バラバラとみんな,表象と受容

[201903|特集:みんなはバラバラ ── 集団と造形]

青井 哲人 AOI, Akihito
建築討論
13 min readMar 1, 2019

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近年、「バラバラ」が共感・同調を呼び、「みんな」は忌避・敬遠される風潮があるようだ。しかし、それほど単純ではなかろう。以下、両者の関係について事例をあげながら考えてみたい。

1.「社会」の発見

「バラバラ」は、社会学的認識としてのアトム化にかかわっているだろう。産業革命・市民革命が進行し、近代の国民国家と帝国が形成されていく19世紀以降、社会は伝統的紐帯がほどかれてバラバラなものとなった。というより、伝統的な宗教や地縁にもとづく共同体が壊れ、アトム化した人々がつくる、引き裂かれ流れ動くがそれなりの全体性をもつ集団=「みんな」がそこから不断に生まれうるようなものとして、《社会》は発見されたのである。

つまり、「バラバラ」と「みんな」は同時的な問いである。この問いは、まず19世紀中期から20世紀中期にかけて多数の造形を生み出した。

Fig.01|ヴァルハラ(レーゲンスブルク/着想1807, 設計公募1814, 建設1830–42/設計フォン・クレンツェ)| ナポレオン戦争犠牲者の慰霊を「父祖の殿堂の国民版」「全ドイツ的モニュメント」として建設することが求められた。同戦後のドイツは、まだ百ほどの国(都市)の「バラバラ」な集合であり、それゆえゲルマンと名指される全ドイツ的「みんな」の造形表現が探求されたのである。cf. 大原まゆみ『ドイツの国民記念碑 1813年-1913年 National Monuments in Germany 1813–1913』(東信堂、2003)
Fig.02|ザ・セノタフ(ロンドン,エドウィン・ラティンズ設計,1920竣工)第一次世界大戦後のイギリスでは、帝国が抱えた出自も宗教も異なる厖大かつ「バラバラ」な戦死者を「バラバラ」な遺族と民衆が慰め記念するための「みんな」の造形が求められた(ロンドンのセノタフと黙祷儀礼)。cf. 粟津健太『記憶と追悼の宗教社会学:戦没祭祀の成立と変容 Memory and Memorials: A Sociological Study of the Formation and Transformation of Religious Rituals for Fallen Soldiers』(北海道大学出版会、2017) →本特集の粟津論考を参照。

2.公共的宗教

集団の造形という問題には、社会を釣り支えていた伝統的な権威・宗教性への代替の模索という側面がある。それゆえ近代のモニュメントには、公共的な宗教性ともいうべき性質が求められた。公式的であるだけでなく、バラバラな人々に対して開かれ、共有され、身体的・心情的参画のプラットフォームになるような宗教性である。

伝統的な宗教が公共的にふるまうことも少なくなかった。

Fig. 03|ケルン大聖堂の完成(ケルン/計画1813-, 建設1842–1880, 設計E・F・ツヴェルナー→R・フォイクテル/J. Redawayによるリトグラフ/Robert Batty, Views on the Rhine in Belgium and Holland, London, 1824):中世の建設頓挫から東西がつながらないバラバラのままであった聖堂の完成をドイツの統一になぞらえることで推進された。伝統的宗教であるカトリックが、自らに「公共的宗教」性を付与しようとしたことの現れである。(cf.大原前掲書)

日本では神社が、公共的宗教へと変質させられた。

Fig.04|明治神宮(東京/伊東忠太ほか設計/1920)の設計では新様式創出や歴史上の多様な様式が候補となったが、明治天皇の国民性・公共性に対して不適合の少ない造形として、最も数が多く、党派性の小さい流造が選ばれ、建築のモニュメンタリティより深く暗い森の生態学的・美学的価値が前景化された。(cf. 藤田・青井・畔上・今泉『明治神宮以前・以後』鹿島出版会、2015)

明治神宮における流造の選択が、多様な国民を受けとめられる中立性を根拠としていたのと同様の事情が、前出(Fig.02)の、エドウィン・ラティンズ(ラチェンズ)のザ・セノタフの設計にも見いだせる。特定の民族・地方・宗教・階級などを表現しない、という造形上の消極性が逆説的に強い価値を持ったのである。

そして、造形における世俗化は時代とともに特徴的な変遷を示している。人物の表象からはじまり、明治神宮やセノタフのような造形の脱色をへて、身体と連続的な、あるいは集合的な身体を包む「自然」「大地」「環境」を主題化することで造形という人為の契機さえ相対化していくパタンである。

Fig.05|キフホイザー紀念碑( エアフルト, 設計B・シュミッツ, 構想1888, 設計競技1890, 建設1892–97)とビンガーブリュックのビスマルク紀念碑(設計H・ペルツィヒ, 1911):19世紀から20世紀初頭のドイツの国民記念碑の歴史を追うと、<1>皇帝の偶像から、<2>集合的なゲルマン概念の偶像化をへて、<3>ドイツの大地の表象、<4>群衆的祭典のスタジアムへ、といった経路をたどった(cf. 大原前掲書)。日本でも、19世紀は実在の人物をかたどる銅像などの紀念碑の時代であったが、これが神話などの集合的な表象、あるいは自然観へと、ネーションの表象は移行していった。
Fig.06|明治神宮(写真は1954年の戦後復興後)と広島平和記念公園(中央の写真は建設前の1947年昭和天皇訪問、右は竣工後の平和祈念式典):どちらも公共的宗教の造形とみなせるが、それぞれ明治憲法(天皇主権)と戦後憲法(民主主義・平和主義)に対応している。広島における丹下の造形が戦中期の神社の変奏ともいえるものであったのは興味深い(cf. 『丹下健三』新建築社、2002 での藤森照信の指摘を参照)。群衆をひとつにする場。
Fig.07|菊竹清訓「海上都市」(1971) 、 神代雄一郎研究室の伊根調査 (1968)、コンペイトウの Urban Decoration| 1960年代まで「みんな」の空間とは群衆で埋め尽くされる広場のイメージであり、ピロティがその広場の公共的宗教性を高める神殿的効果を担っていた。しかし同じ1960年代のメタボリズムにおいては、それとは明瞭に異なる「バラバラとみんな」の関係が示された。バラバラな人々の労働がみんなの経済成長へと整流されるという論理によって、アトムのエネルギーがかえって異様なほど整然たる表象を得たのである。形態的な秩序の背後に不可視のエネルギーや原動力をみる把握は、その後の私たちの建築観・都市観のベースにもなっている。事実、メタボリズム運動の後に、それへの批判を含みながら、無名の集落や都市の背後にあるもっと身近でありふれた民衆的な生成力に迫るデザインサーヴェイ運動が爆発する。

3.集団の拡大(包摂)/縮小(分割)

国民の形成は、規模の観点からいえば造形が引き受けなければならない集団の拡大、つまりは多様な人々の包摂を意味した。20世紀前半のモダンムーブメントは標準的人間像をかかげて民族や国民などの集団という主題を解消してしまうかにみえたが、実際にはそうした理念を物差しとしながらすべての文化・表現領域にナショナリズムが強く働いた。

1970年万博以降はそうした国民国家の機制が力を失い、あるいは対抗芸術的な思潮が文化・表現領域を揺さぶることで、建築造形が引き受けるべき集団は小さくなる。地域、コミュニティ、アソシエーション、家族あるいは個人の個別性が前景化される。住宅は1960年代までは国民的問題だったが、1970年代以降は個別的でバラバラな家族や個人の問題となる。

つまり、建築が相手にする〈集団〉は、19世紀から20世紀半ばまではどんどん膨張して多様な人々を包摂し、1970年前後以降は多様な小規模セグメントへと括り出されたのだといえるかもしれない。前者の建築論がイデアリズム、後者がリアリズムであったとしても不思議ではない。

これを背景とした急速な造形戦略の豊富化は、経済ナショナリズムの高揚、そしてバブル経済のもとで消費社会的な修辞的差異の戯れへと回収されていったが、90年代半ば以降は70年代的な、社会的セグメントのリアリズムが回帰している。

ただし、70年代ならまだ粘りを見せていた伝統的共同体の紐帯はいよいよ解体されつくして、むしろ、地域や家族などの小さな社会セグメントにも、その内側に、あるいは横断的に「バラバラさ」があり、建築はそれを引き受けえていないのではないかという問いがフォーカスされるにいたったように見える。他方で、解体があからさまに露呈したからこそ「みんな」という再結合が希求され、災害の頻発やグローバリズムの危機がそれを後押ししているのだが、この「みんな」は造形的な強さではなくむしろ弱さを特徴としているように見える。

「バラバラ」と「みんな」の関係の機微は、近年、19世紀から20世紀中盤までとは異なるかたちで回帰しているようだ。造形上の消極性がバラバラさを棚上げする方法たりうるのはかつてのナショナル・モニュメントの場合と同様だが、今はもっと慣習的な親近性のようなものが望まれる。他方で、バラバラさをそのまま扱おうとする70年代のR・ヴェンチューリやC・ロウの遺産も、まちづくり・地域づくり、小さなアソシエーションやシェアの分散的な展開、そして時間的堆積、アクターネットワーク、ポストヒューマニティといった主題と絡みつくことでかつてとはいくぶん異なる広がりを持ち合わせるようになった。そして、(大規模開発をのぞけば)およそどのようなプロジェクトにおいても市民・住民・施主と専門家の関係はかつてとまるで異なり、誰もがプロジェクトにおけるエージェントとしての位置を与えられ、その動的な相互関係がプロセスの通路のなかから様々な「みんな」を描き出すような事態が普通になっている(本特集の饗庭伸論考も参照)。

4.表象と受容

ところで、「集団の造形」という問題には、じつはふたつの側面がある。造形による集団の表象・表現と、集団による造形の受容・経験である。これらの区別は案外あいまいにされている。

再びロンドンのザ・セノタフを例に引けば、まず、帝国の戦没者50万人の出自や宗教や階級を、特定の個性ある造形では「表象」できない。だから中立的な造形がよしとされた。しかし同時に、中立的なものでなければ、バラバラな背景をもつ遺族たちはその造形を受け入れられないと考えられたのでもあった。明治神宮の没個性な本殿や常緑の森は、明治天皇の表象というよりも、むしろ多様な出自をもつ参拝者の経験の環境として設計されたのである。

おそらくどんなモニュメントであっても、それが記念する対象(集団の価値源泉)を代理=表象できる形をどうつくり出せるかという問いの裏面に、形をどうつくればバラバラな集団に広く受けいられるかという問いが強く働いてきた。

杉並区大宮前体育館 Omiyamae Gymnasium|青木淳, 2014|GoogleMap

逆もまた真だろう。今日の建築論は、受容論・経験論に傾いている。「みんな」を強調しようと「バラバラ」を前景化しようと、いずれもユーザがどう感じ、どう使い、どんな社会を育みうるかといった経験論的な議論が大半である。だが、そこにも表象的な機制が含まれているはずだ。一連の「みんなの家」の縁側や軒下などの慣習的な造形の諸変奏が、その最もわかりやすい例だろう。

気仙沼大谷のみんなの家 HOME-FOR-ALL IN OYA, KESENUMA|Yang Zhao, Kazuyo Sejima (Adviser), Masanori Watase (Local architect) |Structural Design: Hideaki Hamada|Construction Company: Tekken Corporation, Takahashi Kogyo / 釜石市商店街みんなの家 HOME-FOR-ALL IN KAMAISHI SHOPPING STREET|Toyo Ito & Associates, Architects, ITO JUKU|Structural Design: SAP / Sasaki and Partners|Construction Company: Kumagaigumi Tohoku Branch||http://www.home-for-all.org/

表象論と経験論とはどのような関係にあるのだろうか。その関係の機微から、全建築史を読み直してみることもできるかもしれない。そのパースペクティブは「現在」の位置をどう指し示すだろうか ─── 。

本特集では、こうした問いに接近していくための糸口をいくつか見つけたい。この文章で述べてきたのは、「バラバラ/みんな」と「表象/受容」という2軸がつくる思考空間はどうやら架構できそうだ、ということである。■

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青井 哲人 AOI, Akihito
建築討論

あおい・あきひと/建築史・建築論。明治大学教授。単著『彰化一九〇六』『植民地神社と帝国日本』。共編著『津波のあいだ、生きられた村』『明治神宮以前・以後』『福島アトラス』『近代日本の空間編成史』『モダニスト再考』『シェアの思想』『SD 2013』『世界住居誌』『アジア都市建築史』ほか