建築展評│07│​​できない(かもしれない)わたし|My Bodily Timidity

Review│黒田瑞仁(ゲッコーパレード)

黒田瑞仁
建築討論
Nov 30, 2022

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一般に我々は建築展で何を目にするだろう。図面や模型、建築写真、破片、インタビュー、作家の経歴、場合によっては建築そのものがそこにある。基本的には建っている/建っていた/建つかもしれないタテモノの、主にカタチを目撃する。そういう意味では、この『できない(かもしれない)わたし|My Bodily Timidity』は、建築そのもののカタチを提示したものではなかった。確かに四人の建築学生による集合展ではあるが、鑑賞者の目の前に現れるのは衣服と写真、図面と映像、譜面と音楽、そして彫刻と小説であった。

根津駅近く、上野動物園の裏にあるキュラトリアル・スペースThe 5th Floorで4名の作家全員にインタビューすることができた。それぞれ東京藝術大学、京都大学、早稲田大学で建築学を専攻する大学院生である彼らは、共通の奨学制度や受賞を通じて知り合い、雑誌「10+1」を読み解く勉強会として2021年9月に集まった。会はその後フェミニズムに関する文献の読書会として継続し、2022年6月に京都のギャラリー VOU/棒、同7月に今回の展示を実現させている。ギャラリーはその名前の通り建物の5階に位置し、501、502、503の3つの展示室は、名前も作りもそれぞれがかつてワンルームのアパートだったことが伺える。

Photo by Naoki Takehisa

展示タイトル『できない(かもしれない)わたし|My Bodily Timidity』はジェンダーにまつわる語の引用であり、何かしらフェミニズムに関する問題意識を発端に企画されたことが伺える(実際、その通りである)。展示のステイトメント文を以下に引用する。

本展覧会のタイトルにある「できない(かもしれない)」という言葉は、アイリス・マリオン・ヤングによって指摘された、「女の子投げ」などに見られる自らの身体性を過小評価してしまう女性の精神性が元になっています。およそ 20 年前に議論された「ジェンダー・身体・建築」を、私たちはいま現代のことばと目線から改めて考えてみようとしています。ある種の「完璧さ」を求められてきたモダニズムの歴史や近代的な人間像から離れて、このテーマをより穏やかな見解から議論できないでしょうか?「できない(かもしれない)わたし」は、作家自身のこと、作中に想定される誰かの固有の身体、あるいは鑑賞者のみなさまにも想定される「わたし」のすがたです。

しかし、展示は昨今多く目にするようなジェンダー間の平等や権利を鑑賞者に声高に訴え、あからさまな啓蒙を目的としているとは言いがたかった。むしろこの展示をジャンル分けとしての「建築」「ジェンダー」についてその表層ではなく、内面から思考しようとする試みだと本人たちも語っている。これは先に言ってしまえば、4人の勉強会が主に現象学的なジェンダー言説を対象としたからだと考えられる。

これを踏まえたうえで、それぞれの作品を紹介していきたい。

501
櫻井悠樹「スローイング・ライク・ア・ガール」

Photo by Naoki Takehisa
Photo by Naoki Takehisa
Photo by Naoki Takehisa

展示室501にはドレス型の服が四着と、それを着用したモデルの写真が展示されていた。 四着の服は実用は想定せず、写真と合わせて一つの展示作品を構成している。写真手前の二着は人体にフィットしたレイヤーと、外側で強い形を形成するレイヤーの二層よりできていた。櫻井によれば、身体に自然に沿った内側のレイヤーに対し、身体の自由を奪うハーネスを想起させる材質で作られた外側の層の形を決定したのは、体のラインではなくその「動き」だという。

一方、奥の二着は、内側の層を別の素材で再現したものだ。壁にかけられた写真は村田啓による鏡を使った特殊な撮影方法により、この二着を着用したモデルの「動き」が写真に収められている。この「動き」は先の二着の外側の形を連想させる。作者の櫻井悠樹はこれまでも女性用の服をデザインし、発表してきたという。

櫻井は、男性/女性という二項対立がフェミニズムの議論においてはとうに古くなった今もなお、建築における身体性の議論では二項対立としての性差すら十分に扱われていないことを指摘する。そこでジェンダーと空間を繋ぐものを、アイリス・マリオン・ヤングの「女の子投げ」に関する指摘に則り、「動き」であると考え、これまで服飾制作の経験から女性服に落とし込んだと語った。

502
成定由香沙「自分だけの部屋で」

Photo by Naoki Takehisa
Photo by Naoki Takehisa
Photo by Naoki Takehisa

控えめに置かれた設計図集と模型より、展示室で存在感を放っていたのは壁に投影された窓の映像だった。成定はヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』(1929)で「女性が小説なり詩なり書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」(ウルフ、川本静子訳)という一言を引用している。

成定はこの言葉から自分自身の母親を想起したという。彼女の母はリビングで寝起きし、在宅で仕事をしており、私室や書斎を持たない。女性は常に「誰かの家」で過ごさなければならないのか。「誰かの家」ではなく、成定は「母親の家」として実家の改修案を設計した。家の中に大掛かりだが什器のようなフレームを設け、そのフレームに大きな窓を設けて外光を広く取り入れた。母親の部屋を作るのではなく、あえて家全体を内部から「母親の家」化させるにあたって、ヤングの言及する「ホームメイキング」の語を意識したという。

展示映像は、窓の定点映像であり、揺れるカーテンなど微妙な変化の他は、ほとんど動きはない。普段、コミッションワークとして建築の映像の撮影を行う成定は、10代の息子を養う母親の生活動作が延々と映し出される映画、シャンタル・アケルマン監督『ブリュッセル1080コメルス河畔通り23番地ジャンヌ・ディエルマン』に衝撃を受けたと語る。

展示された映像は、家の中で一番長い時間を過ごす主体(ホームメーカー)と同じ目線を鑑賞者に追体験させるものだった。その主体が家の中から見続ける風景は当然、鑑賞者の私の性別とは直接的には無関係だ。

503
周戸南々香「鉤括弧の消化器」

Photo by Naoki Takehisa
Photo by Naoki Takehisa
Photo by Naoki Takehisa

本作の目的は、現存しない伊東豊雄設計「中野本町の家/White U」(以下 White U)の空間を音楽として体験することにあった。同建築が解体された1997年生まれの周戸にとってWhite Uは自身の建築観にとって無くてはならないものだが、当然自身も直接この建築を知らず、この建築をいかに後世に残すかが今回の目的の一つであったという。展示は、作曲プロセスの図解、譜面、そして楽曲が再生されるブースからなり、楽曲としての「White U」は常に再生され、シンセサイザーの音が絶え間なく耳に入ってきた。

建築を音に変換するために同建築を歩き抜けるプロセスを等分し、その一区画を一小節として計51小節からなる楽曲にWhite Uは起こされた。音階は寸法や角度を変換し、音色はそれぞれ外光(窓)、内光(照明)、コンクリート、ガラス、タイル、カーペット、木、レジンと対応していた。

周戸はゲーテの「建築は凍れる音楽である」という言葉に触発され、音楽を解凍することを目指した。すると中庭からしか外光を取り入れない内向的な建築だからこそ楽曲はどこか暗く、アンニュイな印象のものになったと語る。同時に勉強会を通じて触れたフェミニスト現象学に於いて、女性性を一括りに語ることは望ましく無く、個別の体験を記述することにまず意味があるとされていた。そこで周戸はWhite Uを音で記述することにしたのだ。

既に解体された建築White Uを体験することは当然ながら、極めて困難だ。図面や写真のような視覚的な情報だけで対象を定義せず、あくまで人間の側に主体を置いて存在しない建築を追体験しようという試みは、図面や模型の提示だけで由としない成定の作品と共通の意識があるように思える。対象を語るとき、肉体や性的指向や社会的な差よりもまずそこに主体があるという一点から、建築やジェンダーを捉えているのだと感じた。

503
北垣直輝「細密画 -人物は物の傍らに住まう」

Photo by Naoki Takehisa
Photo by Naoki Takehisa
Photo by Naoki Takehisa

本作は「彫刻」と呼ばれる日用品からなるオブジェ群とこれら物品が登場する「小説」からなる。四つの「彫刻」は来場者の前に最初から姿を晒しているが、「小説」は慎ましく置かれた冊子を開くか、QRコードにアクセスすることで内容を読むことができ、そこには四つの「彫刻」に対応する架空の人物の生活を描いた四つの物語が収められている。「彫刻」はどこかグロテスクで、統一感のある外面を持たず、むしろ内臓的なオブジェのような気配を称えていた。同室前半の周戸の展示から聞こえてくる楽曲も相まって、不安を覚える空間だ。尚、小説の全文は序文と解説という名の作家ステイトメントつきでこちらから読むことができる。(https://monomono.website/work)

家そのものよりも、そこにどんな品々が充填されるかに個性を認めることができるのではないかと北垣は主張する。彼の出身地である滋賀県の住宅街で、この傾向が大きいという。彼にとって固有の人格とは「モノ」と「私」の間に生じるものであったため、「モノ」をランダムに収集した北垣は、これらの「モノ」を「小説」に登場させていくことで「私(=北垣)」とは別の人格が主人公/語り手として現れることを期待した。そして書きあがった「小説」を基に「彫刻」を組み上げた。これが創作のプロセスだが、この二者の関係は明示されておらず、「彫刻」を目にした来場者が自らが執筆した「小説」とは別の人格をそこに見出すことも期待しているという。

彼は勉強会を通じてダナ・ハラウェイが『サイボーグ宣言』に於いて、サイボーグというフィクショナルな言葉でリアルを捉えようとする様に驚いたと語る。展示空間に不安を覚えるのもそのはずで、北垣は鑑賞者に現実の展示室に滞在するよりも、彫刻や小説から想起した自己の内部のフィクショナルな空間に滞在することを求めていた。

以上が、3つの展示室に収められた4作品の紹介になる。カタチとしての建築や、ジェンダーはやはり語られず、現れず、誰かの経験を追体験することを求められていた。

Photo by Naoki Takehisa

振り返れば、建築やジェンダーが明示された展示でないという私の直感は、それは他者としての建築やジェンダーが提示されていないということに過ぎなかった。フェミニズム現象学を発端とした本展覧会の来場者は目の前の展示品を自明のものとせず、主体としての自己を再認識し、その自己を他者の位置に重ねることが求められた。むしろそう誘導されたと言ってしまって良いだろう。もちろん建築展であると頭から決めつけるのは本展に対しては適切ではないかもしれないが、しかし4人は建築学生であるという共通点から集まっている。建築をある客観的な縮尺や他者の言説を通じて捉える多くの建築展示とは異なり、本展は物性を脇に置いた稀有な展覧会だった。

更に誤解を恐れずに言い換えをするなら、本展はやはり一般的な建築の専門家による建築の専門家のための建築展とは異なる試みだったのだ。建築の専門家は実物から図面から、他とその建築の差異を理解することができ、客観的な価値としての建築を捉えることができる。が、その客観的な評価からはみ出す建築の何かしらを、扱おうとしていた。決して専門家に劣るという意味ではなく、専門家になる前の学生として4人は勉強会を開き、個人的な主観と経験の中にしか存在しない建築を、捕らえようとしていたのではなかろうか。あるいは大多数の人がそうであるように先鋭化された世界から排除される建築の素人としての立場から、建築へのアクセスを探る試みであったといえよう。

展覧会情報

展覧会名│できない(かもしれない)わたし|My Bodily Timidity
会期│2022年7月2日(土)- 18日(月)13:00–20:00
会場│The 5th Floor(東京都台東区池之端3–3–9 花園アレイ5F)
入場料│500円(学生無料) ※水曜休廊
キュレーター│成定由香沙
出展作家│成定由香沙、北垣直輝、周戸南々香、櫻井悠樹
展示美術│石塚俊

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黒田瑞仁
建築討論
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舞台演出家。1988年生。埼玉県蕨市在住。早稲田大学理工学術院建築学専攻修了。演劇集団ゲッコーパレード代表。シェイクスピア、ゲーテなどの古典戯曲を島薗家住宅、早稲田大学演劇博物館、宮城野納豆製造所、山形県郷土館文翔館などの歴史的建造物をはじめあらゆる建物で演劇上演を行う。