居場所と逃げ場 ── 地理学から見た新型コロナウイルス

大城直樹/Place to stay and place to escape — COVID 19 from geographic perspective / Naoki Oshiro

大城直樹
建築討論
11 min readSep 1, 2020

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イーフー トゥアン著、小野有五、阿部一 訳『トポフィリア―人間と環境』(筑摩書房、2008)。人間主義的地理学の代表的著作。

「場所」への介入と「日常生活の植民地化」

人文地理学では,第二次世界大戦後,急速に進んだ統計を大々的に用いる計量的手法が研究の主流を占めるようになったが,環境保護運動,公民権運動,ベトナム反戦運動,フェミニズム関連の運動など,1960年代後半の様々な社会運動からの影響もあって,その潮流に異を唱える動きが出始めるようになった。現状を再生産する構制そのものを撃ち砕こうとするマルクス主義的地理学と★1,数値還元主義的な主流の研究動向に人間性を取り戻そうとする人間主義的地理学がそれである★2。後者の主要概念は「場所 place」であり,これは戦後支配的となった価値中立的な「空間 space」概念に対して人間の主観性や意味・価値などを含み込んだものとなっている。本稿では,この「場所」概念をもとにしながら,新型コロナウイルスの感染に絡んだ都市空間における変化について考えてみることとしたい。

Alison Blunt, Robyn Dowling, “Home (Key Ideas in Geography)”, Routledge, 2006. 「ホーム」の概念をジェンダー的観点も含め地理学的に検討した内容。

場所とはその主体にとって他に変えようのないかけがえのない一義的な場である,というのが人文主義地理学者の理解であった。ホーム/居場所という概念に近いだろうか★3。新型コロナウイルスの流行によって,少なくとも私の住んでいる東京では,行政から一方的に「ステイ・ホーム」とあたかも飼い犬かのように命令され,数多の大人や子どもたちがオフィスや勤務先,学校から締め出され,自宅(ないしは居場所)に蟄居せざるを得ない状況がいまだに続いている。初等・中等教育学校は徐々に学童・生徒を受け入れるようになっていったが,大学は未だに閉鎖状況が続いている。当初は集団感染(クラスター)を特定するため,あるいは発生させないため,また市中感染を極力発生させないために,都市の「ロックダウン」という脅し文句さえちらつかせて,人の動きを抑え込んでいたが,人が居てこそ回転する飲食店等の各種サービス業への打撃は計り知れず,いくつかの補助金をばらまいては見たものの,こう長期化しては焼け石に水となってしまい,挙句の果てに「Go To キャンペーン」を打ち出してみたものの,罹患者数がなかなかゼロに近づかない状況で,都道府県を跨いでの移動が制限されている中で,その効果は捗々しいものとなったとは言えないだろう。行っていいのかダメなのか判断の難しいなか,精神的にもダブルバインド(二重拘束)の状況となっており,ストレスが溜まるのは避けられない。

アンル・ルフェーブル著、斎藤日出治 訳『空間の生産』(青木書店、2000)

人の物理的移動の抑制のみならず,「新しい生活様式」という名で我々の生活世界全体に行政的介入が押し付けられるという構図は,まさにアンリ・ルフェーヴルのいう「日常生活の植民地化」に他なるまい。人々の生の生活は,合理化・効率化,言い換えれば,数値に還元され,行政によって管理されていく★4。数値の前景化の下で,では質的なものはどうなっているのか?

「居場所」の喪失と「逃げ場」の希求

リモートオフィスが当然のものと考えられるようになれば,都心への通勤のための移動量は減り,いずれ都心オフィスの稼働率は低下し,新たな用途の模索が行われるようになるだろう。満員列車に乗ることを厭う人にすれば,それだけを見れば,現状はむしろ好ましい事態と捉えられているのだろう。確かにそうかもしれない。だがこれも,自宅に空間的な余裕があれば,の話である。日中の出勤が自明であったものが自宅への空間的な封じ込めにより,日常が「非日常」と化してしまう。日中は己が不在で配偶者や子どもらによって占有される空間であるため,いきおい居場所を得られず,メンタルな閉塞状況に追い込まれるといった事態もあるし,逆に日常では不在のものがリモートワークということで自宅に滞在するため,その不在を日常として生きてきた者たちにとっては,居場所への闖入者の出現もしくは居場所の喪失といった事態となっているのである。こうした中,日常と非日常の狭間で,居場所の構成をめぐる葛藤が起こってしまう。

エドワード・ソジャ著、加藤政洋 訳『第三空間』(青土社、2005)。地理学的視点から第三空間を論じている。

いわば居場所の輻輳によって,混乱が生じる事態となっているのである。都市生活は,第一空間としての自宅,第二空間としての勤務先・学校,第三空間としてのそれぞれの居場所(飲み屋等憩いの場)という風に分節して考えられるという見方がある★5。これらは時間や曜日によって,自宅という同じ空間に共在する身体それぞれが,それぞれの場と結びつきながら棲み分けつつ生活していることをパターン化したものである。例えば,もはや過去のこととはいえ,高度経済成長期からしばらくは,郊外住宅地では,通勤者・通学者がそれぞれの場へと移動した後,専業主婦と未就学の子どもたちによって生きられる,年齢家庭や性別,ジェンダーによって特殊化された空間となることも指摘されていた★6。ベッドタウンという言い方もされたように,労働力再生産が一義化された空間ということもできよう。昭和の時代のサラリーマン映画のように,自宅を出て出勤し,そこで仕事をし,夕方になると駅前かそこらの居酒屋で飲みニケ―ションを行い,やっと自宅に帰り着く。風呂に入り夕食を済ませ,テレビを見て寝て,また朝に出勤…,といったような。

子どもたちはというと,(戯画化していえば)学校に出かけ,塾にも寄って帰宅しても,情報通信技術の進展によって,夕食の時だけは顔を出すものの,多くの時間は自室で過ごす,というのが日常であろう。家族より同級生や先輩・後輩といった同世代とのコミュニケーションが優先される年齢であるし,ゲーム機器や携帯電話,パーソナルコンピュータの普及によってますます自宅での共在者とは切断された生活を行うようになった。テレビも居間で観ることは珍しく,デフォルトはパソコンで好きなものを好きな時に観るようになったし,さらにSNSが敷衍化すると,こうした傾向は加速していく。一時的にであれ,同世代コミュニケーションが拗れてしまえば,自宅に戻っていても,SNSが気になって仕方ない。もはや「避難場/逃げ場」(これを「第四空間」)とすることも可能であろう★7 が何処にも無くなってしまったのである。何と酷な世界なのであろうか。しかしながら,逆にSNS的世界で救われることもある。こうしてみると,避難場/逃げ場は今では現実空間ではなく,情報空間の方にこそある(場合もある)と言えるのかもしれない。

「自宅」の脱=構築化

今般の新型コロナの流行によるリモートオフィスや,(大学生の場合)出校禁止で,こうした自明化された生活様式は塗り替えられつつある。先に述べたように,これまで構成員(?)によって時間=空間的に棲み分けてきた自宅という場所,自宅という「内」なる場所に「外」が闖入してきたためである。物理的な移動を伴っていた「外」が,今では距離無しの「内」に居座っている。ただでさえ,情報環境的には外部に繋がっていた「内」に,身体と結びついた「外」がやってきた。こうした事態に違和感を覚える反面,「外」なるものとの共棲は不可避である。新たな居場所探しが始まる。会社に行かずリビングの片隅でパソコンを前に仕事をする父親(夫・妻)の姿を初めてみる子ども(妻・夫)たちもきっと多いことだろう。これ以外にも多々あるだろうが,いずれにせよこれまでウィークデイの昼間に観ることのなかった「自宅」構成員の姿/生活行動を目の当たりにしていくことは,自分の知らなかった「外部」を目にすることである。非日常がだんだんと日常化していく。「外」を「内」が馴化 domesticate していくことになるのだろうか。

Derek Gregory, Ron Johnston, Geraldine Pratt, Michael Watts, Sarah Whatmore (eds.), “The Dictionary of Human Geography”, Wiley-Blackwell; 5th Edition, 2009

『人文地理学事典』(未邦訳。原題:The Dictionary of Human Geography, 2009。同名の日本語書籍とは別物)によれば,homeは世界-内-存在と世界への帰属というより広義の感覚を伴う日常のドメスティックな生活の生きた経験を包含する感情的な場所であり空間的なイメージである。帰属と疎外,親密性と暴力,欲望と恐怖の空間として,ホームなるものには,人間の生活の核心にある感情,経験,実践,関係といったものが関わり込んでいる,とされる★8。このコロナ状況下において,日本でも高度経済成長期以降の専業主婦を前提とする家庭類型によって想定された「自宅」が,いかにして社会的に,かつ不均等な力関係を伴って構成されていたかを問い,それを脱=構築していくことにもなるだろう。フランスの思想家アンリ・ルフェーヴルは,日常生活の植民地化を「抽象空間」化と言い換えてもいた。効率性・合理性に対して,人の顔をもった「具体的な空間」を取り戻さなくてはならないと。「抽象空間」との結託によって成立していた「自宅」なるものを,我々は「具体的な空間」として取り戻さなくてはならない。そこにこそ「新しい生活様式」が出現するはずである。

★1 デヴィッド・ハーヴェイやリチャード・ピートらに代表されるアメリカ合衆国で起こった潮流。雑誌 Antipode(1969年創刊)を中心とする。

★2 代表的な著作は,イ=フ・トゥアン(Yi-Fu Tuan)『トポフィリア』せりか書房,1992年,Topophilia(1974),『空間の経験』筑摩書房,1988年,Space and Place(1977)やエドワード・レルフ(Edward Relph)『場所の現象学』筑摩書房,1999年,Place and Placelessness (1976),など。

★3 地理学では,ホームなるものをジェンダー的観点も含めた多角的視座から検討したAlison Blunt, Robyn Dowling, Home, Routledge, 2006も出版されている。

★4 ルフェーヴル,H.(斎藤日出治訳)『空間の生産』青木書店2000年,La production de l’espace (1974)。

★5 第三空間論は磯村英一以来,社会学で議論されてきているが,ここでは順番を入れ替えている。地理学では,本稿のニュアンスとは異なるが,エドワード・ソジャも論じている(『第三空間』青土社,2005年,Thirdspace(1996))。他に都市の文脈とはずれるが,ポスト・コロニアリズムの立場からのホミ・バーバの著作もある。

★6 多木浩二『都市の政治学』岩波書店,1994年

★7 社会学者の宮台真司は,この第四空間について,学校生徒の事例を通して語っていた。「ストリート」がそれに相当すると。彼の場合,第三空間は近隣地区に相当する。次のブログ記事は彼の考えをコンパクトにまとめている。宮台真司(2010)「若い世代のコミュニケーション―その変化の背景そして処方箋―」(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=844

★8 ’Home’ in Gregory, D. et al, eds. The Dictionary of Human Geography 5th edition, Blackwell, 2009

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大城直樹
建築討論

おおしろ・なおき/文化地理学・地理思想史。明治大学教授。博士(文学)。共著に『空間から場所へ』,『郷土』,『都市空間の地理学』,『モダン都市の系譜』,『モダニティと空間の物語』,『空間の政治地理』,『空間の文化地理』,『人文地理学への招待』ほか。