Alison Green, “When Artists Curate: Contemporary Art and the Exhibition As Medium”
アイデアが展覧会になるとき(評者:長谷川新)
著書のアリソン・グリーンは、ロンドン芸術大学セントラル・セント・マーチンズで批評・キュレーションに関して教鞭をとる、美術史家、批評家、キュレーターである。本書「アーティストがキュレーションするとき:現代美術とメディウムとしての展覧会」は、第一線の専門家による、キュレーションの歴史に一石を投ずる労作だ。
「キュレーション」がバズワードとなって久しいが、今でもしばしば、私たちはアーティストによるキュレーションを例外的なケースであると見なしがちである(だからこそ、それらは話題になりやすい)。しかし本書を貫く歴史的、批評的な探求は、むしろ逆の事実、すなわち「アーティストはいつだって常にキュレーションをしてきている」という事実から出発している。本書がArt Since the ‘80sシリーズの2冊目として刊行されていることもあり、言及されるアーティストキュレーションによる展覧会は1980年代以降が中心となるが、第一章の「1980年代以前のアーティストキュレーション小史」を一瞥しても、アーティストによるキュレーション実践が特例的でも、周縁的な出来事でもないことが確認できる。著しく欧米の現代美術史に偏っていることを差し引けば(アジアの事例は、1979年の中国での星星画会の展覧会くらいである)、読者は豊富な事例にアクセスすることができるだろう。エルムグリーン&ドラッグセットがキュレーションしたイスタンブールビエンナーレと森村泰昌がキュレーションした横浜トリエンナーレは、それぞれ孤独な事象であるわけではなく、同時代的に位置づけうる。

本書でアリソンは、キュレーションをいわばメディウム(媒介)として考えることに対して向けられる批判にはあえて触れないように努めている。それどころか、そうした批判の多くは、キュレーションを美学的実践の領野へと引き戻す退行であるとすら言い切る。「ポストメディウム的メディウム」としてキュレーションが要請されている昨今、展覧会にはマスメディアのような、広報技術としての側面が重視される。あるいはこうした風潮を推し進めた主要キュレーターのひとりであるマリア・リンドの挑発的な発言を引用すれば、人とモノとの「出会い系サービス」のような役割が前景化する。アリソンたちのこうした立場は、パブリックミュージアムでコレクションの保存や研究を続けるキュレーターたちの居心地を悪くさせてしまうかもしれない。こうした対立をアリソンも拒もうとしているが、結論部での彼女の提案はその対立を消去するにはいたっていない。本書の魅力は、やはり個々のアーティストキュレーションの事例にある。
ここで補助線未満の補助線をひいておきたい。ある公立美術館学芸員は、展覧会を「学術論文」として編んでいると筆者に語ってくれたことがある。他方で、あるインディペンデントキュレーターは、キュレーションの無根拠性を引き受けたい、と筆者とのメールに書きつけていた。キュレーターがそれをやらずして、アーティストの自由は保証できない、と。美術館という制度において、作品が収集、保存、研究され、共有される──この営みの繰り返しに宿る公共性の追求と歴史の構築を、学術的な諸技術をベースとして展開すること。いままさに生み出されたばかりの「新作」に宿る、あるいは宿ろうとしている可能性を精査し、それを社会的に位置づけながら提示し、確保すること。これらはまったく対立しない。商業的な力学とは別の力学をアートに発生させたいという思いは同じだ、という点で対立しない、と言いたいのではない。あるアイデアが作品に、展覧会になるときの危うさがそれらを支えている点において両者は結びついている。アーティストキュレーションとは、展覧会の構成要因たちによる責任の分有・分配の問題であり、さらにいえば、そのなかの一部には、キュレーションの無根拠性をアーティストが引き受けなおしている、という構図が隠れている。本書の事例をひとつひとつ検討することで、未来の展覧会が、キュレーションが、よりより生の営みと交錯するよう、試みられ続けていくことを願ってやまない。
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書誌
著者:Alison Green
書名:When Artists Curate: Contemporary Art and the Exhibition As Medium (Art Since the ‘80s)
出版社:Reaktion Books
出版年月:2018年6月

