寄稿:失敗している(かもしれない)建築

[ 201802 特集:建築批評 吉村靖孝《フクマスベース/福増幼稚園新館》]

連勇太朗
建築討論
11 min readJan 31, 2018

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摩擦と失敗

改変可能な図面の販売を企図する《CCハウス》(図1)、一週間単位で住まいを提供する賃貸住宅《Nowhere resort》、移動可能な低コスト不動産《エクスコンテナ》、見えない法規によって建築形態が生成されていることを示した『超合法建築図鑑』など、吉村靖孝の建築の多くは、現実とのあいだに発生する「摩擦」を利用することでプロジェクトが削り出されるという特異な構造を持つ。建築の創作において無関係と思われていたもの、後景化していたもの、無意識的に扱われていたものに着目し、創作の前提となるフレームワークを画定させている背後のシステム、ルール、規範、そして吉村自身の言葉を借りれば「プロトコル」を、建築を生成する不可視の力として表舞台に引きずり出し、肥大化させることでコンセプトをつくり出す。著作権制度、賃貸マーケット、物流における規格、不動産売買やローンの仕組みなど、そうした社会を動かすハードコアな仕組みそのものを吉村は創作の与条件として組み込み、プロジェクトを動かす大きな原動力としてきた。

図1:《CCハウス》イメージ(提供:吉村靖孝建築設計事務所)

さて、本論で私は、吉村の建築を「失敗している建築」と挑発的に表現してみたい。そうすることで、吉村の建築に見出される重要な特質について考察することができる。端的に言うとそれは、プロジェクトにおいて「失敗可能性」が根本に内包されており、それ自体がプロジェクトの批評性を担保するために重要な機能を果たしているという特性だ。
通常、建築プロジェクトにおいて「失敗」は表面に現れない。失敗の数々は巧妙に隠蔽され、最終的なアウトプットは建築家の創造の賜物としてパッケージ化され社会に流通する。機会さえあれば断片的に聞くことのできる施工の「苦労話」やディテールの「失敗談」に、我々は時に感動したり、時に憤慨したりするが、そうしたことを通して人々に共有されるのはアイデアを実現するために必要な強靭な意志、技術力、チームワークの存在であり、それらは最終的に成果物を美しく装飾するための美談にしかならない。「失敗談」はここで私が主題として取り上げたい「失敗」とは関係のないものだ。本論で考えたいのは現実社会に対する建築作品の持つ批評性の有効/無効という課題にまとわりつく「失敗可能性」についてである。

特殊性と汎用性のあいだ

では、吉村の建築に見出される「失敗可能性」とはどういった類のものなのだろうか。それは「特殊性」と「汎用性」という二つのベクトルのあいだに見出される。特殊性は、作品を作品として成立させている固有性のことであり、それは作家性、場所性、ブランド価値、記名性と結びついている。一方で、汎用性は産業に関係するものであり、匿名性、規格化、効率性、大量生産などの諸概念と結びついている。建築家は一般的には特殊性に立脚した存在であるが、吉村はそのなかでも、汎用性への志向が強い建築家と言える。
冒頭で指摘した通り、一連のプロジェクトを通して抽出できる吉村の建築作法とは、汎用性と強く結びついた特定のプロトコル、システム、ルールを取り上げ、独自の解釈(そして批評)を加えることで、そこから半自動的にひとつの結論を「作品」として生み出すというものである。
さて、ここで重要なことは、こうした作法によって<プロジェクト>が二層化し、作品の単位がぼやけるということである。二つの層を構成するひとつめのレイヤーは、物理的にアウトプットされる建築物であり、二つ目のレイヤーは汎用性を体現するシステム、シナリオ、シミュレーションである。両者を「コンテンツ」と「システム」と言い換えてもいいかもしれない。この二重構造を吉村のプロジェクトは構造として内包している。
吉村の設計した建物(コンテンツ)を通して、私たちは、コンテナハウスが海上・陸上を自由に移動し不動産とローンから解放された社会を、人々が図面を売買・改変することで生き生きとしたランドスケープが生まれる状況を、そして住むことと宿泊することの垣根が限りなくグラデーショナルになったライフスタイルを思い描くことができる。それは、建物単体とともに、その背後にあるシステムを通して作品が持つメッセージが状況として波及していくことが想像できるからである。既存システムのハッキングによって、吉村の建築は社会を変える「予感」を私たちに感じさせてくれる。

Deploy or Die

しかしだ。システムは普及することではじめて意味をなす。作品単体で閉じていては意味がない。ゆえに、汎用性が追求される水準において<プロジェクト>が失敗する可能性が生まれる。単体としての作品を成り立たせつつ、同時に現実社会を駆動するプロトコルを引き受け、その二つを共存させようとしても、その二つは多くの場合、相容れない。しかも、社会システムは著作権、不動産売買、金融ローン、物流など、容易に対峙することのできない手強いものばかりだ。そこから単体としての作品をコンテンツとしてつくり出すことはできても、社会を動かすOSのなかで、きちんと新たなシステムとして機能させるには、通常の建築設計の何倍もエネルギーがかかり、より多くのリソースを必要とする(そして多くの場合「設計」とは関係のない技能が求められる)。そのため、プロジェクトの波及や普及が限定的にならざるを得ないというジレンマが発生するのだ。吉村のような新たな行動様式を持った建築家特有のジレンマと言えよう。《CCハウス》や《エクスコンテナ》が事業として成立し、システムの力を最大限生かして社会に広まっているという気配は今のところ残念ながらない。<建物>が成功していても、<システム>そのものが成功するとは限らない。
さらに言うと、IT技術の進展により実装することが過度に求められる時代になりつつある。ウェブインフラが爆発的に広がり整ったことにより、Google やAmazonをはじめ、アメリカの西海岸にとどまらず、世界中でスタートアップと呼ばれる社会・都市の仕組みを根本から変えるような革新的なサービスを実現する企業が現れている。ここ数年で、こうした企業の力により私たちの生活は驚くほど変化した。しかも、MITを中心に「demo or die」や「deploy or die」★1といった標語がうたわれるように、「提案」や「批評」それ自体の身分は限りなく低くなり、「実装」されることにより価値が置かれる社会ができあがりつつある。批評や論壇の果たす役割は極端に狭まっているのだ。一方、文字通り、汎用性と合理性を追求する建設産業の技術革新や進化はめまぐるしい。建物は高度にプレファブ化され、販売・生産がセットになった流通網のなか、超低価格で空間を創出することが可能となった。また、超高層ビルも今までにないスピードで増殖している。大量生産の効率性は今までになく高いクオリティで私たちの生活に影響を与えている。システムが行動に複雑化・巨大化する社会を私たちは生きている。
こうしたリアリズムを引き受けたうえで、システムまで含めて作品を成立させようとする建築のあり方は確かに面白いが、相対的に提案や批評の価値が下がっている時代のなか、建築家のそうした提案にどれだけ意味があるのか冷静に考えなければいけない。あえて露悪的に表現するならば、吉村の建築は逆説的に、システムの巨大さや暴力性、そしてそれに対して建築家が無力な存在であるということを示しているようにも受け取れる。もはや提案を実装することでしか作品の批評性を担保できないとするならば、システムとコンテンツをセットにした建築提案にどれだけの意味があるのか改めて問いなおさなければいけない。
吉村の建築の、その優雅で華麗なデザインに私たちは魅了される。しかし、その背後でプロジェクトは脱臼しているのだ。

「失敗可能性」を抱えた建築

私はこの「失敗可能性」をネガティブなものとして捉えるのではなく、建築の新たな批評のあり方として評価する立場をとりたい。現実社会との接面において、建築的構想力を最大化しようとしたときの「摩擦」のなかに失敗可能性は宿るからだ。それは、自律性という殻のなかで批評をぐるぐると自己消費することでもなく、批評を捨てた開きなおりのオプティミズムやポピュリズムでもない新たな立場である。作品や批評性という輪郭を残したまま、建築の力によって社会を変える(かもしれない)という回路を生み出していくチャレンジとして捉えられる。吉村のプロジェクトの多くは現時点で実装されていないものも数多いが、それは誰かがバトンを受け取ればいいことなのかもしれない。すわなち、直接的かつ迅速な社会変革を意味しないが、非常に優れた新たな建築批評のかたちであるとみなすことができる。いまだ実装されていない、しかも失敗する可能性を持っているという意味において、吉村靖孝の「作品」のひとつひとつは、社会を変える可能性を持った新たな建築の「プロトタイプ」★2なのだ。そして、それをディプロイする主体はひらかれている。

「失敗しない建築」の伝統と新たな建築

こうした作品のあり方の位置付けをもう少し明確にするため、対照的な創作態度を持つ同世代の建築家・平田晃久と比べてみたい★3。よく知られるように、平田には<からまりしろ>という明確なコンセプトがある。平田の実践はいわばこの<からまりしろ>というアーキタイプをより純粋なかたちで実現し、アーキタイプそのものの概念を発展させるために諸所の実践が位置付けられる。現実社会において<からまりしろ>が実体化されるプロセスが平田にとっての建築なのだ。その意味で、平田の建築は個々のプロジェクトにおいて優劣の差はあっても、「からまりしろ」というコンセプトは純粋な状態でその価値は保存されている。プロジェクトそのものは現実世界での失敗談の数々があったとしても、<からまりしろ>そのものは、理想状態になることを目指して進化し、いつか完璧な状態になる。そういう意味で<プロジェクト>の「失敗可能性」はあらかじめ排除されている。一方、吉村の一連の作品は、あるアーキタイプから建築が生み出されるわけではなく、既存の仕組みをハックすることによって建築を生成しようとする。そして、ハッキングは必ずしも「成功」を保証されているとは限らない。

建築の批評の伝統は平田的なる創作や批評のあり方に立脚してきた歴史を持つ。平田的なるもの、要するにアーキタイプをリアライズしていくという建築家の理念と現実の関係は、パルテノン神殿やパンテオンを建築の正当として確立してきた言説の構造と同型だ。そしてそれは崇高なるものを評価してきた言説空間と結びついている。ゆえに、そこには「失敗」も「失敗可能性」も存在しない。多少、話が飛ぶが、60年代のアンビルドをはじめとした建築アヴァンギャルドは、そうした構造を破壊しダイレクトな社会批評を建築として展開した。しかし、結実したものは、アンチソーシャル、メガロマニアック、完全なるフィクション、そしてユートピアあるいはディストピアといった現実から遊離した極端な状況設定であった。そもそも「成功」が目指されているわけではなく、プロジェクトのそもそものはじまりから「失敗」が前提とされている。
こうした文脈を踏まえると、現実社会と理念の接面において作品が生成されるという「失敗可能性」を含んだ建築・批評・作品の可能性はまだ十分に(歴史的に)追求されきれているとは言えないということがわかる。実装可能性を内包しつつも、実現されない可能性を秘めた建築のあり方は、吉村の諸活動を通して一部の輪郭が形成されはじめたばかりである。安易な社会改革でもなく、出口のないジャーゴンでもない、建築の創作を通して社会を変化させようという意思やビジョンに支えられた建築批評と建築作品の新しい回路の創出をめざして、失敗している(かもしれない)建築に新たな立場と評価を与えたい。


1)
Demo or Die(動かしてみろ、さもなくば…)は、Publish or Perish(論文をかけ、さもなくば…)ならってMITメディアラボ初代所長N.ネグロポンテの発信した情報化時代の研究のあり方を示した 理念。そして時代は変わり、実装し社会に広げていくコストが低くな ったことを見通して、伊藤穣一はDeploy or Die(社会に展開せよ、 さもなくば…)という新たな理に更新した。
2) エリー・デューリングによる「プロトタイプ」(武田宙也訳)、『現代思想』2015年1月号所収という言葉に触発されたものとしてここで使用している。概念として完全に一致するわけではないが、氏のプロトタイプ論における構造的問題は本論においても共有可能である。
3)日経アーキテクチュアのNA建築家シリーズ06でも二人は対照的な存在として書籍化されている。

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連勇太朗
建築討論

むらじ・ゆうたろう/1987年生まれ。建築家。モクチン企画代表理事。慶應義塾大学大学院SFC特任助教。著書に『モクチンメソッド:都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版社)ほか。