災間を生きるタイムライン ―建築家の活動からふりかえる東日本大震災からの災間の10年―

震災の経験を聞く―01│建築家│福屋粧子

Shoko Fukuya
建築討論
35 min readFeb 2, 2024

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能登半島地震の発生から間もない今、これまでの知見を集め、使える知識としての共有を目的に、建築討論では連載「震災の経験を聞く―これまでの試行錯誤の共有知」を立ち上げます。
東日本大震災、熊本地震と重なる震災を経験した10年。すでに多くのプラクティスが存在します。そうした経験はネットや書籍や報告書、ウェブサイトなどで参照できる状態にありますが、そうした貴重な経験に効果的にアクセスできる共有知として本サイトに掲載していきます。4ヶ月で12人の記録を実施予定です。
第1回目は建築家の福屋粧子さんに「災間を生きるタイムライン ―建築家の活動からふりかえる東日本大震災からの災間の10年―」を寄稿頂きました。なお本記事は新建築住宅特集202104に掲載された特別記事(東日本大震災からの10年を振り返る)を元に再構成した記事です。ご協力頂いたみなさまに感謝いたします。(編集委員会)

建築の一回性と繰り返す災害

29年振りの冬、大きな地震が再びやってきた。2024年1月1日夕方に、能登半島の先端を中心に起きた震度7・マグニチュード7.6の地震は、数分で到達する津波を引き起こし、日本海沿岸の人々は、東日本大震災以来の緊張感で高台に避難した。何年も前から予告されていても、日本海側は地震が少ないという印象もあり、驚きをもって捉えられた。浜に押し寄せる黒い津波、横倒しになったコンクリート造の建物、美しい瓦屋根が崩れ落ちた伝統木造家屋、火災の煙に包まれた市街地の映像を見て、ぼうぜんと立ちつくす。阪神・淡路大震災や東日本大震災の再来のように感じ、29年前のその日、13年前のその日に何をしていたか、また繰り返す災害について思い起こした人もいるだろう。

建築は、一回性と強く結びついた事象である。例えば、建築家が関わる「記念碑」は、「二度と起きないこと」を「永遠に伝える」ために建設される。

対して、災害は二度と起きてほしくないと思われながらも、ことに日本では何度でも私たちの生活にふりかかってくる。加藤周一は「日本文化における時間と空間」の中で、ユダヤ・キリスト教的な一方向へ進む有限の時間概念、ヘレニズム的な循環する無限の時間概念、と対比して、「今=ここ」に生きる日本文化における時間概念について述べている。日本に生きる我々にとって、「震災」という言葉を使う時、それが指し示すのは、常に、一番最近に起きた地震の災禍となる。

最も近い13年前の東日本大震災以後、また7年前の熊本地震以後、建築家のイメージは、大きく変わった。記念碑を作る人物から、町医者のように地域とくらしに向きあう人物へと。

この文章は、2021年4月に新建築住宅特集202104に掲載された特別記事(東日本大震災からの10年を振り返る)を元に構成する。この記事を建築討論webに再掲載する2024年2月は、さらに3年が経ち、令和6年能登半島地震が起きた1ヶ月後である。

震災は繰り返し起きることによって風化に抗っている。だから、私もこの記事を再掲載することで、災間に抗いながら災間を生きていきたいと考えた。

震災が起きた直後に、そこから10年・20年を想像するのは、本当に困難だった。時系列を短くまとめた文章も少ない。だから、今(2024年2月)応急期のヒリヒリとした現場にいる人にも、インターネットメディアを通じて、ふとした時に読んでもらえれば、この13年も少しは意味があるかもしれないと考えた。

ここからは災間の10年のすまいと「くらし」を振り返る。

fig.1 東日本大震災を振り返るためのタイムラインのらくがき(作成 福屋粧子) 東日本大震災時は、立法があったため、全体に3ヶ月後ろにずれていると思います。本図は、本記事の震災後10年の記事内容を解説するために作成した簡易なダイアグラムであり、横方向の時間スケールは状況により伸縮します。また、被災時の公共事業間の関係を確約するものではなく、法的根拠を完全に把握して作成したものではありません。閲覧時は以上をご理解いただき、転載・転用いただく場合は、以上を付記の上、当方にご一報ください。

東日本大震災で建築家は変わったか

東日本大震災では、3月11日の津波のもたらす圧倒的な自然のパワーによって、建築やインフラが揺り動かされ、部材にまで解体され、痕跡を留めず流出した。力を合わせて作りあげ、それまで盤石なものとして信頼を置いていた「建築」が浮き上がり流出する様は、多くの建築家に衝撃を与え、地面に固定した完成形として自身が提示してきた建築の姿の儚さを再考した建築家も多い。

一方、多くの避難者を数えた東日本大震災で、47万人の生活の基盤が奪われた時に、再度必要とされたのも、建築であった。

生活基盤が奪われた状況では、食べる・飲む・眠る・休む・集まって語る・体を洗う・仕舞う・知る・家族で過ごす・一人になるなどの、根源的なくらしのさまや問題点が表出した。避難所や半壊家屋ではさらに物資不足や資金、衛生管理の不徹底、職や収入がないなど、より深刻で緊急性を要する問題もある。その原初的な状態に向き合って、2000年代は空間表現へと大きくシフトしていた建築デザインが、くらしの中のより根源的な働きを求める方向に変化するきっかけを作った。

災間を考えることで、変わる建築の姿

形を変えた、やわらかで微細な「建築」が求められ、建築家もそれに答えたとも言えるだろう。

やわらかで微細な「建築」とは、例えば、<住民やボランティアとともに作るプロボノ+半セルフビルド建築> 、<民家への回帰> 、<部材が露出する半完成品としての建築> 、<最小限のよりどころと最大の可変性> 、<リサーチベースによる建ち方や使われ方の探求と実践>、 <地域素材によるカスタマイズ> 、<消費エネルギーへの疑念による構法の変更>などだ。どれも、完成物としての町や建築の姿を持たず、等身大で受け止められる「くらしのパーツ」に焦点の当たった作品群である。

被災地に直接的に向かった建築家の多くは、大学などの教育期間関係者か団体関係者であったため、設計業という経済活動を超えた被災地の支援活動に踏み込んでいった。業的でない建築の姿は10年の間に一般的なものとなり、震災当時20代で今現在活躍する若手建築家のその後のデザインアプローチの根幹に大きく影響した。

一方、被災地で活動する建築家に対して、ある場所で「迷惑だ」という目が向けられたことも事実だ。その時その時の被災状況の中で懸命に「生きる」人々にとって、ゲリラのように突然現れ、根本的・長期的な視点に立った思考や、受け入れ対応を求める建築家や研究者の訪問が大きな負担になったためである。大きな災害時には、面整備(システム化された状況把握や土木工事)が平等に行われることが望まれるのに対して、建築家個人の活動は小さい点のように行われた。

都市から広大な被災地の各地に向かう建築家の活動は、東日本大震災では2011年をピークとして、その後は2016年熊本地震や2018年・2020年豪雨被災地などに展開していった。残念ながら、私個人にはその全貌を語るための十分な情報や知識はないが、点と点をつないで語ることで、建築家の活動の推移や展開が見えてくるのではないだろうか。

3日・3週間・3ヶ月・・・・

指数関数的にとらえる10年

災害が起きた後の時間は均一には流れない。その瞬間ごとに生きるための行動や必要なものも異なる。

この原稿では、東日本大震災が起きた2011年3月11日から、3日・3週間・3ヶ月・1年・3年などを区切りとして、それぞれのフェーズで建築家がどのように、その時々の「生きる」に寄り添い、行動していったかを記録していこう。

3日を生きる

災害から身を守る情報とネットワーク

震災は段階的に起きた。最大震度7の激震が2011年3月11日14時46分から3分間続き、ほぼ日本全国が揺れる中で、ビルの揺れ、転倒や落下物から身をやり過ごした人々は、のちに津波死者として数えられる人々も含めて「よかった。助かった。」と思った。

しかしその後の3日を生きる、それだけにも実は大変な情報収集と判断、そして行動力が必要となる。

3月11日14時46分から20分後、津波が沿岸に到達するTV映像と大津波警報が流れ始めた。3月の雪がちらつく港に津波が押し寄せ、避難しつつあった人の命やインフラは、繰り返す押し波と引き波によって、半日かけて不気味な音を立てながら沖へと流れていった。この半日に津波と火災で2万人を超える人の命が奪われた。(地震による圧死は1000人以下である。)

波につかり、命からがら避難した人々は、真っ暗な闇の中で、寒さに震えながら翌朝の救助を待ち、幸運な人は手書きのメッセージや伝言ダイアルを元に避難所で家族と再会した。携帯電話は半日と電源が持たず、個人間の連絡は非常に取りづらくなった。

3月11日夜は、東京圏でも交通機関が麻痺し、部分停電に耐え、徒歩のみで行動しながら数日を過ごした。

3月15日には、福島第一原子力発電所が11日に受けた津波被災による放射能物質の流出が起き、ガソリンが手に入りにくく、道も寸断した状況で福島県浜通りから16万人の大移動と避難が始まった。

インフラが途絶える中、不安を増幅するのは不確かな情報や情報の不足であった。この時期の建築家の活動は、主にメールやツイッターを介して行われていた。初期の建築家の情報共有ネットワークである「アーキエイド」母体も、巨大でクローズドなメールリストとして運用され、震源地に近い宮城の情報を共有しながら、活動を模索していた。他にも阪神大震災支援など既存団体をベースとしたさまざまなクローズドネットワークが発生していた。ボランティア情報や物資支援情報が行き交ったが、クローズドネットワークだけでは広大な被災各地とのマッチングは難しい一方、オープンな情報には信頼性が欠けやすく、不安を増幅する情報の洪水を避けるように生活する人さえいた。

fig.2 (左)3月11日鮎川浜の津波時の湾内の写真(最大高さ8.6m以上)(©️牡鹿総合支所)、(右2点)アーキエイド準備会合(2011/3/16)(©️福屋粧子)

初期3日に公開された建築家の活動で、災害情報に特化したオープンネットワークとして、「OLIVE」(写真左)がある。災害時に有効な知識(=停電時・災害時のくらしのノウハウ)の参加型情報サイトとして多くの共有知を育てた。また、迅速な避難や事前復興の取り組みとして、「避難地形時間地図(逃げ地図)」(2013年写真)があり、身近な地形の危険性を理解する仕組みが考案された。

fig.3 (左)生活を助けるアイデアのデータベース OLIVE(©️NOSIGNER)、(右)アーキエイド・ロゴ(©️アーキエイド・秋山伸)

3週間を生きる

避難所で「くらす」

避難所に辿り着いた人は、着いた瞬間、本当にほっとしただろうと思う。人はいる、情報は多少ある、多くの人が生きるために集まる避難所であるが、滞在が長くなるほどに過密で過酷な状況となる。実際は3週間どころではなく、避難所ぐらしは仮設住宅に移るまで半年続いた。

過酷な状況には、床に寝る寒さ・心理的な不安・プライバシーのなさ・衛生面などの課題が多い。避難できても、生活空間にはなりえない場所で、多くの建築家・研究者が、人数に応じた広さという数字だけでは捉えられない、居心地の向上のための物資や運営の支援を行った。

fig.4 (左)陸前高田市の被災建物(2011/4/25)(©️福屋粧子)、(右)仙台市七郷小学校体育館の避難所(2011/3/25)(©️福屋粧子)

避難所で「くらす」ためには、食料だけでもなく、空間だけでもなく、人間的にくらす空間のための「くらしのパーツ」が必要であり、細やかな観察によって、支援するべきものを発見していった。

建築家による支援活動では、一般的な段ボール間仕切の不足に応じて、布の避難所用間仕切りシステムが6県で展開されプライバシー確保に役立った。仮設風呂子どもの遊びの支援傾聴炊き出しなどの支援を、専門性にかかわらず、だれもが参加しようとした。

被災した「家を残す」ための活動も重要だ。建築士・建築家が組み入れられた公的活動としては、被災建築物応急危険度判定技術者として、倒壊危険度を判定し赤紙を貼って二次災害を防止する活動がある。しかし危険と判定した場合、すぐ取壊すという理解になってしまう場合も多い。災害時の瓦礫撤去は解体は公費で行われ、住民負担はないため、これを機会に処分してもらおうという経済的判断も起きやすいが、それでは地域に歴史を伝える建物が何一つなくなってしまう。歴史的建築や民家などは、もともと傾いている場合もあり、街の中での文化的価値と危険性は平時と同様に判断されなければならない。

建物・文化財の保存活用の調査は学会・大学ベースで行われる場合が多いが、文系の大学調査に関連した形で、個人のネットワークで構造判定の支援が行われた例もある。石巻で津波被災した「本間家土蔵」の保存のための構造判定(写真下)など、「今すぐ壊さないでも大丈夫」を緊急時に伝えるのも、建築家の重要な活動だろう。(レスキュー関連写真)地震被害が主だった福島内陸部では、「はじまりの美術館」「猪苗代のギャラリー」など、保存された民家の地域施設への転用も行われた。

fig.5 (左2枚)石巻市門脇地区の本間家土蔵被災時の写真(2011/4/12)(©️佐藤敏宏)、(右)同土蔵補修・曳屋後(2018/1/30)(©️福屋粧子)

また多くの建築家が「泥かき」と呼ばれる、津波被災した住宅に残った大量の汚泥の手作業での撤去を一般のボランティアとしてともに行った。汚泥は海水やさまざまなものが入り混じり、衛生状態は悪く、夏までの間にこの作業に参加して体調を崩す人も多かったが、家をなくし困っている人を前にして、何か手をさしのべて手伝いたいという気持ちが彼らを泥かき参加に向かわせたのだろう。

fig.6 (左)「帰心の会」第一回シンポジウム(2011年5月1日)、(右)泥かきの活動写真(2019年)(©️菅原麻衣子)

3ヶ月を生きる

心のよりどころを探す

避難者は、何回も移動を繰り返さざるを得ない。帰る家がなく、避難所は学校再開で明け渡しを求められるからだ。その度に仮のコミュニティを生成し、離散していく。私の、私たちのよりどころはどこなのか。何を大切にして生きていけばいいのか。生活の不安定さに加えて、心のよりどころを探す日々がはじまる。

3ヶ月という小見出しだが、実際に仮設住宅の入居が行われたのは、6週間後から6ヶ月後であり、最長10年間仮設住宅に暮らす場合もあった

仮設住宅と一言で言っても、さまざまなタイプがある。いわゆるプレハブ仮設住宅は4万戸、木造仮設住宅9千戸が今回建設され、解体された。その他、民間アパートや公営住宅の空き家に入居するみなし仮設住宅は、仮設全体の半数を超える7万4千戸で、合計35万人以上が仮設住宅に入居した。みなし仮設は空き家活用を行いつつ建設費を圧縮できるが、遠方に内陸移転した場合など、地縁のない場所で生活するため孤立しやすい問題もある。

災害後の応急期を生き抜き、それぞれの場所で寝泊まりできるようになった時にはじめて、災害ユートピア(レベッカ・ソルニットが唱える、人々が自発的に無償行為を行う震災後の特殊な状況)的な利他行為を行いつつも、「これからどうなるのだろう」という不安が押し寄せてくる。一方、生活の不便さも残り、被災格差(重度被災者への民間支援や行政措置や資金提供を軽度の被災者が不公平だと感じること)による分断が露わになってくる。

5月からさまざまなワークショップが被災地で行われた。ふるさとを思い起こす、記憶の街模型復元ワークショップ」(2011/6写真)は、神戸大学を中心に、建築家が大学生と地方自治体と協力しながら、7月から各地で開催され、聞き取りから模型を作成することで人々の心のなかにある、ふるさとの記憶や言葉を視覚化していった。仮暮らしを続けるにも、心のよりどころは必ず必要になるはずだ、と槻橋修は建築家たちにメールを送り、被災地の自治体に模型復元ワークショップへの協力を呼びかけ続けた。その後10年間で作成した模型は100地域を超えると思われる。

また、漁師にとっては、住まいよりも船と番屋が必要ということから、津波被災地での番屋の建設支援を行う建築家も多くいた。

この時期に、主題は「生きる」ことから「くらす」に移行していく。

6ヶ月から、を生きる

仮設住宅というくらしの場

仮設住宅が少しでも心が安らぐくらしの場になるように、さまざまな建築家が提案を行っているが、まるで駐車場のレイアウトのような機械的な配置については、東日本大震災ではほとんど変えることはできなかった。

fig.7 (左)仮設住宅(石巻市小渕浜)(2011/7/21)(©️福屋粧子)、(右)仮設集会施設ロハス計画(2011/11/4)(©️藤塚光政)

山本理顕は、仮設住宅の中での引きこもりや孤立を防ぐための、対面配置型のプレハブ仮設配置を震災直後から提案し、さまざまな自治体と調整を続けた。岩手県釜石市平田仮設団地で一部対面配置による仮設住宅が整備された。また遠野市仮設住宅希望の郷(2011/7図版)でのケア型仮設住宅の共用空間は1m近く雪が積もる東北の気候に合わせた共用動線空間への配慮と合わせ、仮設であることを忘れそうな居心地の良さに見える。くらしの中でのコミュニケーションを支援する力が、建築や窓の配置計画にあるということについて、数少ない実践事例から、行政と民間の体制構築により次の災害時の計画がアップデートされることが望まれる。

fig.8 (左)失われた町模型復元ワークショップ田老地区(2013/4/12)(©️Jason Halayko)、(右)仮設カスタマイズお助け隊(2011)(仙台市)(©️新井信幸)
fig.9 (左)福島県応急仮設住宅南相馬集会施設(2012/4/4)(©️藤塚光政)、(右)遠野市仮設住宅希望の郷(2011)(岩手県遠野市)(設計 大月敏雄+冨安亮輔+井本佐保里/東京大学高齢社会総合研究機構 リンデンバウム遠野)

また、岩手県・福島県で先行して、また宮城県では民間ベースで、地域工務店による木造仮設住宅が建設された。岩手県が最も先行し陸前高田の仮設住宅を完成させた後、福島の事業者提案型の板倉の仮設住宅などが建設され、一部は仮設使用後に大師堂住宅団地(2018年写真)に活用されている。(2011/5写真ははりゅうウッドスタジオらによる木造仮設住宅、仮設集会施設ロハス計画

地元供給型の仮設住宅の可能性は大きく開け、加えて配置計画の自由度が上がれば、仮設から恒久設置への転用自由度は増し、仮設住宅を再資源化するリノベーション時代の仮設兼復興住宅が一般的になるだろう。

(仮設住宅の発注は災害発生直後の緊急時(2日後〜2週間後)に短期間で行われるため、仮設住宅供給計画に加わりたい場合、平時に仮設住宅建設協定団体として基礎自治体との協定を結び、発注方針等を擦り合わせておく必要がある。詳しくは長野県応急仮設住宅建設マニュアルなどを参照)

1年を生きる

リサーチから未来のくらしを描く

仮設住宅入居後にすぐ必要とされたのは、残念なことに「仮設から出る方法を考えること」だった。仮設は仮設であり、期間がすぎれば退去しなければならない。(当時は2年から4年と言われていた)しかし、ようやっと落ち着き、仕事にも戻り始めた人々に「ここを出て、将来どう住みたいですか」と問うのは、答えが決まっている人以外にとっては厳しい質問に違いない。

戻るといっても元の町はない。町を構想するところからはじめなければならないが、通常、復興まちづくりのマスタープラン作成や都市計画や道路計画の合意形成は、土木コンサルタントの業務範囲である。(当時私はそれも知らなかったのだが。)しかし地図に一本線を引かれて、良いか悪いか意見を聞かれても、昔と違う街をただ拒否するか、わからないと判断を保留にしてしまうか、相手の専門性を信頼して内容は問わずに承諾するか、知識がある住民でもそのどれかになるだろう。

東日本大震災の被災地の多くは、津波被災を受けた漁村や半農村集落であり、生まれた時からお互いを知る強固な地域コミュニティでの助け合いの文化がある。その一方、暗黙の合議で決まるか、意見が出ないことが多く、広く意見を求めることは難しい下地があった。

仮設から出て、復興住宅での生活を始めるためには、ふるさとのコミュニティをベースにしつつ、今後の新しい生活を考えていくことが必要であった。大学研究室や建築家団体が被災地でヒアリングをしながら「仮の形を描くことで皆の心を動かす」ことが各所で実践された。

fig.10 (左)アーキエイド・サマーキャンプ「半島へ出よ」フィールドワーク(2011/7/20)(©️恋水康俊)、(右)大型模型を使った学生による住民への高台移転ヒアリング(2011/7/21)(©️アーキエイド)

「アーキエイド・サマーキャンプ」は、2011年3月に立ちあがった建築家による復興支援ネットワークによる運営によって、2016年に逝去した小嶋一浩を筆頭に全国の建築家と建築系大学生が参加し、ヒアリングから復興した地域の将来像を描く活動として、約1年間積極的に活動を続けた「浜のくらしから浜の未来を考える」冊子と、各集落の将来像を学生がやわらかい線で描いた素人くさいドローイングは、過去の集落の記憶をひきつぎ、<誰もが一言付け加えたくなる>対話性を備えていた。被災沿岸集落は、岩手・宮城・福島で200近くと数多くあるが、全国から支援が入ることで、ある種大学と集落の対口支援のような関係が生まれた。この時期に大学に関わっていた、もしくは建築団体に所属していた建築関係者は何らかの形で被災地支援やヒアリング・ワークショップなどに参加している。

失われた過去の何かを探し求めつつ、未来を考える、リサーチから未来を考えるという姿勢が求められ、参加した建築家や学生はそれに手応えを感じたことは、のちに大きく影響している。

アーキエイドもしくは大学や専門家のヒアリングにより集団移転のサポートが行われた漁村では、「浜ごとの高台移転」が実現した事例が多い。2024年の今から振り返ると、ここ10年の浜のコミュニティーを存続させるためにはよい選択であった一方、長期的に見ると高齢化が進む浜を数多く残し、インフラの広域サービスの負担を広げるなど、課題を今後に先送りした側面もある。戸建ての公営住宅に空き家が増える浜、空き家に新規住民が移住する浜、それぞれの浜に13年分の変化が起きている。

3年を生きる

仮設住宅で「くらす」

地域コミュニティ拠点を作る単体の建築物として最も一般名称化したのは「みんなの家」であろう。「帰心の会」(2011年3月に伊東豊雄、山本理顕、内藤廣、隈研吾、妹島和世によって設立)が発起人となり、仮設集会所を建築家が設計し寄贈した。帰心の会は当時50代以上の建築家の集まりだが、みんなの家の建設に関わったスタッフや若手建築家にとっても、被災地でその時真に求められているものに向き合う経験が大きな影響を与えた。

仙台の「宮城野のみんなの家」(2011/10写真)(のちに移設)、「陸前高田のみんなの家」(2012写真)(2012年ベネチアビエンナーレ金獅子賞・2016年に嵩上げ工事のため解体ののちに、2022年に再建)のほか、国内外の建築家と寄付者の協力を得て17箇所以上に建設されている。

fig.11 竹の会所(©️滋賀県立大学陶器浩一研究室)

また、地域性と素材を活かした仮設の集会所も、地域住民と協力して建設され「竹の会所」(下写真)(2018年に解体)や「りくカフェ」(本設に移行)は2年から8年程度使用された。

fig.9 (左)福島県応急仮設住宅南相馬集会施設(2012/4/4)(©️藤塚光政)、(右)遠野市仮設住宅希望の郷(2011)(岩手県遠野市)(設計 大月敏雄+冨安亮輔+井本佐保里/東京大学高齢社会総合研究機構 リンデンバウム遠野)
fig.13 (左)はりゅうの箱(2012/12/25)(©️藤塚光政)、(右)釜石商店街のみんなの家・かだって(2012/6)(©️Yoshiyasu Saijo)
fig.14 (左)浜のくらしから浜の未来を考える(2012/3)(©️貝島桃代)、(右)陸前高田のみんなの家(2012/11)(設計:伊東豊雄+乾久美子+藤本壮介+平田晃久)

仮設住宅本体としては、建設されたプレハブが東北地方の寒さに合わない問題も大きく、研究者やボランティアが収納や風除室や外物置など、仮設住宅における「くらしのパーツ」を、住民交流し作成する支援を始めた。「仮設カスタマイズ」などが実践的な活動として行われたほか、中越地震後の仮設住宅居住支援の共有知をまとめたものとして「仮設のトリセツ」がある。

筆者にとっては、2011年9月から翌年までの1年間は、基礎自治体やコンサルタント、また土木や都市計画や水産の専門家と協働しつ、複数の街(石巻市牡鹿地区・本庁半島部・岩沼市玉浦西地区など)の復興まちづくりプランを、住民と学生が作った手書きの線から土木のハードラインに書き換えていく時期であった。

この時期に同時に災害公営住宅の整備の準備段階に入り、地元工務店による建設とよりより住まいと配置計画のすり合わせが行われたが、設計コスト=設計時間数を節約することと、すまいや住宅団地配置・道路計画の質は、基本は反比例する。丁寧で居心地のよい設計、地形に合わせて角度を調整した住宅配置や曲線道路を提案したい時にも、業務逼迫している企業(工務店・設計者・コンサルタント)・通常の2〜3倍の業務量をかかえ、1年ごとに入れ替わり続ける応援職員を監督する地元自治体の技術者や政策立案者とどう協働し、サポートしながら、丁寧で未来を見据えたまちづくりに誘導していくか課題となった。

fig.15 牡鹿総合支所にて、鮎川浜の復興まちづくり打合せ(Y-GSA)(2012/1/31)(©️福屋粧子)

正直、何かができたという感じは全くないが、これからもう一度そこにぶつかるであろう人のためにメモ的に残しておきたい。

建築家側で事前にできそうなこととしては、まず公共事業に関する基礎的な理解を深める(主に法律と政令・監督省庁間の分担や民間委託範囲)ことがある。(別件で乾久美子と話したときに、土木分野と連携するには道路構造令の理解が重要という話題になった)

理解が必須となるのは

都市計画法

道路構造令

大規模災害からの復興に関する法律

復興交付金の配分の仕組み(および関連した用語、補助率・タイムスケジュール(概略設計・詳細設計・施工承諾など))

用地買収

集団移転関連

地域住宅政策

・公共空間の管理者・ステークホルダー

インフラ管理者(リンクは国土交通省北陸地方整備局)

海岸管理者(リンクは石川県能登半島)

河川管理者

・地域史

昭和期に発行された広域合併前の町誌・自治体広報物・絵図・産業史

いずれも普段取り組まないことで、用語も難解であり、建築の専門家だけでは対応することはできない。アーキエイドでは貝島桃代・門脇耕三のもとに「半島支援勉強会」を2011年から2015年までの30回に渡って開催し、計画者・ランドスケープ専門家・行政職員の水産専門家などをゲストに迎えて理解を深めた。同様の勉強会は各地で、また各分野(水産・都市計画・環境保全・建築・住宅計画・福祉・文化財保護・災害史など)で行われていたが、なるべく分野を横断して、行政職員の協力や指導を得ながら行うのが、回り道のようであっても今後の災害に備えるためにはよいと考える。

被災地に訪れる建築家は、部外者である。また、公共と住民の間の、中途半端な立ち位置にいると感じる。どちらの視点からもみることができる一方、どちらに完全につくわけでもない。中途半端さに耐えることができれば、私たちは、学びながら公共と住民の空間的通訳をつとめることにができた可能性がある。

アーキエイドサマーキャンプ・半島支援勉強会・学生インターンシップに参加した建築学生の一部は、そういった行政職員やまちづくりのステークホルダーの真摯な姿勢に影響を受け、卒業後、地方整備局や行政職員(国・県・基礎自治体)・教員・設計者・まちづくり会社への進路を選択した。

住まいに関する建設コストと労働者不足のピークは、広域被災から3年後の2014年である。災害ユートピアが終了し、なりわいとしての建設業がどのように地域を支えるか、工務店が倒産せずに地域の再建を果たせるかというフェーズであったが、同時に施工者は複雑な施工を避けるため、建築デザインが施工時に、またそれを見越して設計時に単純化され、個々のデザインが均一化していく時期でもあった。

また、漁師を育てるなど、建設業以外の漁業や林業などのなりわいを取り戻す試行錯誤する地元団体を、建築家がサポートして行う動きも見られた。(牡鹿漁師学校 下写真右)

fig.16 (左)逃げ地図(避難地形時間地図)(2012)(©️日建設計ボランティア部)、(右)牡鹿漁師学校の実習風景(2013/5)©️福屋粧子)
fig.17 (左)釜石市半島部全浜災害復興公営住宅(2015)(©️釜石アーキエイド共同企業体/©️繁田諭)、(右)おしか番屋でのポタリング牡鹿の風景©️千葉学建築計画事務所)

プレハブ仮設は、震災5年を経過する時期から各地で退去、解体が進んだが、10年後の2021年2月現在も、4万人を超える人々が1万8千戸の仮設住宅や親戚宅で避難を続けている。

fig.18 (左)七ヶ浜みんなの家きずなハウス(2017)(©️近藤哲雄建築設計事務所)、(右)逆戻しの家(2016)©️はりゅうウッドスタジオ)

10年を生きる

選択される「くらし方」とコミュニティの行方

津波で家を失った人は、元あった場所に住まいを再建することを禁じられる。選択肢は3つ。

・A・地域で集団移転する土地を土木工事で作られるのを待って、住宅を自分の資金で再建するか、新築の復興公営住宅に入居する

・B・住んでいる市町村内で遠方の復興公営住宅に入居する

・C・街をはなれてどこか新しい場所で住宅を持つ

かかる時間の長さで言えば、A(長い。3年〜7年)<B(被災地から離れていれば短縮される。空家の数次第だが、2年〜4年)<C(土地が見つかれば短い)。

どのようにしてそうなるかは、冒頭 fig.1 東日本大震災を振り返るためのタイムラインのらくがき(作成 福屋粧子)も参照してほしい。
A or B or C の「くらし方」の選択肢が並ぶ。それらを選択する際には国は自治体に、自治体は住民に「メニュー」として示し、自由に選択できるための行政の丁寧なサービスとして示されるが、一度メニューを選択して進み始めれば、住民も自治体も家族と自分による自己決定に拘束されて動けない。(途中で変更も多々起き、それがまちづくりの住宅団地の戸数変動を引き起こし、移転事業遂行上(設計時)は大きな制約となる)また・A・以外の場合、地域コミュニティからは断絶し、孤立してしまう可能性もある。

・A・B・C・の間で人々が迷い、どのように住宅を再建したかに関する貴重な調査がある。仙台圏域付近で、どのように市町村を跨いで住宅の再建が行われたかの記録では、自力再建の場合、勤務地や病院に近い内陸移転、つまり・C・が進んだことがわかる。(2017年図版 小山瑞貴「東日本大震災にともなう宮城県における住宅再建の動向と特徴:震災後5年間の建築確認申請データの分析」東北工業大学新井研究室+宮城県住宅センターの調査論文より)自力再建に対する補助は土地買い上げ以外は非常に少ないが、逆に言えば経済的体力がある住民が積極的に被災地外に移動していくこととなる。

・A・のための集団的移転例としては、通称「玉浦」と呼ばれる「岩沼市玉浦西災害公営住宅」がある。震災3年後の完成に向けて、早期に行政と専門家が内陸移転のまちづくりを主導した事例だが、ビジョンが示されなければ、被災によって弱まった地域コミュニティを維持しながら再建することは難しい。岩沼市は復興のトップランナーを自称し、早期に集団移転を主導することで、市外への人口流出を最低限に抑えていった。

(3年と聞いて長く感じると思うが、協働している時に都市計画コンサルタントから、20haの住宅団地を土地買収から3年で完成させるのは、行政の完全な協力があったとしても超特急で異常なスピードであり、普通は5年はかかると言われた。玉浦西地区は元々田んぼだったので、地盤改良以外の土地買収と整備が容易、また市内に一箇所しか移転団地を作らなかったので総力をあげて行政が移転事業を主導できたという理由も大きい。また当時の井口市長の国との直接協議も復興を早期にすすめる影響があったと聞いた。)

・A・で浜に残って自力再建をすすめるための建て方として拡張可能な「コアハウス」(2011年写真)がモデル的に建設されたが、用地買収と土地造成が終わった完全な移転地が用意されるまで時間を要した(桃浦では震災4年後)ことで、浜での自力住宅再建の時期は遅れた

・A・の港町と漁村集落のコミュニティ型地域再生を目指して、釜石市は東北大学の支援による独自の取り組みで、浜の住宅再建と市街地の住宅再建に建築家が加わった。「釜石市半島部戸建公営住宅」(2014年写真)と「釜石市大町復興住宅」(下写真右)

区画整理・公営住宅・漁業集落防災機能強化・防災集団移転促進、、、、いずれのメニューであっても集団移転地が完成するまでの長い時間を待って行われたが、元々、防災のための移転と、コミュニティ単位で地域文化を継承する集団移転は、目的が異なるので、後者はともするとすぐ忘れられてしまう。異なる目的をすり合わせながらの、再建が行われるまでに長い年月を要した。

fig.19 (左)アーキエイド総会(2016)(©️福屋粧子)、(右)釜石市大町復興住宅(2016)©️千葉学建築計画事務所)
fig.20 東北工業大学新井信幸研究室卒業論文 小山瑞貴「東日本大震災にともなう宮城県における住宅再建の動向と特徴:震災後5年間の建築確認申請データの分析」東北工業大学新井研究室+宮城県住宅センター より 震災5年間の自力再建による市町村外移転動向図©️東北工業大学新井研究室)
fig.21 (左)ほっこり家(2019)(©️齋藤隆太郎)、(右)大師堂住宅団地 (2020)©️高橋菜生)2011年東日本大震災後に福島県で建設されたログハウス仮設住宅を移築再利用。仮設住宅の計画時においても、復興住宅への再利用を想定。福島県二本松市と南相馬市の仮設住宅団地から12戸のログ仮設を移設し、復興住宅とすることになった。

浜とふるさとで生きる

移転元地での新しいくらし

浜から人が移転した場合、元の場所はどうなるだろうか。まだ整備が進まない場所も多いが、基本的には、買い上げられた場所は、整備しても、災害危険区域となって住むこともできず、余ってしまう場合が多い。

移転元地が水産用地・事業用地として活用できればよいが、例えば陸前高田市のような広大な未利用地が一時的にできてしまう場合もある。仙台市も移転跡地の民間事業者を募集し、広大な被災地の活用に取り組んでいる。行ってみるとわかるが、農地と荒地が入り混じる風景だ。

手探り状態が続くが「住めない場所での人のくらし方と集まり方」を探るような事例ができつつある。石巻市牡鹿半島では浜の名前をつけたカフェはまぐり堂を地元住民とボランティアが2013年から運営している。もものうらビレッジもアートフェスティバルと連携して整備され、会員制の宿泊コミュニティ施設として運営されている。

fig.21 もものうらビレッジ(筑波大学貝島桃代研究室+佐藤布武研究室設計 アトリエ・ワン(メインハウス) ドットアーキテクツ(三角庵) satokura architects(炭庵))(2017)

福島第一原子力発電所事故による避難指示が続いた福島では、浜でなくとも住めない時期が続いた。2016年に避難指示が解除された南相馬市小高の「逆戻しの家」(2015年写真)は、避難前に住んでいた住宅の減築改修によって終のすみかとして新しいくらしを支えるものとなった。さまざまな形で、故郷である移転元地でのくらしをとりもどす試みが続いている。

災間に生きる、災間にくらす

この号が発売される3月末には、東日本大震災から10年の節目である2021年3月11日は過ぎ、またいつもの日常が戻っている。

しかし10年目を迎えた今こそが「災間(さいかん)」の真っ最中なのだ。3年・5年・7年と時間が経過する中で、「ふりかえるにはまだ中途半端だ」と思い、懐古的にふりかえることをずっと避けてきた。東北沿岸被災地の方と顔を合わせても、「まだ復興の途中だ」「前の生活は戻ってこない」という声は大きく、待ち望んだ「震災後」は10年経っても感じられない。「震災後」というハッピーエンドが10年後にリアリティを持たないのであれば、今、私たちはどこにいるのだろう?と問う中で、「災間」に出会った。

「災間(さいかん)」という言葉は、2012年から社会学者の仁平典宏・民俗学者の赤坂憲雄らによって使われ始めた。「災間」は文字通り、災害と災害の間の期間を指す。日本は自然災害多発地域であり、列島に生きる私たちは、襲ってきた災害と次の災害までの「あいだの時間」を生きているという考え方を示している。(防災研究では未災地(みさいち)という言葉も使われるが、災間の方がより強く反復性を感じさせ、またコロナ感染症の流行のような種の異なる災害の反復性も含んでいる。)

津波遺構を残す大川小学校の保存計画を考え、軍艦島を訪問したことも、「次の震災」とそれまでの「間の時間」を意識するきっかけとなった。建築の姿を永遠に残すことはできない、また形だけ保存することは、生きられた空間という建築の役割を失わせてしまうことになる。

メモリアルや遺構が大きな役割を持つのは、今が「災間」であるからだ。「災間」は、鴨長明の方丈記に描かれる無常、自然災害に翻弄される日本人の歴史的感覚を思い起こさせる面もあるが、他方、「災間」を意識することで、日常や歴史の繋がりをかけがえのないものとして、もう一度見直すこともできる。

「災間を生きる」ことを考え始めた建築家と住まい手の間には今、「くらしのパーツ」や「くらしの言葉」をなげかけ、手渡し合うような、新しい関係がひろがっている。それこそがこの10年に被災地と向き合い続けた多くの建築家の活動が「災間にくらす」今の私たちに残してくれたものではないだろうか。

最後に、能登半島の地震・津波で被災された方々が、安心した場所で未来のくらしに向けて歩み始められるよう、心より願っております。

(福屋粧子/能登半島地震による災害から1ヶ月後に東北・仙台にて)

★ 本記事を作成するにあたり参考としたアーキエイド出版物のPDFリンク

アーキエイド活動年次報告2011

アーキエイド活動年次報告2012

アーキエイド活動年次報告2013

アーキエイド活動年次報告2014

浜のくらしから浜の未来を考える

浜のくらしから浜のすまいを考える

牡鹿半島アーキエイドミニキャンプ2013

(アーキエイドのwebデータは、一般社団法人解散後は、2016年11月28日時点のページを国立国会図書館が保存しています)

その他、必要な方には、アーキエイド・レコードブック 書籍『アーキエイド|5年間の記録』のPDFデータを送付できます。

アーキエイドサマーキャンプ©️恋水康俊

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Shoko Fukuya
建築討論

Architect: AL architects office-al.jp, Professor: Tohoku Institute of Technology