山口重之[1944-]コンピュータ援用による建築デザイン生成をめざして|建築情報学の源流・“CAD5”の思想を探る (1)

話手:山口重之/聞手:種田元晴・石井翔大・池上宗樹・猪里孝司・武田有左・長﨑大典[連載:建築と戦後70年─09]

建築と戦後
建築討論
64 min readOct 15, 2021

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日時:2018年4月18日(水)15:00–17:30
場所:京都工芸繊維大学KYOTO Design Lab(京都府京都市)
オブザーバー:仲隆介、松本裕司
聞手:種田元晴(Tn)、石井翔大(Is)、池上宗樹(Ik)、猪里孝司(Iz)、武田有左(Tk)、長﨑大典(N)

山口重之氏(撮影:石井)

建築デザインにコンピュータが援用されはじめて、すでに半世紀が経過した。この50年の間に蓄積されたCAD(Computer Aided Design)に関する知見を整理し、歴史的に振り返る作業の必要性も叫ばれてきている。しかし,いまだCADに関する歴史を整理した研究は、建築の分野では数少ない。

本インタビューは、川崎清氏へのインタビュー([連載:建築と戦後70年─07]に続き、日本建築学会情報システム技術委員会設計・生産の情報化小委員会建築情報学技術研究WGのメンバーによるものである。

前回の川崎氏への聞き取りを踏まえ、今回は、その弟子である山口重之氏に日本における建築デザインへのコンピュータ援用の黎明期に関してお話を伺った。

川崎氏へのインタビューでも示した通り、日本の建築情報学史上、建築意匠設計にコンピュータがひろく用いられるようになったのは、構造、設備の分野にだいぶ遅れて1970年の大阪万博以降のことである。

渡辺俊の年表(★1)によれば、その端緒は東京大学都市工学科の月尾嘉男と山田学によるCGアニメーション「風雅の技法」であるという。これは建築そのものというよりも、CGを用いた空間描写という点での嚆矢である。

一方、建築そのもののデザイン検討へのコンピュータ利用は、京都大学川崎研究室による最高裁コンペ案等によってはじまった。1968年頃のことである。

やがて、大学の研究室で建築デザインへのコンピュータ利用の可能性が追究されるが、それを牽引したのが“CAD5”と呼ばれる5人の研究者であった(★2)。すなわち、川崎の弟子である大阪大学の笹田剛史、東京大学の山田学、熊本大学の両角光男、早稲田大学の渡辺仁史、そして、京都工芸繊維大学の山口氏である。

日本の建築CAD黎明期(1970s-80s)の建築情報学者とその系譜(概略)(作成:種田)

“CAD5”のひとりとして、建築意匠設計に果たすコンピュータの役割について、どのような可能性が見出され、どのような野心と苦心を携えて研究が蓄積されていったのかをじっくり語っていただいた。

インタビューは、「山口重之先生の36年 NOT all about Shige Yamaguchi」(sangmont.jp)と、山口氏の博士論文公聴会資料を参照しながらお話を伺った。(Tn)

※参考京都工芸繊維大学山口研究室の活動記録(Way Back Machine)
(リンク先は1996/10/15のもの。上部のタイムスケールを右へたどっていくと研究室の活動記録を時系列にたどることができる)

京都大学川崎研究室院生時代、大阪万博に携わる

Tn:川崎先生のインタビューの際に、京都大学川崎研究室ではコンピュータを援用して様々な建築設計に取り組まれたと伺いました。まずは、大学に入ってからの具体的なお仕事についてお聞かせください。

山口重之(以下、山口):川崎清[1932–2018]先生のところでお話ししていたように、僕は大学のドクターまで行っているんですが、設計をやっていたんです。川崎先生が、いわゆるデザインチームとシステムチームの2つがあるという話をしておられましたが、僕はデザインのほうをやっていたので、万博の美術館(★3)や、最高裁判所のコンペ(★4)、栃木県立美術館(★5)などを担当していたんですよ。一方、川崎先生はいろいろ設計をやっておられていたのですが、博士論文(★6)にまとめるために、理論的な設計の攻め方を試行しておられたんです。笹田剛史[1941–2005]先生も当時はいろいろなことをやっておられて、コンピュータの応用が中心だったと記憶しています。

僕はドクターの時に、(東京大学都市工学科の)丹下研へ行っているんですよ。万博の基幹施設の設計チームというのがあって、そこに放り込まれたんです(笑)。そこで山田学[1939–1995]さんと出会いました。学さんは、当時はまだグラフィックなんてありませんでしたので、会場の入場者予測をやっていました。その時に僕はそれをお手伝いしていたんです。パンチカードにいろいろなデータを打ち込んだり、プログラムを打ち込んだりするようなお手伝いです。

丹下健三[1913–2005]先生のチームは磯崎新[1931-]さんがトップで、曽根幸一[1936-]さんがいて、あとは山田学さんや、土田旭[1937-]さんなど、だいたい丹下研と高山研のドクターの人たちが集合していました。その施設の計画が終わって、設計に入るときに、川崎先生や菊竹清訓[1928–2011]さんらが加わったんです。丹下さんのところには、その当時いろいろな人がいました。

Tk:伊東豊雄[1941-]さんもいらっしゃったんですか?

山口:伊東さんは基幹施設グループではなく、全体会議のときに菊竹さんのグループの一員として出席されていたようです。基幹施設の設計担当の先生方が大きなテーブルで会議、僕らは後ろに座って会議の成行きを見ているわけです。丹下先生はバシバシ発言されるので、すごく怖かったですよ。万博タワーを設計された菊竹さんともけっこう活発な議論をやられていましたね。やはり皆さんなかなかすごい人達だなと思いました。

丹下先生は記者会見の前日の夜に来て、よく設計の案をひっくり返していかれましたよ。「これがいいですね」と言って、修正案を描いて。次の日のプレスリリースに間に合わせないといけないのでみんな徹夜でした。そんなことが多く、なかなかきつい先生でした。磯崎さんは、昭和の日活映画よろしくいつも設計室に「ジョニーウォーカー」を持ち込んで、一緒にお酒を飲んで作業していたんですよ。普段はみんな和気藹々とやっていたんですが、丹下さんが来られたらみんなピリピリしていました。

お祭り広場はけっこう大きいでしょう? あれの何分の1かの大型長尺製図台を特別に作ったんですよ。長尺のスライド定規も広場計画に合わせて丹下先生が特別につくらせたものです。いろいろな案をつくって、トレペを上に置いてはあの大屋根のスケッチを丹下先生がされるわけです。ある時僕はそのトレペを記念にと思って持って帰ったんです。持って帰ったのはいいけれど、トレペに描かれているのはほぼマジックのライン1本だけだったんです。

インタビューの様子(撮影:石井)

大阪大学助手の頃、コンピュータにのめり込む

山口:万博も終わり、「栃木県立美術館」(設計:川崎清[1972])の設計をしていた頃、京大の共同利用のコンピュータセンターに日本で初めて対話型グラフィックディスプレイシステムが入りました。笹田先生はそれを使ってパースを描いていました。シングルラインの簡単なパースでしたが。僕もそれを使わせてもらって、「ここからパースを描いたらどう見えるかな」などと検討しながら、設計の参考にしていました。

そんなことをやっているうちに、川崎先生が京大から阪大へ移動されることになって、僕もついていくことになりました。本当は設計事務所へ行こうと思っていたんですが、阪大へ行ってしまった。大学で何をしようかなぁと思っていた頃、コンピュータがおもしろくなってきました。

京都大学にいる頃に、クリストファー・アレグザンダー[1936-]の“Notes on the Synthesis of Form”[1964]や“A City Is Not a Tree”[1965](邦訳=『形の合成に関するノート/都市はツリーではない』クリストファー・アレグザンダー, 稲葉武司・押野見邦訳, 鹿島出版会[2013]所収)という論文が出たり、それから“Community and Privacy”[1963]、その後1977年には“A Pattern Language”[1977](邦訳=『パタン・ランゲージ』クリストファー・アレグザンダー, 平田翰那訳, 鹿島出版会[1984])というのが出てきたんです。“A Pattern Language”が出た頃、多くの人の関心を集めましたが、僕らはその頃には、アレグザンダーは卒業していたんですよ。あの人の理屈はミッシングリンクがあって、いろいろな要因を組み合わせていくと自然にものになっていくというような話が書いてあるのですが、ならないんですよ。やはり形にしようと思うと、コンセプトだったりある種のきっかけがいるわけです。「形の合成」と書いてありますが、あれは誤解を招きますね。原文では「synthesis of form」と書いてあって、formというのはshapeではないんですよ。

統計数理研究所の林知己夫[1918–2002]先生がつくられた、数量化理論(Ⅰ類からⅣ類)という手法があります。万博の美術館の設計をやっている時に、笹田先生はそれを使いながら、美術館のいろいろな部屋の組み合わせの解析をやっておられたんです。笹田先生は数量化理論を使いながら、日本独自のやり方で空間関係解析をやられてました。最高裁判所のコンペの時には、僕は絵を描いているほうでしたが、それが役に立ったんです。「ある人がこの部屋へは行けないようにしなさい」とか、「被告と裁判官や原告が法廷まで顔を合わせないような動線をつくりなさい」といったような、ものすごく厳しい動線の制約があったので、それを整理するには抜群の効果がありました。

Ik:川崎先生の案は、最高裁判所を超高層でやろうというものでしたよね。超高層のほうが動線を処理しやすいということなんですか?

山口:そういうわけではありません。超高層になったのはなぜかというと、他の建築家がどういう攻め方をするか、いろいろ予想したんですよ。「○○さんならどう攻めるか」とかね(笑)。

敷地の近くに皇居があるので、たぶんみんな高い建物はつくらないはずだから、それでいきましょうと。僕らは、ノミネートされるか、入選するか、そのあたりまでいければいいかと言っていたんです。この読みがあたり、最終案にノミネートされました。皇居のほうへ向かって大胆に全部ガラススクリーンをつくったんです。皇居の中が見えない高さでちょうどうまく上を切ったんです。ガラスは、万博の時に使ったサッシのないガラス壁です。あれは大変でした。旭硝子に無理を言って。

Ik:ディテールを見せないということですよね。

山口:強化ガラスは吊元があるので、吊元が弱くなるんですよね。だから、4点で支えると、吊元のところで壊れるんですよ。それをなんとかならないかといって、強度がほぼ四辺とも同じぐらいのガラスになるような特許を取られたんです。何枚壊したかな (笑)。万博のあと、1971年に阪大に移りました。

デザインの生成段階に注目した博士論文

Ik:コンピュータの論文はその頃からですか?

山口:そうです。というのは、というのは、1970年にMITのニコラス・ネグロポンテ[1943-]が“The Architecture Machine”[1970]という本を出したんです。あれもいろいろなきっかけになったと思います。それからすぐ、僕はMITのN.ネグロポンテのところ(Architecture Machine Group、後のメディア・ラボ)に行ったんです。阪大から京都工芸繊維大学に遷った1975年の夏に2ヶ月ほど行きました。そこで、MITのドクターだったインフォマティクスの長島雅則[1949-]さんと出会いました。その頃にコンピュータを本格的にやろうかなと思い始めたんです。

博士論文の公聴会資料の目次1ページ目を見ていただくと、だいたい僕が何をやっていたかというのがわかると思います。1ページ目に「問題の所在と研究の主題」というところがあります。このいちばん最初に書いてあるのが、僕がやってきたことと、やらないといけないなと思ったことです。設計のプロセスというのは、要するにデザインモデルを生成するステージと、それを建築化するプロダクションのステージの2つがあると考えています。デザインモデルをどのように建築化していくかというプロセスではなく、その前の段階で、デザインモデルをどうやって生成するか、つくりだしていくかということが重要だと思っています。最初にスケッチしたり、模型作ったりしますよね。その他にもいろいろなやり方はあるだろうと思います。ここに書いていることは、建築設計のデザイン生成フェーズで、コンピュータがデザイナーや建築家をどうやって支援していけるかということ、これがテーマなんです。そこに興味を持ってそれでずっと来ているわけです。

笹田先生は、どういうふうな形で空間を作っていくかというときに、設計方法として数理的なやり方をされていましたが、僕はそうではなく、もう少し一般的な方法で考えたいと思っていました。ふつうは数理的なやり方ではなく、スケッチをしながら空間を発想し、展開し、分析、検証、評価を繰り返すという「描きながらかんがえる、考えながら描く」という建築的思考、そのアイデアに知識、技術、各種の判断を組み込みながら建築モデルが生まれていくわけです。そこでコンピュータがどんな役割を果たすかということをテーマにして、この論文にまとめたんです。その後も、建築的思考の支援を中心テーマにして研究をやってきています。

Ik:それが、74年の「パターン合成のトライアルモデル」(山口重之:空間構成のためのアルゴリズム(1)―パターン合成のトライアルモデル,日本建築学会近畿支部研究報告集 計画系(14),pp.97–100,1974.6)ですか?

パターン合成のトライアルモデル(出典:山口重之「空間構成のためのアルゴリズム(1)―パターン合成のトライアルモデル」)

山口:建築的思考のきっかけとなるようなモデルの生成です。いちばん最初はそれでした。公聴会資料のいちばん最後を見てください。支援システムとして大きく見れば、だいたいこんなもんになるかなという図です。「図-C.2:建築デザインにおける支援システムのスケッチ」と書いてある図ですが、建築の設計を大きく2つのフェーズに分けています。デザインの生成をするフェーズと、デザインを生産していくというフェーズです。左側に視覚情報参照システムというのがあって、右側に設計支援システムというのがあります。実は、ここは僕が書き忘れていて、支援システムから設計のほうへ矢印が向かっているのですが、抜けていますね。もともとはこういう図です。

建築デザインにおける支援システムのスケッチ

山口:この図は、当時のワープロで作成できなかったので、ワープロで打ったものに手書きも加えています。この頃はヘビーユースに耐えられるワープロって本当になかったんですよ。IBMのワープロは強力でした。図をどこへ入れようが、ページをサッときれいに割り振ってくれるんです。章ごとにページもつけられるしね。博士論文はIBM 5550のワープロがあったから書けたようなものです。だいたいこの頃はみんな手書き論文だったんですが、手で書いていたら嫌になるんですよ(笑)。清書を考えたらもうどうしようもありません。

ちなみに僕の修論は、実は清書を笹田先生にお願いしたんです。最後まで言われましたよ。「お前の修論、俺が書いたんだから」と言われて。でも内容は僕が考えたんだから、悪いけど前書きのサインだけは僕にさせてと言って。修士論文はそんなことで、恐れ多くも笹田先生に清書をしてもらって、締切日の朝一番に出しました(笑)。

話がそれましたが、当時はこの図(建築デザインにおける支援システムのスケッチ)がだいたい全体的な姿だろうなと考えていたんです。僕が特に関心があったのは、視覚情報参照システムと、建築的思考支援システムです。このあたりを主にいろいろやっていくわけです。

今思えば、この視覚情報参照システムというのは、今で言うビッグデータやAIの世界ですね。例えば、普通は資料まったくなしで設計する人はいませんよね。やっぱり、大量の資料に囲まれてやるんです。今だと、AIで学習させると、AIが設計事務所の設計環境のいろいろな情報環境をここにつくってくれるわけですよね。設計事務所に図書室がいらなくなります。ところが、こちらの建築的思考支援システムというのが難しいんです。コンピュータだけでは無理です。

今よくできているのは、当時CADDと言っていたシステムですね。これが三次元になって、デザインを生産していくというフェーズでは非常に力が出てきたわけです。そこへ、この左側の視覚情報参照システムも右側の設計支援システムも、今だったらAIを使って、建築的思考支援システムと一緒になって、おもしろいものができるのかなと思ったりもしているんです。

当時のAIシステムはやり方がぜんぜん今と違っていたので。

Ik:PrologとかLISPとか、そのあたりのプログラミング言語ですか?

山口:LISPで書いたり、いろいろなことをやっていたのですが、でもあんなのでは設計できないですよね。視覚情報参照システムが一挙にビッグデータをもとにしたAIになっていけば、けっこうおもしろいものができると思います。そういうことを考えながらその当時はやっていました。

AIではないですが、こういう参照システムのような、データベースとそれを参照するシステムみたいなものが一方にあって仕事をしていくということです。資料の中で言うと、序論部分にだいたい当時の建築の世界で出ていた論文や研究などをレビューしています。設計の初期段階のデザイン生成フェーズに関して、僕がおもしろいなと思っているのが、 “Graphic Thinking for Architects and Designers” (Van Nostrand Reinhold,[1980])(邦訳=『図形思考 建築家とデサイナーのためのグラフィック・シンキング』久野和作訳, 商店建築社[1985])という本を書いているポール・ラッソー(Paul Laseau)という人です。建築のやり方というのはこんなものなのだと。数理解析をして組み立てるというのは、僕は不自然だと思っていたので(笑)。不自然と言うのもおかしいですが。

Iz:そこから形はなかなか出てこないですよね。

山口:形は出てきません。建築の人たちがやっている「考えながら描く、描きながら考える」という作業がどんなものかということをベースにして、それに対応するようなシステムができるんじゃないかなということで博士論文の本文は書いています。

山口氏の博士論文「建築設計の初期段階における図形処理システムの開発に関する研究」(1986)

博士論文のなかには、いくつか研究開発したケーススタディのようなものも載せています。「計画情報集約とデザインの手掛りを得るための図形処理」の章では、例えば、「ISPシステム」と名付けた敷地計画システムは、敷地条件の分析、空間のレイアウト、配置計画案のパース出力までできるシステムです。傾斜度だとか高低差とか敷地の特徴を調べながら、どれくらいの建物が建てられるかとか、造成がいちばん少ないのはどこだと探して、自分でその上に空間のレイアウトを描くと、勝手に造成するんです。さらに最後にパースまで描くんです。やりすぎだと言われましたが(笑)。これは京大の大型計算センターとTSSでつないで、テクトロニクスというグラフィックス端末で描いています。

あとは、簡単にスケッチすると三次元が出てくる「ARCHIGRAF」という小規模図形処理システムもつくりました。

ARCHIGRAFシステム(1980)(出典:『山口重之先生の36年 NOT all about Shige Yamaguchi』)
作業環境(1980–1981)(画像提供:山口重之氏)
プロッタによるカラーレンダリング(1985年頃)(画像提供:山口重之氏)
プロッタによるドローイング(出典:『山口重之先生の36年 NOT all about Shige Yamaguchi』)

コンピュータ援用によるデザインの実践

Ik:山口先生は、CADの研究開発だけでなく、いろんなCGを作成されていますが、たしかリートフェルトのレッドアンドブルーチェアのCGもつくられていましたよね。

Red & Blue CG(1985)(出典:『山口重之先生の36年 NOT all about Shige Yamaguchi』)

山口:つくりました。このCGのなかに照明器具があるんですが、これもリートフェルト風を意識して自分でデザインしました。みんなにリートフェルトとは全然違うといわれましたが(笑)。当時はなかなか今のような大きなプロッターや、カラーで表現できるものがなかったんです。ですから、ペンプロッターを改造してカラーのサインペンを持てるようにして、かなり大きい図面を描いていたんです。出力に時間がかかりますが、版画みたいな感じでなかなか気に入ってました。その中にも出てきますよね(1985年に京都工芸繊維大学山口研究室で開発された「ARCHIGRAFプロッタリングシステム」)。

そのあたりがだいたい僕がずっとやってきたことのバックグラウンドというか、ベースです。いろいろなことをやってきましたが、最初はデザインをやっていたというのがあるんですよね。その後も、電車の車両をデザインしたり、いろいろしたんですけれども。

宮福鉄道(1988)(画像提供:山口重之氏)
北近畿タンゴ鉄道車両 タンゴエクスプローラ(1990)(画像提供:山口重之氏)
北近畿タンゴ鉄道車両 タンゴディスカバリー(1996)(画像提供:山口重之氏)

Ik:なぜ電車をやっていたんですか?

山口:僕が阪大に居た時に、土木の人と知り合ったんです。笹田先生、京大土木の計画系の先生、そして土木のコンサルの人たち、兵庫県の港湾課の人たちと一緒に研究会を立ち上げ、地域計画学をやったり、芦屋浜の開発計画など港湾計画の勉強会をやっていたことがあったんです。それで、その土木コンサルがよくJRの仕事をしていたので、「先生、車両デザインしない?」という話が来たんですよ。たまたま三次元のソフトをつくっていたので、ちょっと1回やってみようかと思ったんです。建築はほぼ直線じゃないですか。電車はちょっと側面が斜めになっていたり、曲面があったりするので、これはコンピュータを使えるなと思ってやり始めたんですけどね。

東京国際フォーラムコンペ(1989)(画像提供:山口重之氏)

山口:東京国際フォーラムのコンペ(1989)に出したときもCGパースも描きました。

Ik:武田さんと私もこのコンペに取り組んで図面を描いたんですよね。

Tk:図面はオールCADでしたね。

山口:僕らもオールCADでやりました。

Tk:パースまではいかなかったですけど。

山口:あの頃は大きいカラープリンターがなかったので、改造したプロッタでカラーパースを作成して提出しました。この頃、90年ぐらいから少し変わってきたんですよ。

90年ぐらいになると、いろいろなソフトウェアやシステムをお金で買うことができ始めたんですよ。お金が勝負になってきたんです。

そこで、設計は1人でするものではないし、いろいろな人たちで協同するような環境をつくってみようということをやり始めたんです。

手始めに、1993年に槇文彦[1928-]さんの設計で竣工した「YKKのR&Dセンター」の中に次世代設計環境をつくりました。キーボードやマウスをつなげて、一つの大型プロジェクタースクリーンを見ながら各自マウスをスイッチで切り替えながら使えて、キーボードも打ち込めるという作業環境をつくったんです。話をしながらいろいろな仕事をまとめるために、スケッチレベルの仕事ですけれども。後にこういう環境を研究室にも作り上げて熊本大学(両角研)とかとネットでつないでいました(VDS=バーチャルデザインスタジオ)。

次世代設計環境(1993)(画像提供:山口重之氏)

山口:また、たまたまこの頃(1997年)東京電機大学の朝山秀一先生から、設計のCADの授業をやってくれと頼まれたんです。それで、ネットを使って僕自身は向こう(東京)に行かない授業を考えました。こちら京都の学生さんと東京電大の学生さんを一緒にチームを組ませて、プロジェクトを行うんです。ネットを使って東京と京都にいる学生さんたちが協同作業できるシステムをつくりました。東京へ出向かないと出勤簿に印鑑が押せないので、毎回東京へは行って学生さんとはお茶してましたが・・・。

Tk:その時のネット環境というのは専用回線ですか?

山口:いえいえ、一般の電話回線です。学生さんは自宅からでもWebで入れるように、電話回線を使って。インターネットが95~6年ぐらいからわりとポピュラーになってきましたから。

他にも公表はしていませんが、他にも、ヘリコプター飛ばしたすごく大袈裟なやつもあるんですよ。ヘリコプターからの実写TV映像のうえに3次元都市モデルをオーバーレイするシステム(AR)もやってました。特許も申請しましたが、資金が尽きて途中で諦めましたが・・・。

Ik:沢井(健)くんとやっていましたよね。

山口:そうです。

それから、京都工芸繊維大学を定年退職してから、土木のコンサルへ行って、中国の都市開発をやっていました。僕は久しぶりに手描きでやっていました。それを中国へ送って、全部CGでつくってもらうんです。楽ですよ。オリンピック前の2007〜8年ぐらいの時って、中国はすでにCGがすごく利用されてたんで、一晩でCGを作ってもどってくるんです。どうやってつくっているのかと不思議なんですが。それでできたものを見て、「違う、こうだ」と言って、また手描きで渡すんです。

だいたい僕の仕事の流れとして、こんなことをやってきましたよということで書いたのが、京都工芸繊維大学退官の時にまとめたこれ(「山口重之先生の36年 NOT all about Shige Yamaguchi―山口先生自身によるライナーノーツ」★7)ですね。71年ぐらいからずっとやってきて、90年ぐらいに1回大きな転換期(★8)がありました。一方で、いろいろな実践もやってきたという、そんなところです。

「山口重之先生の36年 NOT all about Shige Yamaguchi」
転換期の「at」(1990年11月号/1992年12月号/1994年12月号)(画像提供:山口重之氏)

CADシステムを開発する時代から買う時代へ

山口:私のNot All Aboutのインターネット版を見てもらうと、昔の画像だとかそういうものは出てくると思います。先ほど申し上げたように、やってきたことというのは、設計の早い段階でどんな仕事ができるのかということが1つと、90年頃からはグループでいろいろな仕事をするので、そのグループの協調環境みたいなものをつくっていくということになって、設計支援システムや、CADD、三次元のシステムとかへの興味は、そのへんで少し下火になっています。

97~8年か9年ぐらいには、もう三次元のシステムがかなり出始めたので、お金さえ出せれば買えるようになってきたんです。CGではなく、立派な設計システムなんですよ。アークプラス(ARC+)とか、ご存知ですか? 日本でいちばん最初に利用できた三次元の設計システムではないでしょうか。1993年頃にイスラエルから来たものです。だいたい僕は初物食いだから、すぐそういうものを仕入れてきました。

それからGRAPHISOFTはハンガリー。95年ぐらいから日本へ入ってきている。あれを見て、この世界からは足を抜きましょうという感じでした。よくできていますよ。98年当時、GRAPHISOFTの入門編として「Archicad Magic」という教材を作ったのかな。10ページぐらいなんです。大学院の人が1時間で操作法を覚えられるというものですが、それを東京都市大では学部の学生に半年かけて実習やっていました。学生は、ぜんぜん建築の人ではないんです。まったく建築の人ではない人に、半年の実習で3DCADソフトを使えるようにするんです。

山口研究室による「ARC+国際コンペ(学生部門)」最優秀賞受賞(画像提供:山口重之氏)

山口:今、設計事務所でArchicadを使っていますという卒業生が何人か、女性でいるんですよ。2月ぐらいに卒業生に会ったので、「今、どんなことをやってるの?」と聞いたら、「Archicadをやってます」と言って。「えーっ?」と思って。建築の出身でもないのに。それで、一級建築士も取っているんですよ。彼女がいないと困ると言われているそうです。それで、また同級生を誘い込んでいるんです。どこだったか、建設会社ですよ。

Tk:いわゆるBIMビルマネージャーのようなかたちで仕事をされているんですか?

山口:そうではなくて、建築設計をしているんです。東京都市大学にいた時は、建築なんて君らもつくれる時代になるからねと言っていたんですよ。

Tn:都市大で教えられていたのは文系の学科だったのですか?

山口:文系ですよ。だから、みんな技術には興味が薄かったんです。

Tn:東横学園女子短期大学と一緒になったんですよね。

山口:そこを改組して、都市生活学部になったんです。

Tn:武蔵工業大学と一緒になったんですよね。

山口:一緒になったのではなく、武蔵工業大学が全部、名前を変えて東京都市大学になったんです。その時に、都市生活学部と環境学部も一緒にして、文系を増やしたんです。

Tn:そちらにはいつから行かれているんですか?

山口:こっち(京都工芸繊維大学)が終わって、2年ほど土木のコンサルに居て、それからです。何年だったかな?

Iz:先生の資料によると、2009年のようです。

Tn:1980年に書かれている「計画設計における図形処理」(建築雑誌1980年1月号,日本建築学会,pp.44–45)という記事の真ん中あたりに、計算機で図形を扱うということが書いてあります。その方法が、1つは計算機がただ単に図形を処理して、それを人間の世界に関連づけるのは人間がやるという話と、もう1つは、図形処理だけではなくて意味や構造を全部理解する方法を機械に教えてやらせたいということが書いてあって、そこで人工知能の研究成果に待つところが大きいということを書かれていますよね。

山口:未だに待っているんですが・・・。

Tn:80年代にこれを言われていて、だんだん少しずつ、世の中が追いつき始めてきているのかなと思います。

山口:そんなに大袈裟なことではないですよ。当時、AIは建築学会でもやっている人がいましたが・・・

Tn:80年ぐらいですか?

山口:はい。その頃に建築学会の小委員会があったんじゃないですか?

Ik:ありました。Prologを使って、引き出しを作って、データベースをつくろうという話をやっていましたよね。

山口:そんなことが何回も起こっていたんですよね。それが今の時代になって、機会学習からディープラーニングができるようになったり、図形や画像が処理できて記憶・生成できるようになったりすると、先ほどの参照システムが生きるわけですよ。これからのおもしろいところかなと思いますけどね。

ファシリティマネジメントへの関心

Ik:86年にFMをやり始めておられますよね?

山口:はい。

Ik:今まで図形の設計の話をずっとされていて、このあたりからFMの話をされ始めているというのは、どういう感じですか?

山口:建築学科は、建築を「つくる」ことを中心に教育しているところが多いようです。それも発注者やユーザーと切り離して。何かおもしろい空間を作れば優秀という発想のトレーニングにはよいでしょう。

社会的な環境もあったんですけれども、だんだん空間作りの戦略やマネジメントに興味が出てきて、ちょっとやってみようかなということになってきたんです。

要するに、つくることだけではなく、つくること自体の大きな広がりが何とかならないかと思った。そこでファシリティのマネジメントという、設計だけではなく、もっと上流から下流に至るまでの大きな流れを少し考えてみたいなと思ったんです。

というのは、設計方法を研究しても、建築の世界の中のごく一部の人にしかサービスしていないなと思ったことも理由の一つです。

そんなこともあって、大学に職を置く者として、もうちょっと社会的な側面にも目をつけてやっていく必要があるなと感じていました。ちょうど学位論文を出したから、もうせいせいしていて、それでちょっとやってみようかなと。

Ik:先生はそのあとにずいぶん「教育」と言い始めていますよね。それはどうしてなんですか? FMのあとだと思いますが。

山口:90年の前後は、まだまだ建築学科の中で情報技術を扱っていない学校が多かったんです。当時、僕は建築学会の教育小委員会をやっていたんです。そこでいろいろ調べてみると、情報教育をやっているところが本当になかったんですよ。

情報教育は、建築にも必ず必要なんですよね。やはり情報技術というのは、建築だけではなくわれわれのさまざまな活動のベースになるような世界ですから、いくら建築の先生だといっても、情報技術は必須なわけです。そんなことで、いろいろな大学でどれくらい情報教育をやっているのかという調査をして、そのあたりから始めています。

Ik:その頃盛んに言われていたのは、リテラシーという言葉ですよね。

山口:はい。ワープロも使えない人が多かったんです。1960年代の初めに、コンピュータでパースを描き始めた頃、アメリカでも1回議論になっているんですよ。「コンピュータで設計なんかできない」という人がその頃はアメリカにもいたわけですから、早いんですね。

日本では、80年、90年ぐらいになってから、まわりがワープロだとかいろいろなもので埋まってきた時にCADが出てきたでしょう? 簡単な製図システムでしたが、多くの人は設計システムだと誤解して、びっくりしたわけです。「建築なんかコンピュータができるわけがない」と。そういう誤解もあって、意外とみんなやらなかったんです。

工繊大でもありましたよ。僕が74年ぐらいに工繊大に来た時に、コンピュータを使っていろいろな仕事をするというのは、先生方からもまだまだ白い目で見られていました。

でも、卒業設計をCADをつかってカラーで出した学生がいたんです。だんだんやっぱり絵を描く道具だというのがわかってきたんです。便利だというのもね。

建築の人はプライドが高いんですね。特に設計者はなかなかコンピュータには馴染まなかったんですよね。最初はコンピュータがどんなものかわからなかったということもあったと思いますけれども。少しやっていると、そんなに大したことはやっていないとわかるんですが、やっぱりやってない人からすればものすごく不気味に思うんですよね。こんなのが出てきたら「なんやねん?」と思うんです。

今でもそうですが、コンピュータはまだそんなに本質的なことはやってないわけですよ。

僕の教え子でも、当時は反発していた学生がけっこういましたよ。授業をやったりすると、レポートにボロクソ書いてくるんです。「言ってるわ、プライド高いなぁ」と思っていたのですが。当時はやっぱり、デザインができる人ほどそうでした。最近だんだん、ここ40年ぐらいはものすごく変わってきていて、みんなコンピュータを使って設計をしたり、図面を描いたりしないとやっていけなくなっています。

山口重之氏

アメリカ在外研究で得たもの

Tn:博士論文を書かれるちょっと前に、アメリカに行かれるんですよね?

山口:そうです。

Tn:83年から84年にかけてですか?

山口:そうですね。

Tn:なぜアメリカに行かれたんですか?

山口:ロサンゼルスによく知っている先生がいたもので。ウィリアム・ミッチェル(William J. Mitchell)[1944–2010]先生(★9)です。

Ik:UCLAですか?

山口:そうです。たまたま文科省の在外研修という留学制度があったんです。

1983年から4年にかけて行ったんですけれども、あの頃ちょうど、アメリカでIBM PCが出たばっかりでした。その前に僕は(NECの)PC-98でいろいろなことをやっていたので、「こんなことやってるの?」と、驚かれました。

アメリカはおもしろいことに、大学院ぐらいになると結構年配の学生が普通にいるんですよ。怖いおばさんがいたりするんですが、その人が、機械が動かなくなるとIBMに直接電話するんです。「IBMに電話する前に俺に聞いてくれ」という話なんですが。あの頃ちょうど、IBM PC/ATというのが出ていて、IBMが初めてパソコンをつくったんです。

Ik:あれはBASICで動いてたんですよね。

山口:そうです。IBMが成功したのは、全部オープンにしたので、一瞬にして広がりましたね。で、そこでOSのCP/Mと、マイクロソフトの逸話があるんですが、たまたまIBMのOSをCP/Mにしようとして、電話をかけたら不在だったんだそうです。それで、マイクロソフトへ電話して、そこから話が進んでいって、マイクロソフトがIBMに乗ったんです。

Tn:アメリカにおられた間は、どういうことをやられていたんですか?

山口:ちょっとここ(「山口重之先生の36年 NOT all about Shige Yamaguchi」)には書いていないんですが、僕はパッシブソーラーをやっていました。興味があったんですよ。パッシブソーラーもどきの建物を京都でひとつ設計もしているんです。パッシブソーラーはご存知のように、設備に頼らないで太陽エネルギーを建築へ活用する手法ですが、これをFORTRANをつかってグラフィックスをつくり、視覚的に検討できるようにしていました。UCLAに、もともとNASAにいて宇宙船の設計をしていた先生がいたんですよ。アーキテクトです。

Ik:日本人の方ですか?

山口:アメリカ人のアーキテクトで、UCLAの建築大学院教授マレー・ミルン(:Murray Milne)です。

その先生が、パッシブソーラーのデザインをしていて、コンピュータでソーラーファイブ(SOLAR 5)というソフトをくっていたんです。

それはパッシブソーラーのソフトなんですけれども、僕もそのプロジェクトに入っていました。素材の評価や、断熱性能といったことを計算するわけです。建築設計の最初にやらないといけない仕事ですよ。なので、突飛なことではなく、「設計の初期段階における図形処理システムの開発」という博士論文の趣旨に沿った活動です。

当時、その先生が日本へ来られ時に、知り合いのいるゼネコンへ行って、パッシブソーラーの利点を説いて講演をしてもらわないですか、とお願いしてまわったんですが、社内には設備設計の人がいるから、なかなかうんと言ってくれないんです。日本は機械でいろいろな環境をつくっていくことがけっこう発達してるからですね。

今は日本ではパッシブデザインは受け入れられていますけど、その当時はまだまだでした。カリフォルニアあたりでは、エネルギーや水といった環境の問題があるので、パッシブソーラーなんかはものすごく大事なコンセプトになっているわけなんです。そういうことを当時やっていたんですが、日本に帰ってきたらぜんぜん相手にしてもらえなかったので、すぐやめてしまいました。これをやっていても企業からの研究助成は出ないなと思って。

僕はUCLAの1年間それをやって、あとはちょっと学生さんの設計を見ていたんです。向こうの設計って、おもしろかったなぁ。

Ik:おもしろいって、どうおもしろいんですか?

山口:構造なんか勉強していない学生もいるんですよ。

Tn:大学生がですか?

山口:大学院生です。図面などを廊下の壁に並べて貼って、先生が前へ集まって、クリティークをやるわけですよ。学生のプレゼンテーションはなかなかうまいんですよ。先生からのどんな問いにもちゃんと答える。あれは本当に口頭発表の力が鍛えられます。

Tn:山口先生も設計の授業を教えられていたのですか?

山口:設計の授業の中で、コンピュータを使うところですね。設計そのものは、何人か有名な先生がいて、その人が教えていました。

Ik:その頃ミッチェル先生はおられたんですか。

山口:その当時、あの人はMITにいたか……UCLAにいたかな?

Ik:UCLAにいて、そのあとMITに行きましたよね。

仲:その間にハーバードにもいました。

山口:思い出しました。いや、ミッチェル氏は当時UCLAにいました。実は僕はミッチェルさんとはちがうグループにいたので、あまりインタラクションはなかったんですよ。ときどき話はしていましたが。ただ、彼の学生さんで卒業してオートデスク社へ就職した人がいたんです。彼はミッチェル先生がハーバードへ移られた時についていって先生になっているんです。ハーバード大へ行ったら彼がいるので、おかしいなと思って、「君、オートデスクから営業で来たの?」と聞いたら、「いえいえ、ここの先生になっています」というやりとりがあって(笑)。まぁ、優秀な人でした。

ミッチェル先生はUCLAにいる頃、もうFM(ファシリティ・マネジメント)の事務所を持っていたんですよ。そんなことで、あの頃にコンピュータを使って流行っていたのは、スペースプランニングといって、要するにスペース配置ですね。僕も笹田先生がやっていた数理化Ⅳ類のアルゴリズムを使って空間の自動配置をやっていました。

ミッチェル氏は、「サバ」とか、寿司の名前がついたFMのソフトをつくっていたんです。「Stacking and Blocking Application」で「SABA」なんです。オフィスのレイアウトのソフトです。スタッキングが断面方向で、ブロッキングが平面のレイアウトです。「サバ」というプログラムがあるというから……。寿司が好きだったんでしょうね。そういえばミッチェルさんはけっこう寿司を食べていたなぁ。

その頃、スペースプランニングの論文が、チャック・イーストマン(Chuck Eastman)[1940–2020]などが発表していまして、その世界がわりとアメリカでは話題でした。クリストファー・アレグザンダーもそうでしたが、そのグループの中では、アレグザンダーはちょっと違う分野と思われてましたね。要因を分析して、フォームというか、型をつくっていくということですからね。そんなこともあって『Pattern Language』は、アメリカの研究者たちから厳しいレビューがあったからか、アメリカでは出版できなかったそうなんです。それでイギリスで出版したんです。僕が留学していた83~84年頃はもうアメリカでは、「アレグザンダーはバックナンバーだ」とみんな言っていました。日本ではまだまだ『Pattern Language』は流行っていましたけどね。

Ik:『Pattern Language』のあと、『The Timeless Way of Building』があって、『オレゴン大学の実験』がありましたよね。

山口:日本ではずいぶん有名になりましたが、アメリカではそうでもなかったです。

Ik:ダメだったんですか?

山口:やっぱりアメリカでも、どの先生の教え子といったような、系列があるんでしょうね。そういうコネクションがものすごく強い世界のようです。

Tn:いろいろ設計事務所も見に行かれたんですか?

山口:それは、帰ってきてから…。

Tn:帰ってきてから、もう1回行かれたんですか?

山口:もう1回どころか、帰ってきてから短期ですが年に5回ぐらい行った年もありました。ある企業の人から「今シカゴにいるんだけど、動けないから助けに来てくれないか」とか電話があって。そんなことでも行ったりしてたんです。建築学会でも1回行ったかな(★10)。僕は向こうにいた時に、けっこういろいろな建築事務所に見学に行ったんですよ。そのコネがあったので、建築学会や、あとセミナー屋さんみたいな、ツアーばっかりやってる専門の会社と行ったりしてね。

Ik:ACADIA(Association for Computer Aided Design In Architecture)でも行きましたよね?

山口:アカディアも行きましたね。

Ik:あれは両角先生と行かれた。

山口:はい、両角先生と行きました。学会だけでなく、あの頃よく行っていましたね。そんなに長い滞在ではなかったですが。でも、1年間ぐらい向こうにいると、けっこう人的なコネができるんです。コネのメンテナンス上も、あとから何回も行ったほうがいいんで、向こうで知り合った人は、けっこういますね。

FMでも1人いるんですよ。シカゴでFMではなかったんですけれども、CADの講演会に招かれたとき、聴衆の外国人の中に日本人が1人いるんですよ。それで、少し日本語が話せるんですよ。名前を聞いたら、オーウエという人でした。「君、何してるの? 京都から来たの? あいつ知ってるか?」と言うんです。当時工繊大で同僚の先生がIITを出ているんですが、IITで同級生だったと言うんです。それが、その時にファシリティテクニックスっていう会社をやっていたジョー・オーウエという人で、一時、日本で仕事をしていました。日本に帰ってきて「会社をつくらないか?」とよく言われましたが。それもあって、僕はアメリカでFMの事務所を回ったり、いろいろな話を聞いたりしていました。日本にはない仕事なので、おもしろそうだなと思ったんです。

Tn:在外研究で行かれている時に、FMを知ったんですか?

山口:そうです、向こうでね。彼から「ファシリティテクニックというのは何をしているの?」と聞いて、それでいろいろわかってきたんです。「おぉ、建築の仕事じゃないか」と思って、だんだんわかってきました。それで日本に帰ってきてから、『建築雑誌』の「今月の知識」というコーナーにFMのことを書いたんです(山口重之:FM(今月の知識),建築雑誌1986年4月号,p.75)。そういうことが、一方できっかけとしてあったんですよ。

Tn:その前に山口先生が『建築雑誌』に書かれた記事「米国における建築コンピュータ・グラフィックスの動向」が1984年1月号に掲載されています。

山口:それは向こうに居た時に書いていますね。

山口:その頃から少しずつ、FMの話が高まってきていたんです。

Tn:この記事に、アメリカがようやく景気が好転し始めたけれども、人を雇っていられないから、人を雇わずにどうにかしたいということが書かれていて興味深かったです。

山口:レーガノミクスでものすごく景気が良かったので、人手不足だったんです。アメリカはコンピュータを入れますよね。日本は人を雇うんですが・・・

Ik:時代背景が違っておもしろいですね。

山口:だんだん思い出してきましたよ。一方的に話していて、インタビューになっていないですね。

Tn:いえいえ、ありがとうございます。

Ik:先生が例えばこういうCADの歴史をもしもご自分でまとめようとした場合に、先生も含めてですが、日本でCADを持ち上げていった方って、どなたがいらっしゃいますか?

山口:あの頃やっていたのは、やっぱり笹田(剛史)先生と、それから「CAD5」と呼ばれていた人たちですね。両角(光男)[1946-]さん、それから早稲田の渡辺(仁史)[1948-]さん、そして山田学[1939–1995]さんです。

Ik:その頃はその5人が建築CADを引っ張っていったんですか?

山口:皆さんCADに多かれ少なかれ関わっていましたが、渡辺さんは博覧会会場の人の流れのシミュレーションなどをされていましたし、両角さんは建築設計の基礎教育にコンピュータを応用することをやられていました。

Ik:笹田先生は早くに亡くなってしまいましたが、合意形成の話というのが非常に強く印象に残っています。

建築の職能の多様化

Tn:山口先生が1987年に翻訳された『デザインシミュレーション』という本がありますね。

アーネスト・バーデン著/山口重之監訳『デザイン シミュレーションー新しいメディアによるデザインとプレゼンテーションの技法』デルファイ研究所(1987)

山口:この著者のアーネスト・バーデンさんとは、UCLAから帰国してから先程お話したシカゴでの講演会でプレゼン環境の設営をやっていただいた人ですが、なかなかおもしろい人でした。プレゼンテーションを専門にやっている人なんです。

Ik:この本は本当にいい本ですね。テレスコープの仕組みを白黒で載せていて、こうやってやるとちゃんと浮き上がってくるというふうに(2枚の写真が並べて掲載され、その2枚を同時に寄り目にしてじっと見つめると立体的に見えてくる。この2枚の写真は右目用と左目用として少し視点がずらされている)。山口先生に「これ、俺が訳したんだけど、ここがおもしろいんだよ」と言われて、これに載っている駅のプラットフォームなんかを一生懸命練習しました。

山口:それだったかな、大きなパースを描く時に、けっこう描きにくいので、簡単な平面図に棒を立ててまず写真に撮るんです。プロジェクターでそれを壁面に映して、だいたいのかたちを大きくなぞって下図を描くという方法がありました。僕はそれで、阪神間の港湾計画を落とし込んで、上空から見た畳一畳ほどのばかでかいパースを描いたことがあるんです。

Tk:先生がこういう本を書かれている頃というのは、まだまだコンピュータは今から考えると性能の低いものでしたけれども、この時に、将来コンピュータが建築にとってこうなっていくだろうという予測はありましたか。

山口:あったかもしれませんね。学位論文以来、コンピュータを援用した新しい設計環境についていろいろと研究してきましたが、そういうものはだんだん現実になってきているように思います。それでも、デバイスやソフトなんかはだいぶまだ遅れてるという感じはしますけれども。まだそんなに自由になっていないなという。今でも会議をするのに大きな部屋が必要だったりするでしょう。あれは何だろうと思うんですよね。大空間に人が集まって話すことを前提にした、大袈裟なデバイスがたくさんあるでしょう。話すとカメラが動くとか、そういう装置はいらないんです。早い話、例えばFaceTimeがあれば、みんなで協調して仕事ができるんですよ。何台もつないでできるし。そういうことがまだ全然普及しませんね(★11)。

Ik:確か阪大の笹田研に行った時に、山口先生がいらっしゃっていて、笹田研でコマ撮りをやる時には、山口先生と自分でけっこういろいろなデバイスをつくったんだよと言われていましたね。部品がいっぱい載っているボードが、研究室の中にゴロゴロ転がっていましたよね。

山口:あの先生も好きだったので、自作された装置類が多かったですね。

Iz:自分でハンダごてをやったりされていました。

山口:僕も、見様見真似でパソコンのインターフェースぐらいはつくっていたんですよ。意外とLSIって簡単なんです。入出力の値とかそういうのは、ちょっと勉強したらできますよ。それにいちばんいいのが、『Interface』という雑誌です。

Ik:そうか、あれにいっぱい載っているわけですね。

山口:科学少年の雑誌ですよ。AIソフトだったり、いろいろなものが出てくるでしょう。あの雑誌には最新の具体的なロジックやソフトウェアがいち早く載るんですよ。『Inferface』を買って、どんなボードが発売されているのかを見て、どういうふうに実験的なシステムをつくったらいいかとかいうことが、至れり尽くせりに書いてある本なんですよ。1回見てください。素人でもできるくらいわかりやすく書いてありますよ。今のコンピュータシステムは、1からではなく、ボードやLSIといったものがあって、基本的には入出力やAPIといったもののソフトウェアもちゃんとあって、部品を組み立てていくアセンブリだけでいろいろなことができるようになってきているというのは、これは昔とえらく違うなと思います。

Tn:もうひとつの訳書の『建築デザインのためのCAD』の著書リー・ケネディさんという方とは、どういったご関係だったのですか?

リー・ケネディ著/山口重之監訳『建築デザインのためのCAD―製図・設計・システム入門』鹿島出版会(1990)

山口:あの人とは、会ったことはありません。出版社から話が来たんです。

Tn:アーネスト・バーデンさんのときとはちがうのですね。

山口:アーネスト・バーデンとは実際に会ってます。日本でも彼の最近よく名前が出てきますが、こういう人のことをファシリテーターと言っていたんです。プレゼンテーションや会議・講演時の環境の構築も全部引き受けるという仕事です。

Iz:だからいっぱい事例を知っているんですね。

山口:そうです、それがプレゼンテーションをする時のアドバイスとかに、実際に関わっているのではないでしょうか。

Tn:でも、建築の人だったんですよね。

山口:建築の人です。出会った時、歳は僕よりだいぶ上でした。

Iz:そういう職能が昔からあるということですよね。日本にはあまりないですよね。

山口:こういう職種は、日本にはあまりないですね。

Tn:マネージャーとか、ファシリテーターとか。

Iz:山口先生もおっしゃっていましたが、日本の建築学科は建築家を育てる教育で、すごくいい教育をしているんだけれど、みんなが建築家になるわけではないので、それを生かすフィールドがあまりないんですよね。

山口:ないですよね。やっぱり、建築学科というのがデザインのほうへ行きすぎている時代がけっこう続いているんですよね。建築の世界は、ものすごく幅広いんです。不動産から始まって、メンテナンスまで全部あるわけなので。

FMというのは、そのあたりを広く視野に収めてあるのですが、逆に言うと発注側の立場なので、建築学科は仕事をもらうほうだと。出すほうともらうほうの違いは大きいですからね。ただ、僕はどこかで書いていたかもしれませんが、やっぱり建築の世界は、どちらかというと文化オリエンテッドというか、あるいは芸術とか、そういう非常にソフトなところを追いかけているでしょう。

ところが意匠(デザイン)の世界は、ビジネスだとか、デザインというものを追いかけているわけですよ。そのあたりの違いが、やっぱり建築ではなかなか出てこないんですよ。みんながみんなカルチャーオリエンテッドになって、ぜんぜんビジネスを知らずに大学を出ていくわけですよ。意匠学科のプロダクト分野などは学生の時からメーカーの仕組みを知っていますし、材料やコストのことも勉強していますよね。

そんなことで、デザイン経営工学科というのが本当に必要だと思って、京都工芸繊維大学につくったんです。

最近は、だんだん、現実的なことをちゃんと教えるように建築学科もなってきているのではないでしょうか。やっぱり環境問題がけっこう今は大きいですしね。

Tn:建築設計における生産か生成かでいえば、山口先生は一貫して生成のためのツールを考えられてきたということがよくわかりました。

山口:僕のポイントはそのあたりです。

Tn:山口先生のお仕事を通じて、建築デザインへのコンピュータ利用の先駆けがどのような状況であったかを垣間見ることができました。本日は貴重なお話をいただき誠にありがとうございました。

(★1)渡辺俊「建築情報学がなぜ必要なのか――これまでとこれから」,『建築ジャーナル2019年5月号』,pp.4–9

(★2)1991〜1992年に大阪で開催された「CAD5シンポジウム」では、山田学、笹田剛史、渡辺仁史、両角光男、山口重之の5名が中心となり、各研究室の最新の研究紹介と議論が全5回にわたり催された。(Tn)

(参考:渡辺俊「建築情報学がなぜ必要なのか――これまでとこれから」,『建築ジャーナル2019年5月号』,pp.4–9)

(★3)「日本万国博覧会美術館」(川崎清,1970)。万博閉幕後、1977年より「国立国際美術館」として活用されていたが、老朽化のため2005年に解体された。(Is)

(★4)最高裁判所庁舎設計競技(1969年)。最優秀案には岡田新一が選ばれ、1974年竣工した。優秀案には丹下健三、渡邊洋治らが名を連ねた。(Is)

(★5)栃木県立美術館

(★6)川崎清「建築設計のシステム化に関する基礎的研究 : 建築設計における情報処理の研究」(1971,京都大学)

(★7)山口重之先生退職記念会が編集発行した冊子「山口重之先生の36年 NOT all about Shige Yamaguchi―山口先生自身によるライナーノーツ」の全文を下記に引用する。(Is)

「昭和37年(1962年)から京都に住み、京都大学で建築を学ぶ。丹下、ネルヴィ、プルーヴェ、フラーなどの自由自在な空間に魅せられ、卒業研究ではドイツの建築家フライ・オット―氏にあこがれて横尾義貫・中村恒善先生のもとで曲面構造・薄膜構造を研究。今でも、バレンシアのアートスクールで建築を、スイスETHで土木を学び技術の究極的な美しさを追求するS.カルトラーバには憧れている。
京都大学大学院(修士・博士課程)では建築家川崎清先生に師事し建築設計を学ぶ。大阪万国博美術館、栃木県立美術館、京大防災研究所潮岬風力実験所、最高裁判所コンペなどの設計を担当。博士課程を単位取得退学と同時に大阪大学環境工学科に助手として勤務し、都市計画や景観の分野に魅力を感じる。
一方、当時米国の雑誌に掲載されたコンピュータの描き出す自動車のコンピュータグラフィックスを見て、未来はこれだ!と衝撃を受け、1975年夏、米国MITのN.ネグロポンテが主宰しているArchitecture Machine Group(現在のメディアラボ)へ短期留学。都市・建築へのコンピュータ利用の黎明を目の当たりにした。大阪大学の故笹田先生の存在も大きかった。
以来、建築設計、都市計画、環境デザインへのコンピュータ利用に関心を持ち、独学でコンピュータの扱いを学び始め、建築・都市のデザインと情報技術の境界複合領域に深く立ち入ることになった。建築のCAD・CGの研究と開発に取り組み、この分野のパイオニアであり第一人者と言われるまでになった。
これまで、随分いろいろなことに手を出してきたように見えるが、まず先端的な空間開発が念頭にあり、大学ではもっぱら空間開発の方法論の研究(CAD・CG、設計環境の情報化、インターネットを利用した遠隔地間協同設計法など)が主な仕事になった。大学の外では、インテリア、建築、都市、景観などの空間開発(戦略、マネジメント、デザイン)を実践(建築設計コンペ、都市計画デザイン、オフィスデザイン、鉄道車両デザイン、新空間事業提案など)する一方で、その実践からの課題抽出、研究、研究成果のフィードバックというサイクルを繰り返しながら教育と研究を進めてきた。
80年代は建築設計へのCAD・CGの導入をテーマにして、大設計組織を対象にした大型の設計支援システムではなく、1990年前後まで、PCを利用した「わたしにも使える」「小事務所でも使える」パーソナルで現実的で実用的な設計支援システムを研究開発してきた。
1982年、建築学会電算シンポジウムで発表した「建築設計のためのパーソナルグラフィックシステムについて:ARCHIGRAFの研究開発」を皮切りに、その後の成果をまとめた学位論文「建築設計の初期段階における図形処理システムの開発に関する研究」(1986年)をはじめ、多くの建築系雑誌などに成果を発表していた。
しかしPCやハード・ソフト技術の急速な発展によって、設計支援システムのための基礎技術であるCGはもはやお金で買える時代に入ってきていた。そしてネットワーク環境が普及し始め情報処理技術と通信技術が融合し始めたことを実感し、研究活動の大きな転換期に至った。
その間の事情は「at」の3つの特集:「建築CAD再考」(1990.11)、「新しい設計環境を目指して」(1992.12)、「次世代の設計環境」(1994.12)によく現れている。個人の支援からチーム活動支援へ、そして設計ツールの研究開発から設計方法・設計環境研究への転換であった。
インターネット利用の環境が整いつつあった1996年、熊本大学両角先生からお誘いがかかり、MITのW.Mitchell先生とわれわれの3大学をインターネット・ISDNでつなぎ、国際的な協同設計プロジェクト実験(Virtual Design Studio ‘96)を進めたことが、その後の研究活動を展開する大きなヒントときっかけになった(この前の年1995年秋に研究室の英語ホームページhttp://archigraf.archi.kit.ac.jpを公開。http://www.archive.orgにその記録が残っている)。
設計におけるコンピュータ利用の研究は、その適用対象になる設計方法の研究=設計方法論の確立が基本である。建築における設計方法論はそれまで個人を中心に展開されてきたが、グループやチームを対象とした設計方法論確立の重要性を強く認識した。その過程は、前述した「at」3部作にもはっきりと示したつもりである。
その後、設計というチームによる知的創造活動に関する研究を、より一般化して情報化が急速に進み始めたオフィス(働く場)における知的生産性を向上させる環境づくりの研究へと発展していった。
1990年代に入って、一方で、全国的に従来の建築系の大多数の学科が発注者・ユーザ(社会)のニーズと切り離して、空間づくりにだけ関心を持って教育しつづける姿は、自らの専門領域を狭矮化するものと映っていた。バブル崩壊後の経済状況、人口減少・少子高齢化による建設需要の縮小と構造変化、全国建築系学科卒業生の過剰供給…などの環境もあって、大学に職を食むものとして将来像を模索している時期でもあった。そんな中で次第に空間づくりから空間開発の戦略やマネジメントに関心が広がり、これからの社会が求めるのは、空間づくりの戦略やマネジメントであり、作る技術だけではその価値を高めることはできないとの思いが強くなり、技術/アート指向ではなく、ビジネス/マネジメント指向の「デザイン経営工学科」を1998年に創設するに至った。4年後には大学院修士専攻も設置した。学科創設から10年を経て、ようやく社会からも認知され始め、卒業生もさまざまな業界・業種で活躍を始めている。卒業生の数はまだ250名に満たないけれど、将来が大いに楽しみである。
新学科では、1980年代から関心があった「オフィス」「働く場」の世界に積極的に乗り出していった。建築・情報・FMをバックグラウンドにそれらを活かせる格好のテーマ領域であり、住まうことの研究が盛んな建築系学科と一線を画するテーマ領域であると考えていた。仲先生を引きずり込んだのも、そんな思いが強かったからでもある。
オフィスは経営・空間・情報・デザイン・人間がかかわる学際的複合領域であるが、知識集約は進んでいない。業界としても不動産・建築・設備・情報・インテリア・メンテナンスサービスなどが個別的にかかわり、いまだ「オフィス業界」の認識は薄い。研究対象領域として、大いに期待できると考えている。
振り返れば、大学に奉職して以来多くの学生と昼夜をともにして、36年間を駆け抜けてきた。一時は「たこ部屋」とよばれていたことも知っている。教育(人材育成)と研究・実践はその両輪であった。研究で最先端を行くことは大学教育には絶対的な必要条件である。学生が社会で活きるのは10年後20年後だから。常に人がやらない・やれないことを目指して活動してきたつもりである。
その卒業生たちがいまや、社会のいろいろなところでいろいろな仕事で活躍している。その姿を見聞きすることは、教師冥利に尽きる。これまで、私の研究活動や計画設計活動を支えてきた原動力は彼ら彼女達であった。まさに人生の宝である。
(2007年5月26日 編集発行:山口重之先生退職記念会)」

(★8)「at」1990年11月号:建築CAD再考(京都工芸繊維大学・山口研究室の仕事)、「at」1992年12月号:新しい設計環境を目指して-パーソナルからインターパソナルへ(設計とはなにか、を問う中から浮かび上がってくる新たなCAD/CG、コンピュータ利用の可能性)、「at」1994年12月号:次世代の建築設計環境-デジタルメディアによる設計環境のプロトタイピング

(★9)ウィリアム・J. ミッチェルは1944年オーストラリア生まれの建築・都市理論学者。1967年メルボルン大学卒業。ユンケル・フリーマン建築事務所勤務を経て1969年イエール大学大学院で環境デザイン修士号取得。1977年ケンブリッジ大学大学院で芸術学修士を取得。1970年カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)建築都市デザイン学部助教、1974年同准教授、1980年同教授。1986年ハーバード大学デザイン学部教授。1992年マサチューセッツ工科大学(MIT)建築・計画学部教授・学部長。2010年65歳で死去。建築とコンピュータ関連分野に造詣が深く、1970年代に世界に先駆けて建築CAD(コンピュータ支援設計)を推進。さらに建築CADを経営意思決定システムなどと結びつけたファシリティマネジメントシステムの世界への普及に貢献。1980年代はオフィス計画分野にも大きな影響を及ぼす。1985年および1996年、1998年に来日し講演。1992年頃よりブリティッシュコロンビア大学のジャージー・ボイドビッチと協働して遠距離協調設計を試行開始し、1993年に“VDS”(Virtual Design Studio)として大成。京都工芸繊維大学山口研究室および熊本大学両角研究室を含む世界の大学をネットワークで繋いだ遠隔協働建築設計教育に取り組む。1997 年「情報化時代における建築デザイン論の展開と実践および教育に関する国際的啓蒙に関する業績」により日本建築学会文化賞受賞。晩年は、デジタル時代の都市のあり方について研究発表。主な著書(邦訳書)に『建築の形態言語-デザイン・計算・認知について』(長倉威彦訳, 鹿島出版会,1991)、『リコンフィギュアード・アイ』(藤俊治監修・福岡洋一訳 ,アスキー出版,1994)、『シテイ・オブ・ビット―情報革命は都市・建築をどうかえるか』(掛井秀一・田島則行・仲隆介・本江正茂訳,彰国社,1996)、『e‐トピア―新しい都市創造の原理』(渡辺俊訳,丸善,2003)、『サイボーグ化する私とネットワーク化する世界』(渡辺俊訳,NTT出版,2006)など。(Tn)
※参照:沖塩荘一郎「ウィリアム・J.ミッチェル教授の逝去を悼んで」 (日本オフィス学会,2010.6), ウィリアム・ミッチェル著・長倉威彦訳『建築の形態言語-デザイン・計算・認知について』(鹿島出版会,1991), 両角光男『建築設計の新しいかたち』(丸善,1998)

(★10)日本建築学会では「建築CAD米国視察団」による渡航現地調査が1984年6月3~17日と1985年6月2日~16日の2回行われている。山口氏はこのうちの2回目に、訪問先との交渉や事前配布資料の作成を一手に担う幹事として参加している。(Tn)
※参照:日本建築学会編「建築CAD米国視察団報告書―A/E SYSTEMS’85参加と米国のCAD利用現状調査」1985

(★11)インタビューを行った2018年時点ではまだオンライン会議による設計打合せなどは全く普及していなかった。記事掲載時の2021年時点ではすでにオンライン会議ツールはなくてはならないものとなった。90年代から現在の設計環境を先駆けていた山口研究室の先見性が見て取れる一例である。(Tn)

山口重之(やまぐち・しげゆき)
京都工芸繊維大学名誉教授。1944年兵庫県西脇市生まれ。1966年京都大学工学部建築学科卒業。1968年京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了。1969年一級建築士取得。大学院生として東京大学丹下研究室で大阪万博会場計画に参加。京都大学の川崎研究室では「栃木県立美術館」や「最高裁判所コンペ」などの設計を担当。1970年京都大学大学院工学研究科建築学専攻博士課程単位取得退学。1971年大阪大学工学部環境工学科助手。1975年京都工芸繊維大学建築工芸学科講師。1978年同大学助教授。1979年日本建築学会電算シンポジウム設立。1983年文部省在外研究員UCLA(〜1984年)。1986年「建築設計の初期段階における図形処理システムの開発に関する研究」で京都大学より工学博士の学位取得。1987年京都工芸繊維大学建築学科教授。1989年日本建築学会情報システム技術委員会CAAD教育小委員会主査(〜1994年)。1994年日本建築学会情報システム技術委員会知覚シミュレーション小委員会主査。1998年デザイン経営工学科開設。1999年日本建築学会理事(〜2000年)。2000年通産省情報処理サービス業情報システム安全対策認定委員会委員。2003年オフィス学会理事。同年京都工芸繊維大学繊維学部長(〜2005年)。同年京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科長(〜2005年)。2005年オフィス学会オフィス学構築委員会委員長。2006年京都工芸繊維大学副学長。同年新世代オフィス研究センター設立。2007年京都工芸繊維大学定年退職、同大学名誉教授。中央復建コンサルタンツ空間戦略研究所長を経て、2009年東京都市大学教授(〜2015年)。この間、一貫して建築・環境とコンピュータの境界領域で研究教育と実践活動を展開。
主な著書に『デザイン シミュレーション ―新しいメディアによるデザインとプレゼンテーションの技法』(翻訳,1987)、『設計とその表現 ―空間の位相と展開』(共著,1990)、『建築デザインのためのCAD ―製図・設計・システム入門』(翻訳,1990)、『ファシリティマネジメント ―空間・経営戦略の新手法』(翻訳,1990)『オフィスの新時代』(共著,1993)
主な作品に「栃木県立美術館」(川崎清,1972)、「紫鉱工芸美山工房」(1981)、「東京国際フォーラム」コンペ案(1989)、「宮福鉄道」車両デザイン(1988)、「北近畿タンゴ鉄道 タンゴエクスプローラー」車両デザイン(1990)、「北近畿タンゴ鉄道 タンゴディスカバリー」車両デザイン(1996)、「国立国会図書館関西館コンペ応募案」(1996)、「ベニス・オペラハウス増改築コンペ最優秀案」(1997)、「CROSSCUBIC」(2004)ほか。

仲隆介(なか・りゅうすけ)
京都工芸繊維大学大学院工芸科学研究科デザイン・建築学系教授。1983年東京理科大学大学院修了。1984年東京理科大学工学部助手、マサチューセッツ工科大学建築学部客員研究員(フルブライト奨学生)、宮城大学助教授等を経て、2002年より現職。新世代クリエイティブシティ研究センターセンター長(2018年まで)、日経ニューオフィス賞審査委員、長崎新県庁舎アドバイザー、兵庫県庁舎アドバイザーなどを務める。著書(共著)に『オフィスの夢』(彰国社)、『Post Office』(TOTO出版)、『知識創造のワークスタイル』(東洋経済新報社)ほか。

松本裕司(まつもと・ゆうじ)
京都工芸繊維大学 建築・デザイン学系助教、 博士(学術)。1999年京都工芸繊維大学造形工学科卒業。2004年 同大学院博士課程単位取得退学。同大学デザイン経営工学科助手を経て現在に至る。専門は空間デザインコンピューティングとワークプレイスデザイン。日本建築学会情報システムシンポジウム論文WG幹事、建築情報教育小委員会委員。日本オフィス学会ワークプレイスプログラミング部会長。

種田元晴(たねだ・もとはる)
文化学園大学造形学部建築・インテリア学科准教授。明治学院大学文学部非常勤講師。日本近代建築作家論。1982年東京都生まれ。法政大学大学院修了。博士(工学)。一級建築士。東洋大学助手、種田建築研究所等を経て現職。著書に『立原道造の夢みた建築』ほか。2017年日本建築学会奨励賞受賞。日本図学会理事。日本建築学会建築情報学技術研究WG幹事。

石井翔大(いしい・しょうた)
明治大学理工学部建築学科助教。東洋大学ライフデザイン学部非常勤講師。1986年東京都生まれ。法政大学大学院修了。博士(工学)。一級建築士。法政大学教務助手を経て現職。共著に『建築のカタチ:3Dモデリングで学ぶ建築の構成と図面表現』ほか。2021年日本建築学会奨励賞受賞。

池上宗樹(いけがみ・むねき)
東京都立大学客員研究員。株式会社FMシステム フェロー。一級建築士。1973年東京理科大学 理学部 Ⅰ部応用物理学科卒業。1980年東京理科大学工学部Ⅱ部工学部建築学科卒業。1991~96年東京理科大学非常勤講師。1996~98年熊本大学客員教授。1984~87年DRA-CAD開発参加(㈱構造システム)。1988~93年横浜ランドマークタワー設計参加(㈱バス)。建築情報学技術研究WG委員。

猪里孝司(いざと・たかし)
1980年 大阪大学環境工学科入学、83年から3年間、川崎研・笹田研で都市・建築とコンピュータについて学ぶ。86年 大成建設入社、CAD、CGの開発・運用に従事、93年 カリフォルニア大学バークレー校客員研究員。2012年から日本ファシリティマネジメント協会BIM・FM研究部会部会長を務めている。日本建築学会情報システム技術本委員会委員。

武田有左(たけだ・ありさ)
一級建築士事務所 +ANET lab.主宰。明星大学建築学部特任教授。1985年 東京芸術大学大学院 修了。三菱地所/三菱地所設計を経て現職。代表作に「代官山フォーラム」「二番町ガーデン」「石神井公園ふるさと文化館」ほか。著書に『設計者のための「建築3Dスケッチ」」(2000)、『建築CGシミュレーション術』(共著,1999)ほか。日本建築学会文化施設小委員会・設計方法小委員会・建築情報学技術研究WG委員。

長﨑大典(ながさき・だいすけ)
株式会社安井建築設計事務所大阪事務所企画部企画主幹。鹿児島大学工学部建築学科非常勤講師。1971年京都府生まれ鹿児島育ち。鹿児島大学大学院工学研究科建築学専攻修了後、㈱安井建築設計事務所入社。設計部、情報・プレゼンテーション部所属を経て現職。修士(工学)。一級建築士。認定FMer。建築情報学技術研究WG主査。

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建築と戦後
建築討論

戦後建築史小委員会 メンバー|種田元晴・ 青井哲人・橋本純・辻泰岳・市川紘司・石榑督和・佐藤美弥・浜田英明・石井翔大・砂川晴彦・本間智希・光永威彦