ピエール・ヴィットリオ・アウレリ著『プロジェクト・アウトノミア:戦後期イタリアに交錯した政治性と建築』(北川佳子訳)

何のための自律性か(評者:能作文徳)

能作文徳
建築討論

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本書の中心となる「自律性」とは、人々(労働者)の自律性についてである。イタリアの自律運動の根本にあるのは資本家と労働者との階級闘争である。資本に対抗する自律性の企図(プロジェクト・アウトノミア)が、アルド・ロッシやアルキズームといった建築家の理論に影響を与え、新しい都市・建築のヴィジョンが構想された。

本書に沿ってこの自律運動の要点を簡単に述べたい。1950〜60年代に「オペライズモ」(労働者主義の意)という新左翼運動が存在した。ここで中心的な役割を果たしたのは、本書の目次にある、ラニェーロ・パンツィエーリ、マリオ・トロンティ、マッシモ・カッチャーリである。1960年代前半にピークに達したイタリアの高度経済成長は資本主義自体を変貌させた。マルクス主義が想定していた初期の資本主義社会において労働者が剰余価値を生産する場所は主に工場だったが、高度経済成長以降、サービス労働、知的・言語的な労働が増加していった。オペライズモは、工場から社会全体へと労働が拡大した現実から新たな理論と行動を考案した。

資本の価値創造のプロセスとして労働者階級が必要であり、したがってそれは資本の究極の脅威であるという考え方である。この概念において、労働者階級の政治目的は、単純に労働の拒否となった。(p.70)

この単純とも見える「労働の拒否」の行動が現実的に政治のイニシアティヴを引き出すと考えられた。その後に続く「アウトノミア」運動では、労働者のストライキの行使、仕事をしないという抵抗の戦略に結びついていった。この自律性のプロジェクトが一方は政治運動に、もう一方は建築・都市理論に別のかたちで受け継がれていったという見立てに本書のオリジナリティがある。ここで重要となる著者であるピエール・ヴィットリオ・アウレリの主張を引用したい。

都市の全体計画ではなく都市理論が資本主義的計画学のオルタナティヴを前進させる唯一の具体的手段だった。都市のなかのブルジョア権力がシステムやプログラムよりも例外性と特異性によって形成されると、この例外性と特異性そのものは潜在的に労働者の自立した潜勢力を表象する形態になりえた。しかし、そういうアプローチは、これまでの都市計画学とはまったく異なる都市の読解を要したのだ。それは計画学と開発という抽象的なメカニズムにもとづく場よりも不測の事態、交戦そして例外が政治的に形成される場として都市を理解することを必要とした。このような視座において計画学よりも場所の特異性という概念にもとづいた自律的建築というアルド・ロッシの構想が、オペライスタの結論に近づいた。(p97)

本書の後半では、建築的自律性を展開したアルド・ロッシ、資本制都市批判を展開したアルキズームという二組の建築家に焦点があてられる。ロッシの自律的建築の戦略は、理性主義の建築の系譜を再解釈することから出発する。古い貴族社会からブルジョア階級が新興する社会において現れた新古典主義の都市建築を新たな権利表明として理解した上で、それに続く18世紀のブーレー、20世紀のロースらのラショナリズム(理性主義)に労働者のための自律的な建築形態の根拠を求めた。1960年代の技術賛美を伴う全体主義的な都市計画に対して意義を唱えるために、「場」や「類型」という概念、「都市的創成物の個別性」という方法に行き着いた。ロッシは、汎用性のある開放的なシステムではなく、有限で閉じた形態を都市の中に対峙させたのである。

ロッシと対照的にアルキズームの「ノー・ストップ・シティ」のプロジェクトは徹底的に建築を消失させた際限なく広がるシステムである。これはトロンティが指摘した「社会はひとつの工場である」という労働者が工場から社会全体へと拡張した状況を応用したものであった。それは生産の場(工場)でもなく、消費の場(住居)でもない、それらが同時共存する巨大なスーパーマーケットのような均質に広がる空間である。

「自律性」という言葉は、現代の建築を語る上で、重要なキーワードのひとつになっている。一般的に自律性とは「他からの制約を受けないで自らの法則や規則に従うこと」である。これに従えば、建築の自律性とは、施主の要望や敷地の周辺環境、社会や政治体制などに依存しない建築のあり方のことを指すことになる。なぜ建築の自律性が再び注目されているのかといえば、建築が状況主義的になっていることに対する反発あるいは反省が原因である。建築の状況主義とは、例えば昨今のコミュニティやシェア、地球環境問題などへの対応への偏重のことを指すことになるだろう。しかし状況論から建築そのものへと還流する道筋をきちんと考えなければ、形態的自律性は無意味さのなかに沈んでしまうだろう。ロッシやアルキズームがポストモダンの潮流のなかで、建築の政治性が脱色されてしまい、スタイルだけが流布したように。本書はそのことについて以下のように指摘している。

1970年代から80年代にかけて自律性と意思決定を求める切迫感が失われていき、それにともなって政治と哲学から建築と都市計画までのそれぞれの学問領域が専門化した溝に堕ち、同時代の政治経済の現実に対して自律したのではなく、単にそれぞれが互いに自律的になった。同様に皮肉なことは、このシナリオにおいてイタリアの自律性(オートノミー)が賞賛され世界的に輸出されたのだった。(p.164)

本書で重要視されたのは、「何のための自律性であるか」(p.19)という野心的問いかけであった。では今日の私たちに切迫する自律性とは何か。現代の私たちを取り巻いている現実は、資本家と労働者の対立のように単純な構図ではもはや捉えることはできない。問題は国家システムや人間社会にとどまらず、グローバルな政治経済、地球環境や生態系に至るまで多種多様な事物が複雑に絡み合っている。その中でも、東日本大震災と福島原発の事故が人々の自律性を考え直す大きな転機になった。大きなシステムが揺らいだとき、自分たちがそのシステムに依存した生活に気づき、それを疑って自分たちでできることは何かを模索し始めた。建築に関わる私たちも、被災した風景をみて、建築の役割とは何かをあらためて問い直し始めることになった。信頼していた建築の自律性=フォルマリズムの幻想も崩れていったのである。私たちはこの経験をなかったことにはできない。建築を自律(形態論)か他律(状況論)かに、もはや分離もできない。そもそも、ここでいう自律と他律が、建築の中での狭い議論にとどまっているからだ。こうした思考から抜けるためのヒントが本書には所々に見つけることができるはずである。私たちが生きる時代に、自律性を問うのは、ますます困難になっている。だからこそ自律性=形態主義という短絡は回避されなければならない。私たちを取り巻く現実の中で「何のための自律性か」について、本書を通じて考えるきっかけにしてほしい。

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書誌
著者:ピエール・ヴィットリオ・アウレリ
訳者:北川佳子
書名:プロジェクト・アウトノミア:戦後期イタリアに交錯した政治性と建築
出版社:鹿島出版会
出版年月:2018年9月

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能作文徳
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のうさくふみのり/1982年生まれ。建築家。東京工業大学大学院博士課程修了。博士(工学)。現在、東京電機大学准教授。東京建築士会住宅建築賞、SDレビュー2013鹿島賞、第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示特別表彰、ISAIA2018 Excellent Research Awardを受賞。