川崎清[1932–2018]日本における建築デザインへのコンピュータ利用の先駆者として

話手:川崎清/聞手:種田元晴・石井翔大・池上宗樹・長﨑大典[連載:建築と戦後70年 ─ 07]

建築と戦後
建築討論
45 min readDec 15, 2020

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日時:2017年11月20日(月)14:00~16:30
場所:環境・建築研究所(京都府京都市)
オブザーバー:山口重之、上崎孝、岡部惠一郎
聞手:種田元晴(T)、石井翔大(Is)、池上宗樹(Ik)(建築情報学技術研究WG)、長﨑大典(N)(建築情報学技術研究WG)
構成協力:岡本雄大

川崎清氏(石井撮影)

日本で建築のデザインにコンピュータが用いられるようになって、すでに半世紀が経過した。その軌跡は戦後建築史の一端として、近年少しずつ研究・整理の対象とみなされはじめている[注1]。

本インタビューは、日本建築学会情報システム技術委員会設計・生産の情報化小委員会建築情報学技術研究WG(以下、建築情報学技術研究WG[注2])のメンバー4名(うち2名は建築討論委員会戦後建築史小委員会のメンバーでもある)による2017年のインタビューの記録である。

建築情報学技術研究WGでは、BIM(Building Information Modeling)が普及し、人工知能の飛躍に注目が集まる今こそ、建築デザインへのコンピュータ利用の系譜を振り返りつつ、これからの建築デザインと情報技術とのかかわりに寄与する知見を整理すべきとの想いで、建築実務と情報技術に通ずるメンバーと歴史研究に関心のあるメンバーの協働により、2017年より活動を開始した。

同WGで日本における建築CAD利用の教育普及研究の源流を辿るなかで、その最初期の貢献者として京都大学川崎清研究室の果たした役割の大きさを知るに至った。本インタビューは、研究室の主宰者であった川崎清氏本人に、建築CAD利用の先駆者としての軌跡を伺った記録である。

インタビューには、当時の研究室の学生であり、後に建築デザインにおけるコンピュータ利用の教育普及研究に多大な貢献を果たされた山口重之氏と、川崎氏の実務を支えられた環境・建築研究所の上崎孝氏、岡部惠一郎氏にも同席いただき、当時の空気感を一層克明に浮かび上がらせることにご協力いただいた。

なお、このインタビューの半年後、川崎氏は逝去されてしまった。貴重な証言の数々をいただきながら、ひとえに聞手側の不徳のためにその整理・公開までに多大な時間を要し、川崎氏ご本人にその成果を報告できなかったことが悔やまれる。ここに公開することで、非礼を心からお詫び申し上げる次第である。(T)

論理的に分析するチームと直感でデザインするチームを並走させる

T: 本日はお時間をお取りいただきありがとうございます。私たちは、日本建築学会の情報システム技術委員会内に設置された設計・生産の情報化小委員会という小委員会の、建築情報学技術研究ワーキンググループというところで、建築デザインにおけるコンピュータ利用の系譜を追究する活動をしております。今後の建築と情報の関わり方を模索することを目的に、50年ほどの歴史を持つコンピュータやCADを近代建築史の観点で振り返りながら記録し、最終的には年表のようにまとめる必要性を感じています。ゆえに、初期の頃からコンピュータを建築に使おうと考えられていた川崎先生に、次の時代への見通しや過去の反省すべきことなどをお伺いしたいと思います。

川崎清(以下、川崎): 情報処理を建築のデザインへつなげることは、うまくいく場合もあれば失敗する場合もありますよね。今日は私の失敗談も含めてお話ししたいと思います。

初期の頃から順番に振り返れば、システム論から構成論、そしてプロセス論という風に私の思考は流れてきました。私が建築設計をはじめた当時は建築のつくり方が皆目わからない時代でした。とくに私は芸術側から建築に入ったわけではなかったので、何か方法論がなければ不安で仕方なかったのです。だから結果的に、私が書いている内容は方法論ばかりになりました。

まず大学4回生の時に先生から薦められて読んだジークフリート・ギーディオン[1888–1968]の機能主義の方法論から考えはじめました。しかし、みなさんもご存知の通り機能主義とは、機能からデザインに筋道をつける方法論ですが、私なりにいろいろと調べてみた結果、やはり機能は機能、デザインはデザインであり、ふたつを結ぶ1本の筋道はないという結論にいたりました。当時、ルイス・カーン[1901–1974]や菊竹清訓[1928–2011]さんも同じようなことを考えていたと思います。

そこで、論理的に考えることが一番の近道ではないかと思い、論理学で設計しようとも考えましたが、言葉を変えながら考えを進展させたとしても、結局はトートロジーのように同じものごとを言い換えているにすぎないため、デザインには結びつきませんでした。改めて、デザイン的な発想は論理学とはまったく別ものであるということがわかりました。ただし、論理的な思考は空間計画には有効であることもわかったため、建築を設計する上では論理的な思考と発想的な展開の両方に取り組まなければならないと私は考えました。

そして、私がフランスから帰国し、研究室を立ち上げたばかりの1967年、68年頃に、大阪万博の「万国博美術館」(川崎清[1969])の仕事が舞い込んできました。それは、後に国立国際美術館となった建物ですが、当時の私からすれば雲をつかむような大きな仕事でした。最初は研究室のメンバーでブレインストーミングをしていても、出てきた要素をどう評価して、どう取捨選択すればよいのかがよくわかりませんでした。それは大阪万博全体の計画や万国博美術館の関係者からの要望があまりに多かったからです。役所や美術評論家、市民など、要望を出す人びとはよって立つところが異なるため、同じような言葉を使っていてもそれぞれが要求していることが違うということもありました。さらに、ル・コルビュジエ[1887–1965]による渦巻型など、美術館の理想的な類型パターンくらいしか考えてこなかった当時の私にとって、セキュリティや防災、雨漏りなどが一番重要な問題であるということはとても驚きの事実でした。美術館は展示品を美しく見せる場所であるという当時の私の価値観が見事にひっくり返されたのです。

そこでまず、20名ほどいた研究室のメンバーを直感的、発想的にデザインを考えるデザインチームと、先述の通り空間に求められる要素を類縁関係からグループ化して論理的に分析を進めるシステムチームにわけました。システムチームのリーダーは2回生に進級するタイミングで電気から建築に転科し、数学や論理的思考を得意としていた笹田剛史[1941–2005]さんに務めてもらい、デザインチームについては私が務めました。そしてデザインとシステムの両チームでふたつの方向から並行作業を進め、定期的に相互にフィードバックをしながら最終的に提案をひとつにまとめていくことにしました。

デザインチームではイメージを膨らませながら手を動かし、いいデザインのシミュレーションを重ねていきましたが、システムチームは頭を平にしていろいろな人の意見を聞くことからはじめました。次に、情報の出どころや内容によってそれぞれをくっつけたり、わけたりしながら分類、整理しました。そうすると、基本設計の段階で40ほどの要望や意見などが見えてきたため、それらを縦横のマトリクスに配しながら評価し、相関係数行列を用いてグルーピングをしていきました。例えばセキュリティの課題と同じグループには警備システムへの意見などが入りましたね。ちなみに、心理学の研究でも似たような手法が用いられていると思います。そしてそのグルーピング結果を2次元の空間にプロットし、それぞれの間の抽象距離つまり関係性を把握し、それを崩さないように実際の建築のプランを合理的に見出そうとしました。私たちは以上のように、美しく順序よく見せるということは当然ですが、それよりも重要な裏側にあるセキュリティや監視、安全性などの課題に応えていったのです。

正直に言えば、このプロジェクトがシステム論で取り組んだ最初の設計だったわけですが、デザインとシステムの両方から設計するというような実験的な試みでもしなければ、この大きなプロジェクトはそう簡単に乗り越えられないと感じていましたね。

また、同時期に「最高裁判所」(岡田新一[1974])のコンペにも参加しました。最高裁判所は利害が相対する被告と原告というふたつの立場に判断を下す裁判官と3つの立場の人びとに利用されるわけですが、彼らは建物の中で顔を合わすことが望ましくないため、私たちはそれぞれの空間をわけなければなりませんでした。例えば彼らが使う動線をわけたり、彼が話をする空間には間にバリアを設けたりする必要がありました。この複雑な空間を考えるために、万国博美術館で用いた設計手法を応用しました。つまり、それぞれの立場の人が求める空間をグルーピングし、別々に構成した上で、間を監視のついた廊下でつなぐ手法で設計したのです。この場合、普通は専用廊下や共用廊下などチェックシステムがついた廊下によってそれぞれ異なる立場の人びとの動線をわけるでしょうが、私は空間を縦に配し、停止階がコントロールされたエレベータによって動線をわけました。つまりエレベータの停止階制御機能を用いることで、利用者にどこでも自由に動き回られないようにしたのです。そして最終的にはコンペの要項に違反して超高層型の案をつくりました。高層階には窓のいらない図書館や裁判室などを配し、下の方に弁護士や裁判官が会って話をすることができる空間などを入れることで、高層階から近くにある宮城などを利用者が覗いてしまうという問題を解決しました。

T: 最高裁判所のコンペ案では求められる要素や空間をグルーピングした後、それを縦に重ねられましたが、横に広げることも可能でしょうか。

川崎: 私が設計した建物のほとんどは横に展開させています。もちろん、全体が多方向につながるものではなく、あみだくじのようにチェックシステムが入りながら枝分かれしていくプランが多かったですね。最高裁判所の場合は、私たちは大きな広場が必要であると考えたため、それでプランを縦に重ねただけの話です。つまり基本的にはだれがシステム論で分析しても同じような結果になるのですが、それをデザインに落とし込む際に大きな違いが生まれるのです。もちろん、システムチームもメンバーの技量によって扱える情報量や分析の精度やスピードも異なるため、論理的思考に長けたメンバーを集めました。デザインとシステムというふたつのチームに研究室メンバーをわけた理由はそこにあります。

T: 設計を進める際にチーム間のやりとりはどのように行われたのでしょうか。

川崎: きりのいいタイミングで打ち合わせを行う場合もありました、課題が見えたタイミングなどその都度、もう一方のチームに話を聞いたりする場合もありましたね。例えば、デザインチームで設計を進めていると、解決しなければならない問題がたくさん出てくるため、並行して分析を進めているシステムチームのフィードバックをもらい、矛盾した空間関係や不完全なデザインを解いたり前進させたりするのです。だからふたつを並行して進める設計はうまく機能していたと思いますよ。

インタビューの様子(環境・建築研究所にて)(石井撮影)

山口重之(以下、山口): ふたつのチームにわかれていて、実際はみんな同じ研究室の中にいるのでそれぞれに話をしながら進めていました。最高裁判所のプロジェクトでは被告と原告、裁判官が法廷以外で出会ってはならないという、かなりきつい制約があったので、常にシステムチームに動線のチェックをしてもらいながら、私はデザインチームでスタディを重ねていましたね。システム論で分析しているチームなしに、動線を手で解くのはものすごく大変だっただろうと思います。

山口重之氏(石井撮影)

川崎: 最高裁判所は、求められる厳しい制約さえ抑えてしまえば、理解しやすいプロジェクトだったと思います。ある意味では制約があまりきつくない、普通の建築を設計することの方が難しいのかもしれませんね。

ふたつのチームによる設計を行う中で興味深いことが起きたプロジェクトは1970年に竣工した「和気町中央公民館」(川崎清[1970])です。システムチームは必要条件や要望などをグルーピング化して分析し、それぞれのグループの関係を保ったまま、2次元のプランに落とし込みました。一方でデザインチームは形のおもしろさなどを考慮しながらつくったデザインに必要とされる部屋をはめこんでいったのですが、両チームのプランがほとんど一致したのです。つまりこのプロジェクトは要件があまり複雑でなく、規模も大きくなかったことから、経験や直感で設計した内容と論理やシステムで設計した内容が一致したのだと思います。逆に言えば、複雑で大きなプロジェクトの場合は、人の頭ではすべての要素を拾いながら設計することはなかなか難しいため、乖離が出てくるのでしょう。そのようなプロジェクトこそ論理的に分析するシステムチームが必要と言えます。

ふたつのチームの話とは異なりますが、論理的に設計することについては、1979年に『建築雑誌』(11月号, pp.9–12)で「設計における総合的思考について」という文章を書きました。これは私たちが扱う空間を大きなスケールから小さな部分までにわけながら考えるという内容です。例えば、ボトムアップでもトップダウンでもどちらから考えてもよいのですが、環境や敷地などのエリアのレベルや、抽象的なものをシステムや具象化していくレベル、寸法として捉えるレベル、材料や色のレベル、施工のレベルなど、それぞれ異なる尺度で私は考えます。それらをマトリクスにして整理してみると、思考の種類が16ほどの箱にわかれるのです。これはひとつの建築を設計する際に必ずすべての箱を潰して考えなければならないと言っているのではありません。例えば住宅などの場合はかなり広い範囲のエリアまで思考を広げる必要はないかもしれませんし、反対に都市開発などでは非常に広い範囲まで考えなければなりません。京都では借景がさかんに使われてきましたので、景観の中に建物をどのように関係づけるのかということや、隣の神社や厳しい条例とどのように関係を結ぶのかということを、たとえ小さな規模の建物の設計であったとしても、京都の場合は考えなければならないでしょう。つまりどの箱を考えるのかは、プロジェクトごとに選べばよいのです。私はデザインするかたわら書いていたため、この文章はあまり体系化できていないかもしれませんが、ものをつくる際に何をどこまで考えなければならないのかということをマトリクスを使って論理的に捉えようとしていました。

以上で紹介した「万国博美術館」や「最高裁判所」、「和気町中央公民館」のプロジェクトに取り組んでいた頃が最も熱心にふたつのチームが並走する体制で設計を進めていました。システム的なアプローチからだんだんと建築のデザインに発展していく「万国博美術館」や「最高裁判所」のコンペ案などの設計過程は「システムからデザインへ」というパネルにまとめ、1969年のサンパウロビエンナーレに出展しました。その後も「万国博美術館」の最後に行われた私の作品展にも出し、今は中之島にある今の「国立国際美術館」(シーザー・ペリ[2004])に保管していただいています。

理論と実践を一致させる新しい方法論としてのコンピュータ

山口: ちなみに、1960年代の終わり頃に日本で初めてグラフィックターミナルが京都大学に入りました。今では当たり前の技術ですが、当時としては珍しくライトペンを使ったスマートフォンのようなインタラクティブ性を持ったものでした。それが共同利用施設としてつくられたため、東京大学の山田学[1939–1995]さんも利用しに来られていましたね。

T: ちょうど大阪万博の直前の頃ですね。『空間の風景─川崎清建築作品集』(川崎清・宗本順三, 新建築社[1996])の中にも、「万国博美術館」のプロジェクトに取り組む際にコンピュータの可能性を考えたと書かれていました。同じように大阪万博に携わった同年代の磯崎新[1931-]さんもコンピュータに関心を持たれていましたよね。

『空間の風景─川崎清建築作品集』(種田撮影)

川崎: 万博の頃にコンピュータが世の中に出回りはじめたため、みんなが関心を寄せていましたね。とくに笹田さんはよくグラフィックターミナルを触っていました。私は万博以前までは小さい規模の建築しか設計したことがなかったため、なにもコンピュータを使ってシミュレーションをする必要もなかったのですが、大阪万博という大規模なお祭りの中に大きな建築を設計することになり非常に膨大な情報量が一気に押し寄せたので、正直どのように受け止めていいのかわからなくなりました。そこでコンピュータが一役買ってくれたのです。

T: しかしそれ以前からコンピュータの研究はされていましたよね。

山口: やっていましたね。でも、私が大学院に進学した1966~67年頃は大学にはまだハイタック(日立製作所製のHITAC)というミニコンピュータがあるくらいでした。笹田先生と私と構造分野の同級生で同席した広島での学会で、同級生から研究にコンピュータを使っているという話を聞いて、笹田先生が使いはじめたのです。私も興味があったのでよく横から覗いていました。ただ、コンピュータと言っても、ハイタックを通じてXYプロッターのように記録用のグラフ用紙にボールペンでパースなどの絵を描くという単純なものでした。

川崎: 1970年代に入ると『建築文化』1970年2月号で「コンピューターと建築」という特集が組まれたり、建築学会も同じような企画を組んだりしました。1970年以降はみんながコンピュータに注目しはじめたわけですが、それ以前から川崎研究室では目を向けていたと言えますね。割と新しいもの好きな人が多かったのでしょう。

山口: そうかもしれませんね。それはコンピュータに限った話ではなかったですね。例えば、私が大学院に入った頃に見つけたクリストファー・アレグザンダー[1936-]の『都市はツリーではない』[1965](邦訳=『形の合成に関するノート/都市はツリーではない』クリストファー・アレグザンダー, 稲葉武司・押野見邦訳, 鹿島出版会[2013]所収)の内容を笹田先生に聞きに行ったら、現代数学が用いられていることがわかったので、そこからゼミでもその内容を取り上げて読みはじめましたね。その後出された『パタン・ランゲージ』[1977](邦訳=『パタン・ランゲージ』クリストファー・アレグザンダー, 平田翰那訳, 鹿島出版会[1984])は日本でも多くの方に読まれて非常に話題になりましたが、その元となる『Notes on the Synthesis of Form』(クリストファー・アレグザンダー, Harvard University Press[1964])はほとんどだれも読んでいませんでした。しかしそこにはHIDECS(Hierarchical Decomposition of a Set)という重要な理論が書かれおり、私たちはパタン・ランゲージよりも確率を用いて分析をするそちらの手法に注目し、参考にしながら、これまで川崎先生が紹介されたような方法論を研究してきたのです。

川崎: あの頃は新しい本が出ると手当たり次第読んでいましたね。

山口: 60年代はそのような時代でした。私たちはみんなが注目しはじめるより10年早い60年代からアレグザンダーを読んでいましたが、それはアレグザンダーなど強敵になると思われる海外の人びとの動きを確認していたのです。笹田先生は彼らに刺激を受けながら頑張っていました。しかし、70年代に入ってからはMITのニコラス・ネグロポンテ[1944-]らがインタラクティブな応用に取り組みはじめたのですが、設備が不足している私たちはその流れについていくことができませんでしたね。だから川崎先生が学位論文を書いて油がのっていた70年前後の頃が、研究室の活動が一番盛り上がっていたように私は思います。

川崎: 今振り返ると、なにか新しい方法論がないかとみんなが考えていた時代だったと思います。私は理論的に考えたことと、実践したことを常に一致させることを目指していました。研究とデザインが別の方向を向いていては二度手間ですし、本当の意味でのオネストではありません。だから理論的に開発したことはきちんと実践で使うことにしていました。言い換えると、私はデザイナーとして使うことができる研究をしていたのです。

しかし、それが必ずしも完璧にできていたとは言い切れません。理論と実践を一致させることはかなり難しく、デザイナーとしていい論文を書くことはなかなかできないのです。だから今はデザインを教える先生が大学からどんどん減ってきてしまっているのです。これはあまりいいことではないと感じています。文部科学省から出されている学位論文に対する厳しい条件は、一部の研究分野にはマッチするのかもしれませんが、建築のデザインのような発想型の分野の研究においては、あまり意味があると思えません。結局、理論も必要ですが、建築は発想がなければまとまらないものだと私は思うのです。

山口: 理論と実践を一致させるという考え方を私は受け継いでいる気がします。チャラチャラと絵を描いているだけだと言われてきた私も論文を書きました。やはり実践であろうと研究であろうと自分がやっていることが同じ方向を向いていた方がおもしろいでしょう。

正義感を持ってコンピュータを使う中で生まれたパース技術

川崎: ツールとしてのコンピュータについては「建築デザインとコンピュータ」(『A∩C/建築とコンピュータ』月刊建築知識1983年10月増刊, pp.126–131)というテキストを書きました。先日改めて読んだのですが、私にしては、それほど破綻なく要領よくまとめている内容だと思います。もちろん、文章は私が書いてまとめたものですが、研究内容は笹田さんや山口さんが中心となって研究室で取り組んだものです。例えば「大谷大学本部棟/博綜館」(川崎清+環境・建築研究所[1982])のパースは山口重之さんがコンピュータを使って描きました。大谷大学の提案は既存のレンガの建物を大きな建物で囲うというものだったのですが、ある程度の形ができてきた際に、部分的におかしく見えないか、アプローチの展開は美しいかということをパースで確認していました。

山口:部分を確認するためにたくさんパースを描きました。実は、当時は実際の見え方が考慮されないままパースが描かれてしまうことが多かったです。景観などの検討をするためにパースが描かれていたようですが、本当は見えるはずのものが描かれていなかったりしたため、全然機能していなかったと思います。私たちの場合はオリンパスの57〜58mmくらいのズイコーレンズを用いたシミュレータをつくり、パースを製作しました。だから割と人の目で見える風景が正確に描けていましたし、パースでしっかり検討できていたと思います。

池上宗樹氏(建築情報学技術研究WG委員)(石井撮影)

Ik: たしかにパソコンでパースを作成する場合、気をつけていなければ焦点距離が長くなったりして明らかにおかしい見え方になってしまうことが多々あります。それに比べ、山口先生のパースはとても自然に見えたので、感動したことを今でもよく覚えています。レンズを用いたシミュレータを使ってパースを描いていたことを知らなかったので、どうすればこのようにきれいなパースを描くことができるのかということを当時はずいぶん議論しましたよ。

川崎: パースはとても便利なツールです。パソコンで描くとなれば容易に描くことができるでしょう。広く全体を見たい時も部分に寄って見たい時もパースでデザインを確認できます。ただし、いかに美しく描くのかということばかり考えてしまうと、実際の見え方を描かないという不正義な使い方でパースを利用してしまうのです。

例えば「栃木県立美術館」(川崎清+財団法人建築研究協会[1972], 増築[1981])の設計の段階で、手前にある鈴懸の木がガラスに映り込む様をコンピュータで描いて欲しいと笹田さんに依頼したのですが、それを描くコンピュータの技術がまだそこまで到達していないという理由で断られてしまいました。しかしその後1971年に私が大阪大学に移る頃に「栃木県立美術館」が竣工し、さらに12年後に勤めた大阪大学を辞める際に開いていただいたパーティで「先生からいただいていた宿題がやっとできました」と、笹田さんから鈴懸の木がガラスに映り込む「栃木県立美術館」のパースをいただきました。これには本当に驚かされました。つまり私が言いたいことは、依頼することや、ただ美しいだけのパースを描くことは簡単なことかもしれませんが、正確に描くことはとても苦労するということです。

栃木県立美術館(1972,81) (種田撮影)

山口: 「栃木県立美術館」のプロジェクトに取り組んでいる頃が時代の変わり目だったように思います。川崎先生が大阪大学に移られた1970年代はコンピュータ・グラフィックスの時代だったため、ロジカルな仕事がほとんど求められなくなっていました。その切り替わり時期に設計していた「栃木県立美術館」のプロジェクトでは、デザインチームに入っていた私は笹田先生がつくったばかりのパースのプログラムを使い、ブラウン管の上でアプローチからファサードを見るなどのパースを描いていました。

川崎: そうでしたね。非常に簡単なシミュレーションでしたが、当初はファサードに対しアプローチをまっすぐ引いていたので、アプローチを進んでも鈴懸の木と建物がだんだん大きくなるだけで、ちっともおもしろくないことがわかりました。今考えると、非常に当たり前のことなのですが、きれいだと思っていたファサードをアプローチ上で視点を動かしながら描いたパースで見てみると、意外とつまらないファサードの連続でしかなかったのです。だからアプローチの角度を振ることにしたのです。

建築史観で結ばれる建築論研究

T: 京都大学の建築学科といえば、森田慶一[1895–1983]や増田友也[1914–1981]からはじまる建築論の分野というイメージがあります。その建築論とコンピュータを使った研究や設計というのはどのように関係しているのでしょうか。

川崎: おそらく建築史観でつながっているのだろうと思います。つまり森田先生や増田先生、私など建築論を研究する人間は建築論と同時に建築史観を学ぶのです。それがデザインのメンタルなエッセンスになりえるのだということを信じています。

山口: 私たち学生は当時の建築論の先生方が言っていることはよく理解できませんでした。しかし、川崎先生の設計プロセスのマトリクスなどはすっきりして見えたので、私にも共感できるような気にさせてくれました。

川崎: 私は手を使って研究や設計をしてきたのでそんなことはありませんが、頭を使う人はお酒を飲みたくなるのでしょうかね。

山口: 現在は東京工業大学の人たちが頑張って設計論に取り組んでいますね。

川崎: 藤村龍至さんはかなりロジカルに設計に取り組んでいますね。

T: そうですね。東京工業大学の方々は床、壁、天井の構成を類型化し、分析されています。川崎先生たちは彼らよりも早くから取り組んでおられたので、建築論や設計論の流れを感じます。改めて考えると大阪万博より前に京都大学にグラフィックターミナルが入った頃からいろいろなことがはじまっており、日本全体の中でも川崎研究室の取り組みはとくに先駆的だったわけですね。

Ik: 私が磯崎新さんのところにいた時に、「万博の頃にコンピュータをほしいと思った」という話を磯崎さんご本人から伺ったことがあるので、それ以前からコンピュータを扱っておられた川崎先生が日本では一番の先駆者だったのではないかと私は思います。だから、川崎先生が起点となり、もう亡くなってしまった笹田先生や山口先生などが活躍し、今日まで拡がってきているということでしょうね。

山口: しかし、現在の日本では設計論は論文もほとんど出ておらず、なかなか流行りませんね。残念に思います。

T: 山口先生が学生の時に建築論を教えていた先生はどなたでしょうか。

長﨑大典氏(建築情報学技術研究WG幹事)(石井撮影)

山口: 増田友也先生や西山夘三[1911–1994]先生が建築計画を担当されていました。当時、川崎先生はなぜか構造を担当されていました。構造の講座の棚橋諒[1907–1974]先生のところにおられた。だから私は中村恒善[1933-]先生という構造の研究室に4年生までいたのですが、大学院から川崎研究室に移る際にも構造系の入学試験を受けました。もし川崎研究室が計画分野に入っていたら、大学院受験の試験問題が計画の内容になっていたため、私は受かっていなかったでしょうね。

川崎: だから構造の先生にはものすごくかわいがっていただきました。

T: 川崎先生の先生はどなたでしょうか。

川崎: 系統から言えば、増田友也先生ですね。はじめての設計演習の課題で「湯川記念館」(森田慶一[1952])のパースを描く際に、「この建物の寸法単位はメートルでしょうか。尺でしょうか」と私が増田先生に質問すると、「建築の本質である寸法やモジュールに着目して建物を捉えることはいいことだ」と褒めていただきました。それ以来、私は絵がうまかったので増田先生から声がかかるようになり、設計した建物のパースをたくさん描かされました。

博士課程まで増田研究室に籍を置き、博士2年目に交換留学のような形でフランスの建築を見に行かせていただけることになりました。当時の現代建築の中では「ルルドの大聖堂」(ピエール・バゴ[1959])に感動しました。日本ではPCコンクリートによる大スパンの空間を地下につくったというトリッキーな側面が紹介されていたと思いますが、むしろ私は美しい景色をつぶさないように配慮し、設計者のピエール・バゴ[1910–2002]が広場の地下に建物を埋めたという背景にものすごく感動しました。しかし帰ってきてからおもしろい建築がたくさんできたのですが、ちょうど私が留学している頃のフランスの現代建築はあまり盛り上がっておらず、残念でした。そもそもそう思ってしまったことが私の失態だったのかもしれませんね。もちろんル・コルビュジエの建築などもたくさん見ましたが、私にとってはバロックの都市空間やゴシックの教会などの方が魅力的でした。振り返ると、建築単体というよりもヨーロッパの歴史がつくってきた環境や景観に圧倒されていたのかもしれません。比例関係によって美しくつくられていると教えられたギリシャのパルテノン神殿などの建築も、実際に訪れてみると崩れた廃墟であることがわかります。しかし、かつては極彩色に彩られていた建築が数千年の時間や歴史を経て、白く廃墟になった状態やそれが残っている環境が美しかったのです。

前段階から介入する設計

川崎: 1971年に大阪大学に移ったのですが、その際に自分の事務所もつくりました。まだ事務所を持っていない時には、京都大学の研究室のみで設計を行っており、委託研究費で動いている建築研究協会を通してプロジェクトを受託していました。京都にある建築研究協会は京都大学の他の先生方とも仕事していましたが、彼らのおかげで私たち教員は社会的なアクティビティに参加できていましたね。私は「万国博美術館」のプロジェクトの時から彼らと隣り合わせの関係で仕事をしていたので、大阪大学に移ることになっても関係をつづけるために自分の事務所である環境・建築研究所を京都に構えたのです。よって、大阪大学に移ってからは研究室で設計することがほとんどなくなってしまいました。

川崎清氏(石井撮影)

山口: 私も大阪大学に助手として移ったのですが、大阪大学では適塾の調査研究と再生のプロジェクトなどに取り組みましたね。

T: 作品集には京都大学時代の川崎研究室のことが、コンピュータの記事では大阪大学時代の川崎研究室のことが中心に語られているのはそのような背景があったからなのですね。

川崎: 実際、大阪大学の頃には笹田さんはコンピュータの方向性で一家をなしていましたからね。

強いて言えば、大阪大学時代は大学内の建物や徳島県のプロジェクトを研究室で設計しました。徳島では県庁のコンペの審査を依頼され、条件をどのようにつくるのかというところから一緒に取り組みました。人口に対する施設の数や規模の関係を全国の市町村で調査したり、道路の景色のあり方や前面の川でのヨットの係留の仕方を考えるために役所の方々と敷地調査をしたりしました。やはりこのようなプロジェクトのコンペは使う側の役所の方々がやる気にならないといいものはできないと考えたからです。できた建物を突然渡されると、やはり使いづらいという文句が必ず出てしまいます。だから計画の基礎的なデータすべてを彼らに調査や整理してもらうことで、ものをつくるプロセスに入ってもらい、最終的にコンペを行いました。振り返ると、このプロセスの背景には敷地の中だけを見て建物を建ててしまってはいけないという私たちの考えがあったのでしょうね。その姿勢は役所の人たちにも喜んでいただけたようで、「徳島県文化の森総合公園」(総合設計:川崎清+佐藤不二男, 設計:岡田新一設計事務所+環境・建築研究所+佐藤総合計画+日建設計[1989])についても後にお声がけいただけることになりました。

T: 「徳島県文化の森総合公園」の設計の際にも建物の設計だけでなく敷地のシミュレーションまでされていましたね。

川崎: 複数の設計事務所で共同設計をしていたので、それぞれの事務所がハッピーに設計できるように全体の構成をしっかりと決めました。とくに建物を建てる敷地はすり鉢状の地形であり、北側の斜面はどうしても日光が当たらないところができてしまうことが予想されたので、笹田さんに季節ごとの日光の入射角をシミュレーションしてもらい、土地利用と環境の関係をスタディしました。また、建物を建てるために山を削って地形を大きく変えてしまうことや街からのアクセスの問題などにもしっかりと配慮したつもりです。

T: 1990年代の「福井県立大学」(川崎清[1994])のプロジェクトもふたつのチームで設計されていたのでしょうか。

川崎: 「福井県立大学」は私の設計事務所と再び戻った京都大学の研究室で基本設計をしましたが、システムチームとデザインチームにわかれるということはしていません。ふたつのチームに別れての設計は、最初の京都大学の研究室でのみ行ったわけですが、やはりそれは贅沢な設計手法だったと思います。しかしそれ以降も頭の中で論理的に考えながら、スタッフと一緒に調査をしたりしました。その他の設計事務所では、アンケートをとったり統計を調べたりすることあまりしないかもしれませんが、重要な情報を収集して、整理し、何がポイントなのかということを把握することは設計や計画を行う上で必ず必要なことだと思います。だから私たちは設計の前段階からプロジェクトに介入します。例えば「福井県立大学」のプロジェクトでは大学のカリキュラムや学生数、教室の使い方などを調べさせていただき、カリキュラムを空間化する上での教室数などのボリュームスタディを行いました。教室数を割り出せる設計事務所など他に聞いたことがありませんが、私たちにはそれまでのシステム論で設計した際の経験が大きな基礎となったため、それが可能だったのだと思います。学生たちもこのプロジェクトに並走してもらったので、そこで学んだ計画論とプロセス論を論文にまとめ、学会で発表してもらいました。

相互に磨き合う環境をいかにつくるか

川崎: 今振り返ると、私の周りには笹田さんや山口さん、小林正美さんなどの優秀な方がたくさんいてくれました。建築研究協会の立場だったと思うのですが松田勝さんも卒業してからは大学の助手としてデザインの仕事や設計演習など、いろいろなことに一緒に長く取り組んでくれました。また私が大阪大学に移る頃に、上田篤[1930-]さんから「デザインをやりたい弟子がいるから預かってほしい」と佐藤不二男さんを紹介いただいたので、ドクターコースから入っていただき助手として、デザインを中心としたさまざまな仕事を進めていただきました。

今の世の中ではコンプライアンスに違反していると怒られてしまうかもしれませんが、当時の私が忙しかったこともあり、学生や設計事務所、建築研究協会のスタッフなどを立場関係なく1箇所に集めて、仕事のしやすい環境をつくっていました。所属に関係なく個性に合わせて仕事をしてもらっていました。結果的にそれが費用を抑えつつ、効率よく働く方法だったと思います。

T: システムとデザインという別々のことを並行して取り組もうとすると、そうせざるを得ないかもしれませんね。

川崎: デザイナーとして仕事をしてきたわけですが、どちらかと言えば私の脳の構造はシステマチックになっているのかもしれないと思います。

岡部惠一郎氏(左) 上崎孝氏(右)(石井撮影)

岡部惠一郎(以下、岡部): 葉っぱと幹のように、論理的な思考ができることと、デザインセンスを持っていることはつながっていつつも、別物だと思います。川崎先生はその両方を持ち合わせておられたように私は思いますね。

川崎: ありがとうございます。デザインセンスを持ち合わせていればよいのですが、システム的な思考を行うような性格を持っているので、バランス感覚がいいと言われることもあるのですが、それはデザイナーとしてはあまりいいことではないと私は感じています。やはり破茶滅茶なことを考える中からいいデザインが生まれることもあるわけですから。

Is: 今日川崎先生がおっしゃられたことは、ある一定規模よりも大きな建物はシステムや論理で考えた計画と感性や直感でつくったデザインが相互作用させながら建築を設計するべきであるということだと思うのですが、最終のタイミングでの総合的な判断はどちらを優先されるのでしょうか。

川崎: やはり総合判断は感性によって行われるべきです。大きな揺り動かしをしてもまとめることができると思えなければ難しいのかもしれませんが、論理で組み立てたものが凸凹した形をしていたとしても、最終的には感覚的に全体を見渡した上で破綻のない美しい形にまとめ上げていきますね。AIのように膨大な量の論理的な思考を重ねれば、論理的で総合的な判断も可能なのかもしれませんが、私は自分にできるだけ多くの情報をインプットした上で最後は感性でデザインを成立させてきました。

岡部: 今はあえてシステムとデザインでわけて話をしていますが、実際は相乗効果が生まれているのだと思います。ひとつの場所に集まってデザインや分析を行う研究室や事務所の方々も同様だったと思いますが、理屈によって感性も研ぎ澄まされるし、感性のよって理屈も磨かれることが起こるのでしょう。だから、総合的な判断をする際にも川崎先生は感性でまとめ上げることができたのだと思います。

川崎清氏(石井撮影)

川崎: そうですね。ただし、総合的な判断を直感的に行う場合でも、一発で収めようとは私は思いません。私にそのような自信はありませんでした。よって直感的に出てきたアイデアを3、4つ出して、冷静に見比べて、そこから一番よいものを選びました。

一方で感性で総合的な判断をくだすためには、それまでに多くの情報を収集、分析し、インプットしなければならないため、どうしても時間がかかってしまいます。よって、非常に短納期であったり、クライアントが自分たちの提案を理解してくれなかったりする場合は、結果的にいいものはできませんでしたね。そういう意味では役所との仕事はどうしても厳しい面がありました。

AIと共に私たちの目指す建築に向かう

T: 論理構成やコンピュータに関する研究はどれくらいの期間、取り組んでおられたのでしょうか。

川崎: どちらも京都大学にいた頃から研究していました。1971年に移った大阪大学でも引きつづき研究していましたが、書いた論文の数は京都大学の時の方が多かったように思います。

T: 90年代に入るとデザインツールとしてのコンピュータに限界を感じたと述べられていますが、それ以降も技術は少しずつ進歩してきています。今のコンピュータについてはどのように見られていますか。

川崎: 私は一度、コンピュータをデザインするためのツールとして使うという考えから卒業したわけですが、それから時間が経った今はいろいろと思うことがあります。まずは表現の技術のツールとしては非常に優秀だと思います。技術は日々どんどん進化しており、現在は多くの人が描く技術を利用するようになってきました。ただし、コンピュータで図面やパースを描く際には、普通、真っ黒な細い線が使われますよね。それが私は気に入らないのです。なぜ人の手で紙に描くスケッチと同じように太くざらっとした線で描かないのでしょうか。おそらくその理由のひとつは、描く人の感覚がまだ成熟してないことだと私は思います。最近私がコンピュータでスケッチを描く際は、わざと太く、ざらっとしたグレーの線を使っています。そうすると、紙に手で描いたものに近いスケッチになるのです。もちろん、手で描くことができればいいのですが、私のように歳をとってしまうと、消しゴムで消して描き直したりするとすぐに疲れてしまい、描きつづけられないのです。コンピュータを使えば割と楽にスケッチを描きつづけられますよね。また、スケッチをノンスケールで描くようにしています。CADのように詳細な寸法で描こうとせず、画面上にグリッドを表示して適当に目盛りをとりながら形を描いています。その方が人はより自由に描くことができるような気がします。

一方、スケッチなどの表現の技術はよくなってきているのですが、想像を巡らせながら発展させていくというデザインの本質に関わる使い方はされていないのも事実です。今のレンダリングやシミュレーションなどの方法もそれとは異なるものです。もちろん、コンピュータによってデザインされた建築が本当に私たちが目指している建築を表現するのかという、本質的な大きな問題はあるのですが、本来のシミュレーションとは情報を入れながら何度も回数を重ねて発展させるものであるため、そこにAI知能の評価を重ねれば、もしかするとコンピュータを活かしながらデザインを行うことができるかもしれません。改めて私たちが行ってきたシステム論で分析を行う手法について考えてみると、ある意味ではAIのロジックと非常によく似ているように思います。おそらくこのような方法を今後用いて設計するのであれば、AIを活用するべきでしょうね。例えばルイス・カーンの設計プロセスをまとめている本を見てみると、建築の設計に入る前に空間の本性を示す抽象的なフォームドローイングを描いてみては修正するというトライアンドエラーを繰り返しています。段階を追って見ていくと彼の思考の展開がよくわかるのですが、そのトライアンドエラーをAIによって置き換えることも可能ではないかと私は思います。とくに最近のディープラーニングなどによるAI技術の進化を目にすると、AIを使った設計方法はどのような形が最適なのかはまだわかりませんが、そのような微かな展望が開けてきているような気がしますね。よって、今後はデザインやプランニングの方法にAIが大いに役立つようになればいいなあと思っています。しかし私が若ければもう一度トライしたいと思うのですが、今はそれをやり遂げる余裕も能力もないので、若い人たちにぜひ取り組んでいただきたいと思います。

1)日本における建築情報学史については、渡辺俊氏による「建築情報学がなぜ必要なのか―これまでとこれから」(『建築ジャーナル』2019年5月号)にその概要が通時的にまとめられてわかりやすい。
2)本WGのこれまでの活動の概要は、『建築雑誌』2019年5月号(1724号)の連載「学会発」にて「建築CAD黎明期の野心と苦心を聞く」と題して報告している。

主要参考文献

・川崎清・宗本順三『空間の風景・川崎清建築作品集』新建築社, 1996
・川崎清「情報産業時代と設計事務所」, 『建築』1969年4月号, p.128, 中外出版
・川崎清・笹田剛史・山口重之・三宅英一郎「施設構成理論その4/ケーススタディ―最高裁における空間解析」, 日本建築学会近畿支部研究報告集(設計計画・都市計画・住居), pp.33–36, 日本建築学会, 1969.5
・京都大学川崎研究室/川崎清・笹田剛史・小沢英夫・中井一郎・番戸正臣・鈴木慎一・宗本順三:「情報処理からデザインへ」, 『建築文化』1969年6月号, pp.61–72, 彰国社
・川崎清「建築空間の論理構成」, 『建築雑誌』 pp.1183–1189, 日本建築学会, 1973.11
・川崎清「設計における総合的思考について」,『建築雑誌』pp.9–12, 日本建築学会, 1979.11
・川崎清「建築のデザインとコンピュータ」, 『A∩C建築とコンピュータ[3]』pp.126–131, 建築知識, 1983.10

川崎 清(かわさき きよし)
1932年4月28日新潟県生まれ。1951年新潟県立三条高等学校卒業。同年、京都大学理学部入学。1952年工学部建築学科に転学。1955年京都大学工学部建築学科卒業。1957年京都大学大学院工学研究科修士課程修了。1958年京都大学大学院工学研究科博士課程退学。同年京都大学講師。1964年京都大学助教授。1970年大阪大学工学部環境工学科助教授。同年「日本万国博覧会基幹の施設のレイアウト」により日本建築学会万国博特別賞。1971年「建築設計のシステム化に関する基礎的研究―建築設計における情報処理の研究」で京都大学より工学博士の学位取得。同年、環境・建築研究所創設。1972年大阪大学教授。1973年「栃木県立美術館」により第23回芸術選奨・文部大臣賞。1974–1983年大阪市立大学非常勤講師。1982年「信楽伝統産業会館」により第1回麗しの滋賀建築賞。1983年京都大学教授。同年「インペリアル六本木フォーラム」により商空間(JCD)デザイン賞。「高岡御車山収蔵庫」により中部建築賞。1984年「相国寺承天閣美術館」により第2回京都美観風致賞。1988年「大谷大学博綜館・講義棟」により第29回建築業協会(BCS)賞。1989年「奈良教育大学講堂」により奈良市建築文化賞奨励賞。1990年「信楽町陶美通り」により麗しの滋賀建築賞。1994年石川県水産総合センター」により第15回石川県建築賞。1995年同済大学(上海)顧問教授、精華大学(北京)客員教授。1996年京都大学を退官、名誉教授。同年立命館大学理工学部環境システム学科教授。同年「JR美川駅、美川コミュニティプラザ」により石川景観賞。1997年「京都市勧業館みやこめっせ」により京都市長賞。2003年「石川県こまつ劇場うらら」により石川建築賞優秀賞。2005年「JR福井高架駅」により鉄道建築協会賞。2011年瑞宝中綬章。2015年「京都大学百周年時計台記念館」により耐震改修優秀建築賞 受賞。2018年 6月9日、胃がんのため死去。

主な作品に「斐川農協会館」(1965)、「日本万国博覧会美術館」(1969)、「和気町中央公民館」(1970)、「京都市美術収蔵庫」(1971)、「栃木県立美術館・常設展示場」(1972,81)、「大谷大学本部・研究棟/講堂・中央広場」(1982,86)、「相国寺承天閣美術館」(1984)、「京都大学文学部博物館」(1986)、「徳島県文化の森総合公園」(1989)、「国際花と緑の博覧会メイン催事’90会場」(1990)、「福井県立大学」(1993,94)、「みやこめっせ(京都市勧業館・京都伝統産業ふれあい館」(1996)、「JR美川駅、美川コミュニティプラザ」(1996)、「鳥取環境大学」(2001)、「京都大学百周年時計台記念館」(2003)、「新潟県立三条高等学校」(2003)、「JR西日本福井高架駅」(2005)、「同志社女子大学 純正館」(2008)、「JR西日本奈良駅」(2010)、「石川県立金沢商業高等学校」(2013)、「JR西日本梅小路京都西駅」(2019)ほか。

主な著書に『現代日本建築家全集22 林雅子 川崎清』(栗田勇編著, 三一書房, 1975)、『世界建築設計図集21 栃木県立美術館』(同朋舎出版, 1984)、『設計とその表現―空間の位相と展開』(共著, 鹿島出版会, 1990)、『仕組まれた意匠―京都空間の研究』(共著, 鹿島出版会, 1991)、 『京都発・都市デザインのパラダイム』(紫翠会出版, 1992)、『空間の風景―川崎清建築作品集』(新建築社, 1996)、『川崎清―美術館建築とその周辺』(共著,国立国際美術館, 2003)ほか。

山口重之(やまぐち しげゆき)
京都工芸繊維大学名誉教授。1944年兵庫県西脇市生まれ。1966年京都大学工学部建築学科卒業後、同大学大学院修士課程、博士課程へ進学して単位取得退学。大学院生として東京大学丹下研究室で大阪万博会場計画に参加、京都大学の川崎研究室では栃木県立美術館や最高裁判所コンペなどの設計を担当。その後、1971年 大阪大学、1975年から京都工芸繊維大学へ。2007年同大学を定年退職後、中央復建コンサルタンツ空間戦略研究所長を経て、2009年から2015年まで東京都市大学教授。この間、一貫して建築・環境とコンピュータの境界領域で研究教育と実践活動を展開。

上崎孝(うえさき たかし)
株式会社環境・建築研究所監査役・技術顧問。1963年京都大学工学部建築学科卒業。1963年日本電信電話公社建築局。1974年株式会社綜合設計社。1993年株式会社環境・建築研究所代表取締役。主な担当作品:「栗東市民会館(さきら)基本計画」(1995)、「京都市地下鉄東西線市役所前駅,御陵駅」(1996)、「徳圓寺(京都市上京区)本堂・庫裏」(1998)、「綾部市住宅工業団地まちづくり計画」(1999)、「京都市御池通りシンボルロード計画」(1999)、「同志社女子大学純正館」(2006)、「京都府立植物園北山カフェ」(2013)。

岡部 惠一郎(おかべ けいいちろう)
株式会社環境・建築研究所代表取締役。1982年大阪市立大学大学院修了。1982年株式会社環境・建築研究所。2004年株式会社現代綜合設計。2013年株式会社環境・建築研究所。主な担当作品:「福井県立大学小浜キャンパス」(1993)、「福井県立大学福井キャンパス」(1994)、「美川町HOPE計画・美川コミュニティプラザ」(1994)、「真脇縄文館」(1998)、「鳥取環境大学」(2001)、「新潟県立三条高等学校」(2001)、「JR西日本梅小路京都西駅」(2018)。

種田元晴
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。明治学院大学文学部非常勤講師。1982年東京都生まれ。2012年法政大学大学院博士後期課程修了。東洋大学助手、種田建築研究所等を経て現職。博士(工学)。一級建築士。著書に『立原道造の夢みた建築』ほか。2017年日本建築学会奨励賞受賞。日本図学会理事。建築情報学技術研究WG主査。

石井翔大
明治大学理工学部建築学科助教。東洋大学ライフデザイン学部非常勤講師。1986年生まれ。2009年法政大学工学部建築学科卒業。2018年同大学院博士後期課程修了。博士(工学)。一級建築士。法政大学教務助手を経て現職。共著に『「建築」という生き方』、『建築のカタチ:3Dモデリングで学ぶ建築の構成と図面表現』。建築情報学技術研究WG委員。

池上宗樹
東京都立大学客員研究員。株式会社FMシステム フェロー。一級建築士。1973年東京理科大学 理学部 Ⅰ部応用物理学科卒業。1980年東京理科大学工学部Ⅱ部工学部建築学科卒業。1991~96年東京理科大学非常勤講師。1996~98年熊本大学客員教授。1984~87年DRA-CAD開発参加(㈱構造システム)。1988~93年横浜ランドマークタワー設計参加(㈱バス)。建築情報学技術研究WG委員。

長﨑大典
株式会社安井建築設計事務所大阪事務所企画部企画主幹。鹿児島大学工学部建築学科非常勤講師。1971年京都府生まれ鹿児島育ち。鹿児島大学大学院工学研究科建築学専攻修了後、㈱安井建築設計事務所入社。設計部、情報・プレゼンテーション部所属を経て現職。修士(工学)。一級建築士。認定FMer。建築情報学技術研究WG幹事。

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建築と戦後
建築討論

戦後建築史小委員会 メンバー|種田元晴・ 青井哲人・橋本純・辻泰岳・市川紘司・石榑督和・佐藤美弥・浜田英明・石井翔大・砂川晴彦・本間智希・光永威彦