中越地震以来の経験知を能登半島地震へ

震災の経験を聞く―06│実務者・研究者│長谷川順一

岡佑亮
建築討論
Apr 12, 2024

--

能登半島地震の発生から間もない今、これまでの知見を集め、使える知識としての共有を目的に、建築討論では連載「震災の経験を聞く―これまでの試行錯誤の共有知」を立ち上げます。
東日本大震災、熊本地震と重なる震災を経験した10年。すでに多くのプラクティスが存在します。そうした経験はネットや書籍や報告書、ウェブサイトなどで参照できる状態にありますが、そうした貴重な経験に効果的にアクセスできる共有知として本サイトに掲載していきます。4ヶ月で12人の記録を実施予定です。

第5回目は実務者・研究者の長谷川順一さんへのインタビュー「中越地震以来の経験知を能登半島地震へ」です。

話し手:長谷川順一(建物修復支援ネットワーク)
聞き手:岡佑亮(チドリスタジオ)、山本周(
Shu Yamamoto Architects)、本橋仁(金沢21世紀美術館)、山田宮土理(早稲田大学)

本橋仁(以下、本橋):初めまして、本橋仁と申します。金沢21世紀美術館でキュレーターをしています。専門は建築で、今同席している山田宮土理さんと一緒に建築学会のウェブメディアに関わっており、その編集長も務めています。今回の能登半島地震をきっかけに、様々な災害において長期にわたって活動されてきた方々にヒアリングの機会を設け、今までの経験や今後の展望、そして発生した失敗についても含め、記録に残すことが、今後のために有益だと考えています。

岡佑亮(以下、岡):初めまして、金沢でチドリスタジオという設計事務所をしている岡と申します。少しずつ能登の状況が明らかになってきて、何か自分にもできることがないか考えていました。すぐに行動に移せることではないかもしれませんが、中長期的な支援を考えた際に、こうした記録が自分や他の能登に関わる人々にとって学びとなる活動を行えれば良いのではと考え、震災直後から山本周さんや本橋仁さんと相談しながら、こうした取り組みに至りました。

山本周(以下、山本):山本周です。私も金沢で設計事務所をしていて、去年の地震の際に、輪島の萩野紀一郎さんが珠洲の飯田町の方でいくつか構造補強されているお仕事があって、そのインタビューをしました。去年の地震では自分は何もできなかったなと思っていて、次に地震が起きたときに何が備えられるだろうと考えている中で、今回地震がありました。こうやって学びの場を設けて、数ヶ月先に必要とされたときに、きちんと動けるよう、また、頼る相手を増やして、みんなで力になっていければという思いもあって参加しています。

本橋:長谷川さんは既に能登の震災支援に動き出されていますが、これまでのご経験も踏まえ、現在の能登の状況や思いなどについてお聞きしたいです。

長谷川順一(以下、長谷川):結論から言いますと、志のある人や被災者の気持ちを理解しようと努められる人は、一刻も早く能登に向かってほしいと思います。なぜなら、水害や積雪、通行困難などの理由から、次々と排除されていく建物がたくさんあるからです。地震で壊れた痕跡も次第に消えていきます。例えば、柱に両側から差し鴨居が取り付けられ、竿がありシャチ栓で留められている部分などがどのように壊れていくのか、そうした詳細が見えなくなってきます。もしお気持ちがあるのなら、一緒に行動しましょうということを、お話を聞いて思いました。実際私は明日から高岡に入り、倒壊していない建物を中心に調査を行う予定です。日本の伝統建築が衰退する中で、現地に行って今後どのように対応するかを模索共有しながら、自身の災害時支援の方針を検討していくことも重要だと考えています。

私の自己紹介をしますと、元々法学部出身で、一旦会社勤めの後建築の世界に入りました。1986‐1988年にかけて海外駐在となり欧州アフリカの建築を見る機会があり、その地の風土の素材を用いた建築に興味を持ちました。同時に、日本の建築が地域性と無縁で混沌としていることに気づき、自らのキャリアを路線変更することにしました。それは28歳の時でした。木造住宅メーカーの営業職から入り、その間に阪神淡路大震災が発生し、木造建築の危険性が指摘されました。私も住宅メーカーに勤務しながら、お客さんに木造の建物を提案してきましたが、阪神淡路大震災によって、それが否定されるような懸念を覚えたことは今も忘れません。その後、2004年の新潟中越地震が発生し、自らの足元で地震が起こったことにより、何とか動かざるを得ないと感じた。それから私は、被災地での相談会を開催するなど、実際の支援活動を行うようになりました。

降雪期目前の震災にボランティアで様々な取り組みが行われた
(2004年11月・小千谷市)
山古志地区の仮設住宅集会所で行った、被災建物修復説明会は震災8ヶ月後だった
(2005年7月・長岡市)

それで、中越地震での被災家屋の修復の取り組み内容をまとめていたところに、2007年3月の能登半島地震、7月の中越沖地震がありました。能登輪島には門前町まちづくり協議会があり、そこに呼ばれて行ったという形で、私も現地で被災家屋の修復相談会をやりました。そこからが、本格的な取り組みになったと思います。その相談会を、門前町のまちづくり協議会のお一人である武藤清秀さん(むとう設計・金沢)が、ご自分なりにカスタマイズしたうえで被災者相談を続けていき、その活動の後半、国土交通省から助成金を受けて、全壊住宅の修復モデルを創るということまでやり遂げられてます。そんな流れをみて、これまで動いてきたことに意味があったと実感しました。最近は水害も多いですが、災害の現場はほぼ必ず出向いて、修復説明会・相談会というスタイルで、個々に現地を回りながら相談を受けるという活動を続けています。

2023年の奥能登地震でも同じような相談会をやったんですが、70人満席の会場で、大工さんが1人もいなかったんです。通常、大工さんも混じって話をするんですが、よく聞くと現地は多くの大工さんが金沢の方に出ていて、地元にいないという状況でした。こちらがいくらこうやって直せると話をしても空手形で終わってしまうという危惧もある。異例な形ですけども、修復の現場対応も含めて、大工さんと被災者の方を結びつけるということもする必要から珠洲市へ通い続けました。

建物修復支援ネットワークは、今のところ協力をいただいた地元の建築士さんや、過去にノウハウを共有した工務店さんも含めて40人ほどのメンバーで構成されています。

本橋:主に活動は北陸だけではなく、災害があったら遠方でも行っているのですね。

長谷川:はい。私も忙しい時期には行けないこともありますが、その際はネット上で情報を発信するだけということもあります。建物修復支援ネットワークのブログページには、2005年以降の活動の記録が残っています。主な災害としては、2004年の中越地震、2007年の能登と中越沖地震、2011年の東日本大震災、2014年の長野神代断層地震、2016年の熊本地震、2018年の北海道胆振東部地震などがあります。とくに地震災害の現場には最低一回は足を踏み入れることを方針としており、現時点では実現しています。

熊本地震後初めて行われた、県建築士会主催による「被災建物修復説明会」
(2016年5月・熊本市)

「建物修復支援ネットワーク」の活動変遷

岡:最初の中越地震では、長谷川さんはどのように活動を始められたのでしょうか。

長谷川:最初は建築士会や新潟県の森林組合連合会が主催する「越後にいきる家をつくる会」の相談会に参加しました。そういう相談会も2~3か月続けるうちに、説明相談員の方が来場者より多くなっちゃって、朝9時から午後5時まで、こうやっていてもしょうがないなっていう状況がありました。そこで建物の修復をテーマにした相談会を開催することになりました。最初は人が集まるか心配しましたが、20人ほどの方々が参加してくれました。その後、小千谷、川口町、小国町、旧山古志村を回りながら、地域の様々な住まいの課題に取り組んでいきました。その3年間の経験と知見をまとめていたところ、2007年能登半島地震が起きたんです。能登半島地震で説明会をする際に、活動組織の名前も必要だったし、寄付をしたいって言ってくださる方もいました。私が中越以降3年間まとめたものを発信するということで、それが一つの経験知となって次の人たちに共有されるのであれば、それをメインのタスクにしていこうと思いネットワークを立ち上げたのが2007年。建物修復支援ネットワークの設立です。

山本:2007年に輪島の萩野さんが市役所で民間の窓口を作って、応急危険度判定で赤紙判定を受けた方に「まだ再生できる可能性がありますよ」と助言をしていたと聞いていたのですが、建物修復支援ネットワークと繋がりはあったのでしょうか。

長谷川:萩野さんたちの輪島での活動も私たちの活動を受けて行われたのではないでしょうか。当時、我々の活動はTV・新聞などのメディアで取り上げられ、地域の反響がありました。萩野さんや水野さんといった地元の方々との連携も実際ありましたし、私は地元の関係性を大切にしながら、脇からサポートを提供していました。萩野さんたちもまさに地元発の取り組みを行い、輪島の土蔵修復活動を始めました。能登は過疎地であり、それが災害によって顕在化したとき、住み慣れた家を修復することが重要だということに多くの人々が気付きました。 また、2023年の奥能登地震でも、萩野さんと共働もしました。だけど、距離的なハンデもあってなかなか動いてくれる人が入りづらい。輪島は志賀町、門前町を通っていくと案外早いんですよね。だけど、珠洲はそれプラス往復100kmの距離感です。そんな状況もあって、萩野さんも時間距離的に相当厳しいなか取り組みをされたんじゃないかと思います。

岡:なぜ最初に門前町で活動を始めたのですか。

長谷川:ひとつは町として非常にはっきりとした顔があったからですね。曹洞宗の本山である總持寺があって、目の前にある門前町の商店街は、端から端まで歩いて15分ぐらいの距離感で、その中でバタバタと倒れた建物もありましたし、辛くも残ったというものもありました。初めての取り組みでしたから、あまり網を広げすぎても効果が得られない場合もあるし、たまたま門前町にはまちづくり協議会もあった。その後、武藤さん、川端さんらが本格的に取り組みを始められました。

一方で、輪島市鳳至町の大崎庄右エ門さんという塗師屋さんがあるんですけど、そこも結構大変な状況にもかかわらず、その方は地域のまとめ役でもあったので、萩野さんたちは大崎さんを中心にしながら近傍の土蔵をケアして回ったり、実際ワークショップ形式で直したりということに取り組まれてました。そうして拠点のエリア分けができちゃったのも、門前町に決めた理由の一つでもあります。

岡:この門前町の活動で、武藤さんと協働されたんですよね。

長谷川:はい、武藤さんが引き継いでくれたという形です。その後も必要な助言を求められたときには、こちらも応じました。門前町での取り組みが報告書国土交通省向けの報告書をまとめるまでになったのも、少なからず初動の我々との協働があって、この活動の意義がステレオタイプで見えてきたからだと思います。この「全壊家屋の修復活動」が国交省の補助金の対象になったのは、当時としては非常に珍しいことでした。それまでの支援の主流は、建物を取り壊して新しいものを建てることでしたが、私たちは修復に焦点を当てて費用や安全性を検証し、建物を使える状態にすることを目指しました。今回の珠洲・能登の被災を見ても、伝統的な建物が大きな被害を受けています。これでいけるだろうという形で修復をされた建物にも被害があって、再生・再建に向けてどうするかということは非常にタッチーな状況ではあります。 だからこそ、信頼できる関係のもと、地域内外の専門家や建築家を巻き込んで検証することが必要なのです。

2007年震災直後は新潟中越からの情報共有で、門前町總持寺周辺地区まちづくり協議会が動いた。
(2007年4月・門前總持寺前)
2007年の震災時に持ちこたえた旧角海家住宅
(2007年4月・輪島市門前町黒島)

制度に対して、積極的に改善要望の声をあげる

岡:長谷川さんが能登で活動する場合、遠方からの支援になりますが、そこでの関わり方や役割について、うまくいった点や改善すべき点はありましたか。

長谷川:我々の関わりは、2007年の経験が、すべての試行錯誤の最初のステップだったと言えます。他の地域に外から関わる際には、その地域性やニーズに気を配りました。能登半島地震では中越地震の際に得られた映像データ情報などは、門前まちづくり協議会の皆様にはすべて自由に使っていただきました。各専門家が自分の方法で進めることに対して、私たちは口出ししませんでした。質問があれば答える、というスタンスを取りました。

また、公的支援制度も重要です。建物修復に必要な資金の調達方法などがその例です。罹災証明が出され、国の支援金が300万だ700万円だと言われていますが、それが実際の修復費用と比較してどうなのか?「身の丈に合った修復」っていうものがある意味必要で、そこでは耐震性の絡みはやっぱり重要視していかなきゃいけないし、予算配分をどうするかなんてこともあったりする。能登半島地震や中越沖地震の経験から、制度の改善が必要だと感じました。当時の国の制度では、建て替えに対しては生活再建支援金が出ても、修復には支援金が出ないということもあり、そういうことに関しての是正も求めました。 色々な反省会みたいなことがあってもよかったと思います。建築をやる人はそれなりに自負心、競争心があるので、なかなか和やかにとはならない部分もありましたし。

本橋:先ほどのお話だと相談会を開催して、修復の可能性に疑問を持つ人たちが積極的に来ます。解体か修復か悩んでいる所有者に対して、積極的に修復を働きかけることはあるのでしょうか。

長谷川:「修復可能」という言葉は、お金さえかければできるという意味もありますので、慎重に使わなければなりません。その言葉が、被災者の気持ちを支えるかどうかも重要です。被災者は大変な状況にありますので、その言葉が彼らに希望を与えるかどうかが問われます。文化財的な価値があるとしても、資金的にもその後の保全にも耐えられない状況では意味がありません。
熊本では震災から8ヶ月後に、震災復興基金から登録有形文化財としての要件を満たすであろう建物は3分の2を補助するという話が打ち出されました。そういう状況にまでなってくると、復興に向けた空気は和らいできますけど、そこまで持ってくるまでの道筋は決して平坦ではありませんでした。ある相談者で、熊本市の指定文化財を持っている所有者の方は、4月に地震がきて7月までの3ヶ月間、指定文化財でさえ文化財課の人は見に来ないと言っておられました。この問題には「指定文化財○○家を守る会を立ち上げて、そこから市に伺い状を出しましょうと提言しました。同時にまた、他の文化財級の建物の所有者にも声を上げてもらうと良いと思い、益城町、甲佐町、宇城市など、いくつもの市町で歴史的な建物の相談を受けている中で、同様の請願を上げる動きをしてもらいました。住民の声をもとに各市町から伺いを県に出すことで、県も腰を上げざるを得ないとなったのが12月でした。「災害は一つとして同じものはない」ということをいつも言うんですけど、そういう中で災害時の法制度というのは決して硬直的ではなく、あと付けでも理由をつけてでも改変できるものだということも、中越地震のときから度々経験していました。有名な話かもしれませんけども、中越地震では神社を直すのに復興基金から補助金が出たんです。実はこれが出るようになるきっかけが山古志村でのことでした。被災家屋の相談会をやり、雪も消えてやっと現場に行けるねって見て回ったところ、潰れた神社も見たんです。雪の上にソフトランディングしてくれたこともあって、屋根がそっくり生きていた。柱は折れていましたが外れた組み物はそっくりしていた。この修復をきっかけに、地域みんなの心が一つにまとまったんですね。山古志村はなかなか帰るには厳しい状況でしたが、その神社を直すっていうことをきっかけに集落が再生されるきっかけになった。それが県の耳に入り、「神社を直せば村民も元気になる」そういうことなら何とかしようじゃないかということで神社をコミュニティ施設という位置づけにした。通常なら神社には、政教分離の原則からして公金を出すということはない。この基金の中で、3/4の補助率でお金が出るようになった。その後各地で鎮守様の再建っていうのが、ある種地域の気持ちを一つに束ねるみたいな形でブームとなった。そういう制度メニューができるのは災害ならではのことですよね。 一方でお寺はいろいろ宗派とかがあって難しいんですけど、その後、各地の被災神社の修復に関しては、コミュニティ施設という読み替えでもって補助金を出すような制度の流れが起こってます。何かそういう意味で、既存の制度の枠の中でやろうとしても無理なことを、制度の方が現状に寄り添うことで、不可能を可能にするのです。今回の能登もはっきり言ってそれなくしての復興は難しいと思います。
2023年の地震後今回地震の前7ケ月、珠洲で取り組んだ中で一番大変だったことを端的に表すのは、職人さんを金沢、高岡から呼んできても、応急修理でさえ7割止まりだったということでした。もっとひどい数値は、公費解体の進捗率は9%という数値でした。公費解体に応札してくれる業者がいないからです。潰れた建物の撤去はしたけども、他はほとんど進んでいなかったという状況です。今回の地震では、どれだけの数の建物が対象になるのか。それを考えると、職人さんをどういう形で導入していくか、場合によっては全国の団体組合なんかに依頼するにしても、作業場も宿もないような状況で、どこまで建物の再建が進むかってことを考えると、どれほど大変な状況かは察しがつくかと思います。

震災と雪害で圧壊した神社は、焚き上げられる寸前のところで、現地調査中の我々の目に留まった
(2005年7月・長岡市山古志池谷)
神社の修復提案と現場での動きが、集落の人々が帰村する元気を取り戻すきっかけになっていった
(2005年9月・長岡市山古志池谷)
神社修復をコミュニティ施設の再建と位置付け、
復興基金助成の対象とするきっかけとなった池谷八幡神社
(2005年11月・長岡市山古志池谷)

これからの活動について

岡:去年の地震での解体が進まない中で、また今回の群発地震が起きてしまい、悪循環が続いている状況ですね。

長谷川:ある意味去年の地震後7ヶ月間の取り組みが、能登全域で行われることを考えたときに、何を優先して取り組まなきゃいけないかというのはある程度見える。それが一つ大事なところかと思いますね。

岡:次回の相談会は高岡ということで、今建物が潰れていないところから順番に見ていこうとする意図としてはどういったことがあるのでしょうか。

長谷川:もちろん、潰れたところも見ます。ただ潰れていない建物の方が、かすかな損傷とか、その損傷の原因は生物劣化なのか、職人さんの技量の未熟さによって起こったのか、想定外の揺れが長く続いたことによる疲労が起こったのかが比較的見えやすい。耐力の低下っていうのをみんな言ってるんだけども「耐力の低下って何?」っていうところを誰も現地を見て説明してくれる人は今のところいない。そこら辺はやはり専門家として、深く懐に入っていく余地はあるんじゃないでしょうか。建築専門家グループですと言って、被災建物の様子を見せていただくことはできますか?っていうのは、悪いことではないと思います。勇気がいることですが・・・。昨日も全然見ず知らずの方の相談に乗って建物を見せてもらって状況を説明したら、最後は笑顔になってましたね。

山本:今後、能登あるいは金沢市内の古い住宅や町家の相談を受けた時に、本当にそれは大丈夫か、今回は耐えたけど、次に大きな地震が来たら大丈夫なんだろうかっていう漠然とした不安もあります。何をどう補強や応急処置をしていくのか、そもそも経験とか知識がないというのが正直なところですけども、これからどういった知識を身につけた方がいいのかを教えていただきたいです。

長谷川:まずは、被災者の気持ちをよくわかってあげるってことですよね。言葉を発するにあたっても、やっぱりその一言で心が折れちゃう場合もあるわけなので、そのあたりは実践で学ぶしかないと思う。
現場を見るというのは、建っている建物から見た方がいいと思う。潰れている建物を見るにはハードルが高いんですよ。何でこれが倒れたか、それは本震一発で倒れたのか、その後の余震で傾きが増して倒れたのか、その後の積雪で倒れたのか、全部意味が違う。そういう意味では、今建ち残っている建物が多くあるところ、そういうところから見ていって学ぶ。見ていくときに、やっぱり数人で一緒に見て行った方がいいんだろうなと思っています。
活動するなら、ボランティア保険に入ることと、ヘルメットなどの基本的な装備を用意して現場に入ってもらうことは基本になると思います。もちろん大学の先生方の研究活動、調査活動の中で回るっていうこともあります。そんな中で修復の可能性云々について触れることは、またちょっと別だと思いますけど、いろいろな切り口があります。例えば応急危険度判定の貼り紙の記載内容と実際の状況をしっかり比較するだけでも立派な調査になります。はっきり言えば今回これだけのエリアで災害が起こっていて、応急危険度判定結果の分布状況を調査するだけでも、大論文が書けるでしょうね。

山本:ちなみに直す、あるいは応急処置をしていくときの費用とか方法っていうのは、物件ごとにやっぱり異なってくると思うんですけど、そういったものが参照できるような、まとめられたものとかあるんでしょうか。

長谷川:私自身が書いた「地震被災建物修復の道しるべ」という本があり、2009年2月に発刊。これまでに4版を重ねています。

山本:これはいつ作られたんでしょうか。

長谷川:中越の経験を元にして能登、中越沖で岩手宮城内陸地震まで入れてあります。

岡:建防協から出ている被災建造物の修復指針なんかはどうでしょうか。

長谷川:実際の現場では、その修復指針のように壊れてくれてない場合もある。実際の建物の中でどういう傷を負っている可能性があるのか、何が残存耐力を減衰させているかとか、そういうことも含めてまずきちっと見た上で、その修復指針にある対応なりを当てはめていくことをしていく必要があります。実際の目の前の建物はどうなのかということを、まずきちんと見ていく力が重要じゃないでしょうか。
これは2009年に、我々が今この時代の中でどうやったら伝統工法で家を建てられるかという議論をしたときの記事なんですよね。(2009/6/21朝日新聞社説を見ながら)
まさに今回は伝統構法が危ういです。もっと言えば、職人危うしなんですよ。組立工はあっても大工はいない。伝統建築が残るのかっていう大事な剣が峰です。そのために、伝統的な建築の被害をきちんと読み解く必要がある。日本に木造建築が何棟ありますかっていう問いをしたとき、まだまだ伝統建築の作り方に類する建物っていうのは、10%近くあるんじゃないでしょうか。特に能登においては相当の建物が、地元の大工さんによる地縁を大事にした、地域の関係者の中で建てられた建物が多いんです。そういう建物を簡単に、プレファブリックのものに置き換えないようにするためにも、やっぱりこういう匠の技と知恵を継承することをやっていかなきゃいけないんじゃないでしょうか。現行の法制度の流れで放置していった場合には、大工技術はどんどん衰退していくという流れにいかざるを得ない。そう考えたときに、やはり修復に関する技術知恵をみんなで持つ。現状で言えばそれを知識として知り、技術を持ってる人はごく限られているんです。だから、みんなで持つということを真剣に考えなきゃいけない。手間はかかるんだけども、木造の建物っていうのはやはり各地、地域地域に根付いた大事な文化なのです。

被災家屋の多くに付きまとう部材の劣化に対し適切に対処するためにも、
伝統の大工技術の継承が求められている
(2010年9月・新潟県魚沼市)

伝統建築工匠の技というタイトルで伝統大工の技がユネスコの無形文化遺産になりましたよね。伝統建築技術の再起がまさに問われているのが今回の災害だと思うんです。伝統建築技術が、誰でも容易に持ち得る技術ではないがゆえに、あるいは決して金銭的にペイするものでないがために、稀有なるものだと褒めてくれてるのがユネスコの認定ですよね。けれども本当にそれが評価されないような状況になりかねないのも今これからです。現実に被災地ではすでに、「この家を直したい」と被災者がいろんな大工さんに電話かけまくってるでしょ。 修復は、新築よりもはるかに高い技量が求められるのに加え、その手が限られてる中では、何かしらの応援体制を作らなくてはいけない。手先が器用で意欲があり、今は大工さん未満の仕事しかできないけども、大工の道をやりたいっていう人もこれから出てくることがないと、伝統建築工匠の技の存続は相当厳しい状況になるんじゃないかなっていうのが、私が一番危惧しているところです。

現代高等教育の現場において、伝統木造建築・伝統の大工技術について学ぶ機会はまずない
(2010年9月・新潟県魚沼市)

建築討論へのご感想をお寄せ下さい。
季間テーマの最後に実施する「討論」にみなさまからのご感想も活かしたいと考えています。ぜひ記事へのご感想をお寄せ下さい。
https://forms.gle/UKjH6gdFaAphfaLE8

--

--

岡佑亮
建築討論
0 Followers

おか・ゆうすけ/1989年石川県生まれ/2014年タンペレ工科大学/2015年首都大学東京大学院修士課程修了(現 東京都立大学大学院)/成瀬・猪熊建築設計事務所とツバメアーキテクツを経て2020年に石川県金沢市でチドリスタジオを設立/2023年金沢職人大学校修復専攻科修了/主な建築作品に「北陸住居」「森の端オフィス」等