりやすい人格に代表され単純化されたものを認識しやすい)を変えない限り、なくならないものだと思われるのだ。

フーコーは「作者とは何か」で、バルトの「作者の死」概念にツッコミを入れた。簡単に要約すると、「作者」名は、社会的機能を現に有している、ということが批判の要点である。

実際、ある作者名の文章なら掲載されるが、同じ文章が匿名では掲載されないということはよくある。「何を書いたか」ではなく「誰が書いたか」が重視される。これはぼくらが本を買うとき、読むときにどのようにそうしているのかを考えれば、そう簡単に批判できないはずだ(自分を棚に上げない限り)。

さらに、作者名は、その内容に対して刑罰などで責任を負わせるために銘記されている、ということをフーコーは重視する。裏返せば、著作権法が定める作者として、原稿料や印税が口座に支払われるということでもある。このような法的な主体としての「作者」をなくすることは、実際のところ、とても難しい。集団で匿名で、あるいは「みんな」で建物を建てたとして、それが倒壊して大量の死者が出た場合に誰が責任を取るのかを考えれば、それをなくすことがどれだけ困難なのかわかりそうなものである。

この、「責任主体」としての「作者」も虚構的なものである。「責任」という概念は、個人が自由意志を持っていることを前提としており、その自由意志に基づいた行為の結果を問うものだが、果して本当に人は自由意志で決定できているのかどうかは怪しいものである。しかし「責任主体」というものは、虚構ではあっても、法制度の中でそれは有効な力を持っているものである。

それはブランド名としての「作者」が、虚構であっても資本主義・広告の世界で力を持つのと同様であり、そう簡単に「作者」は死なないというのが、バルトの提起から50年近く経った現状から認識しておくべきことではないだろうか。

作品が、一人の作者のロマン主義的な創造物ではないことは分かり切っている。文学もそうであるし、ましてや集団で作り上げる映画や、建築もそうである。誠実かつ精密に見れば、作者に還元するべきではないのだ。しかし、「作者」というタグ、ブランド名は、いまなお機能しており、そこから逃れるのは容易ではないのだ。

ポスト・ヒューマンの時代における作家

話を現在に移そう。「作者」を否定する意見のうち、「作者」概念が前提としている「近代的な個」を否定する人々もいる。

たとえばそのひとつが、インターネットにおける「匿名」集団である。近代的な個でもなく、責任の主体でもない「匿名」の集団の可能性を模索する人々もおり、アクティヴィスト集団「アノニマス」その他、現在も活動を続けている。「匿名」は時に義賊的な善行をすることもあるが、時に無責任で逸脱的な暴力に加担することにもなる。

「作者の死」を謳う人間は、それを署名付きで主張したり、原稿料や印税をもらうという振る舞いをした時点で、不徹底な自己矛盾に陥っている。だから、身元を特定できないような手段を講じて、匿名で無報酬で書き続けるという手法は、「作者の死」を本当に実践しようとしたものと言えるのかもしれない。その場合、彼らは「近代的な個」を超えた、集団的な存在(ポストヒューマン?)として自己を考えるようである。

日本論、日本人論として「近代的な個」を否定する人々もいる。「個」という概念は西洋から入ってきたものであり、日本人にはそぐわない、という日本思想・日本主義的な方向性からの批判である。「近代の超克」の議論を現代的に反復する向きもある。夏目漱石は大正3年(1914年)におけるの講演「私の個人主義」(夏目漱石『私の個人主義』講談社, 1978)などで、「個」という概念が入ってきたときの苦痛を描いているが、その現代的バリエーションの議論である。

その主張をする人々が想定されている内容を最大公約数的に言うと、日本人は調和し、周囲に合わせて、我を張らず、自然と一体となり……というような日本人観であり、そのような社会を実現させようという話である。一見美しい話ではあるが、近代以前は身分制の封建社会であり、身分が上の権力者には都合がいいが、下々の者は多分多く我慢を強いられていただろうから、おそらく想像するほどユートピア的状態でもないのではないか、と個人的には感じる。

落合陽一『デジタル・ネイチャー──生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』PLANETS, 2018

このような「調和」が大事で「個」を捨てるのが日本人である、というタイプの議論は、管理社会・監視社会と結びつくこともある。八百万の神がいるというアニミズムの感覚、あるいは自然に敏感に反応していた縄文人の感覚こそが日本人の基層であり、大事にすべきだという議論が現代社会に敷衍されると、「第二の自然」であるテクノロジーや制度などに調和して生きろという話になってしまい、管理社会・監視社会を肯定的に捉える感性を生む。伊藤計劃『ハーモニー』(早川書房, 2008)や、落合陽一『デジタル・ネイチャー──生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』(PLANETS, 2018)などの著作にはその気配がある。筆者はこれを「日本的ポスト・ヒューマン」と呼んでいる。

「個」の価値を低く評価し、封建社会のようにしてしまおう、民主主義もやめてしまい、人権の考え方も捨ててしまおう、という議論も出てきている。

「作者」概念の変動は、現在では、このような「個」と「近代」の価値に対する問い直しの運動の中にある。そして、「近代的な個」を振り捨てて「ポスト・ヒューマン」になろうという議論が、奇妙にも、近代以前の価値観に揺り戻され反復してしまう、という現象も随所で見られる。

かつては「作者」だったが〈大家〉になろうとする戦略を採る人々が増えてくるのは、このような時代の背景に依る。

権威と認められた存在が、新しいものを否定する立場に立つのは、経済的に合理性がある。彼は既に認められているので、チャレンジをするリスクを負わない方が合理的である。そして、新しさやオリジナリティを否定する言説が支配的になれば、未だ権威を得ていない若手たちを抑圧し、自身の価値を高めるだろう。既に自身の名前がブランドとして流通しているので、権威性も知名度もあるのだ。

皮肉なことに、その「権威」を獲得するに至る過程では、多くの者は、「批評性」「作家性」「オリジナリティ」「クリエイティビティ」「新しさ」などを発揮してきたはずである。既存の作者たちと同じものを反復的に作っていれば、評価もされず、注目もされず、名声も受注もなかったのではないか。郊外に大量に建っている建売の住宅を大量生産していたら、現在の知名度も権威も獲得できてはいないはずだ。

だから、彼は、駆け出しの時期であり、売り出しの時期には、「新しさ」「オリジナリティ」を押し出す「作家」であった。進歩主義的で革新的な存在として、自分自身の個を押しだす必要がある。キャリアの初期には自身を「天才」「作者」として売り出す戦略が有効になる。そして、地位と名声を得てからは、若い競合を抑圧するために〈大家〉の戦略に出る方が有利になる。

「近代」の価値が疑われ、新しいものを求めて進歩を繰り返す時代であるよりは、過去をこそ理想的な世界として夢想しがちになってしまうレトロトピアの気分が全世界に蔓延しているが、高度資本主義社会とレトロトピア的な機運の両方に適合するために、新しく「作家」像の変容が起こっているようである。

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藤田直哉

Written by

ふじた・なおや/1983年札幌生まれ。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『虚構内存在』『シン・ゴジラ論』(作品社)『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)、編著に『地域アート 美学/制度/日本』(堀之内出版)『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)『東日本大震災後文学論』(南雲堂)など

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