平倉圭著『かたちは思考する:芸術制作の分析』

媒体と媒介、およびそれらの多数性と齟齬、および運動に関する非言語的言語化の試み(評者:橋本圭央)

橋本圭央
建築討論
6 min readApr 5, 2020

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『かたちは思考する:芸術制作の分析』

本書は過去15年ほどにわたる著者の研究成果を「Ⅰ 形象の生成」「Ⅱ 大地と像」「Ⅲ 身振りの複数の時間」の三部にまとめたものである。そのすべてに通底するのは、芸術と呼ばれる形における「形象はどのように思考するのか」という問いである。これは、ダナ・ハラウェイの「形象化(figuration)」に倣い、「多数の人間的・非人間的作用が絡まりあう、心的-物的な記号過程の結び目をなす形」である「形象」をもとにしている。また、著者は芸術を「人を捉え、触発する形を制作する技、またその技の産物」と定義しているが、そうだとすれば、建築においても常に起こりうる問題のひとつとして、建築・都市空間を表象し媒介する人間、および非人間を含む「事物の動態」の捉え方が挙げられる。

建築・都市空間は、実際に訪れることで得る空間体験以外に、紙面・電子情報双方において用いられる図面、スケッチ、写真、映像、模型などを媒体とした空間情報に翻訳し伝達される。こうした空間情報の伝達において、建築・都市空間の参与・利用との関わりからそこでの「事物の動態」の捉え方は本来的には極めて重要であると言える。一方で、こうした「事物の動態」の捉え方の実際、つまり翻訳を通して媒介される情報自体に目を向けると、その多くが「行為のかわりに軌跡」を、「パフォーマンスのかわりに遺物」をおきかえてしまう「取り違え」の問題を含んでいる。それは人間、および非人間を含む「事物の動態」を簡略・省略・分節・定量・添景化することで生ずる問題であり、またミシェル・ド・セルトーが指摘する「空間の機能主義的管理が効果を発揮するためにおこなう還元作用に典型的な問題」に等しい。こうした還元主義的で時に道具主義的に引き起こされる「取り違え」の問題は、つまるところ「事物の動態」を捉える際の媒体と媒介情報の「不可避的なずれ」を生むのである(あるいは「不可避的なずれ」自体が「取り違え」を生む)。

こうした「ずれ」を生む最大の要因は、「形象」を「深々と見ることなく読む」、「見ずに済ませる」、あるいは「容易に言葉に置き換え、その論理を注意深く辿ることなく(…中略…)既存の言葉のネットワークの中で理解してしまう」といった姿勢である。著者は「形象」に対するこうした姿勢に「激烈に抵抗」する必要性を強く訴える。だからこそ、「形象はどのように思考するのか」という問いは、媒体と媒介情報の関係、およびそこでの「取り違え」や「不可避的なずれ」に対するこれまであまり先例がないほどの多層的な洞察として捉えることができる。

たとえば、「Ⅰ 形象の生成」において著者はまず媒体(絵画)と媒体(写真)の関係と翻訳の問題に着目し(第1章)、次にピカソの「アヴィニョンの娘たち」における「諸形象の配置」による眼の論理と手の論理や「ゆるやかに回転しながら往復する」運動の存在を明らかにする(第2章)ことで、媒介情報における「造形」と「記録」の違い、遠近法などの視線構造では説明がつかない「見る」ことと対象の動的関係性を提示する。さらにここでの、媒体(絵画)に描かれる対象自体の時間・疲労・重力の知覚的な実現(第3章)、「見る」距離・移動による複数の空間の存在(第4章)、特に「作用者/非作用者関係の交代的連鎖」への言及(第5章)は、「絵画」と「画家」、「映画」と「観客」のみならず、媒体と媒介情報、および作成者と「見る」者の二項対立や還元主義的な思考を解放しうる重要な事柄であると言える。また、「Ⅱ 大地と像」においては『熱海線丹那工事写真帖』という丹那トンネル工事における「断層運動、地盤の膨張、突然の崩壊を抑え込み、逸らし、回避する」坑内という圧倒的な場所の記録を読み解くことで、写真媒体における客観的な記録と身体的な主観性の関係が語られる(第6章)とともに、ロバート・スミッソンの『スパイラル・ジェッティ』を通した「物」と「ダイアグラム」と「映画」の関係に焦点を当てられる(第7章)。ここで示される、媒介情報として時に分節化されて扱われる人間と他のモノとの「同種化」、さらには「心-物複合的諸記号の干渉」による「うねり」の導出は、必然的なプロセスとしての媒介情報の定量化、添景化の際に、まさに「主-客体的なものの分離を破壊する」ために有効なのだ。最後に、「Ⅲ 身振りの複数の時間」では、媒体と媒介情報における「不可避的なずれ」と「取り違え」に対する複雑な考察自体が、「形象」が構築していくプロセスとして展開しうることを提示している。たとえば、赤塚不二夫が描いた『天才バカボン』のバカボンのパパが「自分をいじめた友人を藁人形で殺そう」として「藁人形に描いた「自分をいじめた友人」の絵」が、絵が下手なために「同じ顔をした別の人物」の心臓が貫かれてしまう、という媒体(漫画)内媒体(絵)での「表象とそれを写した表象の表象」イメージの「宛先」という問題を追求しつつもそこにウィトゲンシュタインの痛い「ふり」をする状況、さらには橋本平八の彫刻における「石」における理解可能なふるまいの欠如を導入することで、そこで媒介される人間・人間のようなもの・感覚すること・感覚するふり・石・石のようなもの間の「伝達不可能性」自体による形象のあり方を浮かび上がらせる(第9章)。さらに媒体(映像・展示・パフォーマンス)同士と媒介情報(映像のオブジェクト群・映像の小林・展示のオブジェクト群・実際の小林・伊藤による紙のテクスト・小林による注釈テクスト・生徒のような山形へのレクチャー)同士の非同期的関係、および時間的・空間的なずれの多数性がそこでの形象自体の構築プロセスとして焦点が当てられる(第10章)。

このように、本書では「形象」が「多数の人間的・非人間的作用が絡まりあう、心的-物的な記号過程の結び目をなす形」として考察される。それにより、「事物の動態」が「無限のくり返し」として扱われる傾向が孕む問題に立ち向かっている。「事物の動態」は人間・非人間を含み、つねに異なる無限のくり返しの重なりから成る。だが時にこの「つねに異なる」が抜け落ちてしまうことで、凝固し定位した「無限のくり返し」として扱われてしまうのだ。こうした傾向に対して、著者は「見る」ことと対象の動的関係性、二項対立の解放、主-客体的なものの分離の回避、伝達不可能性、非同期的関係、時間的・空間的なずれの多数性などの問題を見事に明るみに出している。先に指摘した通り、建築・都市空間を考察する際に本書で展開される「形象」論を踏まえることは、「取り違え」や「不可避的なずれ」をその構築プロセスとして取り込む、新たな概念形成の一端を今後担うようにも思われる。

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書誌
著者:平倉圭
書名:かたちは思考する:芸術制作の分析
出版社:東京大学出版会
出版年月:2019年9月

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橋本圭央
建築討論

はしもと・たまお/高知県生まれ。専門は身体・建築・都市空間のノーテーション。日本福祉大学専任講師。東京藝術大学・法政大学非常勤講師。作品に「Seedling Garden」(SDレビュー2013)、「北小金のいえ」(住宅建築賞2020)ほか