Paul B. Preciado著, “Pornotopia: An Essay on Playboy’s Architecture and Biopolitics

ポルノトピア、プレシアードの20年(評者:長谷川新)

長谷川新
建築討論
Jan 4, 2021

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本書『ポルノトピア:PLAYBOY誌の建築と生政治についての小論』は2010年にまずスペイン語で、ついで2014年に英語で刊行されている。2019年には英語版が廉価なソフトカバーで発売された。この書評はソフトカバー版に基づいている。

Paul B. Preciado, “Pornotopia: An Essay on Playboy’s Architecture and Biopolitics

著者であるポール・B・プレシアードは、1970年生まれのトランスジェンダー活動家であり、哲学者である。ニュースクール大学においてはアグネス・ヘラーとジャック・デリダのもとで研究し、哲学、ジェンダー理論の修士号を取得、その後プリンストン大学で哲学、建築理論の博士号を取得している。これまでに『カウンターセックス宣言』(フランス語で2000年に刊行、スペイン語増補版が2002年に刊行、英訳は2018年)、『テストジャンキー:ファーマコポルノグラフィックな時代におけるセックス、ドラッグ、生政治』(スペイン語で2008年に刊行、英訳が2013年、テストとは性ホルモンの一種テストステロンを指す)、『ウラヌスのアパート』(スペイン語で2019年に刊行、英訳が2020年)といった著書を上梓しているが、上述の哲学、ジェンダー理論、建築理論というバックグラウンドを鑑みると、本書『ポルノトピア』は著者の研究のひとつの達成と考えることができるだろう(じっさい、プレシアードは本書刊行までにゼロ年代をほぼ丸ごと費やしている)。

具体的な書評に入る前にもうひとつ著書の経歴を紹介したい。プレシアードはキュレーターでもあり、キャリアの初期から執筆活動と並行して展覧会を含むさまざまな複合的実践を展開している。とりわけ『ポルノトピア』刊行後はバルセロナ現代美術館の研究責任者(2011–2014年)や、ドクメンタ14のプログラムディレクター(2014–2017年。アテネに移住したその頃のエッセイが『ウラヌスのアパート』に収録されているので読まれたい。『Mousse Magazine』誌に収録されている参加アーティストのジョージア・サグリとの会話のなかでは「パブリックプログラムは展覧会の脚注ではないし、展覧会のドキュメントやコメントでもない。絶対に違う」と断言する姿をみることができる)、さらにはヴェネツィア・ビエンナーレ台湾館のキュレーターを務めている(シュー・リー・チェン個展『3×3×6』、2019年)。

『ポルノトピア』の話に移ろう。本書は副題にもあるとおり、アメリカで1953年から刊行されている雑誌『PLAYBOY』の「建築」を追った一冊である。訝しがる読者も多いかもしれないが、プレシアードは、「冷戦期において『PLAYBOY』が住居の建築とデザインを新たなアメリカのポップカルチャーのためのマスキュリンな(男性性を帯びた)消費財として拡散するひとつのプラットフォームとなっていた」(p.18)ことを指摘し、「たんなるエロ雑誌であるどころか、20世紀後半の建築的想像力の一部を形成している」(p.17)とまで言い切る。誌面で次々と紹介される独身男性用住居やインテリアはいうまでもなく、毎号の表紙を飾る女性「プレイメイト」さえもが、「Girl Next Door」として空間的な視座のもとで発明され「ポルノトピア」を形成していることをプレシアードは具体的に描写していく。フーコーの「建築とは認識論的なシステムである」という前提のうえに構築された本書の議論は、建築の学徒に限らず広く読まれるべきものだろう。電話、ラジオ、コントロールパネルなどのマルチメディアが装着された回転ベッド。事務仕事とセックスを素早く「スイッチ」することを可能にするリクライニング式の椅子やソファー。「家庭」や「妻」を彷彿とさせる要素がことごとく脱臭されたキッチン機能なきキッチン。労働と余暇、着衣とヌード、仕事上の訪問と性的な出会いをつなぎ、分節するプール…。『プレイボーイ』社から権利画像掲載を拒否された本書は(ポルノをアートと書き換えることを「提案」されたそうだ)、実際の誌面こそでてこないものの、その欠如は著者の筆力によって説得的に補われている。

さて、こうした建築やインテリアデザインの熱心なPRは、アメリカに根強く染み付いていたヘテロセクシュアルな夫婦像を前提としたジェンダー分業を少しずつ解体していく。男性向け雑誌であるがゆえに当初は「牡鹿」がシンボルキャラクターであった『PLAYBOY』は、創刊直前に「兎」へと変更される。著者はこの印象的なエピソードから、編集長のヒュー・ヘフナーが「鹿」という「品性ある父」であり「良き夫」であるべきだという男性像ではなく、性的に旺盛かつインドアで未婚の「兎」へとその男性像自体を改変しようとしたことを看取する(「BEASTERS」のルイとハル!)。しかし同時にこの移行は、自宅というプライベート空間にパブリックで資本主義的な空間が侵入することを許し、男性たちをネオリベラル的な労働者へと作り変えてもいった。「ジェンダー規範を解きほぐしたかわりに、『PLAYBOY』は、フレキシブルでフルタイム消費者で不眠のポストフォーディズム的男性性という新たなモデルが表面化する諸条件を設定した。そのモデルは、21世紀のバイオ-ネクロ-ポリティカル(生と死に基づいた政治)で非物質的な生産形態の中心になるであろうものだ」(p.220)。

『PLAYBOY』のアーカイブに切り込み再編を狙う本書は、むろん「ひとつの認識論的不服従の行為」(p.227、ワルテル・ミニョーロによる造語)ではあるのだが、全体を通してやや暗いトーンを帯びてもいることは否定できない。現在『PLAYBOY』の直接的な影響力はほとんどないし、2016年にはヌードの掲載さえやめていたとしても、現状の「ファーマコポルノグラフィック」な時代においては、インターネットによってポルノと生の管理はむしろ私たちの生活の隅々にまで行き渡っている。また、複数男女の同棲リアリティショーにでてくる建築が完全に『PLAYBOY』の延長線上であるように、『PLAYBOY』の残響はたしかにこだましている。「良いニュースと悪いニュースがある。悪いニュース。『PLAYBOY』のポルノトピアは死にかけている。良いニュース。我々はみんな死体愛好家だ」(p.215)。

プレシアードが最もページを割く第7章「ファーマコポルノグラフィックなベッドの発明」は、ベッドという、誕生、睡眠、生殖行為を営むプライベートな場が脱自然化され、マルチメディア化されていくさまを描いたものだ。1960年代から70年代にかけてヨーロッパにおいて展開された「ラディカルアーキテクチャ」による前衛的プロジェクトでさえも、その社会批評的な意気込みや美意識にもかかわらず、ある意味では1950年代に『PLAYBOY』が流布したジェンダー化された身体表象のコードを具現化したにすぎない。だがそうしてマルチメディア化されパブリックへと晒されたベッドは、オノ・ヨーコとジョン・レノンによる反戦パフォーマンスのように「オキュパイ」し返すことも可能だ(7章最終節のタイトルは「I Am Going To Start a Revolution from My Bed 」である)。

本書は『PLAYBOY』の、編集長ヒュー・ヘフナーの、そしてそこに集った数多くの建築家、デザイナー、編集者たちによる性と生を管理する欲望と諸技術を分析し、されるがままにならないための一冊である。あるいは書評を踏み越えることになるがこうも言える。本書の暗さから目を背けずに、また本書では構成上ほとんど言及されないマイノリティの人々とともに動き続けたのが、プレシアードの2010年代であったと。

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書誌
著者:Paul B. Preciado
書名:Pornotopia: An Essay on Playboy’s Architecture and Biopolitics
出版社:Zone Books
出版年月:2019年10月

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長谷川新
建築討論

インディペンデントキュレーター。主な企画に「クロニクル、クロニクル!」(2016–2017年)、「不純物と免疫」(2017–2018年)、「STAYTUNE/D」(2019年)、「グランリバース」(2019年-)、「約束の凝集」(2020–2021年)など。国立民族学博物館共同研究員。robarting.com