山岳空間への招待

連載:山岳空間の近代(その1)

一色智仁
建築討論
Feb 23, 2022

--

〈眠り〉は土台としての場所との関係を復元する。横たわり、片隅に身を丸めて眠るとき、私たちはひとつの場所に身を委ねる — — そしてこの場所が、土台として私たちの避難所となる。
— エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』1947(西谷修訳)

建築を求めたこと──白山でのビバーク

2016年4月、福井・岐阜県境の白山(2,702m)で遭難しかけたことがあった。白山はその名の通り雪で覆われ、山頂で雲行きが怪しくなりはじめると、やがて雪になり、視界が閉ざされ方向を見失った。私は、低温のためか再起動を繰り返すスマートフォンのGPSを頼りに、御前峰、翠ヶ池をはじめとする複数のピークと火口湖が入り交じる火山地形の中をあてもなく彷徨した。ハイマツの踏み抜きに苦労しながら、どうにか下山予定であった尾根にたどり着くと、すでに日も落ちかけていた。そこで近くの丘の固くなった残雪にスコップで雪洞を掘り、マットと寝袋を潜り込ませ、風雪の一晩を過ごした。

写真1 ビバークの際に掘った雪洞(白山)[撮影:筆者]

後に、卒業論文で周辺の山小屋について調査した際、一晩を過ごしたこの丘が四塚山と呼ばれ、高さ2~5mほどの石塚が複数存在する場所であることがわかった(写真2)。石塚に一部使われている石灰岩は、登山口のハライ谷付近で採集されるものであり、かつての登拝者が長い年月をかけて積み上げたものであると考えられている★1。儀式の痕跡なのか、山頂の峰々の再現なのか、その目的は不明であるが、下山路を見出した遭難者と山頂を目の前にした信仰者、両者の場所が偶然に一致していた。

写真2 四塚山の石塚[出典:上村俊邦『白山の三馬場禅定道(白山山麓・石徹白郷シリーズ)』(岩田書院、1997)]

周囲にはほとんど建築が存在しない。3時間ほど下った先に奥長倉避難小屋があるが、かつて四塚山から10分ほどの距離に、「御手洗鉢小屋」という小さな建築があった。この小屋は、金沢営林署により1933年に建設され、1955年の修繕を経て60年代初頭まで一般に使用されていた★2。いま、その痕跡は残っていない。あのとき遭難しかけたのは、雪山登山の経験がほとんどなかった自分の未熟さによるものであった。しかしあのときほど、建築がここにあって欲しいと感じたことはなかった。

シェルターとしての建築──焼山の泊岩

1974年7月28日未明、新潟県頸城三山の一座、焼山(2,400m)で水蒸気爆発が観測された。早川では土石流が発生し、麓の農作物は大きな被害を受けた。火口から5.0kmほど離れた高谷池ヒュッテの宿泊者約150名は下山、さらに1.5km離れた黒沢池ヒュッテ(1966年竣工、吉阪隆正設計)の宿泊者約70名も無事であった。当初遭難者はいないと思われたが、8月2日午前、山頂から約300m下方の「泊岩」付近で、千葉大学園芸学部の学生3名の遺体が発見された。現場は噴煙が上がり危険であったため、遺体を発見した捜索隊は、一時泊岩に避難した。

泊岩に残された登山計画書から、三名は26日早朝に妙高高原駅に到着、笹ヶ峰国民休暇村から入山し、頸城三山を周遊する予定であった。彼らの遺体が発見されたのは、その上方約100mの地点であり、付近には火山弾の直撃を受けたテントや寝袋などの幕営道具が散乱していた。現場は悪天候のためヘリコプターが使えず、警察機動隊員、千葉大探検部員ら約30名が、2日21時から3日17時頃まで夜を徹して遺体収容作業を行った★3。

泊岩は、焼山山頂直下に位置する避難小屋で、その名称からも伺えるように建築というより自然物に近い(写真3)。岩窟を掘り込み、入り口を岩の形に合わせて器用にトタンで覆っている。小屋の周辺には「釜場」などの地名が残っており、かつて盛んであった硫黄採掘のために利用されていた。その後、地元の青年会が整備を行い、遅くとも1950年代初頭には一般登山者にもその存在が知られていた★4。

写真3 泊岩の外観(焼山)[撮影:筆者]

内部はトタンで壁と天井が貼られている(写真4,5)。中心へいくにつれ天井が低くなっていき、床には30cmほどの厚さの発泡スチロールが敷かれている。気密性は意外に高く、締め切った状態では結露が生じるほどだ。窓は三か所あり、それぞれ岩の裂け目へと通じているため、開けると風が通り抜ける。この分厚い岩盤に覆われた泊岩であったら、直径50cmを超える火山弾を防ぐことができただろうか。

写真4,5 泊岩の内観(焼山)[撮影:筆者]

一度は泊岩に立ち寄りながら、なぜ彼らはそこをあとにしたのだろうか。実は同日、付近にもう一組の登山者がいたのだが、その人もまた、泊岩下方の水場周辺でテントを張っている(噴火後、無事下山)。泊岩は、噴火に際し誰に利用されることなく、その目の前で三名の登山者を死なせることとなった。

山岳空間への招待──連載の方向性

求めてもそこになかった建築と、そこにあったが求められなかった建築。対照的に見える白山と焼山の出来事に、山岳において建築がもつ役割について考えさせられた。

これまでに筆者は、国内の山小屋を100件ほど現地調査した。COVID-19の影響もあり、必然的に人があまり行かない、静かな山域の小さな山小屋が中心となった。それら通常無人の小屋は、一般的に「避難小屋」と呼ばれている。一方で、北アルプスや富士山など人気のある山域では、管理人が常駐し、食事の提供や物販も行う山小屋、「営業小屋」と呼ばれるものが主流である。

こうした調査を通じて感じることは、「山小屋」(特に避難小屋)という建築の存在が人々に忘れられつつあるのではないか、ということである。窓の破損がそのまま放置され水たまりのできた小屋(写真6)、傷みが激しく進んで休泊しようと思えない小屋(写真7)、こうした管理上の課題はもちろんあるのだが、最も問題に思えるのは、山小屋がなぜ建設され、どのような人々によって継承されてきたのか、その歴史がほとんど明らかとされていないことだった。国内の登山者数は2009年をピークに減少傾向にあり★5、今後は多くの山小屋がその来歴も明らかにならないまま、人知れず消えていくことが予想される。

写真6 内部が水浸しになった大岳避難小屋(八甲田山)[撮影:筆者]/写真7 老朽化が激しいキビタキ小屋(守門岳)[撮影:筆者]

地形的、気候的に厳しい環境にある山岳に、人々はどのように空間を獲得してきたのだろうか。本連載では、山岳に人々が獲得してきた空間、「山岳空間」を主題として、その歴史の断片を紹介していきたい。建築学におけるこの分野の研究は数が少なく、営業小屋に関して北アルプスと富士山を中心に重要な蓄積があるものの★6、そのほかの山域はほとんど手つかずのまま残されている。空間を学問する建築学が対象としたのは、主に平地の都市・建築の空間であった。国土の約7割を占める山地の空間はその主題とされてこなかったのである。たしかに山岳空間はほとんど無人の土地である。その面積に比して注目が集まらないのはもっともなことかもしれない。

連載では、特に現地で見たことを重視したい。一般的に山小屋の寿命は短く、建設した次の年に雪崩で倒壊することも珍しくないが、それを取り巻く地形や気候条件などは劇的には変わらない。そのため私は現地調査の際、周囲の環境と山小屋の応答関係を注意深く観察する。めまぐるしく変わる建築と、変化が緩やかな環境の対比はいたるところで見られたが、山岳空間を見通す際に、地形と気候は重要な定点になると思われる。

またその視点は、広大な自然の中の極小の建築という、風景の問題とも関わってくる。比高数百メートルの谷や尾根という、平地では考えづらいスケールを持つ山岳空間の中で、山小屋はその規模の大小を問わず風景の一部となる(写真8)。この時、建築は地形のわずかな改変に過ぎないようにも思えるが、そこに感じられる人間の営為が、風景の意味を一新させる可能性があることも確かである。

写真8 頼母木山からみた朳差岳避難小屋(飯豊連峰)[撮影:筆者]

山岳空間は常に開かれている。山小屋の戸の鍵は、いつも登山者を受け入れられるよう、外に向かって開いているのだから。この連載を通じて、その魅力を少しでも伝えたい。そして、この無人の土地の無人の建築は、厳しい自然環境と闘いながら、今日も登山者を待ち続けている。(続く)

写真9 外側に鍵が付いたドア(早池峰山頂避難小屋)[撮影:筆者]

_

★1:上村俊邦『白山の三馬場禅定道(白山山麓・石徹白郷シリーズ)』(岩田書院、1997)、力丸茂穂『四塚山の積石塚』(1990)を参照した。
★2:日本山岳会『山日記』1934、1961年版を参照した。
★3:焼山噴火に関して、『新潟日報』1974年7月29日から8月5日にかけての記事を参照した。
★4:下平広恵『妙高・戸隠・野尻湖(マウンテンガイドブックシリーズ18)』(朋文堂、1960)を参照した。
★5:日本生産性本部『レジャー白書』2001、2010、2020年版を参照した。
★6:信州大学の梅干野成央准教授らの北アルプスの営業小屋を中心とした研究と、京都府立大学の奥矢恵准教授らによる、富士山や御岳山など山岳信仰が盛んであった山域を中心とした研究がある。また、いち早く山小屋と地形との関係に着目し研究を行った佐賀大学の平瀬有人准教授らは、五ヶ山クロスベース(2019竣工)や御岳山ビジターセンター(2022竣工予定)などの実作を通じて、ランドフォーム・アーキテクチャーの概念を提示している。

山岳書案内(参考文献)

参考文献として、いくつか山岳関連の本を紹介していきたいと思います。山に興味を持っていただくきっかけにしていただければと思います。

01-
日本山岳会『山岳』(1906-)
1905年に設立された「日本山岳会」の機関紙。1941年までは年2–3冊、戦後は概ね年1冊が刊行されている。その年の主要な山行記録をはじめ、山小屋に関しての記事も多い。現在、日本山岳会創立120周年記念事業として、すべての記事がデジタル化、HP上で公開されている。
https://jac1.or.jp/document/sangaku_back_number

02-
角田吉夫『本邦の山小屋に就いて』(共立社、1936)(南条初五郎編『山岳講座第六巻』pp195–251に収録)
『山岳講座』シリーズの第6巻に収録されたこの記事には、1930年代の全国の山小屋の写真約90枚が載っている。著者の角田吉夫は、山小屋のデータベースとして貴重な『山日記』(日本山岳会、1930-)の編集にも携わっており、当時の山小屋の状況を整理するのに最適な記事である。

03-
高橋信一『東北の避難小屋150』(随想舎、2005)
高橋信一『関東・越後の避難小屋114』(随想舎、2004)
東北と関東・越後の避難小屋250件余りを対象に、6年にも及ぶ現地調査を経てまとめられた労作。著者が現地で撮影した写真のほか、避難小屋の間取り図も載っている。刊行から15年以上経った今、すでに現存しない小屋もある中で、資料的な価値も有しはじめているといえる。
https://www.zuisousha.co.jp/book6/4-88748-125-X.html
https://www.zuisousha.co.jp/book6/4-88748-095-4.html

--

--

一色智仁
建築討論

いっしき・ともひと/1997年生まれ。2018年国立明石工業高等専門学校卒業、東北大学工学部編入学。現在、東北大学工学研究科博士後期課程在籍