映像の山小屋

連載:山岳空間の近代(その5)

一色智仁
建築討論
Nov 2, 2022

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二つの撮影隊

1920年代は国内の主要な山々の冬期登山が試みられた時代であった。その武器となったのは連載第2回で見たスキーであり、福島県五色温泉や新潟県妙高山麓、北海道札幌近郊がその拠点として広く知られた。ここで当時の山岳空間の状況を知るために、国内における山岳スキーの第一人者であった板倉勝宣の足跡をたどってみよう。学習院の学生であった板倉は五色温泉を中心にスキーの練習を行い(第2回参照)、1919年3月には北アルプスに入り積雪期槍ヶ岳登頂を射程に入れるなど、すでに卓越したスキー技術を習得しつつあった。北海道帝国大学★1に入学してからは、1922年1月に大雪山旭岳の冬期初登頂、7月に槍ヶ岳北鎌尾根登攀など、着実に実績を重ねた。

山岳スキーの第一人者と目されるようになった板倉であったが、1923年1月17日に立山の松尾峠にて、悪天候のなか遭難死する。立山温泉から入山し、室堂、一ノ越を経て、立山山頂をうかがう山行の下山途中であった。同行していたのは、1921年9月にアイガー東山稜の初登攀を成し遂げた槙有恒(槙文彦の叔父)、1922年3月に立山・剱岳を冬季初登頂した三田幸夫で、いずれも大学山岳部に所属する当時国内トップクラスの登山家であった。のちに日本山岳会会長を務めることになる両名を含めた遭難事故は、山岳界に衝撃を与え、大正期の厳冬期登山の難しさを物語る出来事となった。またパーティには遭難の前日まで、人夫10名と活動写真撮影技師2名がついていた★2。

その約2か月後に板倉遭難の地を弔った一行があった。名古屋の実業家、伊藤孝一が率いる登山隊である。尾張藩御用商人京屋吉兵衛の七代目であった伊藤は、莫大な不労所得をバックに多彩な趣味を持ち、登山はその一つであった。彼らもまた、積雪期登山の記録映像を撮るべく、同年1月から準備を続けており、大町-針ノ木峠-平-立山温泉-富山を結ぶ厳冬期黒部渓谷横断を目標に掲げていた。当初は長野県大町側からの踏破を目指し、2月末に大沢小屋を拠点に7日間粘ったが、荒天のためそれ以上進むことはできず、3月上旬には一転して富山県側からのアプローチを目指した。同行したのは大町對山館の百瀬慎太郎、燕山荘の赤沼千尋、撮影技師と人夫を含む総勢20名であった。

写真1 大沢小屋と撮影隊(出典:参考文献1)

学閥と商人

同年の厳冬期に立山山域にて山岳映画の撮影を行った二つのパーティは、いくつかの点で対照的であった。一つは建築に対する見方である。板倉らは立山温泉を拠点にしつつも、山上では露営が基本であり、天候が悪化してからも立山室堂へはわずかに休憩したのみであった。一方の伊藤らは、事前に山小屋の位置や積雪による埋没状況などを入念に調べ、大沢小屋、立山室堂、平ノ小屋など複数の建築を拠点に、天候や雪面の状態を見ながら慎重に進んだ。またその出自も異なり、板倉ら三名は大学山岳部に所属する知的エリート、伊藤ら三名は実業家や地元の名士たちであった。第2回で見たように、大正期の登山活動は一部の上流階級の人々が主なアクターであったが、ここで大学山岳部と地方資産家という二つのグループを対比的に見ることができる。戦後になり、前者が日本山岳会会長や海外遠征などを通じて登山史の主流に躍り出るのに対して、後者は主に山小屋経営や登山道整備を通じて登山の大衆化を陰から支える存在となる★3。

本連載の観点からより注目されるのは後者の動向である。3月7日に立山温泉から入山した伊藤孝一一行は、約2週間かけて立山雄山登頂、黒部渓谷横断、針ノ木峠を越え、一人の死者を出すことなく大町に帰還した。撮影したフィルムは伊藤自ら編集し、松本、金沢、大阪、東京などで巡回上映、宮内庁にも献上された。「雪の立山、針ノ木越え」として知られる一連の映像は、のちに山岳ドキュメンタリーの先駆に位置付けられることになる★4。伊藤は「雪の立山、針ノ木越え」の成功を経て、翌年にはより大規模な山岳映画の撮影をおこなった。1923年11月末から24年4月末にかけて記録された「雪の薬師、槍越え」である★5。前年と異なり、積雪期に利用可能な山小屋がほとんどない山域の撮影にあたって、伊藤は新たに3軒の山小屋と1軒の掛小屋を奥黒部山域に建設した。

写真2 黒部川を「籠渡し」で横断する(出典:参考文献1)

映像の山小屋

撮影準備は夏から始まった。伊藤は薬師岳山麓の有峰集落の家屋を借り上げ、撮影のための荷揚げ、および小屋建設の拠点とした。1921年に有峰集落はダム建設のため解村しており、この時撮影された映像は集落の最後の姿を映したものとして資料価値が高い。伊藤は芦峅寺総代の佐伯静に20万円を手渡しており★6、荷揚げや小屋の建設には芦峅寺集落の人々が協力したと思われる。有峰を拠点に建設された山小屋は、麓から順に「真川小屋」「上ノ岳小屋」「黒部五郎小屋」の3棟、そして薬師沢の掛小屋である。小屋の建設には富山営林署の許可が必要であり、建設が認可されなかったと思われる薬師沢の掛小屋は使用後焼き払われた(写真4)。また映像には上ノ岳小屋の建設の様子が記録されており、木材の伐採・刻み作業、六尺程度の資材を担ぎ山道を運ぶ人夫、材料が積まれた建て方前の現場など、いずれも貴重な姿を見ることができる。

それぞれの小屋はおおよそ一日行程の距離に立地していた。「真川小屋」(写真5)は最も大規模で、約3か月に及ぶ撮影登山のうち約40日近くをこの小屋で過ごしていることから、前進基地的な性格を持っていたと考えられる。「黒部五郎小屋」(写真6)は黒部五郎岳と三俣蓮華岳の鞍部に位置し、今回建設された山小屋の中で最も奥に位置する山小屋であった。映像には、雪から掘り起こされた小屋の姿(写真7)、小屋の窓から薬師岳の遠望が映されている(写真8)。この小屋は薬師岳と槍ヶ岳のちょうど中間にあり、縦走する上で欠かすことのできない山小屋であった。その地理的な重要さから、所有者を変えながら現在も同じ場所に山小屋が建つ★7。

写真3 薬師沢の掛小屋と天幕(出典:参考文献1)
写真4 焼き払われる薬師沢の掛小屋(出典:参考文献1)
写真5 真川小屋を出発する一行(出典:参考文献1)
写真6 雪に埋もれた黒部五郎小屋(出典:参考文献1)
写真7 掘り起こされた黒部五郎小屋(出典:参考文献1
写真8 黒部五郎小屋の窓越しに見る薬師岳(出典:参考文献1)

この動画は上ノ岳北方稜線の肩(2576m)に建つ冬の上ノ岳小屋を映したものである。

映像からは窓越しに映る笠ヶ岳、スキーを履く一行の姿をみることができる。そしてその背後には、卓越風方向に発達した「霧氷」に覆われた上ノ岳小屋の特異な姿が映されている。凍れる建築となった小屋の姿は、当時の登山者にも特徴的に記録されている。

小屋は、白き花を以て大なる模型したように雪は付着し、実に美麗であった。

— — 亀岡清一「眞川と上ノ岳」1923.11.26–12.15(参考文献1収録)

日光はきつかりと刺すやうに賤ぎかかって、不思議な形に氷結した小舎のすがたを、現し世には見られない程鮮やかな冴えた明暗の中に浮き立たせた。

— — 榎谷徹蔵「雪の上ノ岳へ」1923.12.25–1924.1.4(『山岳第17年第3号』1924.5収録)

北海道帝国大学の中谷宇吉郎が十勝岳中腹の白銀荘にて雪の結晶を研究する約10年前、日本雪氷学が未だ確立されていない時代において、小屋に付着した氷の造形は単純な驚きをもって登山者の目に映ったようだ。霧氷とは氷点下の霧が障害物に当たり付着する氷のことで、しばしば「エビの尻尾」とも呼ばれる★8。冬季利用を計画する山小屋にとって霧氷の影響は大きく、出入口を風上側に設けた場合はアクセスに苦労することがある(写真9)。一方で、風下側は吹き溜まりによって埋没することが多々あるため、山小屋の設計には風の向きを読むことが欠かせない。上ノ岳小屋は、出入口が冬季卓越風に対して平行の南向きに取られており、霧氷や埋没によって戸が開かないという問題は少なかったと思われる。

写真9 冬季出入口が霧氷に覆われた門内小屋 (筆者撮影)

上ノ岳小屋は登山史上著名な山行においても登場する。新田次郎の小説『孤高の人』(1969)で知られる加藤文太郎の厳冬期薬師岳―烏帽子岳単独縦走という驚異的な記録は、真川小屋、上ノ岳小屋など伊藤が建設した小屋を十分に活用して成し遂げられたものであった。

上ノ岳の小屋は風のため、大部分露出していた。初め西側の窓から入って、南側の戸を内から開けて荷物を入れた。小屋の中は一尺くらい雪が積っていたが、雪は締っていて靴に着かず気持がよかった。寝床は二階にした。

— — 加藤文太郎「厳冬の薬師岳から烏帽子岳へ」1930.12.30–1931.1.8(『単独行』1936収録)

また撮影の傍らで、伊藤自身も積雪期上ノ岳初登頂(1923.12.5)、厳冬期薬師岳初登頂(1924.2.4)、真川―黒部五郎岳 — 槍ヶ岳積雪期初縦走(1924.3.31–4.21)という登山史に残る記録を残している。そして小屋はすべて伊藤自身が設計したものであった(図1) ★9。伊藤は撮影者、登山家、建築家として奥黒部山域に大きな足跡を残した。

図1 真川小屋の平面図 (出典:参考文献1、『大正拾弐年、山小屋建設指図書面、及真川、上ノ岳、五郎、槍、燕、紀行』収録)

上ノ岳から太郎平へ

上ノ岳小屋は4度の移動を経て現在の太郎平小屋(写真10)の前身となった。最初の移動は1932年のこと、芦峅寺の酒井範一、志鷹範次兄弟によって伊藤の上ノ岳小屋が解体され、約200m下方の太郎平へと移築された(写真11)。かたちが同じことから、資材などはほとんど再利用されたと思われる。この小屋は戦時下に荒廃し、最後は屋根だけになりながら登山者に利用されていた。次の移動は1955年、五十嶋文一が旧小屋跡から50mほど下方に、2間半×4間半の簡素な小屋を建設する(写真12)。建築には富山営林署と当時の国立公園行政を担っていた厚生省への許可が必要であった。しかし、この小屋は風の影響を考慮して稜線より風下側へ建てたため、吹き溜まりの雪圧によって一冬で倒壊した。そして翌年には旧小屋跡に新たな小屋が再建された(写真13)。さらに翌年の有峰ダム建設に伴う車道の延伸と共に新たな登山道が開通したことで、1958年に現在の場所に移転した(写真14)。

写真10 現在の太郎平小屋 (筆者撮影)
写真11 1940年頃の太郎平小屋 (出典:参考文献2)
写真12 1955年の太郎平小屋 (出典:参考文献2)
写真13 1956年の太郎平小屋 (出典:参考文献2)
写真14 1958年の太郎平小屋 (出典:参考文献2)

以上の変遷より、風や雪、登山道の変化に応答し、徐々に建築適地を探り出していく上ノ岳小屋の姿を見ることができた(図2)。このとき山小屋は、繰り返し自らを定位し直す「動的」な存在として捉えることができるだろう。こうしてみると伊藤の映像は、山岳空間において人の居場所を確保するために揺れ動く建築の一瞬間を映したものとして見えてくる。

図2 上ノ岳小屋から太郎平小屋への変遷 (国土地理院五万分の一地形図「槍ヶ岳」「東茂住」(1911年測図1930年修正測図)を加工して作成)

現在の太郎平小屋は夏山診療所が併設され、一帯の山域の遭難救助の拠点として機能している★10。上ノ岳小屋跡は富山県[立山博物館]の調査などにより特定され、現在もわずかに石垣が残る(写真15)。今回中心となった上ノ岳小屋及び太郎平小屋は「営業小屋」に分類されるが、実は「避難小屋」との区別はもともとはっきりあったわけではない。それは1950年代以降に山岳空間全体を通して徐々に表れてきたものであった。次回は連載初回に立ち帰り、避難小屋に焦点を当て、山岳において建築が持つ役割について再び考えてみたい。

写真15 現在の上ノ岳小屋跡、映像で窓越しに撮られた笠ヶ岳を奥に望むことができる(筆者撮影)

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謝辞

調査にあたり富山県[立山博物館]、中日映画社、五十嶋博文氏の協力を得ました。また映像使用に際してJST 科学技術イノベーション創出に向けた大学フェローシップ創設事業(JPMJFS2102)の支援を受けました。ここに記して感謝いたします。

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山岳書案内

12-田部重治『山と渓谷』第一書房、1929

田部重治は富山県出身の英文学者で、幼いころから有峰集落の伝説を聞かされてきたという。登頂そのものより登山の過程に重点を置き、自然を征服するよりも自然に親しむという立場から、「静観派」の一人として知られる。本文に収録されている「薬師岳と有峰」(1909)は、同年の辻本満丸のものと並び、最初期の薬師岳登山の記録として知られる。木暮理太郎と共に奥多摩・奥秩父の山々を探検し、その魅力を広めたことでも知られ、表題の「山と渓谷」は現在に続く登山雑誌の名前の由来になった。

13-大日本山林会『山林』大日本山林会、1882-

国内で最も古い林業団体である「大日本山林会」の会誌。かつての造林作業は泊りがけで、全国各地の造林小屋が登山者にも開放されていたことは『山日記』の記録にも明らかであるが、会誌を見ると、特に戦前において営林署が登山道や山小屋などの登山施設を設置していたことがわかる。かつて入会で管理されていた森林の国有化、国立公園制度との関係など、山岳空間の歴史の中で森林行政は大きな役割を持っていると思われる。

http://sanrin.sanrinkai.or.jp/#list_nav

14-伊藤正一『定本黒部の山賊』山と渓谷社、2014

戦後の混乱期に伊藤正一が三俣山荘を営業するなかで、「黒部の山賊」と呼ばれたユニークな人々との交流を描いたルポタージュ。終戦直後の山岳空間の様子を知る資料は数少なく(『山日記』『山岳』ともに休刊中)、当時の北アルプスの無法地帯ぶりを感じられる貴重な記録であるといえる。また湯俣川沿いに三俣山荘へ直登する「伊藤新道」を開削したことでも知られ、現在は廃道となった伊藤新道を復活させるプロジェクトが進められている。

https://camp-fire.jp/projects/view/589526

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参考文献

1. 富山県[立山博物館]編『山嶽活寫 : 大正末、雪の絶巓にカメラを廻す』2005
2. 50周年記念誌編集委員会編『太郎平小屋 : 50周年を迎えて』2004
3. 赤沼千尋『山の天辺 : 北アルプス燕山荘物語』1986
4. 冠松次郎『立山群峯』1929
5. 五十嶋一晃『越中薬師岳登山史』2012

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★1北海道帝国大学では1908年にドイツ語教師ハンス・コーラーがスキーを持ち込み、1911年9月に文武会スキー部が発足するなど、本州とは独自にスキー文化が発達していた。

★2板倉が創刊に関わった雑誌『山とスキー』の第26号(1923.5)において、槙有恒によって遭難の経緯が詳細に記録されている。

★3赤沼は「燕山荘」「大天荘」「合戦小屋」、百瀬は「大沢小屋」「針ノ木小屋」の経営に携わる。北アルプスは複数の山小屋を同一の経営者が所有・管理する例が多い。燕山荘本館(1934年竣工)は今井兼次、高橋貞太郎の設計として知られ、森西和佳子,貝島桃代「燕山荘の変容にみる山岳レジャー建築のデザイン」(日本建築学会大会学術講演梗概集, 2021.9)で実測と増改築の変遷が調査されている。

★4同時期にドイツではアーノルド・ファンク「スキーの驚異(Das Wunder des Schneeschuhs)」(1920)、アメリカではロバート・フラハティ「極北のナヌーク(Nanook of the North)」(1922)が撮影されている。

★5「雪の薬師、槍越え」は伊藤が生前に公式に発表した映像作品ではなく、1965年に赤沼家で未編集フィルムとして発見されたものを、2000年に富山県[立山博物館]、中日映画社が編集し作品化したものである。

★6参考文献3を参照した。

★7戦前は富山営林署が所有していたが戦中に倒壊し、1962年に伊藤正一(三俣山荘)が再建する。現在は双六小屋グループが所有・管理を行っている。

★8特に樹木に発達したものは「樹氷」として知られる。

★9伊藤孝一による図面が残されているものの、現物は閲覧できなかった。

★10太郎平小屋オーナーである五十嶋博文氏は、1973年1月の愛知大学山岳部の薬師岳遭難事故(13名全員が死亡)の遭難救助に当たり、遭難者の父親らによる最後の遺体発見の現場に居合わせた経験を持つ。取材時も赤木岳付近で一名身動きが取れない登山者がいるとの連絡が入り、関係者が迅速に対応していた。

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一色智仁
建築討論

いっしき・ともひと/1997年生まれ。2018年国立明石工業高等専門学校卒業、東北大学工学部編入学。現在、東北大学工学研究科博士後期課程在籍