小川信子[1929-]「生活環境の探求」の伴走者たち

話手:小川信子/聞手:種田元晴・石井翔大・橋本純・砂川晴彦[連載:建築と戦後70年─08]

建築と戦後
建築討論
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70 min readMay 15, 2021

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日時:2019年12月28日(土)15:00~18:45
場所:建築会館会議室(東京都港区)
同席:正宗量子(建築家)
聞手:種田元晴(T)、石井翔大(I)、橋本純(H)、砂川晴彦(S)

小川信子氏

長きにわたって幼児施設の設計、生活福祉に関する研究、住生活学の教育を展開された小川信子氏の足跡は、すでに刊行されているいくつかの媒体で確認できる。

たとえば、鈴木博之氏は『現代の名匠』(建築画報社,2014)のなかで、とくに女性の地位と教育に関して詳しく聞き取られている。

また、小川氏の日本女子大学退任を記念して数多くのお弟子さん方によって編まれた『生活環境の探求』(ドメス出版,1998)には、設計、研究、教育活動の全体が詳細に記録されている。

今回は、これらを下敷きにしつつ、これまでにあまり語られていない建築家・研究者たちとの交流に主眼を置いて聞き取りを行った。

戦後日本の建築家山脈を女性の立場から縦横無尽に駆け巡った小川氏の視点から、時代を先導した建築家・研究者たちがどのような心構えで生きたのか、そのありのままの姿が映し出された。(T)

呉服屋に生まれて

T: まず生い立ちからお聞かせください。

小川: 日本橋生まれで、呉服屋の娘です。ですから女子大(以下、日本女子大学のこと)に入ったときはコンプレックスの塊でした。私たちの世代は戦争体験のある人間です。父は専門学校しか出てませんから、大学を出た人が周りにいないわけです。いとこにはいましたけれど。女子大には、立派なお家柄の方たちばかりで、商人の娘はおりませんでした。地方の地主のお嬢さんとか、公務員、教師の方とか。サラリーマンの方もいました。戦争で色々な階層変化がありましたから、みな経済的に大変でした。父も大変だったと思いますが、「やっぱりこれからは女がしっかりしなきゃいけない」と。また、父は呉服屋を戦後は続けるつもりもなかったので、大学まで行って独り立ちしなさいというんですね。私達が大学に入った時は混乱期です。個人の問題ではなくて、家族ぐるみの問題だった時代です。日本橋から昭和18(1943)年に浦和へ疎開して、そのままうちの本拠は浦和辺りになりました。あの時は土地問題が大変でした。

T: 日本橋へは戻られなかったんですね。

小川: 父は日本橋に戻るつもりでした。敷地も持っていた。でも戻ってみたら、戦争で焼けて荒れたところに勝手に横取りして住んでいる人がいた。それで裁判沙汰になって、父の友人の弁護士さんも随分頑張ってくれましたが、帰れなくなりました。それで父はもう諦めて、浦和で根をはろうと。その時に商人は辞めたって言ってた。京呉服の専門だったものですから、絹織物を扱っていました。絹織物というものはものすごく贅沢品でした。戦争のギリギリになった時に最初に切られた商売です。うちは問屋ですから、小売屋じゃないのでたくさんの呉服を抱えていました。それを政府に全部持ってかれた。お金なんか一銭ももらってない。当時の政府はものすごく横暴だと思った。戦後になっても返してもくれませんでした。でも父は世の中のことを分かってる人間ですから。「関東大震災を切り抜けた」なんて言って威張ってました。災難の時どうなるかは予測がついていたのかもしれません。だから二度と商売はやらないと、浦和に疎開したんです。それが昭和18年、終戦の前です。

H: 江戸時代から続く呉服屋だったのですか。

小川: 父の前が曖昧なんです。祖父は地方の人でしたから、父は東京に出てきたくて修行し始めたと思います。父にも兄弟はいて、それぞれ薬剤師になったりと全然違う仕事をしていました。なんで呉服屋をやったのかは聞いてません。うちの呉服屋は父の代から数えていて、2018年で100年でした。私が本当はその跡を継ぐ人間だったんですよ。

H: ご兄弟はいらっしゃいますか。

小川: 私は4人兄弟なんです。女二人、男二人で私は長女です。7つ下に次女、その後少しずつはなれて長男次男が生まれました。次男が小川洋司[1942–1993](★1)といって、大江宏[1913–1989]先生のところで修行した建築家です。結局父は息子たちに継がせなかったんです。父はむしろ私を呉服商として育てようと思ってたんですね。子供のときから美術館に連れてったり、小学校の時一緒に寝台車に乗って8時間くらいかけて京都に行って、呉服屋さんのお嬢さんと遊ばせたりとかね。でも戦争が終わって、元の呉服屋に戻れる予定がつかず、戦後の時代は自立しなさいという話になってきて、しっかり勉強するんだよと言われました。

T: お父様は、戦後は呉服屋さんを続けるつもりはなかったと。

小川: ですけれど、父のところで働いていた人たちが戦争から帰ってきますでしょう。皆招集されて戦地に行っていたり、陸軍士官学校に行っていたり、亡くなった人もいます。亡くならないで帰ってきた人たちが職業に困った。それで父がこの人達を生活できるようにしなければならないとなって。浦和は幸い自宅が浦高通りにあったので、そこで、私が大学を卒業する時分に、呉服屋を再開しました。昭和18年にどうしてそんなことが出来たのか不思議なのですが、疎開する前に浦和に一軒の家を建てたんです。その時私も建築現場を見に行きました。それで面白そうだと思ったんですね。父も好きですからね、大工さんと一緒に瓦屋根の屋根葺きなんかやりました。戦後は、みなさんが着物を売って生活していました。それを引き受けて、仲買みたいなことをやったのでしょう。

H: 戦後直後、極度の食糧不足に陥っていた都市部の方たちが食料を分けてもらいに農家に行き、上等な着物とわずかばかりの食料を交換してもらっていましたよね。一方で農家の方は着物を貰っても使い手がないから、それをもう一度市場に回したわけですね。

小川: 父は古い着物をチェックする資格を持っていたんです。その資格がない普通の呉服屋では出来ない仕事をやっていました。着物の骨董商のようなものですね。もう一つは木綿の配給会社をやっていた。下着などを作らないといけないので、戦後は木綿だけはすぐ開放されました。配給切符で購入する制度がありました。それで結局父は呉服屋に戻りました(笑)。

T: その後、お父様は小川先生に呉服屋さんを継がせようとされていたけれど、継がれなかったのですね。

小川: やっぱり建築がやりたかった。住居学科に入ったから。

T: 小さい頃からずっとやりたかったのですか?

小川: 小さい時は絵を描きたかった。その時も日本画を習ってまして、日本画の先生にうちの母が「どういうもんでしょうかね」と尋ねたら、「日本画なんて描けても食えませんからやめたほうがいいですよ」と言われて(笑)。なので女子美(女子美術大学)に行こうと思っていたのだけどそれをやめて、日本女子大の生活芸術科(住居専攻・被服専攻)に入りました。なにか面白そうだと。生活芸術科は住居学科の前身です。それで父は跡継ぎに困って。妹も「大学に行く」と言ったらそれを阻止されて。それで妹が跡取りになりました。今は妹の長男が跡を継いでいます。次男は建築家になりました。店の名前は小川屋です。

T: 疎開から戻ってすぐお仕事を始めたんですか。

小川: 私もよく分かりません。あの頃、商売というのはどこもずるずるずると始まったものです。それまで父はもっぱら畑を耕してました。200坪の土地で、じゃがいもとかさつまいもとかつくっていました。私はじめて疎開してトマトがこんなに美味しいと思った。木になる野菜は凄く美味しいというのがわかりました。日本橋は青いものがくるわけです。それで赤くなって食べるわけです。そういう環境で育ったものですから、田舎の味わいを知らなかった。ぶどうや色々なものを作って、むろを掘って保存できる野菜を全部なかに納めて、戦後食糧難で困った方達に配った。私達も手伝いました。さつまいもの弦返しとか、農家のしごとを一通りやりました。なかなか面白かった。ちょうど大学生の頃です。そうすると同級生たちが食べにきたりね(笑)。

インタビューの様子

日本女子大学の恩師たち

T: 大学に入る時のことをお聞かせください。跡見女学校では鈴木成文[1927–2010]先生の奥様とご同級だったのですよね。

小川: 成文先生の奥様の(相賀)貴美子さんとは同級生でした。彼らは群馬かどこかに疎開していました。地方の女学校は4年生で卒業させられましたが、跡見では5年までです。終戦からすぐで勉強もしてないのに、4年で卒業では何も出来ない。4年で卒業した人も何人かいますが、ほとんど5年でした。女子大を受けた時に、入ったらば一級上に貴美子さんがいる。「あれ、あなたどうしたの?」という感じで(笑)。そんなことがございました。

T: 林雅子[1928–2001]さんとはどういう関係になりますか。

小川: 林雅子さんは貴美子さんと女子大で同級生でした。

H: 林雅子さんは一学年上になるわけですね。

小川: そうです。雅子さん達が生活芸術科1回生、私が2回生です。あのとき学校制度が色々変わりました。日本女子大も学科名が全部変わりました。その時の学長の大橋廣(おおはし・ひろ)[1882–1973]先生が、これからは生活を新しい視点で研究し、衣食住を建て直さないといけないということで、「住居と衣服を芸術的に美しく」という話でした。それで生活芸術科という名前になった。その名前に憧れて入った(笑)。基礎になる科目は一緒にやって、3年生から住居専攻、衣服専攻と専門に分かれていきました。

H: 生活芸術科の以前はなんという名前だったのですか。

小川: 家政学部何々学科という名前でした。児童科とか食物科といのはありましたが、住居学科というのはありませんでした。建築を女性がやるなんて発想のなかった時代ですから。生活管理学科というのはありましたけれど。私達が一番最初に大変だったのは現場に出られなかったことです。私、女子大に(助手として)戻る前は土浦(亀城)[1897–1996]先生の事務所に行っていました。当時土浦事務所では八重洲口の「国際観光会館」[1954]をやっていたときです。それで現場事務所にいろいろ書類や図面を届けたり走り使いをしてた。現場を見たいって言ったらば、「土浦先生やめてほしい」と阻止されました。現場監督も「足場外されたらどうする?」と言っていました。現場は神聖なものだというのが大工さんや職人さんの頭にありました。戦後の頃はまだ女性は穢れているという考えがありました。

正宗: 私も女子大で言われました。「夜の現場監督はできないでしょ」って。設計製図を教えに来られていた男性非常勤講師の先生に。

小川信子氏(右)と正宗量子氏(左)

H: 今だったら大変なことになりますね。

小川: 女性差別はまだすごかったです。お榊あげて、お祈りして、現場が始まりますでしょう。女性の穢れというのは大工さんや棟梁さんにとっては凄いことでした。設計をする先生方はそんなことは全然なくて、私たちを採用してくださったりしていたわけですけれど。

T: 入学されたのが1947年で、卒業が1952年ですね。5年いらしたのですか。

小川: 5年いました。私たちは日本女子大学校(専門学校)で入って、卒業する時は日本女子大学だった。専門学校から大学に切り替わった時でした。1948年に専門学校から大学に移行しました。大学の方は女性が男性と同等の教育が受けられるので、所属を変えたんです。旧専門学校の2年生が大学の新1年生として学籍移動になりました。ですから、私たちの学年には専門学校所属のまま4年で卒業した人と、大学に移籍して5年いた人がいたのです。大学に移籍したのはクラスのだいたい半分で、25,6人しかいません。その時の1年の差はなにかいうと、お嫁にいくのが遅れると親に言われて二の足踏んだ方などでした(笑)。

T: 同級生は何人くらいいらっしゃいましたか。

小川: 住居学専攻は20人くらいです。

T: それは少ないですね。先生の方が多いくらいでしょうか。

小川: 先生の数は多くありません。住居学関係はほとんどが非常勤の先生です。専任の先生に習っていたのは家政学関係の教科です。

T: 建築を教える専任の先生はいらっしゃらなかったのですか。

小川: 建築専門の方はいなくて、家政学の方だけでした。柴谷邦(しばや・くに)先生とか武田満す(たけだ・ます)先生です。建築を教えに来てくださっていた非常勤の先生は早稲田と東大出身の方々です。吉田享二[1887–1951]先生とか、木村幸一郎[1896–1971]先生とか。武藤清[1903–1989]先生とか一流の先生がきていらっしゃいました。私が吉武(泰水)[1916–2003]先生の研究室に伺うチャンスはそのためにできたのです。ある先生が面白かったのは「えー諸君。…あ、あなた方」って言われてね(笑)。男性相手に普段話されているからね。あれは皆けらけら笑って、それから先生と仲良くなって(笑)。面白い時代でした。

T: 吉武研究室に行かれたのは非常勤の先生方とのつながりなんですか。

小川: 吉武先生は非常勤ではないけれど、浦良一[1926- ]先生を存じ上げて。浦先生は吉武先生のお弟子さんで、戸山団地の調査などの時に指導していただきました。それで吉武研のLVに入らない?っておっしゃって。建築計画研究会(金曜の会)をフランス語で略すとLV(Les Vendredis)研究会です。成文先生との関係も奥様繋がりでした。奥様の貴美子さんも東大の研究室に行った方です。

T: 河野通祐[1915–2001](★2)さんは学生の時に会われているんですか。

小川: そうです。卒業論文の時。

T: 河野さんは非常勤でいらしてたんですか。

小川: 河野先生とのつながりは早稲田の吉阪隆正[1917–1980]先生が日本女子大に製図を教えに来ていらっしゃって、そのつながりです。卒論は何をテーマにやるのかと言われた。私は子供の施設環境をテーマにしたいと思ってますと申したところ、吉阪先生は「川添登[1926–2015]がやってる」とおっしゃった。それで川添先生に先に紹介されて、そのあと河野先生にお会いした。それで結局そのままずっと長いこと二人の先生にはご指導いただきました。

T: 川添さんと河野さんは常に一緒に来られていたんですか。

小川: 河野先生は事務所を持ってらっしゃるし忙しくて、川添さんは早稲田の今和次郎[1888–1973]先生の研究室にいらしたので近いですから、たびたび来てくださいました。川添さんの家が巣鴨で、行ったりもしました。幼児教育史から勉強しなきゃ駄目だって言われてつまり、建築で色んな方が設計された児童館を見てそこから始めたんじゃ駄目ですよと言われた。フレーベルからモンテッソーリまで全部読ませられました。まず川添先生から10冊くらい本を渡されて、共著者の田中美恵子さんと二人で手分けして読んで返す。そうしたら、はい待ってました次、ってまた10冊くらい渡された。ものすごく勉強しました。あんな勉強したときってないんじゃないかな(笑)。あとは博士論文のときくらいですね(笑)。

H: その頃は専任教員ではなく非常勤の先生方が卒論の指導をされていたということですか。

T: しかも、川添さんや河野さんは非常勤講師ですらないんですよね。

小川: ですらない。

正宗: 私の場合も、卒論は小川先生の紹介で池田武邦[1924- ]先生についたんです。モデュールに興味がありましたが、女子大には研究している先生がいらっしゃらなかった。その頃、池辺陽先生、池田武邦先生はモルという数列を提案していらした。

T: 池田先生も非常勤講師じゃなかったんですか。

正宗: じゃないです。

小川: そういうことが許されたのよね。女子大の中に窓口の先生がいればよろしいということでした。

H: 小川先生が川添さんに指導を受けていたとき、川添さん早稲田の今研究室に所属していたのですか。それとも新建築社に入社した後でしたか。

小川: あの方、不思議な人です。その時まだ大学を卒業していらっしゃいませんでした(笑)。

H: まだ学生だったんですか。

小川: そう。それで川添先生の卒業設計のお手伝いをした(笑)。弟さん(川添智利)が芸大の建築にいらしたでしょう。だから私たちも弟さんを手伝ったりして。私たちのあとに卒業しているんじゃないですか、川添先生は多分(笑)。

T: 川添先生が卒業されたのは1953年ですので、小川先生の方が先ですね(笑)。川添先生は、最初は文学部哲学科で心理学を学ばれていましたよね。

小川: 戸川行男[1903–1992]先生のところでずっと心理学の勉強をしていましたね。私は矢川徳光[1900–1982]先生のことを尊敬していて、矢川先生の『教育とはなにか』(1973)を随分読みました。とにかく卒論の時は色々勉強しました。でも今になるとあまりこなせなかったかなとも思います。だけどもその時の勉強がのちの研究の基礎になりました。私はロバート・オーウェンを中心にして書きまして、相棒の田中美恵子さんはフレーベルを中心にして書いて。フレーベルはどっちかというと幼児教育のソフトの方です。ロバート・オーウェンは労働者の子どもたちを扱っていて。二人で手分けしてぶつけていって卒業論文にまとめました。当時の保育園の調査もして。田中さんはその後、清家清[1918–2005]さんと同級生の柳英男[1919–1992]さんの建築事務所で定年まで働いて、その後独立していらっしゃいます。

T: 河野先生はあまりいらっしゃらなかったんですか。

小川: 河野先生は時々いらっしゃいましたけどね、川添先生のほうが足繁く来てくださいました。大威張りで大学に入ってきましたけど(笑)。面倒見のいい人でした。川添先生が新建築社に入ったときに、芦原初子[1924- ]先生を紹介してくださったんです。今でも交流がありますけど、良い方で。何でつながったかというと、川添さんが新建築の編集部にいらした時に『新建築』(『JA』)の英語版を始められて、それを初子先生が担当していらっしゃいました。その頃は(芦原)義信[1918–2003]先生がアメリカに留学していらして、初子先生が一人で津田塾においでになって太郎ちゃんを育てていた。

H: 太郎さんは4,5歳の頃ですよね。『JA』の創刊は1956年です。

小川: それで『新建築』のお仕事をしてらして。『Architectural Record』の翻訳もやったりして。その時に病院建築が『Architectural Record』に載っていたんです。私がまだ土浦事務所にいた時で、事務所でちょうど病院建築の設計をやっていました。そしたら土浦先生が「これ訳してみない?」と私におっしゃった。四苦八苦しながら訳しました。今から思うととても恥ずかしいし、それくらいしか実力なかったんですけれども。なにしろ、女学校時代には戦時中で、英語教科が中止になっていたものですから。そしたら川添先生がそれを『新建築』で載せてやるって言ってくださったんです。それで原稿を持ってった。そしたら初子先生がチェックしてくださったんです。「へーこの英語の実力でこれをやったなんて凄い人ね」と言われて。私、今でも覚えてる(笑)。もしよかったら私のところへ勉強しにいらっしゃいって、それで初子先生に英語を教えていただいたんです。翻訳するのも冒険よね。

H: 川添さんと芦原初子さんはどのように出会ったのでしょうか。

小川: 義信先生つながりでしょう。川添先生は気さくな方だから、よその家だって「やあこんにちはー」って入っていっちゃいますから。私達が卒論やってるときも、浦和まできてくださったんですよ。「こんにちはー」と言って入ってきちゃう(笑)。うちの母もびっくりして(笑)。

H: 川添さんは新建築社をお辞めになったあと、ご自身の事務所をつくりますが、子どもの建築について研究はされていましたか。

小川: 若いときにはやってらしたんですよね。卒業論文は、幼児教育と施設の研究をされていました。

H: 以前に川添さんにお話をうかがっているときに、吉武先生は博士論文を早稲田の木村幸一郎先生のところでとったんだよっておっしゃったことがありました。意外なことで驚きましたが、川添さんはっきりそうおっしゃったんです。そのことについてご存じのことはありますか(★3)。

小川: どういう形でお取りになったかはわかりませんが、吉武先生は今先生を物凄く尊敬していらっしゃいました。今先生が亡くなられたときも吉武先生が弔事を読まれたんです。吉武計画学とはちょっと違いますが、今先生の人間を中心とした計画学を大変尊重していらっしゃいました。以前に、内田祥哉[1925- ]先生に「内田先生と吉武先生の計画学をどういうふうに考えたらよろしいでしょう」とうかがったことがあります。なぜかというと、私は吉武先生のところで論文をまとめていたんです。そしたらその時内田先生が「僕の所でやらない?」と、ちらりとおっしゃった。半分冗談でしょうけどね。私それがとっても印象に残ってるんですよって聞いた。そしたら「吉武計画学は人間を中心とした計画学。僕の計画学は建物を中心とした計画学。簡単にいうとそういうことだよ」とおっしゃった。なるほど分かりやすいでしょう(笑)。そうすると、確かに人間中心にした人というと、今先生に繋がるんですよね。今先生と女子大とは繋がりがありますから、今先生のところにいくと、「お茶飲みに行かない?」と学生でも誘ってくださる。先生の後についていって早稲田のあの辺で色んな話を聞いていた。今先生は人間の生活や行動を生活学の創始者ですから。弔事をきいてびっくりした。だから吉武先生とも関係はあるかもしれません。吉武先生は盛んに調査をさせていました。実態調査といって状態をきちんと調査していらっしゃって。

T: 今先生は非常勤講師として女子大に来られていたんですか。

小川: 昔(専門学校の頃)は常勤だった時代もあったようです。今先生ご指導の論文が今先生の遺品の中から出て来て、女子大に寄贈されています。でも私達の時は大学の形態ができていましたでしょう。昔は色んな先生が色んな形で手伝ってくださっていたと思うんです。私達も内藤多仲[1886–1970]先生に習っていたりとか。

T: 佐藤功一[1878–1941]さんはどうですか。

小川: 佐藤先生は私達より前。住居学科ができたはじめは佐藤先生です(★4)。

T: 小川先生の頃は、武田満す先生と柴谷邦先生だけが専任だったんですね。

小川: 専任はその二人だけです。武田先生も専任といっても助教授です。柴谷先生は教授。武田先生はアメリカに3年間留学した。私達が卒業してからかな。それで帰ってらっしゃる間際に私は柴谷先生に呼ばれて日本女子大に戻った。もどった時はまだ武田先生はいらっしゃらなかった。

正宗: アメリカから帰ってこられたら、ものすごいピンクの洋服着てらして。

小川: そうそう物凄く派手な格好して帰ってきたんです。それで柴谷先生が「あなたちょっとそれは教授会じゃ派手すぎるからもう少し考えて」と、ちらりとおっしゃった。そしたら武田先生は真っ黒のスーツ着てきて(笑)。そしたら柴谷先生が「あらあなたやっぱりそれ似合わないわね」と。それでお許しもらって、派手な格好にもどった(笑)。

正宗: その頃教授でピンクのブラウスなんていませんからね。皆ショックを受けました。でも素晴らしいインテリアの授業をされて。

小川: アメリカ流の教育をしていただいて。ハウスマネージメントハウスというのを女子大の中につくって、そこでマネージメントの実習をした。共同生活をして生活の実習をして、家計もまかない、いくらかかるかっていうのをね。そこに学生が泊まりに行ったりしてね。

正宗: インテリア、すなわち住まいの内面から人の動きを分析した実務家でいらした。家事(House Keeping)と家政(House management)の違いを心ゆくまで教えていただきました。女子大の住居専攻分野にアメリカの家政学が直伝され、パッと花が咲いたようでした。

東京工業大学清家清研究室での交流

T: 女子大の卒業後は、先輩であられる林(旧姓・山田)雅子さんを頼られて東京工業大学の清家研究室へと進まれるのですよね。

小川: そうです。

H: 林雅子さんを頼って清家研究室に行かれた理由はなぜなのでしょうか。

小川: それがね、父が私を跡取りにさせたいと言ってた時ですから。働くと言ったらまた風当たりが強くなるので、ワンタイム置こうと思いまして。

H: 呉服屋に戻されちゃう可能性もあったわけですね。

小川: そうそう。それで就職はだめだけど研究室ならよろしいということになって。父もよく分かってなかったら。昔はそういう方が多いですよ。

H: 雅子さんもそうだったのでしょうか。

小川: 雅子さんもその口だったのかもしれませんね。雅子さんは北海道の方ですから。旭川で紙問屋のお嬢様でした。

H: 清家研を選んだのは雅子さんがいらっしゃったからですか。

小川: 他の研究室にいる方もいたんですよ。当時先輩が東工大に3人くらい行ってたんです。松田軍平さんのお嬢さんが女子大で私の一年上にいました。林雅子さんと同級生。その方も仕事することを嫌って東工大の歴史の研究室にいかれました。その後、結婚相手を決めてからイタリアに半年くらい留学したんです。どうして決めてから行ったのか聞いたら、お父様が向こうで変な人につかまらないようにと(笑)。凄くいい人でした、優しい方です。その後彼女はPODOKO(★5)を始めにちょっと手伝ったけど、留学で勉強したことを結局活かすことがなかった。良い奥様になられた。

H: 早稲田や東大から非常勤の先生がいっぱいこられていたのなら、進学しやすさから言えばそのどちらかに思えたのですが、なぜ東工大だったのでしょうか。

小川: 清家先生の作品に魅せられましたから。鈴木成文さんの奥さんが東大に行きました。それから雅子さんの同級生が東大の歴史研究室に行ってます。だから東大などへも行ってなくはなかったんです。それで皆に研究室荒らしって言われる。「お婿さんを探しにきた」と。

T: 雅子さんは東工大に行ってから林昌二[1928–2011]さんと知り合ったんですか。

小川: たぶん行ってからです。当時篠原一男[1925–2006]さんや番匠谷堯二[1930–1999]さんとかも一緒だった。宮坂修吉さんは一年後です。宮坂さんが土浦事務所に入りたいって私に相談にいらしたことがあります。宮坂さんのお嬢さんも女子大で。

H: 当時の清家研はどんな様子でしたか。日本女子大とは全然違いますよね。

小川: 全然違います。私最初にびっくりしたのは、お掃除の仕方です。研究室がコンクリートむき出しの床で、水をぱっぱっと撒いてお掃除してた。消しゴムやなんかが落ちている。だから普通のお掃除じゃ綺麗にならない。それを雅子さんがさっさっとやるのです。女性は彼女一人でしたから。いやーこれは大変だと思いました。

H: 男の人はしないんですね。

小川: しなかったんでしょう。製図板も綺麗にして仕事してらっしゃいました。林雅子さんは仕事を始めると全然おしゃべりしないで集中する人。すごい人です。昌二さんはダジャレを言ってたけど(笑)。

T: 清家研にはどのくらいいらしたんですか。

小川: 研究生で何ヶ月かしかいませんでした。というのは土浦事務所のお話があったものですから。清家研究室は大学を卒業する前から行ってたんですけど、1月ごろからぼちぼち行って、お掃除手伝ったり図面を整理したり、あちこち見学へ連れて行ってもらったり。清家先生が自宅を計画していらした、あの時代ですから面白かったです。

T: 清家研で設計はなさったんですか。

小川: 少しお手伝いしてました。雅子さんのお手伝いで。

H: 清家先生はあまり大学にいなくて、家で仕事するのが好きだったとうかがったことがあるのですが、いかがでしたか。

小川: 清家先生は、皆が騒いでても仕事することはなさるし、その時分は図面はほとんど描いてらっしゃいませんでした。実質的には雅子さんや他の方が描いていて。先生はダジャレの連発でなごやかな雰囲気でした。でもそんな中でうっかりすると大事なことをパっとおっしゃるから。皆聞き耳立ててましたよ。設計も「今度こうしよう」とか、スケッチをお描きになって渡してらっしゃいましたけどね。あの時代は雅子さんがほとんど図面におこしてましたね。昌二さんはすぐ就職なさったから、むしろ雅子さんが一緒に仕事をしていたのは番匠谷さんです。フランス語を勉強しに雅子さんとアテネ・フランセへ通ってらしたりしたから。

H: 番匠谷さんはそのあとヨーロッパに行かれますよね。

小川: 結局フランスでずっと生活されてて。

T: 中東(レバノン)にも行かれていますよね。

小川: 彼は日本の器に収まらない人だと思いますよ。風貌も素敵な人ですよ。

T: 以前お話を伺った時に、清家研にいらした頃に家具デザイナーのところにいくよう言われたとおっしゃっていましたね。

小川: 渡辺力[1912–2013]先生のところです。清家先生から「僕は林雅子にいろいろと手をかけてて片手落ちだから、小川さん、林さんとは違う方面に行くのはどうだ」と言われました。渡辺力先生が独立なさる時でした。それで力先生と清家先生と3人で懇談させていただいて。あの時は本当に考えました。もし力先生のところに行っていたら、今頃は家具デザイナーになっていたかもしれません(笑)。私、力先生のこと物凄く尊敬していましたし、先生の家具が好きでした。力先生ご自身も物凄く良い方ですから考えた。考え抜いた末、お断りしました。やっぱり建築をもう少しやってみたいんですけどって言って。そしたら清家先生はじゃあ良いよとおっしゃって。私より1年下の人がちょうど卒業だったから、彼女を紹介したら力先生も気に入られて、彼女が事務所に入ったんです。力先生とはその後も交流させていただきました。

土浦亀城建築事務所初の女性所員

T: 土浦事務所からはどのようにお声がかかったんですか。

小川: 土浦事務所から女子大に求人があって、そしたら「遊んでるのはあなただけだから」と柴谷先生から連絡があって、私が行くことになりました。2回生はほとんど皆就職していたのです。土浦先生のところで女性の所員を求めるのは初めてだったので、河野先生が確認してくださって間に入ってくださいました。河野先生は昔土浦事務所にいらっしゃいましたから。清家先生に相談したら、「土浦先生のところなら勉強になるから行った方が良い」とおっしゃったんですよ。「僕だって声がかかったら行くよ」とおっしゃる。そうですかそれならって、土浦先生なら大体なんとなく河野先生から聞いてましたし、面接に行きました。そしたら事務所の三巨頭がいらっしゃいました。土浦先生と稲城さんっていう弟さんと、高谷(隆太郎)さんっていう妹さんのお婿さん。高谷さんは早稲田で、稲城さんは日大。構造に強いんですこの方。その3人が重役で、あとは若い方たち。

T: 郡菊夫さんはまだいらっしゃいましたか。

小川: 郡さんはもう独立されていていましたが、時々事務所には来られていました。それで、面談後に土浦先生からお電話があって、良いと思うから本人さえ良ければって。ただし家内にあってほしいっておっしゃるんです。その時初めて土浦邸に訪問しました。凄いなと思った。全部見学させてもらいましたけれど良かった。始め足が震えました。階段を登って応接間に行くと、向こう側にお二人座っていらっしゃる。(土浦夫人の)信子さんが主で、先生は何もおっしゃらない。それで信子さんが「あなたは建築をやるつもりがあるのか」とか色々お聞きになりましたね。それで最後に「建築は大変な仕事だから、覚悟しなさい。それと途中で嫌になったら清家研に戻れるようにしてらっしゃい」とおっしゃって。私は「はい分かりました。でも一度決めたら清家研に戻れるようにはしません」と私もはっきり言ったんです。あちらがはっきりしてるから。それが良かったみたい。信子さんとは亡くなるまで交流させていただきました。凄く良い方です。厳しい人ですけど。そんなことでOK貰いまして、清家先生にはお詫びして、土浦事務所に行ったんですよ。

H: その時お父様はなんとおっしゃいましたか。

小川: そこまで進めちゃうともう言い様がないでしょう(笑)。川添先生もうちに来てくださって父とお会いしてますし、いざとなったら応援にいくよと川添先生も言ってくださって。父へは自分で言いました。そのあとかな、私が親戚の小さな家を頼まれて設計したんですよ。そしたら父が見に来たんです。「ああお前やるな」って言われてそれで終わり(笑)。二度とやめろとは言いませんでした。

H: 土浦先生がフランク・ロイド・ライト[1867–1959]のところで働いていた頃、奥様も一緒に図面を描かれていましたよね。日本における最初の女性建築家は土浦先生の奥様なのですか。

小川: 土浦信子[1900–1998]さんはライトからちゃんと免許証のようなものをいただいて、あなたは日本に帰ったらちゃんと仕事をしなさいと言われていました。でも信子さんは建築を辞めて方向転換しました。信子さんに辞めなさいっておっしゃったんですかって土浦先生に伺ったら、「いや僕は言わないよ。僕はやっても良いと思ってる」とおっしゃった。やっぱり現場が駄目だった。土浦邸の設計図面には信子さんの名前もあります。それが今見つからないと大騒ぎしてる。私が事務所に入ってどういう図面があるか勉強させてもらった時にも、やっぱり信子さんの名前が入った図面がありました。信子さんはそのあと亡くなるまで絵をお描きになったり、女性カメラクラブに所属されて。個展もなさりました。京橋のギャラリーくぼたで。ものすごくいい写真を撮っていらっしゃいました。土浦邸にも現像室がありました。

正宗: 絵がものすごくモダンだったんです。抽象画で色が素晴らしい。私も一枚買いまして、今でも壁に飾っています。『森の中』という題名がついていました。たしか、ギャラリーくぼたで個展をなさったとき、信子夫人は93,4歳で。こんなに大胆な色づかいの抽象画を描く女性がいることにカルチャーショックを受けました。

小川: 私も何枚か持っています。あと版画も良いのがあります。私の部屋に飾ってあります。すごくセンスの良い方です。だからライトさんはとても可愛がって大事に育てられていらしたようです。

正宗: 吉野作造[1878–1933]の長女だったんです。

小川: 信子さんがアメリカに行く時に、吉野先生が色紙を贈っています。「路行かざれば到らず 事為さざれば成らず」と。すごく良い字で心のこもったお言葉です。

T: 小川先生と田中厚子さんで書かれた『ビッグ・リトル・ノブ』にも載っていた吉野作造の有名な格言ですね。

『ビッグ・リトル・ノブ ―ライトの弟子・女性建築家土浦信子』(ドメス出版, 2001)表紙の図面は土浦信子氏によるもの

小川: 吉野先生は、日本から洋服を着ていくと時代遅れになっているかもしれないから着物で行きなさいと言い、アメリカの友達に信子さんの洋服を全部用意してもらっていました。アメリカ行きの船の甲板で、信子さんが着物を着て安楽椅子に座ってる写真があります。吉野先生はすごく細やかな方です。私もびっくりしました。あの時代に大変な思いでお出しになったと思います。

T: 土浦事務所ではどんなお仕事をなさいましたか。

小川: 「国際観光会館」[1954]を設計していた頃です。終戦後のあの時、米軍の人達が入って来ていたでしょう。それで葉山に何件か土浦事務所で住宅を設計したんです。その中の一つを設計させてもらって。将校さんや偉い人達があそこに別荘をつくってた。市浦(健)事務所や土浦事務所とか色んな事務所が提携を結んでジョイントベンチャーで外国の仕事をしていたんです。今の代々木公園あたりが米軍の生活基地「ワシントンハイツ」[1946–1964]になっていましたでしょう。あの辺の仕事も全部やってた時代です。私はあとは、「国際観光会館」の家具の設計とか、サインのデザインとかをさせてくださいました。それが終わったくらいに女子大に戻りました。昭和30年です。私の同級生の青木桂子さんが助手をやってらして、辞めるということで。今は團紀彦[1956- ]さんのお姑さんです。青木さんの次女が團さんと結婚なさいました。卒業設計を手伝いに行って、それで二人ともチャンスがあったのでしょう(笑)。そういう話が女子大はあるんですよ。

PODOKOの人びと

T: その時の助手はお一人ですか。

小川: ある時までは1人でしたけど2人になりました。私の時は林知子さん(旧姓:矢野)が1年ずれていました。彼女は群馬大学の教授で定年まで務めていました。彼女のご主人は林昭男[1932- ]さんです。

T: 助手は任期なしですか。

小川: その時代はね。彼女は子どもさんが二人できてから辞めて、しばらく経ってから群馬大学に行かれました。

T: 助手をされていた時に菊竹清訓[1928–2011]さんの事務所でアルバイトをされていたんですよね。

小川: 女子大に戻りましたら給料が半分になっちゃった。土浦事務所は当時で1万2千円です。女子大に戻ったら6千5百円。それでは生活できないって大騒ぎをしたんです。そしたら川添先生が菊竹先生に話を持っていってくださった。じゃあアルバイトに来てもらって3千円あげるのはどうでしょうという事で成立しまして。その代わり女子大の柴谷先生は厳しいですからね、早く帰ることは出来ないから17時ぎりぎりまで仕事をして、毎日通ってたんです。菊竹さんは高田馬場の駅前の焼跡の土地に木造の家を建ててた。15坪制限のあった時の住居です。「スカイハウス」[1958]の前の家です。半分を住居にして半分事務所にしてたんです。そこに私はお手伝いに行ってた。その時に奥様が「小川さんトレースを覚えなさい」って。「建築家と結婚したらこれでアルバイトが十分できますよ」とおっしゃって色々と教えてくださいました。どれくらいの間行ってたかな。専任講師になって辞めたのだったかもしれません。菊竹さんもその時一生懸命で、ブリジストンの石橋さんから呼ばれるとすっ飛んでいって。私もアシスタントとして一緒にうかがったことがあるんです。

H: 石橋さんの仕事は、元々は松田軍平[1894–1981]さんが手掛けていましたよね。同郷ということで菊竹さんが久留米の工場の木造リノベーションなどを次々におやりになって、その後徐々に菊竹さんの方に仕事が来るようになったように感じられるのですが、その辺りのことはご存じですか。

小川: 仕事が評価されたんでしょう。

T: 菊竹さんとはその後も親しくされていたのですか。

小川: 割と親しくさせていただいていました。お嬢さんがふたりとも日本女子大の住居出身ですしね。雪ちゃんと霞ちゃん。川添先生が「70歳70冊」というお祝いの会(「70/70の会」★6)をやったことがあって、菊竹先生が責任者になってまとめていらした。菊竹先生も奥様を亡くされてだいぶ経っていたと思いますが「僕は一人で十何年いたんで、そろそろ寂しくなったから良いと思うんだけど」なんておっしゃる。だから、「あそう、そういう方いらっしゃるんですか?」と聞いたら、通訳してくださった女性で、気心も良いし彼女も二世の人だから日本のこともよく分かってるしって。その時川添先生や私たち生活学会の役員がみんな集まっていたのだけど、会ってくれるかっておっしゃった。それで皆で委員会をやっているときに彼女があらわれてご挨拶をなさって。凄く良い方なんです。それで結婚式を出雲大社でなさった。川添先生も立ち会われた。奥さんはカトリック信者でいらっしゃるんです。イグナチオ教会に通ってた。そしたら菊竹先生が「きみひとりで通わせて。僕も洗礼を受けるかな」といって洗礼を受けられたそうです。それで菊竹さんが亡くなったとき、早稲田大学大隈講堂でお別れ会をおこなった後で、もう一回イグナチオ教会でも行いました。そのときも私行きました。

T: 丹下健三[1913–2005]さんや大江宏さんとご交流はありましたか。

小川: 丹下先生とはあまり直接の交流はございません。初めの奥様とはお会いしたことあります。丹下先生は敬して遠ざかっていました。お会いすることもないですし。丹下先生って割と人払いする方でしょう。誰でも気軽に付き合ってお話する方じゃなかったと思います。大江先生とは学会創立100周年記念の式典の時ご一緒に伺いました。その時は大江先生も私も着物でした。大江先生は着物が物凄く似合うんです。その時初めて建築学会理事に女性が入った。私が女性一号です。それを私にさせてくださったのが芦原先生。芦原先生が当時会長でいらっしゃいました。芦原先生ってユニークな方で、東大に戻られた時も電話がかかってきて「誰か僕の助手を探して」とか。それから「研究室綺麗にしたから見に来い」とか。色々と呼んでくださった。初子先生との関係だと思うんですけど、理事の話もとにかく引き受けろと突然電話がかかってきた。私は先輩がいるから引き受けかねますと言った。林雅子さんもいるし、中原暢子[1929–2008]さんも山田初江[1930- ]さんもいます。そしたら芦原先生が「そうはいかない。学会だから大学にいる人間が引き受けろ」と。それならばとお引き受けさせていただきました。その次に林雅子さんに引き受けていただいたと思うんです。100年祭の時は天皇陛下がご臨席くださいました。

T: 大江宏さんに初めて会われたのはいつですか。

小川: 大江先生の事務所で。大江先生が法政大学を建てていた時に、PODOKOの連中で見学に行って説明していただいて、それが最初だったと思います。1955年くらいでした。

T: 大江先生とは直接ご面識がない頃に見学にいかれたんですか。

小川: PODOKOのメンバーに大江事務所の所員の横島さんがいたからです。当時いろんな事務所に女性がいらした。私たちは正規に勉強するチャンスがあったけど、そういう方達はアシスタントや事務として入ったりして、少しずつ建築の勉強をして力をつけていた。それをジャーナリストの方達が声をかけ始めて。やっぱり男性社会じゃ生きにくいだろうと。ちょっと皆で話し合って、大学出た人と専門教育を受けてない人がどういう風に協力できるか話し合ってみたら?と言われたのが最初です。銀座にいらっしゃった先生の事務所のところに集まって。

H: そのことを言い出したジャーナリストとはどなたでしょうか。

小川: 正確には覚えていませんが、田辺員人[1927- ]さんなどの世代の方でした。それで皆で林さんと相談して、そこの事務所に集まりました。そこから始まって、じゃあ我々は女性差別のない社会にしようと頑張らなきゃっていう話になって。何からしようかということになりまして、最初に調査したのが、給料差別。それと労働の質の問題。自分たちもそんなに実力がないから、これからどういうふうに勉強したら良いかとかね、お互いにどう協力したら良いかということを話し合ったんです。それはPODOKOの会報になっています。この前建築士女性委員会でその話もしましたけど、そこから始まって。なんでPODOKOという名前にしたかっていうと、エスペラント語なんです。エスペラント語っていうのはその時代流行ったんですよ。土浦事務所でも福永昭さんという人が一生懸命勉強していらっしゃいました。国際語にしようとしてPODOKOになった。意味は、考えて(PENSEDO)、話して(DISKUTEDO)、クリエーションしよう(KREEDO)と。頭文字を撮ってP・D・K。エスペラント語は子音単独では動かないので、母音をつけなきゃいけない。それでPADOKOとかいろいろ考えたんだけど、PODOKOが一番かわいいっていってPODOKOにしたんです(笑)。

T: 最初に給料差別を調査されたのですね。

小川:皆勇ましかったんですけれど、給料の調査から始めましてね。私なんか土浦事務所から大学に移ったら給料が半分になっちゃったりしたでしょう。結局女子大だって差別があった。調査の時、私はまだ土浦事務所にいた頃です。私と相賀(貴美子)さん(鈴木成文夫人)が一番高かった。彼女は当時国際建築にいたんです。国際建築は月給1万2千円、土浦事務所も1万2千円。他の人は1万円なんてとてもじゃない。池辺陽[1920–1979]先生の事務所なんて3千円ですよ。私のアルバイト料と同じような感じだった。そういうのを全部調べ上げましてね。それで清家先生や池辺先生、広瀬鎌二[1922–2012]さんとか何人かに直談判にいった。嫌われた嫌われた(笑)。でもこっちも真剣でしょ。変わったかは分からないけど、でも少しは先生方が動いたみたい。現実を突きつけられるとね。一番すごいのは池辺先生。面白かったですけど。でもね、勇ましいことやったと思います。

H: PODOKOが生まれる前にNAU(新日本建築家集団)の解体があり、その後、勉強会という体裁のグループが建築界にたくさん誕生した印象があるのですが、NAUの崩壊とPODOKOの誕生に関係はありましたか?

小川: 若干関係はあるかもしれません。その時代国際会議のお手伝いもしました。ソビエト連邦で国際会議があった時に、PODOKOも資料作成のお手伝いをしました。鈴木成文先生も参加していらっしゃった。今でいうと鉄道会館があった場所にバラックの家があって、そこで皆徹夜して資料作りしました。朝行ってらっしゃいって送り出したりしました。その時PODOKOのメンバーからは鳥羽輝さんが行ったんです。鳥羽さんは横浜国立大学で勉強してたんですけど、彼女は歳は私よりちょっと上の方で、ずっと米軍の通訳をやっていた。だけどそんなことをやっててもしょうがないといって、結局建築の勉強をして。英語が達者なんで、通訳できてくれと男性の先生方が仰って。通訳は大変な仕事だとしみじみ言ってました。おかげで会議のことはなんにも覚えてないって(笑)。帰ってきたあと私達がPODOKOでいろいろ話を聞こうとしても「なんにも覚えてないのよ」と言われて(笑)。そのことが私ものすごく印象に残ってる。彼女はすごく達者な人で。もう亡くなりましたけど。芸大を出た鳥羽さんという方と結婚されて功績を残されました。

T: PODOKOを始められたのは土浦事務所にいらっしゃったときですか?

小川: そうそう。

I: 1953年9月発足と記録があります。発足の3ヶ月前に田中温子さんと近藤洋子さんが浜口ミホさんにお会いしているようなんですが、浜口ミホさんとPODOKOはどういう関係だったんですか?

小川: 浜口ミホさんは、我々PODOKOを応援してくださっていた。浜口先生のところは随分私達もよく行っていました。卒論を書いていた時に川添先生に紹介されてお会いしたんです。浜口先生はなかなかクリアな方で。「あなた方そんなこと言ってる前に頑張って自分の実力つけなきゃ駄目よ」と言われて。浜口先生らしいでしょう。

I: 浜口隆一さんとは関係はありましたか?

小川: 私は浜口隆一先生の料理を何回か食べて。カレーライスとかハヤシライスとか。ミホさんは料理はなさらないので、皆が集まると隆一先生がつくる。ミホ先生は図面描いてるわけ。

T: 隆一さんとはどうやってお会いになられたんですか?

小川: ミホさん繋がりです。別に隆一先生と個人的にどうってことはないです(笑)。ミホ先生からはいろんなことをアドバイスしていただいたりとかありましたけれど、女性建築家の先輩として。ミホさんは東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)を出て前川先生のところで修行したんです。とても素敵な方でした。

小川: 私いろんな国の女性建築家をみてると、日本はちょっと制約が多すぎる。結局家族に縛られている。だけど家族をつくることは良いこと。それとは別の問題。スウェーデンの女性建築家をみると全然のびのびしている。日本は男性が家事労働を手伝わなすぎる。なにか一緒にっていう感じが全然違う。だんだん変わると思うけれども、建築の世界ってちょっと遅れてる。というのは日本の建築業界の労働時間が長すぎる。それが言い訳になったりしてるでしょう。土浦事務所では残業したことないんです。土浦先生はぱかっとやめる人でした。絶対残業をなさらない。先生はアメリカでそういうふうに訓練されて帰ってらしてる。PODOKOで他の事務所のことを聞くとみんな残業していた。結局何が違うかっていうと、仕事量の問題、それをどう判断するかっていうのと、誰にどう振り分けるかっていうことと、それから先生がちゃんと朝9時に来て図面をチェックして、17時に帰っちゃう。これが土浦先生のリズムとしてあった。また途中の時間に所員はおしゃべりをほとんどしませんでした。冷たいっていわれるくらいしなかった。仕事以外のことはね。いろんな事務所に行ってびっくりしたのは和気あいあい話ししてるじゃない。労働時間の真っ只中でね。へえとびっくりしたことあります。池辺先生のとこ行ってもどこ行っても。土浦事務所は先生も所員もきちんとしてる。やればできたんでしょうきっと。土浦事務所で遠足なんかに行きますと先生がちゃっちゃかちゃっちゃか歩いて行っちゃうんです。土浦先生はゴルフをやってらして足腰がしっかりしてらして、皆が追いつけなくて(笑)。だから土浦先生は体力もあったのでしょう。やっぱり土浦先生は特殊だって我々の仲間は言っていました。

正宗: やっぱりあの自邸に住んでいらしたからじゃないですか。階段数えましたら、全部で45段。つまり坂につくってある。家を4層の地盤面に計画して、毎日階段を上り下りしていると自然に足腰が頑強になり、ご夫妻とも98歳まで長生きされた。

H: PODOKOは何がきっかけで解散したのですか?

小川: UIFA(国際女性建築家会議)のほうに吸収されたからです。UIFAで日本大会を開催したのです。

正宗: UIFAの第一回大会がフランスのパリで1963年に開催されました。

小川: その時、中原暢子さんがパリにいたんです。PODOKOは解散すると特にいった覚えもないけれど、やっぱり解散ね。日本だけではできないという話はしました。特に日本大会に向けて準備しなきゃならなくなった時はもう皆そっちに集中しました。日本大会のとき中原暢子さんが会長だったんです。「ハヤナ」(林・山田・中原設計同人)の三巨頭は役割分担してた。中原さんがPODOKO。林さんが建築士会。山田さんが建築女性委員会。あの時代ずいぶん男性のグループができましたが、皆解散しました。「ハヤナ」だけ残りました。運営の仕方が独特でした。月に一回三人会議をやるんです。中原さんと同じアパートに住んでいたときに、「あなた良いからちょっとここ座ってよく聞いてて」なんて言われて同席したこともあるんですけれど。要するに誰がどういう仕事を個人的に持ってきたか。これを明確に分けるんですよ。だから「ハヤナ」に対してきた仕事と、個人に来た仕事をはっきり分けていて、設計料の何%かを共同の資金に入れる。三人の誰がどのアシスタントに頼んだかもきちんと管理されていて、誰が手が空くかがリストアップされていました。共同で事務所を経営するうえで仕事の分担の問題と設計料の配分の問題が一番大変だって中原さんはおっしゃってました。その辺を3人は話し合い交流をしていらっしゃいました。だから最後まで解散しませんでしたでしょう、亡くなるまで。

日本女子大学での意匠教育

T: 日本女子大学での授業のご様子を退任記念本(日本女子大学住居小川研究室の会『生活環境の探求―小川信子の世界』ドメス出版, 1998)に詳しく書かれています。教員になられてからもう一度(1950年代末)、産業工芸試験所に研修に行かれたと書かれていますが、その点を詳しくお聞かせください。

『生活環境の探求 ―小川信子の世界』(ドメス出版, 1998)

小川: 大学で基礎デザインを担当しなきゃならなくなったときに、いろんな先輩が応援してくれることになって。早稲田の先生とかデザイン関係の方が研究会を開いてくださって私に勉強させてくださいました。工芸試験所もそのひとつ。それは凄く良かったと思います。私がプログラムを作るとちゃんと皆でチェックしてくれる。じゃないと基礎意匠なんてできません。どこにもなかったわけです。それをお前さんやれと言われて、えーちょっと待ってくださいと。

T: 子供の頃に絵描きになりたかったと仰っていましたが、デザインはお好きだったんですか。

小川: まあねえ。デザインは面白いと思っていたし。でも私はデザインをどこでも勉強してないわけですよ。清家研でもやってないし、土浦先生のとこでもやってない。なんで基礎意匠やったんでしょう(笑)。結局やる人がいなかった。それで産業工業試験所で行われた研究会に出席して勉強しました。でも学生は皆楽しんで作品をつくるんですよ、ちゃんと課題を出せば(笑)。ほんとに学生は良い作品をつくった。これは桑沢デザイン研究所にいた方に教わったのだけれど、造形というのはただ形ができれば良いというわけじゃなくて、それが生活の中でどう使えるかを考えながら学生と話し合ってやれば形ができる。先に形から入るのではなくて、仕様やいろいろな条件から考えていけば形ができるという、その方向性にもっていったほうが良いという議論がありました。あとは、手が器用な人とそうでない人との差の問題もあるから、そこまでは個人的に言わないほうが良いとか。基礎意匠は製図に入る前の必修だったんです。後にフィンランド工科大学に行った時、同じような作品が展示してあった。同じことやってるってびっくりした。基礎デザインみたいなことをやってたんです。だからやっぱりデザインの要素としては必要な授業だったのかなと思いました。

T: その後(1972年)、高橋公子[1932–1997]先生が大学に専任教員として戻ってこられて、デザイン系の授業はそちらに引き継がれたと書かれていました。それで小川先生は生活学系へシフトされる。小川先生より上の武田先生と柴谷先生は家政学のご専門で、デザインは教えなかったということでしょうか。

小川: そうです。教えられなくはないけれど、武田先生はアメリカで勉強してこられましたから。インテリアとかそういうお話が主でした。基礎デザインは教えなかったけれど、1年生の基本製図は教えていた。それと生活管理学。

正宗: ハウスマネージメント(家政)ですね。これはハウスキーピング(家事)とは違うということを散々言われました。マネージメントは自分しかできない他人に委ねられないものとおっしゃっていました。

小川: なかなかユニークな先生で。良い先生でした。終戦後GHQが再教育のためにいろんな大学に入ってきたんです。それでもって日本女子大にも入ってらして。それで、現役教師の再教育のため、アメリカで勉強するようにいわれて、そのチャンスがあって3年間行かれていた。また建築を教えるために早稲田の専門部の夜学にも通っていらしてた。建築を教えるのに自分は建築を学んでなかったからって。私達の学生時代はそうでした。だから我々には教えませんでした。

吉武研究室で博士論文を執筆

T: 教員をされながら吉武研究室にも行かれてたんですよね。

小川: そうですね。吉武先生のところに研究生としていって、一週間にいっぺん行けるようにしてくれるはずなのに、学校が駄目なんです。時間が取れなくって。

T: 『生活環境の探求』の年表には1960年に研究生とありますので、最初は専任講師になられた翌年に行かれてたんですね。そのあと吉武研究室にはずっと通われていたんですか。

小川: 私はずっとあいだあいだに研究の過程を報告してご意見をいただきました。色々と調査して学会で論文発表するでしょう。吉武先生はその時ちゃんと聞きに来てくださるんです。ある時「もうそろそろこれを博士論文にまとめたら?」と仰ってくださって。私もまとめるつもりがあって一生懸命調査や研究を行っていました。そしたら吉武先生がそうおっしゃってくださったから、先生に相談に伺ったんです。そして今までの研究を整理してくださいました。でもそれからが大変だったんです。吉武先生が筑波大学の副学長に決定された間際でした。先生がものすごく「はやくはやく!」とおっしゃったことがあって。こんなに急がせられてもちょっとまとまらないわって話だったんですけれども。それからが大変なんです。『新建築学体系』の幼稚園保育園を私が書いています。古い方の『建築学体系』は川添先生で、新しい方は私が書いた。鈴木成文先生と、都立大の長倉(康彦)[1929–2020]先生の二人が担当者で、二人が原稿チェックしてくださる。鈴木成文先生は正確な先生ですから、てにをはなんか全部直す(笑)。長倉先生はそこまで直さないんですよ、言い回しなんかも。すごいです、鈴木先生は徹底していて。ご自分の言い回しと違うと全部直す。面白かったです。まっ赤っ赤になって戻ってくる(笑)。あそこまで私は学生の論文を直したことないなと思って。吉武先生が「それはひどいね」っておっしゃるくらい。それで博士論文は吉武先生がOKを出した構成から全部変わったんです。成文先生が主査になったら。これ捨てこれ捨てっていって。もうだから論文2本書いちゃったみたい(笑)。

T: 吉武先生が東大から筑波に行かれたのが1973年、小川先生が博士論文を出されたのが1987年ですよね。15年くらいかかったということですね。

小川: そう。構成が全部変わったんです。最初に私が書いたのは、子供の教育の考え方から入って、幼稚園、保育園を含めて児童館とか遊び場とか地域社会全体を調査して、一冊にまとめた。子どもの生活圏と施設を総合的にまとめました。吉武先生はそれが良いっておっしゃる。一つずつあるより良いからこの線で行きなさいって、それでまとめてたんです。それが、鈴木先生は全部捨て。結局幼稚園と保育園だけ残して、遊び場もコミュニティセンターも全部捨てちゃったわけです。大変でしょう、だから幼稚園の部分を膨らませなきゃならない(笑)。鈴木先生に全部消されましたと吉武先生のところへ報告に行った時、あなたの研究は自分が設計した保育園をちゃんと使って、それをリニューアルして次の保育園に反映して、とそれをずっとやっているのが特徴だから、それを整理しなさいと。理論だけではなくて自分の作品を全部ちゃんと並べなさいとおっしゃって。計画論文で自分の設計したものが理論になってでてくるのはないからって吉武先生に慰められまして。それじゃあそうしますと立ち上がったんです。あの時本当にショックを受けまして。もう少しで完成だったのにって。鈴木先生はそういうことを平気でなさる。完璧主義なところがあるんです。鈴木先生とハウススタディ研究会でご一緒したことがあって、モロッコや色んなところを研究室の方々と一緒に調査して歩いたことがあるんですけど、その時つくづくそう思いました。やっぱり他人に任せたようで任せない。先生の思ってらっしゃることに誘導されちゃう。

T: 鈴木先生は、吉武先生が設計作品を博士論文に入れたら、とおっしゃったことにOKしてくださったんですか。

小川: OKでした。でもあそこまで見てくださるっていうのはすごいですよ。鈴木先生からは研究者としての基礎的なあり方を学ばせていただきました。悪口言いながらもね(笑)。あんな良い先生もいないわね。スキーなんか行くとね。

正宗: 鈴木先生は80歳をこえてからスキーがすごく上手になられたんですよ。小川先生も80歳を越えて、観世流のお能を習われたせいか、構え方がスキーの滑り方と似ているからか、ものすごく上達されました。

小川: スキーは指導者がいたんですよ。北海道に。

T: 博士論文の副査の先生はどなたでしたか。

小川: 原広司先生、槇文彦先生、香山壽夫先生、廣部達也先生、あともうお一人いたと思うけど…。内田祥哉先生は、僕主査になってあげるのにって言われた(笑)。先生方はすごく審査しにくかったようです。面接の時なんて「あの恐縮ですが…」なんて言われた(笑)。「これはどういう意味でございましょう」とか(笑)。鈴木成文先生が定年になるかならないかって時です。早く出せ出せっておっしゃって、あの年に出した人は皆大変だった。鈴木先生も病気で時々入院してらして。皆の論文を読んでたらお医者さんに凄く怒られて取り上げられたって有名な話です。奥様の貴美子さんのこともよく知っていました。貴美子さんが何回か入退院なさって、一番悪くなってご本人もかなり自覚しだした時に、これ成文のおごりよっていって、山田初江さんと二人でご馳走になった。その翌々日にまた入院して、それが最期になった。小学館の社長(相賀武夫[1897–1938])の娘さんでした。でも私みたいな人間も稀有だと思います。大学院もなかったです。やっぱりスウェーデンに行ったことが私の人生に凄くプラスになっていますね。余談が多いでしょう(笑)。

H: 余談と言われる人間関係も含めてすべてがつながっているのが歴史なのではないでしょうか。いろいろお話しいただきありがとうございます。

スウェーデンとの出会い

T: 客員研究員としてスウェーデンに行かれていた時のご研究成果を『スベリエ手帖』(1991)におまとめになられています。スウェーデンに行かれることになったきっかけなどをお聞かせください。

『スベリエ手帖』(ドメス出版, 1991)装幀は粟津潔

小川: サバティカルをもらえることになったんです。イギリスかスウェーデンにしようと思い、渡航の一年前の夏休みに両方行きました。両国とも福祉国家として幼児施設にとっても力入れています。だけどイギリス英語がとにかく私わからない(笑)。スウェーデンなら英語も片言で通じるし、スウェーデン語はもともと出来ないからしょうがない。それでスウェーデンに決めた。スウェーデンは東北大を出た外山義[1950–2002]さんがいて、その繋がりがあった。また王立工科大学(KTH)にスヴェン・ティーべイ(Sven Thiberg)先生という吉武先生と非常に近いの方がいらして考え方も研究姿勢も近かった。スヴェン先生は一度日本にいらして建築学会でお話なさっています。その時吉武先生もスヴェン先生とお話なさっていて。それで私の行き先が決まった。スヴェン先生のところに私を含めて3人くらい行きたいっていう人が来てた。だけど外山先生があらかじめスヴェン先生に言っといてくださったのもあって、結局私がOKが出た。スウェーデンに行ったのは1986年から87年。建築学会の100年祭とぶつかった。その頃建築学会の理事になったのだけど、芦原先生に「私スウェーデンにサバティカルで行けるんですけれどどうしましょう」と聞いたら、「セレモニーに出てくれれば良いよ」といって。

T: スウェーデンにはサバティカルの前にも何度か行かれているんですか。

小川: 何度か視察で行っていました。

T: 博士論文も同時進行ですか?

小川: 博士論文は出したあと。論文を本にするのが同時進行。だから表紙のことも意見が言えなくてあまり好きじゃない(笑)。スウェーデンに1年間住んだのは2回あるのです。アパートも持っていた。2回目は定年になってから1年間。これは正式にKTHに届け出て受理していただいて。スヴェン先生の後任のデック・ウルバン・ヴィスタブロー(Dick Urban Vestbro)先生に手紙を出して、研究員として採用してもらった。デックもなかなか面白い方で。赤い旗をつくってメーデーの時先頭で歩いてる。教授が(笑)。スウェーデンって労働に対する意識が明確だと思いました。

T: スウェーデンにアパートを持たれていたのはいつ頃ですか。

小川: 私が住んでいたのは南の島で、労働者の島だったんです。スウェーデンの中では特殊な人が住むところということもあって寂れていた。それでストックホルムがこれはいけないといって再開発をしたんです。その時に外国人でも買えた。それで一番ヶ瀬康子[1927–2012]先生がちょうどサバティカルで行かれていて、手に入れた。買うっていうのは日本と違って住む権利を買う。土地を買うわけじゃない。それで彼女が持っていて、もう二度と行かないっていうことになった時に、「これ引き取って貰えない?」と言われて。彼女はその時スウェーデンを離れてモンゴルに研究テーマを移していました。じゃあどうにか都合しますと言ったんです。

T: 一番ヶ瀬先生とはご一緒にお仕事をされていますよね。

小川: 随分していますね。本も一緒に何冊か出しました。

T: 一番ヶ瀬先生も日本女子大の卒業生ですか。

小川: そうです。私の2歳上ですね。専門は社会福祉。だから私と関係があるの。結局私、一番ヶ瀬先生につかまっちゃったって感じなんです(笑)。「あなたは幼児施設なんかやってるそうね」とある時校舎の真ん中で言われた。それで今度幼稚園の調査をやるから手伝ってくれないかって言われたのがはじめで。じゃあお手伝いさせていただきましょうって、そしたらば『日本の保育』、『日本の児童福祉』、『子供の生活圏』の3冊を立て続けに本にしましたけれども。一番ヶ瀬先生は日本社会福祉学会の会長をされていました。日本生活学会の会長もやっていました。川添先生から多大なる信頼がありましたから。一番ヶ瀬先生は嘘つかないって(笑)。一番ヶ瀬先生は研究に対して厳しい方で、まず年表を作って現在我々がどの地点にいるか確認してから調査計画をはじめます。

白井晟一に実作を見てもらう

T: 設計された保育園、幼稚園についても、先の退任記念本に詳しく載っています。初期作品の頃は白井晟一[1905–1983]にも見てもらったりしていたとのことですが。

小川: 一番最初の作品は「恵泉幼稚園」[1959]。その次が「村井幼稚園」[1961]で、これを白井先生が見てくださいました。村井幼稚園は早稲田の総長だった村井資長[1909–2006]先生の奥様が経営していたんです。その村井先生のお嬢さんが、私の研究室で卒論の研究をしたのがご縁でした。

T: 白井晟一さんとは川添さんを通じて知り合われたんですよね。

小川: そうです。「白井先生の面白い自邸(「滴々居」1951竣工, 1967解体)があるから見に行かない?」というところから始まって。白井先生の自邸は目白にあった。川添先生は巣鴨でしょう。私も目白なので、目白で会ってバスで行けば良きました。その時に川添先生が「きみ、お手洗いちゃんと寄ってってね」て。なんでですかって思ったのだけれど、白井先生の家はお手洗いが無い(笑)。もともとは設計を頼まれた家なんだそうです。そしたらお手洗いをつくらなくて、施主が怒っちゃって、結局白井先生ご一家がそこに住むことになったそうです(笑)。先生方は専用のおまるを持っていた。男性は先生のうちのお庭でみんな…(笑)。本当に私もびっくりしちゃった。清家先生のお家以上。どうして建築家ってそういうこと考えるんだろうと思った。白井先生はうっかりしてなくなっちゃったと思う。次の自邸にはちゃんとつくってありました。

T: 白井晟一さんの自邸に行かれたのはいつ頃ですか。女子大の先生になってからですか?

小川: 女子大に助手で戻ってからですね。

H: 江原町の同じ場所に、数年前に解体された次の白井さんの自邸(「虚白庵」1970竣工, 2010年解体)が建てられたのですよね。

小川: そうですね。L字型になっていて一方が白井先生の領分で、もう一方が奥様の領分になっていて。「村井幼稚園」を見てもらったのは、自邸でお会いしたそのずっと後です。それは川添先生は関係なくて、直接電話をかけて行った。私は一回「先生私を弟子にしてください」って言ったことがあるんです。そしたら「え?今更もういいよ」って言われて(笑)。その代わり、もし作品をつくったら見せにいらっしゃいっていうので、担いで行った。

H: どうして白井晟一さんに弟子入りしたいと思われたのですか。

小川: 白井先生の建築って何かすごい魅力的だった。それと先生のことをもう少し知りたいと思った。

H: 白井さんの建築の魅力をどこに感じますか。

小川: なんて言ったら良いでしょうね。ディテールじゃないです。雰囲気だと思う。先生が建て直しした家もそうですけど、入ると正面に小さな彫刻がある。ああいうつくり方、あそこに普通の人は置くかなと思う。そして左に入っていくと薄暗くなっているでしょう。「先生、こんな道路側の賑やかな場所をどうして書斎になさったんですか」と聞いたんです。とても幅の広い大きな書庫なんです。そこが暗がりになってるわけです。それでお庭の方をぱあっと明るくしていて、そのような明暗の作り方とか、生活者の心をやっぱり大事にしている。近代建築の住居は機能的に出来すぎていたでしょう。近代建築に無いものがあそこにはあるんです。だから魅力的。じゃああなた出来ますかと言われた時出来るかはわからないけれど、出来ないからきっと色々うかがいたいなと思ったのかもしれません。随分白井先生とはお話させていただきました。奥様ともお話しましたけども。奥様より先生のほうが話しやすい。

また色んないきさつがありましてね、白井先生の縁故関係の人が住居の卒業生でいたんです。奥様から、住居の卒業生で白井の姪の子供がいるはずって聞いて。「えー?」ってびっくりしてね。そしたら私の研究室の卒業生だったんです。色々とご縁がありました。

弟・小川洋司について

T: 小川先生の弟で、大江宏先生の弟子でもある建築家・小川洋司さんについてお聞かせください。小川先生が大江宏先生と最初に会われたのは横島さんとのつながりでしたよね。

小川: 大江先生とは洋司が先生のところで勉強する前から存じ上げています。たまたまその後洋司が法政に行ったんです。私のところにある建築雑誌など見ていましたので、大江先生の作品に興味を感じたこともありました。

T: 大江先生のところに行きたくて法政に、というわけではなかったんですか。

小川: 計画をやりたいというから、それじゃあ大江先生かしらという話になって。大江先生はやりにくかったみたい(笑)。いろいろ知ってるから。本当は彼は絵描きになりたかった。絵はすごく上手でした。でもやっぱりそれじゃ食えないとなって。建築は大変だからやめなさいと言ったんですけれど。私と洋司は12歳違い。巳年同士です。

T: 長きにわたる研究・設計のご活動のなかでの多様な方々との交わりがよくわかりました。まだまだ伺いたいお話はたくさんございますが、今日はひとまずこのあたりでおしまいとさせていただきます。今日は長時間にわたり貴重なお話の数々をいただきありがとうございました。

★1)小川洋司(おがわ・ようじ)は1942年生まれの建築家。1966年法政大学工学部建設工学科建築専攻卒業後、法政大学大学院工学研究科建設工学専攻の第一期生として進学、大江宏に師事。研究課題として平櫛田中の自邸である「九十八叟院」の設計を大江の指導の下担当。その後、大江宏建築事務所にて「ウォーナー博士像覆堂」、「苦楽園の家」などを担当。1976年小川かよ子と小川建築工房設立、姉・小川信子とも協働し、幼児施設、高齢者福祉施設、住宅等を手掛ける。建築の原形、建築の質などを収集・議論する「廻の会」を主催。1980–93年法政大学兼任講師。1993年涙腺がんのため永眠。(T)
※参照:『法政大学工学部建築学科50年の歩み』(1998), 他

★2)河野通祐(こうの・みちすけ)は1915年京都生まれの建築家。幼児期に両親を亡くした孤独感から福祉の思想を心の支えとし、児童福祉施設や青少年施設を数多く手掛ける。1932年京都市立第一工業学校建築科卒業後、神治屋(瓦屋)の店員、母校の助手、神戸デパート社長宅奉公人、上田工務店(京都)の現場作業員、芦屋の鶴本住宅研究所(主宰:鶴本正太郎)所員、京都第十六師団経理部建築課技手を経て、1935年土浦亀城建築事務所入所。「野々宮アパート」、「強羅ホテル」、「満州軽金属社宅」、「舒蘭炭坑厚生施設」、「秋山邸」等を担当。その間、川喜田煉七郎の新建築工芸学院、アテネ・フランセ、日伊文化会館、日本大学専門部法学部政治科二部に学び、傍ら、友人と高円寺の喫茶点「匠」を設計、社会事業家・高島巌の児童保護施設「子供の家学園」で活動。1944年日立製作所建築課に転職、安来工場の厚生施策を担当。1946年には日大教授であった小野薫の監修のもと、その門下の伊藤喜三郎、内田祥文、笹川季男らとともに雑誌『生活と住居』を創刊。取材の過程で戦災孤児の暮らしに目を向ける。1947年高島厳・戸川行男・小野薫を発起人として児童保護施設研究所を設立。児童養護施設「双葉園」設計。1948年児童福祉法成立に伴い児童福祉施設研究所に改称(後さらに児童施設研究所に改称)。1949年日本初の新築児童厚生施設「芝児童館」設計。その後、川添登の紹介により白梅保母学園(現・白梅学園短期大学)で「住居」科目の無償講師、日本女子大学生活芸術科で保育施設に関する卒論指導などを歴任。1954年母子福祉センター「ナオミホーム」を前川國男から引き継いで設計。1958年日立金属(中村隆一)、親和銀行の協力のもと富田俊廣と(株)和(やまと)設計事務所設立。同年社会教育施設研究所設立(1963年解散)。1975年日本建築家協会(JAA)の公取問題発生時、理事として会長の大江宏と共に解決にあたる。日本大学生産工学部建築工学科非常勤講師、(株)地域計画建築研究所取締役、日本建築美術工芸協会専務理事等歴任。その他の代表作に「日本福音ルーテル武蔵野教会」(1957)、「東京都立八王子青年の家」(1959)、「船橋市高根台保育園」(1965)、「立教女学院小学校マリア聖堂」、「安来市市民会館基本設計」(1966)、「日立金属高輪和彊館」(1969)、「鳴門市立第一幼稚園」「千葉県千倉町中央公民館」(1971)、「日立金属富士和彊センター」(1973)、「東京都立少年自然の家基本設計」(1973)、「白梅保育園」(1981)など。(T)
※参照:河野通祐『みみずのつぶやき―無名建築家の生涯』大龍堂書店(1997),村松貞次郎・近江栄・鈴木博之・藤森照信監修『新建築1981年12月臨時増刊 日本の建築家』, 河野通祐「私と児童施設」講演資料1984.11.4(小川信子氏所蔵)、『新建築』1955年5月号、河野通祐・浅野平八『青年の家・少年自然の家』井上書院(1975)。

★3)CiNii(国立情報学研究所学術情報ナビゲータ)の博士論文データベースによれば、吉武泰水の博士論文「建物の使われ方に関する建築計画的研究」の学位授与大学は東京大学、学位授与年月日は1956年5月4日となっている。ただし、学位授与番号については「報告番号不明」となっている。(T)

★4)日本女子大学における住居学教育の系譜については、日本女子大学住居学科同窓会・住居の会著『卒業生白書―二八三七人からのメッセージ』住まいの図書館出版局(1994)に「日本女子大学住居学科小史」として詳述されている。同書によれば、成瀬仁蔵によって1901年に創立された日本女子大学校は、その創立委員の総代に大隈重信が名を連ねたことから、以降、早稲田大学とのつながりをもち、1925年に早稲田大学建築学科教授であった佐藤功一が兼任教授に就任することによって住居学分野の教育の礎が築かれた。以降、大学校時代の兼任教授は今和次郎、佐藤武夫、吉阪隆正、武基雄へと引き継がれた。(T)

★5)PODOKO(ポドコ)は1953年9月に発足した女性建築技術者の集い。建築の世界で女性が働くことが珍しかった時代に、設計事務所、施工会社、官庁、大学に所属する見知らぬ29名の若手が集い、「PODOKOを必要としない社会の到来、すなわち、“PODOKOの消滅”」を目標に、住宅の見学会、座談会、スライド会、コンペの開催などを行う。1952年に建築設計事務所員懇談会が発足し、これに参加した都市建築研究所の近藤洋子と田中温子が、女性の参加者が他にいなかったことから女性建築技術者の横の繋がりを希求したことを皮切りに発会準備活動が開始された。その後、発会準備メンバーであった中原暢子を通じて、渡辺曙から雑誌『モダン・リビング』誌へ「台所について」の記事を依頼され、原稿の共同執筆作業を通じて発会の機運が高まった。1954年にローマで開催された国際建築学生会議に、これを支援する建築研究団体連絡会(建研連)の一団体として参加。翌1955年には東ベルリンで開催された第二回建築インター大会にPODOKOメンバー船越(新姓鳥羽)輝が建研連代表で参加。1963年にはパリで開催された第一回国際女性建築家会議(UIFA)にPODOKOメンバー中原暢子・小林千恵子が参加。1992年にUIFA JAPON(日本支部)設立(会長:中原暢子、副会長:小川信子)、PODOKOの活動が継承され現在に至る。(T)
※参照:宮内嘉久編『風声』(№21) INAX (1986), 趙玟姃「建築系・住居系分野における仕事と生活からみた男女共同参画に関する研究」大阪市立大学博士論文 (2009)

★6)「70/70の会」は、川添登の70歳と著作70冊を記念して1996年10月4日に国際文化会館で開催された祝賀会。発起人代表は菊竹清訓。発起人はほかに粟津潔、一番ヶ瀬康子、栄久庵憲司、小川信子、加藤秀俊、黒川紀章、小松左京、宝地戸弘、槇文彦らが名を連ねる。このお祝いに合わせて、真島俊一・寺出浩司・佐藤健二の編集、粟津潔の装丁、ドメス出版制作により、70歳の本である『思い出の記』(1996)と70冊の本である『川添登 著作目録』(1997)の2冊が出版された。『思い出の記』は、川添の個人史に深いかかわりをもつ文章と年譜および佐藤による解題と真島によるあとがきからなり、『川添登 著作目録』は、1941年5月~1996年12月の間に書かれた全著作の書誌情報およびまえがきを兼ねた真島による「先生の書斎拝見」、寺出による解題からなる。なお、『思い出の記』所収の川添による「ある弟子の思い出と生活学」(p.67–82, 初出:『建築と工作』159号,全日本建築士会, 1973.12)に、小川信子氏および河野通祐、そして今和次郎らとのエピソードが綴られていて興味深い。(T)
※参照:『思い出の記』(1996),『川添登 著作目録』(1997)

小川信子(おがわ・のぶこ)
1929年東京生まれ。1952年日本女子大学家政学部生活芸術科卒業、東京工業大学清家清研究室研究生を経て土浦亀城建築事務所入所。1955年日本女子大学住居学科助手。1960年東京大学工学部建築学科吉武泰水研究室研究生。1978年日本女子大学住居学科教授。1986–87年スウェーデン王立工科大学客員研究員。1987年「保育施設の建築計画に関する研究」で東京大学にて工学博士学位取得。1992年『子供と住まい』(勁革書房)により日本生活学会今和次郎受賞。1998–2003年日本女子大学名誉教授、北海道女子大学(北海道浅井学園大学、現・北翔大学)人間福祉学部生活福祉学科教授。1998–2001年日本生活学会会長。2004–05年スウェーデン王立工科大学客員研究員。2010年「建築分野における女性の研究者・建築家をはじめ広く実務者の育成に携わった長年の貢献」により日本建築学会教育賞(教育業績)受賞。2011年女性とすまい研究会として『同潤会 大塚女子アパートメントハウスが語る』(ドメス出版)により日本生活学会今和次郎賞受賞。UIFA JAPON名誉会長。
主な著書に『スベリエ手帖』(1991)、『子どもの生活と保育施設』(2004)、『続 生活環境の探求 ―子ども・生活歴とすまい』(2013)、『子どもと住まい ―生活文化としての都市環境』(編著, 1991)、『ストックホルムの建築』(共著, 1991)、『生活空間論』(編著, 1999)、『ビッグ・リトル・ノブ ―ライトの弟子・女性建築家土浦信子』(共著, 2001)、『特別養護老人ホームにおける職員参加の施設建築計画』(共著, 2002)、『スウェーデン陶器の町の歩み ―グスターブスベリィの保存と再生』(共著, 2006)、『同潤会 大塚女子アパートメントハウスが語る』(共著, 2010)ほか多数。
主な建築作品に「恵泉幼稚園」(1959)、「村井幼稚園」(1961)、「横須賀基督教社会館」(1962)、「高根学園保育所」(1965)、「豊川保育園」(1968)、「労働者クラブ保育園」(1969)、「東京自由保育園」(1970)、「子供の家保育園」(1970)、「風の子保育園」(1973)、「こぐま保育園」(多摩市)(1973)、「本荘保育園」(1976)、「やさか保育園」(1976)、「こぐま保育園」(浦和市)(1977)、「津山口保育園」(1977)、「杉の子保育園」(1979)、「ひかり保育園」(1980)、「厚生館保育園・母子寮」(1984)、「保育園るんびいに」(1993)など。

正宗量子(まさむね・かずこ)
1937年神奈川県生まれ。1959年日本女子大学家政学部生活芸術科卒業。1959年同大学助手。1968年MAG建築設計グループ結成。正宗量子一級建築士事務所主宰。有機的建築アーカイブ名誉理事、UIFA JAPON相談役。生活者の視点を大切にし、家事・育児と設計実務を両立させる女性建築家の生き方を一貫して追求。主な作品に「セブンスデー・アドベンチスト大岡山キリスト教会」、「邦久庵」(池田武邦別邸)キッチン、その他各種住宅およびキッチン増改築多数。主な著書に『住まいの台所100章』(1989)、『生活学事典』(共著, 1999)他。

種田元晴
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。明治学院大学文学部非常勤講師。日本近代建築作家論。1982年東京都生まれ。法政大学大学院修了。博士(工学)。一級建築士。東洋大学助手、種田建築研究所等を経て現職。著書に『立原道造の夢みた建築』ほか。2017年日本建築学会奨励賞受賞。日本図学会理事。

石井翔大
明治大学理工学部建築学科助教。東洋大学ライフデザイン学部非常勤講師。1986年東京都生まれ。法政大学大学院修了。博士(工学)。一級建築士。法政大学教務助手を経て現職。共著に『建築のカタチ:3Dモデリングで学ぶ建築の構成と図面表現』ほか。2021年日本建築学会奨励賞受賞。

橋本純
編集者。1960年東京都生まれ。早稲田大学大学院修了、新建築社入社。『新建築住宅特集』『新建築』『JA』の編集長を経て2008年より新建築社取締役。2015年同社を退社し、株式会社ハシモトオフィス設立。東京理科大学非常勤講師。

砂川晴彦
東京理科大学補手。株式会社文化財工学研究所。青山製図専門学校非常勤講師。1991年埼玉県生まれ。東京理科大学大学院博士課程修了。博士(工学)。近代東アジア都市史・日本建築史。

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建築と戦後
建築討論

戦後建築史小委員会 メンバー|種田元晴・ 青井哲人・橋本純・辻泰岳・市川紘司・石榑督和・佐藤美弥・浜田英明・石井翔大・砂川晴彦・本間智希・光永威彦