めくるめく清掃の血肉化(インタビュー:岩井優

|065|202207|特集:清掃のハードコア

KT editorial board
建築討論
Jul 30, 2022

--

岩井優は、一貫して清掃や洗浄といった行為を主題に映像やインスタレーション、パフォーマンスを国内外で制作・発表している現代美術家である。岩井は都市や建築、あるいは個人の身体といった異なるスケールで繰り返し反復されている習慣的な行為=ルーティンを、ときには過剰に、ときにはドグマチックに、ときには共同的身振りとして取り上げることで、清掃行為が暗示する暴力性を証立てる。清掃の背景にある社会的な意味とはなにか、これまでの作品を通して話を伺った。(大村)

《作業にまつわる層序学》(横浜市民ギャラリー、2018)
会場撮影: 加藤健

誰も触れていない場所

──まずは最新作である、府中市美術館でおこなわれた《ハウツー・クリーンアップ・ザ・ミュージアム》のお話から伺ってもよろしいでしょうか。

2ヶ月半ほどの公開制作プログラムのなかで、3つのプロジェクトをおこないました。ひとつは美術館清掃のハウツービデオを作ること。もうひとつが開館以来20年間、誰も清掃していない場所を探索するプロジェクト。そして特撮用のセットを作り清掃員の方が壊していくこと。これらを並行しておこなっていました。まず美術館清掃をあらためて考えて見ると、例えばこの美術館には大きな窓ガラスがあるんですが、どのように清掃されているのか。ひとりで清掃するのではなく、組み体操のように高いところを掃除したりとか、台車に乗って人力ルンバみたいに掃除をしたりとか。少しコミカルにも見えるんですが、そのようなかたちで、見えない見られない清掃を創造的/想像的に解釈しつつ、参加者に協力してもらってハウツービデオを制作をしました。

《ハウツー・クリーンアップ・ザ・ミュージアム》(2022)
府中市美術館で公開制作を行う。参加者を募り、普段一般には公開していない美術館の裏などに入り込み、館内清掃のハウツービデオを制作した。美術館清掃を可視化しつつ想像的に捉え直し、通常とは異なる方法論を提示した。また40分の1スケールの美術館を制作し、実際に働いている清掃員に出演してもらって模型を清掃/破壊をしてもらった。

次にリサーチをかねた府中市美術館へのアプローチです。この建物が企画されたのは1990年代の半ばで、まだバブルの余韻が残ってたころです。なのでふんだんに石を使っていたりとか、現在の府中市の予算では難しいようなデザインじゃないでしょうか。そういう立派な美術館の、普段は見えない部分や隠れた部分として、開館以来20年間、清掃せずに埃やチリが堆積している場所を探しました。東日本大震災以降、耐震強化工事などで天井の改修などがあって、簡単には見つからなかったのですが、でも、ありました。かなりほこりがたまっていました。美術館は美術作品を収集してそれらを保存する機能を持っていますが、その溜まった埃やチリもアーカイブのひとつといえます。そうした汚れや埃を日々清掃している方々のアクティビティを、開館している限り毎日通って、清掃スタッフの服装に着替えて観察していました。日々の清掃が歴史に触れるためのひとつの方法論になるのではと考えたのです。

──模型を制作されていましたね。

特撮の技術のように美術館のモデルを作り、それを実際の清掃員の方に清掃してもらって、清掃していく過程でどんどん壊れていくさまを映像で記録しました。清掃員の方々はそこで相対的には美術館よりも大きな存在になり、清掃しているのか壊しているのか判別できなくなる状況が生まれるわけです。

──清掃員の方の清掃中の主観性というか、美術館に対する認知マップがどうなっているのかはとても気になります。

開館前と後の清掃はきれいに保つ点では共通していますが、目的と時間の使い方が異なっていて空間的な把握も違うように思います。開館前は割り振った時間をどれだけキープしていくか、時間通りに効率よくきれいに磨き上げていくかが重要です。だから面的な思考で美術館を捉えられているように思います。開館後からバトンタッチする清掃スタッフがいるんですが、館内のどこが汚れているか、小さなゴミの落とし物でもすぐに発見されていました。ずっと歩き回って、汚れているところ、濡れているところを瞬時に察知して消していく作業です。より点的な差異が発見できるような空間認知になってらっしゃるんじゃないでしょうか。面白いのは、観客にはその姿が見えてないんですよ。清掃員の方々って普段ぜんぜん見ないですよね、と言っているそのすぐ後ろを清掃員の方が歩いていたりする。見えない天使のように、知らぬ間にかたづけられて知らぬ間に汚れが消え去っていくものとしてたいていの観客は認知している。

清掃の暴力性

──清掃と破壊がセットになっているのは、2009年の《ポリッシング・ハウジング》も同様ですね。

そうですね。長崎県波佐見町にある元々は製陶工場だった広いギャラリーなんですけど、そこに石膏ボードで実物大の木造家屋を作って、グラインダーでどんどん磨き削っていきました。もう会場はずっと真っ白でした。

《ポリッシング・ハウジング》(2009)
長崎県波佐見町にある旧製陶工場をリノベーションしたギャラリーでの展示。実物大の「家」を建て、会期中グラインダーを使い、外壁や柱を磨きながら家を削っていく。その過程を展示した作品。

──清掃や磨くという行為を徹底して継続することで、対象が徐々に破壊されていくわけですね。絶対身体に悪いですね。

繰り返していく作業が暴走したり、過剰化することによってケアから破壊へと地続きで繋がっているのだろうと。この空間でも寝泊まりしてたんですが、近くにあるカフェの店長が、さすがに身体に悪すぎるからと粉塵マスクを渡してくれました。さらに白い防護服を着て削っていましたね。今思えばほとんど原発の除染作業員のような雰囲気ですが、時期としては震災前ですね。

──岩井さんは震災以降、実際に被災地での除染作業を経験されるわけですが、ここではある種その経験が先取りされている。防護服は清掃という行為の危険性を翻って示しているものですから、ここでの連続性は単なる見えがかり上の類似性を超えた意味をもっている。それにしても清掃は、やり続けるとある時点で取り返しのつかないリペア的なものになるし、さらにやりすぎると破壊ということになっていくわけで、境目が曖昧ではありますよね。

清掃行為を支えている倫理感のようなものがあるじゃないですか。なにかをきれいに、美しくすることは善きことだみたいな前提があって、でもそれが教義化するがあまり生じる暴力性もある。倫理や正義が肥大化し除去していく延長線上にはエスニック・クレンジング(民族浄化)へと容易につながります。ジェントリフィケーションも似たようなもので、地域の浄化が一方では人々の排除へとつながりかねない。清掃や浄化は視点をどこに置くかによって、暴力にも正義にもなる側面がある。

ただ、暴力性は批難の対象となりやすいものですが、暴力性にもさまざまな側面があるし、抗う手段としての暴力もある。思考停止して判断する前に背景や向かう先を考える必要があるのだろうと。《ダンシング・クレンジング》のシリーズは、掃除をしたいと企画者や周辺に伝えると、わりとみんなポジティブに捉えてくれるから、公共空間に出て場所をハックすることができました。清掃にもダンス(踊り)にも破壊的な暴力性が内在しているように思うのですが。

──公的な場へ介入する力が、清掃のもつ暴力性にあるわけですね。

ダンシング・クレンジング・シリーズ(2010–)
掃除/洗浄の行為とダンスをつなげていく。場所とダンスの関係性のもと映像を制作していく。例えば《ダンシングクレンジング ー横浜、社交ダンス》では西洋化、近代化の窓口ともいえた横浜で社交ダンスという(鶴見発祥といわれている)欧米の文化受容と社交ダンス=ソーシャルダンスという誤訳に基づいた言葉を発展させ、一時的に路上を清掃で占拠する映像を制作した。

ゴミに埋め込まれた情報

──岩井さんの作品には、一貫して清掃と身体的・生理的なものとの関わりがあるように思えます。

清掃をテーマにする場合、その行為に様々な象徴性をもたせる作品も多いですよね。労働とか、フェミニズムとか、穢れといった宗教的なテーマにつなげる作家もいると思います。ぼくの場合は、先ほども触れましたが、ゴミが不特定多数のインフォメーションというか、誰かにとってのなにかだったものであり、それに対して想像を膨らましている部分が重要なのかもしれません。街なかに落ちているゴミがどういう経緯で落ちてきたのかな、と想像をしたり、建物でも古い日本家屋とかに行くと柱に傷がついていたりするじゃないですか。名前が書いてあったりとか。そういった、時間軸とつながっているところに興味があるのかもしれない。同時に身体との関わりは作品のなかにずっとあるように思います。

清掃をテーマに取り組むようになったきっかけとしては、学生時代に《サラエボルック》というパフォーマンス/映像を制作したことが大きかったとは思いますが、それ以前からゴミを集めて作品を制作していたんですね。大学の構内には制作過程で出た廃棄物がけっこう溜まっていました。特に講評会の前後などです。僕はそういうものをゴミとして見ていたんじゃなく、素材だったりやはりインフォメーションが含まれるものとして見たり、集めたりしていました。たとえばこのストローのゴミは、今の状況から切り離すと単なるゴミになっちゃうわけですけど、これはこのストローを使ってアイスコーヒーを飲んだ人がかつて存在したことの証だったりもするわけですよね。

《サラエボルック》(2003)
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボでのプロジェクト。滞在先の家を裸で歩きだし、落ちているゴミを体に貼り付けながら服や靴、帽子を作りながら街の中心の公園へ向かう。

《サラエボルック》も、なにかしらインフォメーションが含まれている素材を用いた制作という意識で取り組んでいたんですが、「清掃してて偉いね」と言われて。僕は掃除しているつもりはなかったので、少し驚きながらも、見るポジションによって自分のやっている行為は清掃につながるのかと気づいたんです。それはひとつの転換点になったのかなと思います。

──先ほどのゴミに埋め込まれた情報という話で思い出したのですが、以前、モンゴル遊牧民を研究している堀田あゆみさんという方にインタビューをしたことがあるんですね。モンゴル遊牧民は移動生活のため必要最低限のモノしか持たないわけですが、モノに興味がないわけではなく、むしろ非常に執着するらしい。他人のゲルにいくと、新しいモノに目ざとく反応し、入手経路をたずね、欲しければ交渉するのが普通だと。それによって驚くほどの物質循環が起こっているのですが、堀田さんは、重要なことはモノの移動によって情報のやりとりがおこなわれていることだとおっしゃっていました。モノに埋め込まれた情報が記録のような役割をもちはじめ、各ゲルでは家財の秘匿・公開を管理することで、情報管理が戦略的におこなわれていると。そうすると、ゴミはゴミじゃなくなる、ゴミという概念がなくなるという……機能不全に陥ったモノであっても、ある情報のソースとしての意味は残るわけですね。

おもしろいですね。親密さのなかに、そういう情報の受け渡しがある。ある意味では密教的な、奥まで入らないと伝えられないやりとりを、家族間の物の受け渡しを通して行っていると。ゴミの概念がそもそもないのは、身の回りの素材が自然に分解されるものが主なものだったことと、堆積する前に移動する、ということが関係しているのかも知れませんね。

──マリリン・ストラザーンなんかも非常におもしろいですよね。

『部分的つながり』(水声社、2015年)ですね。

──ええ。『部分的つながり』で議論されているような、事物の交換を通した情報ネットワークの構築と、儀礼的な行為(規範化された慣習)を通したネットワークの部分的な切断・モノの意味の変換というような話と、ゴミに埋め込まれたインフォメーションという話はつながってくるのかもしれません。

僕が海外にリサーチに行くことが多かったひとつの理由は、人類学への興味関心があったからでした。メアリ・ダグラスの『汚穢と禁忌』(筑摩書房、2009年)にも触発されました。汚れの背後に必ず体系があると言っています。

──ダグラスにおいて、体系とはどういうことを指しているのでしょうか。

アプリオリに汚れ穢れがあるわけじゃなくて、そのバックグラウンドには、生活や歴史的な経緯などにもとづく教理や理論があるということですね。汚れ穢れが、秩序創出の副産物であると同時に、既存の秩序を脅かす崩壊の象徴、そして始まりと成長の象徴であると。

──そうした汚れと清潔さの倫理観みたいなものがシステム化されたものが宗教だという解釈もできそうな気がしますね。

そうなんですよね。しかし近代化・文明化され衛生観念が入ってくると、それまでの汚れと清潔さの体系が別の論理によって分断され、どんどん複雑化してしまうわけです。

──まさしく我々の生きていく世界はほとんど完全に文明化された近代社会なわけですけど、その背景にはひそかに、近代以前の穢れのシステムみたいなものも生きているように思います。岩井さんの作品では、ゴミのもつインフォメーションや清掃のもつ身体性への着目といったことを通して、そうした問題をあぶり出そうとしているようにも見えます。

標本と地層──ゴミがもたらす等価性

衛生や穢れ、戦後日本人の自然観に関心を寄せた作品としては、《ダンパリウム》があります。この会場からすぐ近くに金華山が見えるのですが、そこでは鹿は神の使いとして大切にされています。だけどこちら側の牡鹿半島は害獣駆除をしてるエリアで、自治体から委託されて猟友会が年間50〜100頭くらい駆除しているんです。でもそれらは文字通りゴミとして山に放置されるか埋められるので、もらってきて自分たちでさばいて食べたあと、ここに吊って展示しました。

《ダンパリウム》(2017)
石巻で開催されたリボーンアートフェスティバル2017への出品作品
牡鹿半島に不法に投棄されたものを拾い集め、ジオデシックドームの3角形のフレームに一つ一つ収めていった。害獣として処分され廃棄された鹿もそのフレームに収めていった。

僕はこの作品のすぐそばにあるお寺に滞在していたのですが、ある朝、日が昇る前にドームに行くとカラスが大量にいて、僕の存在に気づいた途端、一斉に飛び立つさまは地獄のような、でも恍惚するような光景でした。このエリアをリサーチして見えてくるのは、かつて修験道が盛んだった山々から美しいリアス式海岸を臨む一方で、被災する前から誰かが不法投棄した痕跡です。主に生活ゴミや廃家電でタイヤも多かったかな。興味深かったのは高度成長や産業の歴史物のようなそれらと、投棄された物質を飲み込まんとする植物や、棲家にしている虫などです。それらを善悪で判断するのではなく、僕らの社会はその背後でいかに自然と交渉し撹乱してきたのか(自然は常に撹乱を受けるものですが)、その証を博物的に、プラネタリウムのように観察することができたらと思いました。

──究極の掃除、かたづけの方法は「食べる」ということかもしれませんね。ゴミも出ないし、なによりそこでは他の物質への変換が起こる。その意味でこの作品におけるカラスやハエの介入は印象的です。

まさにダグラスが指摘しているところですが、食事と汚らわしいものとのあいだには重要な関係性がありますね。食べちゃいけないものが汚らわしいものとして禁じられもするし、汚れはだいたい食事の前後に発生するということもある。

──《作業にまつわる層序学》のなかでも、食事が扱われていましたね。

《作業にまつわる層序学》(2018)
ドイツでのダンス公演に関わりつつ、その映像を基点として、映像を地層のように映していく。元の映像、テレビモニターに映して、その上で作業、それを撮影して、またモニターに映して作業を撮影、またモニターに映して作業を撮影を10回繰り返す。さまざまな場所に赴いて撮影した。

これはさまざまな作業の映像で層を作る作品なんですね。層の基底になるのはドイツの劇場で撮影したものです。このシュレッダーはその劇場の事務所から出たものです。振付・演出家のセバスチャン・マティアスとコラボレーションしたのですが、各会場で出たシュレッダーのゴミを、そこで実際に働いている清掃スタッフの方が舞台を清掃していくシーンです。観客は上から撮影していることを知らないんですね。ダンサーたちが踊りを終え照明がついて、公演が終わったのかまだパフォーマンスなのかわからない、という感じでみんなポカンとしている。そうするとダンサーも掃除しているのでお客さんがつられて掃除しはじめるんです。次のシーンは、石巻でお世話になった方にアイナメをさばいてもらうシーンです。前のシーンを映したディスプレイをテーブルにして、魚をさばいてもらいました。その次は友人と食事をした後の片付けですね。移動先での個人的なエピソードと、ここで行われている作業が重なって下の映像がどんどん劣化していきます。調理シーンでは、魚の切り身としてはきれいになっていっているんですが、その傍らには排除された内蔵が溜まっている。

──シュレッダーのゴミと魚の内臓が等価のように扱われていることも興味深いですね。

それでいうと、さきほどの 《ダンパリウム》でも鹿の死体とその他の電化製品を一緒にすることに対する批判はあったんですよね。いかがなものかと。でもどちらも等価なものとして扱うことで生まれる、もの同士のコミュニケーションもあるはずだから、僕は扱いを変えたくなかったんです。それとこの作品の重ね合わせも同じですね。地層と同様に、どんどん下の作業が劣化してきて、見えなくなってくるけど行為どうしの連関やぶつかりが生じてくる。

──映像の劣化によって、過去のエピソードそれ自体が遠のいていくというか、かたづけられていくということも同時に起こっている印象です。そしてそれは、清掃や調理、食事といった当の映像の作業内容とも響いているわけですね。

「なにかの歴史」を再構成する

《経験的空模様》(Control diariesより)はまだ未完成の作品で、部分的なプロトタイプや平面作品を作りながらドーム状にする構想です。ジオデシックドームをスクリーンの構造体として、ここへ僕が除染作業をしていたときに記録した空の映像が一面ずつ映っています。

《コントロールダイアリーズ》(2020)
2020年タクロウ ソメヤ コンテンポラリー アートでの個展。除染作業で撮影していた日々の記録などをもとに構成した映像、写真作品。作品の一部は2022年9月に開催される東京都写真美術館でのグループ展に出品予定。

2020年に部分的に実現し、今年は東京都写真美術館でもこの作品を展開する予定なのですが、いずれは半球状にプラネタリウムのように実現できればと考えています。自分が経験した空を一度記録し、105面の映像をつなぎあわせてひとつの空として再構成したいと。技術的な問題もあるので、完成はまだまだ先の話ですが。どこにでもある空だけど、どこにもない。それは僕が一度経験し消化した空でもあるので、再構成した際に一般的な空と同じといえるのかどうかが問われるのだろうと思います。

現代の汚染はされているか/ないか、感覚ではわからないですよね。見ても嗅いでもわからない。原発事故が起こったとき、東京東部の水も汚染されたわけですが、出てくる水ってきれいだから普通に飲んでいました。汚染されているかどうかは必ず事後的に知らされる。その時間的なずれも問題だし、構造が分解されたものとか、自分が経験したものをもう一度再構成するときに見えてくるもの、表象されるものはなにかをこのシリーズではやりたいんですね。

「方法としての清掃」を繰り返す

──清掃がもっている間口の広さは、参加者を広く募ったり、公的な場に介入する力へとつながってくる可能性があるというお話が先ほどありました。これについてもう少し詳しく聞かせてください。

多くの人が「清掃の方法」を知っているので、「方法としての清掃」は入りやすいんですね。いろいろな人が参加可能な分、他者を巻き込んだり、状況をハックしやすいというのは常々思います。他方で、僕のプロジェクトには清掃を仕事としてやってらっしゃる方も参加してくれるんですが、その方々のお話をきいていると、プロフェッショナルな清掃の専門性がきちんと認知されておらず,、仕事としての価値が低く見られてしまうという問題も同時にあります。

──タイムキープ能力や場所の認知の仕方、素材の特性への理解、汚れへの嗅覚的な反応など、極めて専門的な知性が内在しているはずなのに、それが見えないということですよね。

そうなんです。清掃のもっているルーティン性(習慣性・定型性)にはもっといろんな可能性があるはずなんだけど、そこがあまりフォーカスされていないんじゃないのかなと思うんです。もちろん清掃に限らずルーティンの否定的な側面はいくつも挙げられるでしょうが。プロジェクトやパフォーマンスのようなイベント性の高いものだけではなく、日々繰り返すことで生じる強度のようなものとかズレてしまうものとか。

──ルーティンの可能性というのは、どういうことなんでしょうか。

まず思い浮かべるのは、行為を基準に時間的・空間的な比較対象が発生します。《Brooming》という個人的なプロジェクトでは、自ら作ったドグマ──同じ服装、同じマスク、1日6分5秒(365秒)、Youtubeにアップ、違う場所、毎日4分ずらす、365日、など──をもとに各地で撮影した清掃風景を撮影しました。

《Brooming》(2020–2021)
新型コロナ拡大による最初の緊急事態宣言が開けた翌日から、野外の公共空間でいくつかのルール=ドグマにのっとり清掃する。1日1秒として編集したバージョンは、2021年12月に横浜市民ギャラリーで公開された。

ここで僕は必ずしも同じ動きをしようとは思っていないのですが、僕のもつ身体性がルーティン化した掃く行為に結びつくことで、結果として同じような動きになっている。だからこそ、背景の風景や時間が比較可能な対象となり、周りの状況がどんどん変化するひとつの連続した清掃として見ることが可能なわけです。

──なるほど。異なる場所、異なる時間で起こっていることが、清掃というルーティン化した習慣的な行為を媒介につながりうるということですね。

人はさまざまな場所に移動するわけですが、いつも同じような仕方で清掃をしていると考えると、これ(Brooming)と同じことが日常生活でも起こっているわけですよね。また、例えば新品や完成したときにはなかったシミや汚れが生じて、それがルーティン化した動きに影響を与えるとき、ものや建物や場所との関係性の変化がそこで見えてくる。動きの類似性や反復性が、異なる状況の比較を可能にする。その意味では、ルーティンの徹底は時代的な清潔の基準を行為の中に記憶・記録させていることになるのでしょう。

──汚れを汚れとして認識するのは、極めて人間的な能力ですね。

冒頭の美術館清掃の話に戻れば、ルーティンが徹底された清掃スタッフは汚れているところを瞬時に判断して時間を管理しながら清掃します。ルンバはいまのところ、端から端まで掃除することしかできないわけですよね。視覚的な異物を認識できたとしても、それがゴミかどうかを瞬時に判断するのはたいへん難しい。加えて、清掃のエキスパートはそこだけを清掃したとわからないように清掃する。馴染ませるわけです。

──非常に高度なことをやっている。まさに清掃のハードコアですね。「ほとんどなにもしていない」ことにするための、高い能力が要求される。

他者がいる、見られていることによって成立する清掃ですよね。それは自己充足的な清掃とは違って、きれいになっていますよね、とプレゼンテーションできることが、清掃のエキスパートたちの仕事なのでしょう。自己充足する清掃においては、手抜きのものから、触れるところすべてを除菌しないと気が済まないものまで振れ幅が大きくなります。道徳(morals)と倫理(ethics)の語源がどちらも習慣を意味しているように、そのような多元的な日々の清掃のうちに、その基準を問いかける契機を持っているんじゃないでしょうか。

──ルンバ的な清掃の行き着く先には、神経症的な、あるいは潔癖症的な、すべてを一括して除菌するような清掃があるのかもしれない。それは都市におけるエスニック・クレンジングやジェントリフィケーションといったものの危うさともつながっている。ゴミをゴミとして瞬時にジャッジし、他者とのコミュニケーションを前提としながら、自らの労働を「ほとんどなにもしていない」ことにする清掃員の技術と知性は、そうした神経症的なものに抗する手段になりうるのかもしれないという希望をもちました。今日はありがとうございました。

岩井優/Masaru Iwai
1975年京都府生まれ。2009年東京藝術大学美術研究科後期博士課程修了。国内外の地域にて参与的な手法で活動に取り組み、クレンジング(洗浄・浄化)を主題に、映像、インスタレーション、パフォーマンスを展開している。 近年の展覧会に2020年「ヨコハマトリエンナーレ2020 AFTERGLOW―光の破片をつかまえる」(横浜美術館)、2018年「新・今日の作家展2018 定点なき視点」(横浜市民ギャラリー)、2017年「リボーンアート・フェスティバル2017」(牡鹿半島、宮城)、2013年「ホイットニー美術館ISPプログラム『メンテナンス・リクワイアード』」(ザ・キッチン、ニューヨーク)、2013年「ニードレス・クリーンアップ」(ミートファクトリー・ギャラリー、プラハ)等。近年の個展に2020年「Control diaries」(Takuro Someya Contemporary Art、東京)、2015–2016年「習慣のとりこ」(秋田公立美術大学ギャラリーBiyong Point、秋田)等。2016年2ヶ国4都市で公演された舞台作品『x / groove space』(振付:セバスチャン・マティアス)にコラボレーションアーティストとして演出に関わる。
http://masaruiwai.com/

近日参加予定の展覧会
「見るは触れる 日本の新進作家 vol.19」
2022.9.2(金) — 12.11(日)
東京都写真美術館
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4282.html

-

制作/編集 :大村高広

--

--

KT editorial board
建築討論

建築討論委員会(けんちくとうろん・いいんかい)/『建築討論』誌の編者・著者として時々登場します。また本サイトにインポートされた過去記事(no.007〜014, 2016-2017)は便宜上本委員会が投稿した形をとり、実際の著者名は各記事のサブタイトル欄等に明記しました。