インタビュー|最後の住民はなぜ消滅集落を守り続けてきたか──高桑久義

インタビュアー:伊藤孝仁、伊藤維

伊藤孝仁
Dec 25, 2023
高桑久義氏(右)への現地インタビュー

離村のはじまりと平成の大合併

高桑|私が生まれたこの利賀村の田之島集落は、昭和30年頃は合掌造りの家が並ぶ集落でした。その頃は人がたくさんいて、自分たちで食べるお米を作る生産力もあったようです。意識が芽生えて、記憶が残っているのは昭和40年頃からですが、その頃には離村の最盛期になっていました。9軒あった家も徐々に集落から離れていきます。
離村の理由は、私たちの親世代が子供に苦労をさせたくないという思いからのようです。小学校に通学するのに夏場は片道40分、冬場は2時間かかります。集落周辺の道は除雪もされていなかったので、親が踏み固めて通れるようにした道を、かんじきを履いて通っていました。高齢化によって生産できるお米の量も減り、外から親たちが60kgある米を集落まで担ぎ運んでいる光景を記憶しています。
子供が平野部の町に家を建てるタイミングで引っ越しをする人が多く、町の生活に馴染めないからと最後まで残っていた高齢者も、病院に入らなければならないなどの理由で離れていきました。最後の住民であった私が暮らしの場を移したのは今から30年ほど前です。

昭和40年頃の田之島(提供:高桑久義)

高桑|利賀村の役場に勤めていましたが、平成16年(2004年)に周辺の4町4村が合併して南砺市になりました。利賀村は観光産業しかないということで、一時は年間40万人くらいが訪れていました。多くの自治体が合併し南砺市になり、それぞれがバブルの時代にスキー場や温泉といった似たような公営観光施設を建てていたため、南砺市は同種の公営観光施設を複数抱えることになり、それらをどうしていくかが課題になっています。
また利賀村は演劇の地として有名です。世界的に活躍する鈴木忠志さんが主宰する『SCOT』のための宿舎を村が整備し、鈴木さんの知事や文化庁との繋がりを活かして外部の資金を調達し、劇場群をどんどん増やしていきました。

ーーバブルの頃の娯楽的な観光資源を持て余しながら、文化遺産的な観光資源を守っている状況ですね。

インフラの再接続

高桑|お忍びできているレヴォの谷口シェフと会う機会があり、この辺りでレストランを出店したいという夢物語のような相談を受け、利賀村中の候補地をあげました。遊休地はたくさんあったので、ライフラインの整った条件のいいところを紹介しましたが、一番条件の悪いこの集落を気に入りました。私が離れて30年ほど経っていたので、荒れており除雪もできない。難しい場所であることを伝えたうえで、プロジェクトがスタートしました。

レストランから谷を見下ろす(写真:中村絵)

ーー水や電気、除雪といったライフラインの整備は現在どうなっているのでしょうか。

高桑|集落は廃村になったので、もちろん電気は通っていませんでした。ただ、レヴォは大量の電力消費が見込まれるので、電力会社も設備投資に前向きになり、電柱などを新設しています。一軒の住宅レベルではインフラの新設には動きませんね。
除雪については、県道までは県の除雪車が来ていますが、サイズが大きいため県道から集落に至る幅の狭い市道には入れません。市から貸与された小型の除雪車でスタッフのみなさんが除雪をされています。かなり大変な作業だと思うんですが、楽しみながらやられていると聞いています。
何より大切なのは水ですね。集落にはもともと上下水のインフラはなく、谷地に水源が2つあります。片方は安定していて、濁りもない。夏場だと15分くらい、冬だとかんじきを履いて1時間くらいのところにあり、飲料水や生活水、田んぼの水として使われてきました。ドラム缶を切って作った簡易的な装置で取水し、ポリ管で繋いで集落まで引き込んでいます。部分的に壊れても交換可能なように、身近な素材でつくっています。廃村になってからも定期的にメンテナンスを続けてきました。

高桑氏が作成したドラム缶を用いた取水装置

なぜ守り続けてきたか

高桑|お宮さんが集落の奥に残っており、集落の皆で昭和28年に建⽴したものです。年に一度、離村された方やその子孫、そして神主さんが集まってお祭りを続けてきました。高齢化して集まれる人も少なくなってきていますが、50人ほど集まった時もあります。
離村して金輪際離れるというのではなく、生まれ育った故郷を懐かしみ、またここで生まれていない子供たちも親の故郷を知る機会として、つながりを大事にしてきました。みなさんから少し管理料をいただいて、私は草刈りをしたり、お宮さんの管理をする。祭りの準備や掃除のためにも、水を維持し続ける必要があったのです。
レヴォができる前は除雪していない道を私が開き、お宮さんの屋根雪を落としてましたが、できてからは集落の奥まで車で入れるようになり助かっています。

集落の奥の神社。2年前には近くの杉の木が倒れた。

ーー祭りを維持するための定期的なメンテナンスが、地域の地形的な情報を維持してきたんですね。お祭りがなく、また高桑さんの維持の活動もなければ、この地に建築をたてることは不可能だったのですね。

高桑|水源地についての情報は設計者に伝達しています。その水源の水を引き込み、新たに受水槽を作って利用されています。取水装置等のメンテナンスはレヴォに引き継いでいます。
2年前に神社のすぐ横の大きな杉の木が倒れました。神社側に倒れなかったのは不幸中の幸いでしたが、木の中身は空洞になっており、いずれ他の木も倒れていくことが考えられます。また神社自体もだいぶ老朽化が進んでいます。
それでも「先祖が見ているんじゃないかな」という思いや、管理しないようになりお祭りも途絶えてしまえば、場所に対する思い出も全て消えてしまう。誰かが継いでいかなくてはという思いから、自然と気がこちらへと向かっていくのです。

神社から《消滅集落のオーベルジュ|L’évo》へ戻る道

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伊藤孝仁

1987年東京生まれ。2010年東京理科大学卒業。2012年横浜国立大学大学院Y-GSA修了。乾久美子建築設計事務所を経て2014年から2020年tomito architecture共同主宰。2020年よりAMP/PAM主宰、UDCOデザインリサーチャー。