前近代都市論

連載:建築の贈与論(その3)

中村駿介
建築討論
May 25, 2022

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境内と公園

神社境内はコロナ禍における私の生活圏においてもっとも賑わった場所であった。近所の根津神社には、登校を制限された子供や、街に繰り出せない大人たちで溢れていた(図1)。寺社の境内は、公園や美術館の代わりとして、人々の憩いの場として機能していたのである。こうした寺社境内は寺社の私有地でありながら、誰でも受け入れる特性をもつ場所でもある。

図1 根津神社境内(撮影:筆者)

ところで、境内は明治時代に公園へ転用されたものも多い。たとえば上野公園は東叡山寛永寺の境内を転用したものである。明治六年に太政官から府県へ布達されたお達しにより、将軍の朱印状をもらった社寺境内や公共用地は公園に選ばれたのである★1,2,3。動物園から見える五重塔は、境内が公園に転用されたことをよく物語っている(図2、3)。

図 2 上野公園之圖(出典、東京大学総合図書館所蔵)出版地不明・出版者不明だが、
東京勧業博覧会会場地が描かれるから 1907 年ほどであると窺える。 (左)
図 3 寛永寺五重塔(出典、筆者撮影)(右)

明治の初めにできた6つの公園の多くが元は境内であったことは、寺社が私的に所有する土地が強制的に公共という形で人々に提供(≒贈与)されたといえないだろうか★4。この贈与された境内、もとい私的な宗教空間の特質の一つを考えた時に、まず挙げなければならないのが網野善彦氏の『無縁・公界・楽』だろう(図4)。網野氏は、中世では寺社の門前・境内の一部や豪商の支配する自治都市を“アジール”とし、大名権力などが介入しない★5無縁★6の場であったという★7。とくに、そういった場では市が開かれたと言われ、今でも祭りの縁日で開かれる屋台はこうした無縁の場を想像させる。
今回は網野氏が記した寺社の境内・門前と温泉地という二つの都市空間の贈与性について、その全盛期の江戸時代の事例を見ることで考えてみたい。

図4 参考文献『無縁・公界・楽』

寺社と境内・門前

東京の門前町として代表的な浅草寺の仲見世商店街は、近年家賃が大幅に上昇したことが記憶に新しい(図5)。境内地が官有地に移管したことにより起こった現象であった。こうした境内に懸見世が立並ぶ空間は、門前町の特徴である。

図5 浅草寺仲見世(撮影:筆者)

「牛に引かれて善光寺参り」。私の育った長野の善光寺門前町は、近世の参詣地として代表的な門前町★8である。なかでも仲見世通りがある元善町は、古くは堂庭といい、特に栄えた地区である。善光寺門前町は近世初頭に改めて作られたものであるが、元善町は元禄七(1694)年に境内の北に新たに如来堂を作る際に、それまで如来堂のあった場所に商人たちが集まるようになったのが始まりである★9(図6)。

この時に集まった商人というのは、善光寺で働く町の人であった。善光寺町には、簡潔に言えば、こうした寺のために働く町人と、北国街道の宿場で働く町人の2種類がいたが、門前町のなかで最も本堂に近く華やかな場所は、寺に勤める町人に優先的に使用させていた★10,11。寺への勤労という返礼を期待し、空間を使う権利を贈与したといえよう。

図6 善光寺仲見世通り(撮影:筆者友人小林)(左)
図7 堂庭町『善光寺道名所図会』(出典:『復刻 善光寺道名所図会』信濃毎日新聞社発行、昭和 47 年)(右)

こうした境内や門前の空間は他にもあり、関東近辺で有名なのが成田の旅館である。成田山新勝寺の門前町である成田村には、新勝寺に歌舞伎役者・市川團十郎が帰依したことで、江戸の庶民に人気の参詣地となった。こうした参詣では宿坊に泊まるのが一般的だが、成田では門前の旅籠を宿とするようにして、寺中では特別な客以外は泊めないものとしていた。成田では新勝寺が宿泊客を門前の旅籠に融通することで旅籠は栄え、町の規模は拡大していったのである★12。

同様に、宿泊客を融通する仕組みをもつ町に温泉町がある。たとえば、豊臣秀吉が愛した神戸の有馬温泉町では、江戸時代には湯屋(共同浴場=現在の「金の湯」)は有馬二十坊という20人の有力な町人により支配されていた。彼らは近世初頭に組織化された集団で、特に重要な権利として、湯女を使役し湯治客を湯屋に案内する「湯女株」という株を所有していた★13。有馬二十坊以外にも「枝家」という宿があるが、有馬二十坊の宿はそれぞれに従う枝家へと、湯女を通して客を差配していた。こうした客がどの宿に泊まるかを決める役割は、中世では在地の寺院である温泉寺行っており、差配(≒客の贈与)の権利が有馬温泉町の経営の仕組みとして組み込まれてきたのである★14(図8)。

図8 1737 年における有馬温泉町の復元図(出典:筆者作成)

外湯のある温泉町の互酬性

有馬温泉とは異なる形の贈与性をもつ温泉町もある。網野は平和領域として湯屋(≒共同浴場)を挙げているが★15、共同浴場は今でも、信州野沢温泉(図9)や渋温泉(図10)といった昔ながらの湯治場に外湯として残っている★16。こうした地域の外湯では、幾つかの外湯を巡りながらそぞろ歩きをしながら、湯治客がほぼ無料で入浴することができる。江戸時代の温泉町の共同浴場は「惣湯」と称すこともあり、村人・町人が共同管理することに特徴がある★17。たとえば、草津温泉町の外湯は、村人が設置し、村内に泊まる旅行者が誰でも使用できる決まりがあった。新たな外湯の設置は湯治客を呼び、湯治客の到来は店舗の設置を促し、新たな店舗は町場を拡大し、更なる外湯の設置を促す。そうして村の町場は発展したという★18。互いに贈与し合うことをモースは互酬性と呼んだが、この点で複数の外湯巡りをする温泉町は、村人たちが都市空間へ共同浴場を互いに提供し合った結果、成熟していったのである(図11)。

図9 野沢温泉大湯(撮影:筆者) (左)
図10 渋温泉旧大湯(現すき亭:洗心亭、明治 21 年竣工、昭和 48 年移築復元)(撮影:筆者)(右)
図11 上州草津温泉之図(出典:早稲田大学図書館)

境内と商業

こうした“アジール”の町場が町の有力者による特別な贈与によって成り立つ可能性があることを示してきたが、門前で繁昌する商業は、境内や門前と不可分な関係にある。参詣客で賑わう門前町は、参詣が盛んになる室町時代から始まるという★19。たとえば、境内地で参詣客をもてなす古き例として、中世京都の東寺の門前に置かれた茶屋がある★20(図12)。元は一服一銭での抹茶の立て売りが、小屋をかけて売るようになったものである。また『東寺百合文書』の応永廿五(1418)年二月廿九日条には★21、掃除などの雑役に従事した下級の社僧である宮仕(みやじ)が参詣者を自分の部屋に招いて大酒を飲んだことを咎められた記事がある。こうした空間は参詣者という不特定多数な人をもてなす点が特徴である。カフェや飲食店といった現代の商業地につながる空間が、中世の境内や門前の内の私的な空間を提供したことで発生した点が興味深い。

元は一服一銭での抹茶の立て売りが、小屋をかけて売るようになったものである。また『東寺百合文書』の応永廿五(1418)年二月廿九日条には★21、掃除などの雑役に従事した下級の社僧である宮仕(みやじ)が参詣者を自分の部屋に招いて大酒を飲んだことを咎められた記事がある。こうした空間は参詣者という不特定多数な人をもてなす点が特徴である。カフェや飲食店といった現代の商業地につながる空間が、中世の境内や門前に発生していることが興味深い。

図12 一服一銭(出典、塙忠雄編『七十一番歌合』温故学会出版、大正3年
(国立国会図書館デジタルコレクション))

結びに

最後に、昨今若者に流行の表参道は大正九年(1920)に明治神宮の参道として整備された。現代の商業地ですら宗教性を端緒とした場に作られていることに注目したい★23。(続く)

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参考文献

  1. 網野善彦『無縁・公界・楽』平凡社、1996年(元は、網野善彦『無縁・公界・楽 : 日本中世の自由と平和 (平凡社選書58)』平凡社、1978年。後に1987年に増補版が刊行されている。本稿で使用したのは増補版を平凡社ライブラリー化したもの。)
  2. 日本公園百年史刊行会編『日本公園百年史』日本公園百年史刊行会、1978年。
  3. 小林計一郎『長野市史考』吉川弘文館、1969年。
  4. 石川理夫『温泉の日本史』中央公論新社、2018年。
  5. 高橋陽一『近世旅行史の研究: 信仰・観光の旅と旅先地域・温泉』清文堂出版、2016年。

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★1:上野公園ができる前の明治三年頃より、寛永寺の境内は政府案として大学東校(現在の東京大学医学部の前身)の敷地とすることに決定していた。これを翻意して公園としてできたのが現在の上野公園で、その理由には2説あるという。一つは、政府御傭医学者のオランダ軍医ボードイン氏が反対し、上野を美麗な公園地するよう政府要人の翻意を求め、ついに原案を覆して公園としたという説。またもう一つは、林学者の中村弥六の「林業懐古録」の記事から、政治家の佐野常民氏が、巨樹大木が民間に払い下げられ自由に伐採されるのを止めるため、公園の適地を求める場所として上野を提案し、山形有朋が二百五十石を投げだして上野を買収しこれを官に納めたという説。
★2:ここでいう公有地は、寺社の朱印地でもなく除地でもないが、従来公共の用に供せられれている道敷・堤塘敷・溜池・水流・土揚敷・一里塚や郷倉敷地などの土地で除税されている地をいう。(日本公園百年史刊行会編『日本公園百年史』1978年)
★3:東京では明治6年から昭和10年までに芝(増上寺)・上野(寛永寺)・深川(富岡八幡神社)・浅草(浅草寺)・飛鳥山(官設公園)・麹町(山王社・日枝神社)・愛宕(愛宕神社)の7つの公園が開かれた。
★4:このほか、近代化前の江戸時代の公園に類似した場として日除地、民営種芸園地、社寺境内といったものが挙げられる。
★5:守護使不入は、鎌倉時代、守護の検断使が入部するのを禁ずること。主として寺社本所の特権であった。室町時代には段銭・守護役の徴収使の入部をも禁じ、有力寺社、幕府と密着する五山塔頭・公家・奉公衆など幕府直属の御家人等の特権となった。守護使不入権のかかる内容変質は、守護が独自の段銭以下守護役を賦課するようになる十五世紀以降になると、ますます重要な意味を持ってくる。不入地は守護の領国支配における治外法権地として機能し、一元的領国主化を阻止する橋頭堡になるとともに、幕府将軍権力の立脚基盤、幕府の集権的御家人支配を支える場としても機能したのであった。(日本国語大辞典、国史大辞典)
★6:無縁とは、日本中世史家網野善彦の提唱にかかる日本中世史学上の学術用語で、人間や場所に関してそれらが主従関係・親族関係をはじめとする世俗の私的な支配に拘束されない状態にあることを意味する概念。無縁の性格を有する場所としては道路・市場・海浜・野山などが、また無縁の人間としては遍歴の職人・芸能民などの非農業的職種の人々が挙げられている。[植田信広](国史大辞典)
★7:「この立場(荘園を大土地私有ととらえ、不輸不入の特権をそうした私的大土地所有を支えるものと見る)に立てば、寺社の門前・境内は、その「敷地」であり、寺社の土地私有権が最も完璧に貫徹した場――最近よく使われる言葉でいえば、「イエ」支配の最も行き届いた地域にほかならない。荘園はいわばその延長線上においてとらえるべきであり、それ故、戦国期、荘園を失ったのちにも、門前だけはなおその支配下に残された、ということになる。それはさらに、自治都市にも延長されるであろう。そもそも「自由都市〈堺〉」などというのは幻想にすぎない。堺もふくめ、自治都市はそれ自身、有力な封建土地所有者でもある豪商の支配する――その「イエ」支配の下におかれた封建的都市である。」(網野善彦『無縁・公界・楽』211頁)※括弧()内は引用者による。
★8:門前町の定義については藤本利治『門前町』(古今書院、1970年)の定義を踏襲している。
★9:寺社領は明治三年十二月に布告された社寺領上知令によって当時の境内を除いて官有地とされる。善光寺については明治四年十月十一日に、山門上を境内と定めたそうで、仁王門から山門の間にある堂庭も官有地として没収された。その後、明治五年正月に払い下げられたい旨を嘆願し、同年五月八日に許可されたという経緯をもつ。
★10:小林計一郎『長野市史考』吉川弘文館、1969年。
★11:もちろん年貢をとるという目的もあっただろうが、その対象は宿場町人でもよいはずで、被官などの寺院の身内被官に優先的に貸し与えていたことは、寺に勤める被官を優遇したと解釈できる。
★12:小倉博『成田・寺と町まちの歴史』聚海書林、1988年。
★13:ここでいう所有は株を所有していることであり、株は土地建物に付随する。そのため二十坊の土地屋敷を売買・譲渡する際に、株とその権利も移動する。(中村駿介「近世有馬温泉町の空間構造:有馬二十坊の社会的・空間的特徴について」『日本建築学会計画系論文集 86(780)』2021年、657–664頁。)
★14:こうした権力の変遷については、具体的な論証が必要である。逆に、有力町人がその他町人を囲い込んでいるともみてとれる。
★15:十三「市と宿」、補注17「湯屋と温泉」(網野善彦『無縁・公界・楽』)
★16:野沢温泉や渋温泉に備わる幾つかの共同浴場を巡る空間体験は、第2回で話したように原宿のような回遊性を備えている点も注目できる。
★17:総湯(惣湯・大湯)については石川理夫の著書に詳しい。北陸地方の温泉地は中世以降「惣湯」と呼ぶ共同湯を核にかたちづくられ、発展した。明治以降になると惣湯を総湯と表記するようになる。惣村(惣庄)とは、中世に畿内から周辺地域にかけて、荘園制度の解体の中から形成された自治的な村落共同体である。惣村は村で惣有する山林など惣有地や、共同祭祀にかかわる惣社など惣有財産を保持していた。温泉地についても泉源湯つぼが集落共同管理の対象となり、唯一の泉源(共同湯つぼ)もしくは代表的な共同湯がシンボル的に惣湯と呼ばれていく。
★18:高橋陽一『近世旅行史の研究―信仰・観光の旅と旅先地域・温泉』清文堂出版、2016年。
★19:新城常三『新稿 社寺参詣の社会経済史的研究』塙書房、1982年(もとは『社寺参詣の社会経済史的研究』塙書房 1964年)。
★20:一服一銭(いっぷくいっせん):室町時代から安土桃山時代にかけて、抹茶一服を一銭で売ることの称。また茶湯の異名。賽客の群集する縁日などに担い茶具で立売りするのが通例であったが、社寺の門前に小屋がけして一銭茶屋と称されるに至った。起源を示す伝承としては、夢窓国師が青年廻国修行のおり、その道中の茶屋の女房が国師に懸想した話がある。いわゆる「峠の茶屋」の発生をしのばせる。『東寺百合文書』ケに応永十年(1403)の「南大門一服一銭請文」がみえ、その南大門前の一服一銭茶売人の制規が知れる。立売りだとわかるが、およそ発生年代がこれで推測できる。[永島福太郎](国史大辞典)
★21:東寺百合文書ワ函32(京都府立京都学・歴彩館蔵)『鎮守八幡宮供僧評定引付』応永廿五年(1418)二月廿九日条「一 鎮守宮仕部屋畳事、自寺家内々別当方令談合、本宮仕無左右不従仰、先々新宮仕於彼部屋、構参詣之輩及大飲事処候之上、◦〈一身〉可被行罪科之処、不便次第之由雖歎申、別当方加重々問答、可差改之由治定了、其趣衆中披露之間、落居条珍重々々、所詮於向後者新宮仕等構参詣者不可及酒宴沙汰、就中社頭打捨有退出事者、堅可処罪科之由可加下知之由評定了、」
この項は、所属している大学で参加した中世史のゼミの中で使用され、深く感銘を受けたものである。ゼミの諸兄に厚く御礼申し上げます。
★22:桜井英治『贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ』中公新書、2011年、52頁。
★23:近年アーティスト・コレクティブの“Chim↑Pom”は、自身のスタジオの私有地内に、誰でも通行・利用することができる私道を作っている。また、台湾の展覧会では美術館の屋内外に一本の道を作り、そこに適用される独自の規則を策定しており、贈与空間のアート化とも見て取れる。

中村駿介 連載「建築の贈与論」
その1 建築の贈与論について
その2 現代都市の中の贈与
・その3 前近代都市論

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中村駿介
建築討論

なかむら・しゅんすけ/1990年長野県生まれ。東北大学卒業、東京大学大学院修了、宮本忠長建築設計事務所勤務を経て、東京大学大学院博士課程。専門は日本建築史(中近世門前町研究)、建築理論、建築設計。