Eyal Weizman “Forensic Architecture VIOLENCE AT THE THRESHOLD OF DETECTABILITY”

建築が証言するとき──実践する人権をめざして(評者:中村健太郎)

中村健太郎
建築討論
Oct 31, 2018

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「フォレンジック・アーキテクチャー(Forensic Architecture)」という組織の名を耳にしたことはあるだろうか。いわゆる設計事務所ではない。建築家、ソフトウェア・エンジニア、映像作家、ジャーナリスト、弁護士らを擁し、Amnesty Internationalなどの名だたるNGOと協働する彼らは、ゴールドスミス・カレッジを活動拠点とするイギリスの研究機関である。若干15名程度の彼らが取り組むのは、例えば国境警備隊によるデモ参加者の射殺疑惑アレッポの病院に対する執拗な爆撃の解析パレスチナを襲った空襲の被害測定など…。つまり、人権の侵害が疑われる事件の調査だ。

この組織を率いるのは、イスラエル出身の建築家エヤル・ワイツマン(Eyal Weizman、1970~)。彼が一貫して取り扱ってきたのは、人道的な罪や暴力──特に国家によるそれ──と建築が関係する状況である。『Forensic Architecture VIOLENCE AT THE THRESHOLD OF DETECTABILITY(検出境界線上の暴力)』は、すでに十数冊の著作をもつエヤルが、初めてフォレンジック・アーキテクチャーの理論と実践を詳説した大著だ。

彼らの活動を端的に伝えるのは難しいが、建築史家五十嵐太郎の評を借りるなら、彼らは「コンピュータとネットワークを駆使しながら、科学捜査(=フォレンジック)を行い、メディアを素材に情報の建築をつくりだす」。どういうことだろうか。

たとえば彼らが“architectural image complex”と呼ぶ手法を見てみよう。近年に急速に普及したスマートフォンが、その鍵を握る。ここで彼らが素材として用いる「メディア」は、事件現場から投稿・拡散された写真や動画なのだ。まずインターネットを通じて収集したメディアが、どの場所から/どの時間に/どの画角で撮影されたのかを特定する。そうして得られた複数の情報の、空間的・時間的な“視差”を用いることで──事件が発生した瞬間を三次元的に再構成するのだ(書影のイメージがそれだ)。いわば「情報の建築」である。これによって、デモ参加者を貫いた弾丸の射線が、爆撃をうけた病院の3Dモデルが、パレスチナへの空爆スケジュールと被害が再現される。そのショッキングな成果は美麗な動画にまとめられ、ウェブサイトYouTubeで公開されているので、ぜひ実際に確認してほしい。

ただし、エヤルの目論見が単に建築的思考を応用した犯罪捜査にあると早合点するのは禁物だ。結論から言えば、フォレンジック・アーキテクチャーの実践によって、建築学は新たな領域、「人権の実践」に関わり始める。

唐突な飛躍に思われるかもしれない。この点について理解するには、まず科学捜査という領域の近現代史における位置づけを知る必要がある。1961年のアイヒマン裁判以降、事件の目撃者たちによる証言は、人権運動、ポリティカル・アート、マスメディアにおいて特権的な地位を与えられてきた。功績は偉大だが、それゆえの限界もある。往々にして被害者と一致する「証言者」を尊重するあまり、その発言(narrative)が半ば聖域化してしまったのだ。これに対し科学捜査の起源は、とある人骨の鑑別──くしくも亡命したナチス高官のそれ──に挑戦した法科学者たちにある。彼らは「証拠」を科学的に導くためなら、証言者をも「素材」として扱い、他の物的資料との優劣をつけない。科学捜査の司法史的意義はここにある。すなわち「モノに法廷で語らせる」科学捜査は、人とモノを等価に扱うことで、「証言者の時代(the era of the witness)」の倫理観を更新する運動と見なしうるのだ。

しかし話はここで終わらない。エヤルは、科学捜査がそもそも国家権力であり、警察力や軍事力と同様に、国家によって独占された行為だという認識を強調する。市民(civilian)の身体は、その身柄の同定(identification)を、国家によって一方的に行使される状態にあるのだと。そこでエヤルが提起するのが「カウンター・フォレンジック(counterforensics)」の実践である。カウンター・フォレンジックは一般的には科学捜査を欺くための「証拠隠滅」を意味する言葉だが、ここでは次の意味合いがより適切だ。すなわち国家の権能を自身へと反転させる、「市民運動(civil practice)としての科学捜査」である。フォレンジック・アーキテクチャーの作品の数々は、国家による政治的暴力を暴くアクティビズムとして実践されてきたのだ。

だがそうした運動の先に、エヤルはなにを目指しているのだろう? 素朴な疑問に答えてくれる一文がある。

Forensic Architecture is part of a broader development that I’d like to refer to as the “forensic turn,” a turn of human rights to forensic methods practiced as counterforensics.(フォレンジック・アーキテクチャーは、私が「フォレンジック・ターン」と呼ぶ、広範囲な発展の一部分である。それは人権から、カウンター・フォレンジックとして実践される科学捜査手法への転回だ。)

つまりエヤルの目的は、人権に対する「フォレンジック・ターン(forensic turn = 科学捜査的転回)」の実現だ。それは事件の目撃者として証言を紡ぎ、いかに人道に対する罪が犯されたかを「主張する人権」から、国家の暴力に対して正面から向き合うことを、カウンター・フォレンジックとして「実践する人権」への転回である。彼が見据えているのは、人権概念を支える道具立てに更新を加えることなのだ。

この理路を逆にたどれば、フォレンジック・アーキテクチャーにおける建築的実践が、カウンター・フォレンジックを経由して、フォレンジック・ターンすなわち「実践する人権」へと接続されているのが直ちに把握されよう。情報化された建築をフォレンジックの文脈と交差させる彼らは、次なる人権のためのプロジェクトに建築学を埋めこもうとしている──。

すさまじい知の実践だ。なによりフォレンジック・アーキテクチャーに筆者が惹きつけられる理由は、彼らがコンピューテーショナル・デザインのオルタナティブな価値を示した点にある。これまで強調されてきた「シミュレーション」や「最適化」とは異なる性向のそれは、情報技術による「問題解決」というよりはむしろ「問題構築」、眼の前の人工物をヴァーチャル化することによって、異なる現実との再接続を可能にする運動だ。

このことを次のように換言しても良いだろう。すなわち、「人工環境を分析・操作する技法としての建築学は、おおよそ解決の糸口が見えない複雑な社会・技術的問題を“現実へと接地(grounding)させる”という、あらたな知的貢献の方法を獲得しつつある」。その可能性は、フォレンジック・アーキテクチャーの実践が十二分に示しているはずだ。

筆者にはそれが、単に「建てること」だけが建築学の存在意義ではないのだという、力強い宣言に思えてならない。

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書誌
著者:Eyal Weizman
書名:Forensic Architecture VIOLENCE AT THE THRESHOLD OF DETECTABILITY
出版社:Zone Books
出版年月:2017年5月

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中村健太郎
建築討論

なかむら・けんたろう/建築家、プログラマ。1993年大阪府生まれ。2016年慶應義塾大学SFC卒。