「ちのかたち」の理論的可能性とその実践の射程(その2)

[201811特集:建築批評 藤村龍至 / RFA《すばる保育園》]/ The theoretical target of “the Form of Knowledge” and the scope of its practice Vol.2

木内 俊克
建築討論
12 min readOct 31, 2018

--

記号と連続

本論は冒頭(その1)、《すばる保育園》における周辺環境へのつながり、内部環境の囲い込みが重ね合わされて共存していることに議論の端を求めた。そして藤村の設計方法論である超線形設計プロセス、それにより貫かれる批判的工学主義的態度の展開可能性を確認した我々は、《すばる保育園》のつながりと囲い込みを読み解く補助線として、そもそも本プロジェクトではどんな「ち」が抽出され、それがいかに「かたち」に埋め込まれ保持されたのかという評価軸を得たと言える。

藤村に見られる、こうした建築における知の獲得と「かたち」による定着の探求は、何も藤村のみに見られる特殊な関心事ではない。Zaha Hadid Architectsにおいて、長年Zahaとともにパートーナーシップを担い事務所の方向性を打ち出してきたPatrik Schumacherは、2015年に「Parametricism with Social Parameters」と題し、次のようなステートメントを掲げている。Schumacherは、自身が提唱してきたParametricism(建築をパラメータ=変数のネットワークとして定義し、それによりコンテクストや内部からのインプットに応じて全体が有機的に連動して相互調整される建築のあり方)が、近年までは技術的/社会的な制約により、新しい造形やデジタルファブリケーションとしての試みにとどまってきたことを自身で認めながら、ただしその状況は変わりつつあるとし、

Parametricism 2.0 can take the evolved techniques, repertoires and technologies for granted and foreground the newly challenging societal tasks of architecture, and finally gear up to make a real impact…

…the premise that the unifying and distinctive societal function of architecture… is the communicative framing and ordering of social-communicative interaction. …all social life processes can be conceptualized as communication processes.

と述べている。つまり現代建築が捉えるべき最重要テーマは社会的な「コミュニケーション」であり、建築が担保しうるどんな枠組みと秩序により、いかにコミュニケーションを生成したかに現代建築の関心が移りつつあること、そしてParametricismが扱う変数のネットワークにおいては、その社会的なコミュニケーションに関わる要請を建築の形状に実効性をもって編み込んでいく準備がついに整いつつあることを指摘し、その状況をもってParametricism 2.0というキーワードが提示されている。

Schumacherにおいては、その技術的な根拠としてAgent Based Parametric Semiology(詳細は、同じくSchumacherによる2012年のテクスト「Parametric Semiology — The Design of Information Rich Environments」に詳しい)の台頭が挙げられている。詳細は割愛するが、Semiologyとは記号論であり、Schumacherの論点ではポストモダンにおいては歴史に根差した定期的な意味に依拠し過ぎ、アイゼンマン以降、逆にシンタックスのみを取り扱うことはあっても意味の取り扱いは欠落していったことを指摘し、Parametric Semiologyではエージェント型のシミュレーションにより、意味(むしろ体験的なニュアンスと言うべきか)とシンタックスの双方を同時に取り扱う、包括的な乗り越えを画策するところに狙いがあることがわかる。

ここでいま一度、藤村が「ち」を保持するところの「かたち」について与えている枠組みを振り返ると、藤村は「かたち」には「記号的」なものと「連続的」なものの二者があるとしている点で、まさにSchumacherが提示するポストモダンの乗り越えが抱える問題系と、根幹としては奇しくも同じ構造を持っていることがわかる。そして筆者は、端的に言ってSchumacherが提示するParametric Semiologyの実効性には疑念を抱いているが、藤村の提示する「記号」と「連続」の枠組みには、そのハイブリッドによる新しい「ちのかたち」が実効性をもって社会の中で駆動する姿をイメージすることができる。言い方をかえれば、《すばる保育園》や、筆者としては同列に論じることができると考えている《OM TERRACE》においては、そのハイブリッドが既に初源的なかたちで実装され、少なくともそれぞれの建物は「ち」を保持する「かたち」という意味で機能していると観察することができる。

重要なのは、「記号的」なものは、藤村が「集団的な『ち』」を形成する上で、鶴ヶ島プロジェクトでも最初に用いたように、既知の概念に対象を紐づけ、対象が持ちうる多様な解釈可能性を遮断し、対象の理解を既知の概念の中に限定するような働きをもつということ(逆にいえば、狭められた概念の中で、より緻密な概念構築のスタート地点にもなるのだが)、一方「連続的」なものは、記号としては独立して見えていたものにも非意味的な共通項を提示し、無関係に存在していたものの間に差異や一致という概念を取りもつような働きをもつということだろう。(その意味で、Schumacherのparametric Semilogyは、「記号」として概念を限定するにはあいまいで、「連続」として概念を媒介するには前提を付与しすぎているように思われる。)従って、そのハイブリッドとは、ごく単純に言えば「連続」により関係の中に対象の群を取り込み、「記号」によりその関係の中で切り分けを行う、多層的なスケールでそうしたオペレーションを繰り返し、必要な情報をその中に埋め込んでいくことに他ならないだろう。さらに単純化していえば、「連続」がなければ、「記号」はただ単に別個の対象が別個のものとしてそこにあることしか提示しないし、「記号」がなければ、「連続」はただ漫然とつながった差異も一致も喚起しない潜在的な関係にしかとどまらない。「記号」と「連続」の相互依存的な循環をいかに意識的にドライブし、回し続けられるかが「ち」を保持する「かたち」としての実効性ということになるだろうと考える。

ふたたび、つながりと囲い込みの重ね合わせ

ここまで「ち」の抽出過程を経由し、「かたち」における「記号(切断)」と「連続」の議論を進めてくると、徐々に見えてくる視点がある。それは、たとえばOM TERRACEで藤村がプロジェクトを「連続体」として説明するのと対比的に、記号的に切断された要素が前景化して見える(ただし、1.5次部材(『ちのかたち』P317)という弱い「連続」の情報や、それにより「束ねあげられる」感覚がなければ、エレベータやテラス、コミュニティサイクルポートやトイレそれぞれがここまで切断的にふるまい前景化することはなかっただろうという意味で、「連続体」は機能を果たしている)のに対し、すばる保育園では「連続体」が前景化しながらも、むしろ「記号的(切断的)」にデザインされた建築ではなかったか、というものだ。そしてだからこそ、「連続的」な場の質と「記号的(切断的)」な場の質が相互に対比し合い、その緊張関係の中により強度のある情報が生み出される。冒頭で仮設したつながりと囲い込みの重ね合わせは、まさにこの問題ではなかったか。

すばる保育園には、そうした意味で随所に興味深い「記号的」「切断的」な操作と「連続的」操作のかけひきが共存する。そしてそれがこの建築にかかわる「ち」を保持し、利用者の施設の読み方に奥行きを与えている。

《すばる保育園》の設計プロセスを模型で確認すると、完成した施設の印象を真っ先にかたちづくっている自由曲面シェル構造のホール屋根形状は、プロセスの最後の最後で挿入されたものであることがわかる(図1)。同シェル部分のみのボリュームがスタイロで切り出され、その他部分の間に差し挟まれた痕跡がそのまま確認できることに象徴的だが、建物全体の構成において同シェル部分は明らかに異質だ。またRC屋根全体の配筋図を見ても、厚さとしては一般部と同様に180㎜で均一に構成されたスラブ厚の中、シェル内で付加的に発生している応力の分布を配筋の濃淡の中に見て取ることができる。

図1:《すばる保育園》模型による設計プロセス(提供:RFA)

しかしその次の瞬間、シェルによる異質性の挿入によりはじめて、いわゆる平滑なフラットルーフが「連続」した一連のスラブとして認識されることに我々は気づかされる。ただのフラットルーフが局部的な異質性により「連続」化する。一般的な保育園と比較して明らかにぎりぎりの低さを攻めている2200㎜という天井高も、このホールの異質性によるフラットルーフ全体の「連続」化を表裏の関係で強調し、ホールの求心性、外部空間への水平な視線の誘導、ホールとそれ以外の全体という構成を明示する(写真1)。プログラム的には、保育園は明確に4つのセクションに分かれていて、S字プランの中心に位置し全体を見渡せる管理部門、神社に向かって凹面を構えた0-2歳児部門、南側に凹面を向けた3-5歳児部門、その残余としてのホールがそれぞれに切り分けられている。この部門ごとのまとまりが強いだけに、ともすると相互に関連性のない空間がただ並列に配置されたような印象にもなりかねない中、ホール屋根によるフラットルーフ全体の「連続」化や2200㎜天井高による「ホールとそれ以外の全体」という構成の強調が、「連続」した屋根の元に集められた異なる3つの部門ごとの空間とその合間に生まれた共用部としてのホールという構成を印象づけることに成功している。「連続」の存在により、今度は切断的な空間が個別性のある空間としての「記号」を獲得する。そしてホールは、相対的に室内における広場のような地位を獲得し、実際、日常の運用においても登下園時に、園児が一度全員で滞留する場として、目的性を持たずにたたずむことができるような場として、ホールは利用されているとのことだ。こうして、園側の要請であった、室内における安全・安心・安息を保証する管理のしやすさや室内環境制御に妥協することなく、ホールを外部空間へのクッションとして位置づけ、またそれぞれの園庭も建物の凹面に包まれているような〈やや守られた〉外部として、敷地外の自然環境との緩衝ゾーンという印象をかたちづくることで、慎重に守られながら外部へ連続する空間が生み出される。こうして多重に設えられた、内部を囲い込む記号による空間の「切断」と、その「切断」に効果的に意味を派生させる「接続」の縫合がすばる保育園には存在している。

そしてあらためていま一度強調されなければならないのは、これら空間の読み解きは、設計から施工、竣工、利用開始、運用の過程をとおして、建築をめぐる議論や交わされた言葉の蓄積と、それに応答する実践の積み重ねの上ではじめて部分的に固定されては、随時更新されていく性質のものだということである。そしてすぐれた媒体である為には、そうした「ち」の更新を誘発する、極力単純な論理により、ただし循環的な議論を育むよう多層的な論理を持ち合わせることが重要であるだろう。すばる保育園においても、施設利用の実践をとおして、施設の意味であり機能をくみ取る作業が現在進行形で日々重ねられていることが、執筆に際して行ったヒアリングにおいて確認されている。その意味で、藤村が提唱する超線形設計プロセスは、いわゆる建築の設計プロセスに限定して対象を絞った方法論のように現在は受け取れられるものだが、おそらくその射程は建築の運用や更新においてもより力を発揮する「ち」の蓄積方法であり、その共有を「かたち」に仮設する方法ではないか。

あるいは《OM TERRACE》を例にとれば、同施設単体として一つの建物に関わる「ち」でありそれを保持する「かたち」が生み出されたということ以上に、プロジェクトが成立するに至ったプロセス全体を見渡せば、それは都市の運用であり更新に関わる「ち」の形成過程そのものであったことが見てとれるだろう。そして「かたち」として公共的に可視化された「ち」は、共有され、議論され、今後あらたな更新の原動力を生む実効的な都市の資源としてふるまっていると言えるのではないか。

こうして都市における都市に関わる「ち」を仮設し、設計から運用、更新にまで射程をのばし、さらには「計算的(ビッグデータ的)」な「ち」の統合までが盤石に視野に入れられた「ちのかたち」が、今後どのように社会環境を更新していくか、ぜひ今後とも注目していきたいと考えている。

写真1:自由局面シェルにより異化されたホール(手前)と窓奥に見える天井高2200mmの保育室 (撮影:木内俊克)

--

--

木内 俊克
建築討論

きうちとしかつ/1978年生まれ。東京大学建築学専攻修了後、Diller Scofidio+Renfro(2005–2007, New York)、R&Sie(n)(2007–2011, Paris)勤務。2012年木内俊克建築計画事務所設立。代表作に都市の残余空間をパブリックスペース化した『オブジェクトディスコ』。