ロングインタビュー|葉祥栄──木造とコンピュテーションが出会ったとき

[201908 特集:建築批評 葉祥栄《小国ドーム》― 現代木造とコンピュテーショナル・デザインの源流を探る] Long Interview | Shoei Yoh — When timber architecture encountered with computation

建築作品小委員会
建築討論
33 min readJul 31, 2019

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聞き手:岩元真明・水谷晃啓・佐藤利昭
編集:岩元真明・水谷晃啓
図版:特記なき限り、葉デザイン事務所(所蔵 九州大学・葉祥栄アーカイブズ)

間伐材の利用はミッションだった

岩元:《小国ドーム》(1988)はグレッグ・リンの『デジタルの考古学(Archaeology of the Digital)』において、コンピュータ・シミュレーションを採用した先駆例とされています。一方日本では、戦後の大規模木造建築のパイオニアとして位置づけられています。今日は、コンピュテーショナル・デザインと木構造という2つの観点から、《小国ドーム》を中心にお話しをうかがいたいと思います。

インタビュー風景

葉:《小国ドーム》はもう昔話ですよね。それが皆さんの役に立つのかは、私にはわかりません。知識自体は全て、古い話ですから。しかし、現在でも《小国ドーム》はきれいに使われています。今年、《小国ドーム》は日本建築家協会からJIA25年賞をもらいました。僕は賞に応募する気はなかったけれど、熊本県の建築家たちが代わりに出してくれました。昼はもちろん、夕方暗くなるまでは電気をつけないで使ってるという。つまり、30年以上生きて使われており、過去の遺物ではありません。

岩元:最近、歴史家や保存家は、リビング・ヘリテージという言葉を使い始めていますね。

葉:それは混用だと思います。レガシーならまだしも、ヘリテージという概念を混用してしまう。「デジタルの考古学」という言葉にもそういった面があります。コンピュータで設計した建物を考古学的に見ようというわけですから。でも、グレッグ・リンとカナダ建築センターにはデジタルの証拠品が散逸してしまうという危機感があって、そういうことをやっているのです。

《小国ドーム》外観(撮影:井上一)

《小国ドーム》に関しては、間伐材を使用した社会的な背景からお話ししたいと思います。当時、小国町には宮崎暢俊(のぶとし)さんという30代の町長がおられ、国鉄宮原線の廃止という大問題を抱えていました。昔は川で材木を運んで、海で貯木していた。それを列車に変えようとしたのですが、トラック輸送が主流となり、列車は利用が少なく赤字になった。そこで、小国の手前で鉄道をストップすることになったのです。宮崎さんは駅跡地の広い敷地をどうすべきか悩んでいて、本を読んで僕のことを知りました。熊本県出身の若い建築家がいる、と。それで僕に直接電話をかけてきて、一回見に来てくれないか、と言われました。現地を訪れたら、一番の問題は間伐材の利用がないことだとわかりました。それは、致命的に林業の衰退をもたらします。戦後は住宅を作らなきゃいかんという国策があったから、どんどん植えたんですね。小国では、ヤブクグリという種類の杉を挿し木で植えていた。それがどんどん伸びて日当りが悪くなるから、間伐をしなくてはならない。でも、それをする人がいない。昔、間伐材はトラックの荷ずりや足場に使われていたのですが、そういった用途もなくなった。宮崎さんが何をしていたかというと、間伐材を使って側溝の蓋を作っていました。それしか使い道がなかったんです。建築家に間伐材の利用を頼んでも、構造計算ができないからって断られる。町は間伐材の利用について頭を悩ましていたのです。ですから、間伐材は選んだわけではありません。建築家にとって、与えられたミッションだったのです。

佐藤:つまり、必要条件みたいなことですか。

葉:そうです。宮崎町長には駅跡地の利用計画を立ててくれと言われました。国鉄が、バスへの転換交付金として1億円払うというわけです。しかも土地を安く払い下げると。この依頼を受けて、最初の模型をつくりました。でも、この時点ではまだ間伐材には到達していません。できることなら使わなきゃいけないな、とインプットはされていましたが。

木造立体トラスに至る道

岩元:立体トラスは、他の構造に比べると部材を短くできますよね。間伐材を使いたいというインプットがあったから、立体トラスに至ったのですか。

葉:いいえ、まずは村松貞二郎先生に相談に行ったり、伊勢神宮を見に行ったりしました。日本には木造の古い歴史がありますから、過去の試みを知りたいと思ったのです。ところが日本では小径木で大空間を作っていないことがわかり、どうしたらいいかわからなかった。その頃、フライ・オットーが設計した《マンハイムの多目的ホール》(1974)を知りました。細い木材であんなことができるんだ、というのが目から鱗でした。

岩元:マンハイムの建物は、実際に見られたんですか。

葉:写真で知りました。小国のプロジェクトでは、まずアトリエ浮来の森川義彦さんに構造設計を依頼しました。そして、森川さんから早稲田大学の松井源吾先生をご紹介いただきました。というのも、松井先生はアレグザンダーの《盈進(えいしん)学園東野高校》(1985)で木構造を設計しておられたからです。二人して松井先生のご自宅を訪れ、『木造建築アトラス(Holzbau Atlas)』というドイツの本を見せてもらいました。それで、フライ・オットーのホールを知り、細い木材によって大空間を作ることができるとわかりました。そのとき僕の頭には、ノーマン・フォスターの《香港上海銀行》(1985)や《セインズベリー・アーツセンター》(1978)がありました。構造に対する憧れみたいなものがあったのです。フォスターの仕事の中にはバレル・ヴォールトの計画があり、同様に木構造の大空間ができればいいな、と思いました。

《小国ドーム》初期案(バレル・ヴォールト)の模型。展覧会「木の建築 FORMS IN WOOD」(東京、1985)で展示された。

木造立体トラスを初めて用いた《ミュージック・アトリエ》(1986)から《小国ドーム》まで、長く困難だった一連のプロジェクトはすべて松井先生と森川さんとの協働です。松井先生は《盈進学園東野高校》において、計算ではなく光弾性実験で安全を確かめていました。つまり、目に見える力学で構造を検証していた。それと、木構造の問題点は接合部にあるのですが、ボルトの先穴にエポキシ樹脂を注入して接合部で応力を伝達する実験を松井研究室は行っており、論文を出していました。軸力として応力伝達ができれば、立体トラスが選択肢として出てきます。これだ!と大喜びして、松井先生に来てもらって熊本県庁を練り歩きました。松井先生に見てもらってるのだから、木構造をつくってもいいですね、と各部署で話したんです。そこで良い感触が得られたので、あろうことか、東京の松屋デパートのデザインギャラリーで、実験材料をたくさん並べて展覧会をしてしまった。

佐藤:試験体を展示したんですか。

葉:そうです。変形を見るためのコードのついた試験体を展示しました。木材というのは実験値がないんですよ。特に、引張材については日本では情報がゼロだった。すべてがブラックボックスの中でした。立体トラスは引張力も出るわけですよ、圧縮力だけじゃなくて。だから、接合部が肝心です。そのために、ミリ単位以下の変形を許容し、力を伝達できるエポキシ樹脂が不可欠なものとして出てきたわけです。僕はそれまでに、シリコン樹脂を使ってずいぶんいろいろな設計をしていました。

岩元:《コーヒーショップ・インゴット》(1977)などですね。

葉:《インゴット》では、二液のシリコンを用いて、ガラス同士の接合部の柔軟な追随性を追求しました。それから、紫外線硬化接着剤を使ってガラスのテーブルもつくりました。こちらは変形を許さない接着剤です。こうした経験もあって、エポキシ樹脂を使うことについては本当によいアイデアだと思いました。松井先生のお言葉ですが、エポキシは木とヤング率がほとんど同じなんです。しかも、樹脂が固まるまでは自由に動かせるから、寸法精度を± 0にできる。ここまで来て、やっとたどり着いたのが、立体トラスだったのです。

《コーヒーショップ・インゴット》外観

そこで、東京で「木の建築 FORMS IN WOOD」という展覧会を開きました。そうしたら、熊本県庁から建設省に出向していた人たちが見て、これはやばい、となりました。熊本県で3000平米を超える木造を作ろうとしている。だったら評定を受けさせよう、ということになったのです。急転直下で「サンパチ認定」が必要になりました。建築基準法の第1条には、国民の生命と財産を守るためにこの法律を制定する、と書いてあります。つまり安全性が確認されない限りだめですよ、と言うことです。それに対して38条には、法が予期せぬ材料構法に関してはこの法律を適用しない、と書いてあります。膨大なお金をかけて実験して、学識経験者から構成される評定委員会の評価を得て、安全性を証明するというプロセスが残されているんです。うちのような小さな事務所と小国町で、この評定を続けてとりました。それが《交通センター》(1987)、《林業センター》(1987)、そして《小国ドーム》です。でも、評定の第一号は、細川護煕さんから依頼された音楽施設、《ミュージック・アトリエ》(1986)でした。

岩元:当時、細川さんは熊本県知事ですよね。県のプロジェクトが、町のプロジェクトに先行して実現したということですか。

葉:そうです。熊本にはテクノポリスセンターという構想があったのですが、細川さんはどうもそれに全面的に賛同していないようで、僕に意見を求められました。話し合う中で、「サウンドヴィレッジ」という構想で、広大な南阿蘇に若者が何万人と集まる野外コンサート場を作ろうということになりました。「阿蘇のスペクタクル」という意味で、アスペクタと呼ばれたイベント会場です。場所は葉さんが決めてください、といわれました。東京からアーティストやデザイナーを連れてきて、手塚治虫の『火の鳥』の舞台や、ビル・フォンタナの音の彫刻が上演されました。その会場設計をしているときに、小国の間伐材を使って小さなミュージック・アトリエをつくりましょう、と細川さんから依頼されました。これが、僕にとって初めて税金で作った建物でした。

岩元:アスペクタの設計は、小国の駅跡地計画よりも先ですか。《ミュージック・アトリエ》で木造立体トラスを採用したのは、同時期に小国町での仕事があったからですか。両者の関係はどのようなものですか。

葉:同時期です。当時、熊本県庁には建設省から出向していた大川陸さんという方がいて、土木部の次長をしていました。直接に聞いたわけではないですが、彼が県知事の細川護煕さんにアドバイスをしていたようです。小国町で大規模な木構造を作ろうとしているけれども、前例がなくて建設省も困っている、と。それなら、県でチャンスを作りましょうか、と。小国町の宮崎町長が直面していた林業問題の原因は国の政策です。当時、アメリカからの圧力で輸入材があるし、エンジニアリングウッドやツーバイフォーも登場して、在来構法はやめようか、という雰囲気もあった。木構造は日本の伝統ですが、技術的にはブラックボックスだった。それを何とかしたいとがんばっている人たちがいるから、小さなプロジェクトをやってみたらどうか、となったのです。

岩元:それが《ミュージック・アトリエ》ですね。県主導のプロジェクトが始まって、それが小国町のプロジェクトを後押しする形になったのですね。

葉:県のプロジェクトが先導した、ということです。評定する側からすれば同列でしたが、《ミュージック・アトリエ》には小国町議会は関知していません。実際にはもう少し複雑で、1986年に熊本で「緑と水の博覧会」というイベントがあり、そこでフライ・オットーの真似をして木造の格子シェルをつくりました。このパヴィリオンの建設は《ミュージック・アトリエ》とほぼ同時期です。

木構造のブラックボックスを開く

葉:《ミュージック・アトリエ》が38条の大臣認定を受けて、東京から何十人と先生方が来られました。このときから、木構造のブラックボックスが開きはじめました。東大の杉山英男先生たちが、一体どうするんですか、と質問するんです。年輪幅はどうするんですか、乾燥工程は、腐朽は、節はどうするんですか、割裂が起きたらどうしますかって。材の選別をするべきかどうかも議論しました。小国町の森林組合がサンプルを用意し、それを全部実験して、そのたびごとに論文が書かれました。だから松井先生は喜んでいました。学生たちも喜んでいました。木造だと破壊実験が怖くないからです(笑)。木構造基準には、今いったようなことは一切書かれていませんでした。引張強度が出ていない。なぜ、引っ張りが実験ができなかったかわかりますか。箸を押したり曲げたりするとすぐ壊れますよね。では引っ張るとどうなるか。手では全然ちぎれない。だから、ボルト接合で材端を挟む。ボルトが入ることによって両端が動かなくなる。そうすると実験ができるわけです。それが始まりです。

佐藤:引張力は、今の技術でも一部しか実験データが取れていません。材を引くときに端部をもたせる技術が、今でもないのです。

葉:そうなんですか。太い断面・細い断面、太いボルト・細いボルトで全部実験するべきですよね。ボルト接合で引張実験をすると、金物の方が必ず先に破断します。だから木の安全率は実際の何倍もあるわけです。しかも、直交異方性材と松井先生は呼ばれたけれど、木はファイバーそのものですよね。カーボンファイバーは引っ張りに非常に強いから、自動車でも飛行機でも使われます。しかし、それを接着するのはエポキシ樹脂です。カーボンは強いけれど、それを繋ぐものが大事なんです。だから、それ自体に着目する必要がありました。ですから功績は、松井先生のエポキシ加圧注入にあります。

佐藤:小国町での一連の作品を訪れると、《交通センター》から《小国ドーム》にかけて、ボルト接合のディテールが洗練したことがわかります。《小国ドーム》ではボルトが隠れて、とてもきれいに納まっています。

《小国ドーム》内観(撮影:井上一)

葉:実験する度に木構造のブラックボックスを開けていったのです。はじめは、ボルトのワッシャーは丸ではなく、とても大きな角ワッシャーだった。締め付ける面が大きい方がいいと、当時の構造の先生たちが考えておられたのだと思います。日本の最高峰の技術の人たちが、です。それに対して、我々は締め付ける必要がないことを示しました。圧縮・引張に耐えればよい、ならば丸ワッシャーでもいいじゃないかと。プロジェクトの度に実験をして改良を続け、最後の《小国ドーム》ではピン接合になりました。これはすごい進歩だったと思います。全部、実験の結果生まれたディテールです。実験以外には、信用するものはないですからね。

岩元:葉デザイン事務所は松井研究室の実験に立ち会ったのですか。

葉:いえ、立ち会っていません。必要な実験を松井先生にしていただきました。評定にも、森川さんと一緒に毎回出てもらいました。評定っていうのは、偉い先生方が何十人とおられて、僕らは吊るしあいを食うわけです(笑)。普通だったら大きな組織設計事務所だとか、工務店がやることです。お金もかかるし、みんな避けて通るわけですよね。

岩元:松井研究室では構造計算はしていませんよね。接合部の実験など、木構造を成立させるためのコアとなる部分を支えていたということですね。

葉:そうです。ファンダメンタルなノウハウというか、木をどう扱うかという部分に関して松井先生に助けていただきました。木材は「新素材」ですから。しかも直交異方性材はコンクリートや鉄とは違いますからね。だから、荒野を切り拓いていったんですね。

《小国ドーム》は防災評定も受けました。防災評定は構造とは全く別の話です。建築基準法では3000平米以上の木構造を禁じていましたが、農林水産省はそれを目の敵にしていた。林業衰退の原因は、建設省がつくった木構造禁止の法律だと言うのです。建設省も悩んでいました。3000平米と3001平米でどう違うのか、大した根拠はないのです。《小国ドーム》の計画では、農林水産省と建設省のせめぎ合いがあったのです。このとき、アメリカの《タコマ・ドーム》を見に行ってみないか、と建設省からアドバイスをもらいました。それは当時、世界で一番大きな木構造でした。そこで自費でアメリカに行き、実際に見てわかったのは、放水銃を使って火を消すと言うやり方です。それを建設省に報告したところ、放水銃ではなくスプリンクラーをつけてくれ、と言われました。ところが、消防を管轄する自治省には、スプリンクラーの必要はない、と言われました。建設省は、木構造の立体トラスは燃えるだろうという発想でスプリンクラーが必要と言った。でも、スプリンクラーは下の火源を消すんですよ。しかし建設省は、このことを条件として評定を受け付けたので、スプリンクラーをつけてくれと言いました。結局それに従ったのですが、膨大な税金を無駄遣いしたと今でも後悔しています。シミュレーションによって避難時間を検証していたので、それで安全は担保されていたわけですから。

岩元:間伐材を使わなくてはならないという当時の小国町の事情を抜きにして、葉さんが考える木材の特徴、良さは何ですか。

葉:事務所設立の頃の話になるのですが、そもそも僕はインテリア・デザイナーとして、《西鉄グランドホテル》(1969)の家具を設計するために福岡に来たんです。

岩元:浦辺鎮太郎設計のホテルですね。

葉:そう、浦辺さんのね。家具の材料としては堅木以外は考えられませんでした。杉は選択肢になく、ナラやカエデ、チーク、ローズウッドはどうか、サクラがいいよねとか、そういう峻別をしながら設計をしました。木には種類があって、それに適した形や使い方がある。だから、今の状況はよくわからないんですよ。つまり集成材があって、不燃木材ができたことの意味がね。天然材でも集成材でもジョイントは金物でやらざるをえない。あるいは、エポキシなどで接合するわけですから、昔ながらの構造ではない。柾目を表に出すとか、節は無しにするとか、全て見せかけだと思いますね。現代について言えば、経済的な理由があればまだしも、木をイメージとして使うのは許せないです。今度のオリンピック・スタジアムみたいに、木をあしらっています、というのは理解できない。あたたかい、優しい、そういうイメージだけが先行しているのではないか。木は熱伝導率が低くて足ざわりもいいし、吸湿・吸音材にもなるので、たとえば学校の教室の床に使えばメリットがたくさんあります。でも、イメージだけを目的として、無理やり構造材として使ったりするのは迎合的だと思います。プリント合板みたいですよね。《小国ドーム》では、間伐材を使わないと町が成り立たないから木材を使ったんです。木肌をセンチメンタルな売りにするのはどうしても許せない。木でやることが免罪符になって、一般の人をごまかしてるんじゃないかと思うのです。

コンピュテーショナル・デザインはどのように行われたか

岩元:今度は、デジタル・デザインの観点から、小国のプロジェクトについてお話しいただけますか。

葉:《ミュージック・アトリエ》が評定の第一号で、第二号が《交通センター》です。《交通センター》を設計する頃から、太陽工業の小田憲史さんと電話で長々と話をするようになりました。太陽工業は「メロ・グローブ」というドイツ製の立体トラス用ジョイントを取り扱っていました。僕は取り替え可能な弦材のジョイントをメロ・グローブ以外には知らなかったので、太陽工業と協働したんです。グレッグ・リンの本にも書いてありますが、太陽工業はメロ社と契約関係にあり、立体トラスの解析プログラムについて蓄積がありました。《交通センター》は円形の建物なので、どのような分割がいいか、ああでもないこうでもないと相談しながらシミュレーションの結果を見ました。こんな風にしたらどうなりますか、と。円形だと分割に迷うじゃないですか。36等分がいいか、18等分がいいか、20等分がいいか。

《交通センター》内観

水谷:かつて『新建築』の特集で、葉さんはコンピュータが現代の魔法のようである、と書かれています。小田さんとのやり取りを通じて、そのように感じられたのでしょうか。

葉:コンピュータが現代の魔法のような気がする、と。その通りだと思いますね。木構造そのものがブラックボックスでした。そのブラックボックスを松井先生がどんどん開いて、それからやっとプログラミングに乗せることができたのです。変形が一定以下であれば、計算できますから。そうして計算可能になると、条件を変えて、その度にシミュレーションができます。デザインの誕生から、その終末までのプロセスをシミュレーションできるのです。

水谷:小田さんとのやりとりは、どのようなものだったのでしょうか。《小国ドーム》の形状やスパンの変更など、条件を変えるやりとりはどのくらいの頻度で行いましたか。そのとき、どのような議論をしたのでしょうか。

葉:それはよく覚えていないのですが、電話で長々と、何時間も話しました。僕にとっては小田さんがコンピュータだったんです。ノードがあって、そこに連結する8本の部材の応力が数値で現れる。それを僕が見たってわからない。数字ばっかりですから。そういうプログラムを彼らが持っていたということです。

《小国ドーム》、屋根の構造解析図。太陽工業による図面

佐藤: 空間を作る時の、例えば、屋根のふところの大きさなどは誰が決めたのですか。

葉:そういうことは僕が恣意的に決めました。たとえば、ライズはどのくらいにしますかと言われたら、1.2mか1.4mかな、と暫定的に設定しました。

岩元:最初につくった軸組模型が起点になって、太陽工業とのやりとりがスタートしたのですか。

葉:そうですね。まず、バルサを買ってきて、それで作ってみました。部材の応力の確認はずっと先の話です。まず、全体像を把握する。どこかにくじけるところがないか。クリティカルな部分を教えてもらって、訂正する。支点を変えるとかね。木材は鉄やコンクリートに比べたら軽いですよね。軽いけど強い。でも、軽いということにも欠点があります。風圧を受けて浮いてしまう。立体トラスでは、自重や積雪を受ける際には圧縮材でも、風の吹き上げによって引張力がかかることがあります。引張材は問題がないんですよ。でも、引張と圧縮が反転したときに、細長比によって、圧縮材はめげる可能性がある。だから圧縮材は太くしました。水平力、風圧、積雪荷重と、色々なシミュレーションが必要で、その都度、最大の力に抵抗する部材を用意するのです。このような部材には何十も何百も種類があって、それがコミュニティのアナロジーとなると僕は思いました。老若男女、背の小さい人や大きい人、いろいろな人たちの働きでつくられるコミュニティのあり方を、部材のバリエーションが表現している。このコミュニティは、全部メロ・グローブで繋がってはいるのですが。

水谷:各部材がノードで接続されネットワーク化された全体がコミュニティのようだ、という発想は面白いですね。コンピュータ・シミュレーションによって弱い部分が発見できる。部材単体からは感じられなかったような、生き物のような全体性が、構造的感覚として得られたのではないでしょうか。こうしたシミュレーションを、葉さんは小田さんとの対話の中で、少しずつ理解していったのですか。

葉:そうですね、勉強させてもらいました。僕はまったく無知でしたから。大学では経済学の勉強をしていたので、コンピュータについてはそこそこ知っていましたが。

岩元:慶応大学で計量経済学を学んだことが、太陽工業と一緒にコンピュータ・シミュレーションを行う上で役に立ちましたか。グレッグ・リンはこの点を指摘していますが。

葉:大学では需要予測の研究をしました。多元方程式のパラメーターを増やし、予測の精度を上げる研究です。しかし、建築との直接的なつながりはありません。グレッグ・リンには機械的にそう言いましたけれど、自分ではキーボードも扱えませんから。

自然現象とパラメーターに従う

岩元:それでは、自然現象から最適化を学ぶという点についてはどうですか。フライ・オットーはそうした建築をつくりましたよね。葉さんの作品にもそうした傾向があると思うのですが。

葉:そうですね。実験の結果が一番大事です。実験のプロセスが自然現象そのものになっている。グレッグ・リンが言う「ウェット・ブランケット」がいい例だと思います。ばっと毛布をかける、濡れている、そこで自然現象が現れる。濡れた毛布を4人で持ったらどうなるか。その形は構造そのもの、重力そのものが望む形です。あるいは、重力がかかった時に変形するであろう最終的な形です。それから、スペインのガウディがいますね。チェーンをぶら下げて懸垂曲線をつくり、それを反転して圧縮系のアーチにした。これを生物的と呼ぶか、自然現象的と呼ぶか、どちらでもいいのですが、自然が三次元曲面を作るのです。最近つくづく思うのですが、《小国ドーム》では応力の変化が、僕が恣意的に決めたライズの中で決まっていたんですね。形態は、ああしよう、こうしようとわがままを言って、そのように計算してもらった。小田さんには、アーチがちょっと低いなあ、もうちょっとあればアーチ効果が出るんだけど、とか言われましたよ。そういう対話をずっと続けました。光を入れるために形を変えたり。ですから、一番最初の案はフォスターに憧れてバレル・ヴォールトでしたが、それを変化させていったのです。

岩元:フライ・オットーらの『自然な構造体』によれば、チェーンの懸垂を利用した構造実験はガウディ以前からあったそうです。でも、実験によって検証された形に初めて従ったのはガウディだ、と書いてあります。葉さんのプロジェクトでは、《小国ドーム》よりも、《小田原市体育館コンペ案》(1991)において、コンピュータとの応答がダイレクトに形に現れていると思います。この点についてはいかがですか。

《小田原市体育館コンペ案》、CG

葉:小田原の計画では、まず部屋の大きさで柱の場所が決まりました。柱の位置と高さは、その他の要求に応じて、さらに変化します。光をどう採り入れて、反射させるかといったことも考えました。このような建築的操作に対応できるという意味では、コンピュータは本当に素晴らしい。

岩元:パラメーターを変えられる、ということですね。

葉:そういうことです。パラメーターをコンピュータにインプットするというやり方で、どんな形でもできるんです。そこで一番重要なのは、やはり構造解析であって、単なるCGではない、ということですよね。コロンビア大学の卒業生の多くは、ハリウッドに行ってCGをやっているそうですが。

岩元:パラメーターを変えてデザインを進めるという方法に、すでに《小国ドーム》の設計時に気づいていたのですか。

葉:いえ、それは深くは考えていませんでした。《小国ドーム》は弦材の選別だけで精一杯で、作業が膨大になっていました。

岩元:つまり、《小国ドーム》よりも《小田原市体育館コンペ案》の方が、コンピュータの出す応答に素直に従ったということですね。

葉:基本的にそうです。その途中のプロセスが《ギャラクシー富山》(1992)というプロジェクトです。《小国ドーム》の竣工後に、磯崎新さんがバルセロナで設計した、モンジュイックの丘の上に建つ体育館のコンペ案を見ました。三次元曲面の提案で、ああいいな、こんな時代になったんだ、僕らもこういうものをやってみたいな、と思いました。ところが、そのコンペ案は入賞したけれども、結局そのままではできなかった。代わりの案が、川口衛さんが協力して設計されたパンタドームです。非常に残念ですが、恣意的な三次元曲面はナンセンスというか、合理性のない彫刻的な形態だと思った。自然現象でない限り、三次元曲面は相当の努力がないとできないという話ですね。ついでに言うと《横浜大さん橋国際客船ターミナル》でも同じようなことがありました。コンペ当選案(1995)ではアーチ構造が想定されていましたが、結局は折板構造でつくられています。

《ギャラクシー富山》、CG(左)と光弾性実験による解析(右)

岩元:《ギャラクシー富山》の設計時には、最初に恣意的な形を作るのではなく、コンピュータの応答に従うという発想があったのですか。

葉:そうです。《ギャラクシー富山》では、キャンチレバーで張り出した立体トラスの屋根を作りました。富山では積雪が3mもありますから、フラットな屋根は相当な変形をします。その変形の数値をコンピュータ・シミュレーションで出してもらい、それに従って柱の位置を決めました。また、松井先生に光弾性実験をしていただきました。コンピュータ解析による変形の結果は、光弾性実験で現れる応力の縞模様とほとんど同じで、符合を確認することができました。この立体トラスは、内部から見ると銀河のような感じに見えます。外周部は一定の高さになっているけれど、内部空間ではノードが上下移動しています。

岩元:立体トラスの構造最適化によって、トラスの厚みが連続的に変わるということですね。

葉:そうです。たとえば、外周部の水平線に対してトラスのライズを2:3にしたい、と言う風に、僕は恣意的にデザインをしました。排水勾配や、下から見上げたときの外観を考えながら。コンピュータのおかげで選択が簡単にできたわけです。解析が本当に簡単だったかどうかは知りませんけど。大変だったのかもしれない(笑)。

岩元:太陽工業の小田さんとキャッチボールをしたということですね。解析結果に対して、もう少し、こうはならないかといった具合に。

葉:柱の場所を変えたり、支点を変えたり。柱は1本では足りないから、3本にしようか、とかね。そうして自由度がわかってきた。そこで、《ギャラクシー富山》の工事中に小田原市体育館のコンペに出しました。そうしたら、審査員の川口先生にコテンパンにやられました(笑)。そんなことは誰でも知っているって。でも、小田原の計画は、それまでのプロジェクトよりも何倍も大きいスケールなんです。見比べると大変に大きな空間です。この時、外壁が水平であることの意味が完全に消失しました。各部屋に必要な高さを取り、柱の場所を決める。パラメーターが変わってきて、非常にトポロジカルな建築になった。このことを指摘したのは世界中でグレッグ・リンだけでした。

岩元:《小国ドーム》、《ギャラクシー富山》、《小田原市体育館コンペ案》という一連のプロジェクトを通じて、設計手法が変化したんですね。小国では、恣意的なアーチの形があった。富山では、建物外周部の四辺はフラットと決めて上下方向にサーフェス面を変形させていった。そして、小田原では、外壁も含めてフリーフォームに近い形態操作が行われた。3つのプロジェクトを通じて、設計プロセスの大きな部分が、徐々にパラメーターに変換されてゆく。

コラボレーションから生まれたパイオニア的な仕事

水谷:さきほど葉さんは、コンピュータ・シュミレーションの作業がどれほど大変だったかはわからない、とおっしゃられましたね。でも、グレッグ・リンは太陽工業の小田さんにもインタビューをしており、そこで小田さんは、葉さんから無理難題を言われることはなかった、と述懐しています。横浜大桟橋のコンペ案には複雑な形態に対する構造的な理解がなかったと指摘されましたが、そのような時代においても、葉さんはフリーフォームの構造特性を理解し、無理を言わずに小田さんとやりとりできた。葉さんのなかで、独特な感性が養われていたように思います。

葉:小田さんは非常に説得力があるし、説得を惜しまない方なんですよ。僕は、納得するまで電話機を離さない。彼は、僕が納得しない限り次に進まないということをわかってくれた。僕はデジタルのパイオニアなんかじゃなくて、太陽工業がすでにそうだったんですよね。木構造について言えば、松井先生がたくさんのエネルギーを費やしておられた。それに対する評価をもっとすべきだと思います。

岩元:葉さんを介さずに、松井研究室と太陽工業が直接やりとりすることはありましたか。

葉:両者に直接の関係はありません。木材に関する知見を得る上では、小国町の森林組合にも大変お世話になりました。松井研究室で実験するために、たくさんの木材サンプルを集めてくださった。これがなければ《小国ドーム》は作れなかった。ヤブクグリが他の樹種に比べて優れていることもわかりました。杉は土地柄によって性能が違うんです。我々が頼りにしたヤブクグリの小国杉は、昔から強いと言われていました。天秤棒に使っています、と。それほどヤング率が高かった。

岩元:森林組合の協力は、実験用のサンプル提供のみですか。あるいは、施工時にも協力があったのですか。

葉:施工というか、製作ですね。森林組合が製材、乾燥、エポキシ注入をしました。製品の寸法や精度の検品にも立ち会ってくれました。太陽工業がそれを組み立て、最後にジャッキダウンして、「お!予定通り」と。議会の人たちはいつも心配していました。あんなのができるのか、うちにはヒノキもあるのに、なぜ杉間伐材を使うのか、と。《小国ドーム》の構造は、他の建築に比べると使用する木材の量が少ない。それも、やいのやいの言われました。

岩元:もっとたくさん木材を使えばいいのに、ということですか。

葉:宮崎町長は間伐材の使用を促進して林業を救おうとしたけれども、《小国ドーム》で使った量はやっぱり少なかった。普通の建物だと、特に計算もしないので、たくさん木材を使うんです。たとえば、同時期に小国町に建てられた《木魂館》(1988)では太い木がたくさん使われています。町民から見れば、木をたくさん使っているほうがうれしかった。ミニマムでやって、木材使用量が少なくて済んだ建物は、理解を得にくい。人の考えをどう動かすかは、別の次元なんですよね。

《小国ドーム》施工時の写真

岩元:今日お話をうかがって、《小国ドーム》は松井研究室、太陽工業、小国町森林組合とのコラボレーションから生み出されたことがよくわかりました。

水谷:デジタル・テクノロジーとエンジニアリングへの理解がきちっとした最初のデザイナーとして、葉さんは位置づけられるように思います。葉さん以前には、コンピュータと木造技術の各々を深く理解してデザインに活かした人はいなかったのではないでしょうか。テクノロジーとエンジニアリングの本質を身体科学的に理解し、それをデザインに活かした点がパイオニア的だと私は思います。

葉:そのような位置づけはよいと思うのですが、その行程にたどり着くために、必要なことがあります。施主側に情熱がなければ《小国ドーム》はできていません。町民の方々は不安でたまらなかった。でも、《小国ドーム》を完成させ、今は楽しんでもらっています。何かあった時の避難場所にもなっているらしい。

岩元:この前、小国町を訪れたときに、今度ドームに大相撲がやってくる、と町の人が楽しみにしていました。土俵を作らなくちゃいけない、と。活発に使われ続けていることが、《小国ドーム》が30年間、きれいに維持されてきた理由だと感じました。

葉:あのドームではコンサートもできるんですよ。シンフォニー・オーケストラのコンサートができるくらい、音響を考えているんです…。

(2019年7月5日 九州大学伊都キャンパスにて)

葉祥栄
1940年熊本県生まれ。建築家。1962年慶應義塾大学経済学部卒業後、ウィッテンバーグ大学ファイン・アプライドアーツ奨学生としてデザインを学ぶ。1970年葉デザイン事務所設立。1992年コロンビア大学客員教授。1996〜2005年慶應義塾大学大学院教授。1983年毎日デザイン賞(「ガラスを用いた一連の作品」)、1989年日本建築学会賞作品賞(「小国町における一連の木造建築」)、2019年JIA25年賞(「小国ドーム」)など、国内外で受賞多数。

岩元真明
1982年東京都生まれ。建築家。九州大学芸術工学研究院助教。同研究院にて葉祥栄アーカイブズを構築中。2008年東京大学大学院修了後、難波和彦+界工作舎勤務。2011〜2015年ヴォ・チョン・ギア・アーキテクツ。2015年首都大学東京特任助教、ICADAを共同設立。2016年〜現職。主な作品に《節穴の家》(2017)、《TRIAXIS須磨海岸》(2018)、《九州大学バイオラボ》(2019)など。

水谷晃啓
1983年愛知県生まれ。建築家。博士(工学)。2013年芝浦工業大学大学院博士(後期)課程修了。2009年隈研吾建築都市設計事務所(プロジェクト契約)。2010〜14年SAITO ASSOCIATES。2013年芝浦工業大学博士研究員。2014年豊橋技術科学大学助教、2017年〜同大学講師。東京電機大学、芝浦工業大学非常勤講師。

佐藤利昭
1982年神奈川県生まれ。専門は耐震工学、特に木質構造および木材・木質材料。東京理科大学卒業後、2010年までMASA建築構造設計室・技術主任、その後日本学術振興会特別研究員として2012年に東京大学大学院博士課程修了。博士(工学)。東京理科大学にてPD研究員、助教を経て、2016年より九州大学大学院准教授。現在、東京理科大学客員准教授、防災科学技術研究所客員研究員を兼務。

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建築作品小委員会
建築討論

建築作品小委員会では、1980年生まれ以降の建築家・研究者によって、具体的な建築物を対象にして、現在における問題意識から多角的に建築「作品」の意義を問うことを試みる。