〈弱いロボット〉とコンヴィヴィアリティ

072│2024.01–03│季間テーマ:生きつづける建築への道

岡田美智男
建築討論
Feb 9, 2024

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2024年1月から3月にかけては「生きつづける建築への道 — 使い手の関わりが生み出す愛着と許容」をテーマに記事を掲載する。テーマ解説はこちら。

はじめに

「すこし手の掛かるくらいのロボットはどうか…」と考えはじめたのは、いまから25年ほど前のこと。「〇〇してくれるロボット」を追求するのもいいけれど、そんな利便性の高いモノばかりに囲まれて、「わたしたちはそこでいったい何をしていたらいいのか」というわけだ。

わたしたちは誰かに手伝ってもらった時だけでなく、だれかの手助けとなったり、一緒に何かを成し遂げることができた時もうれしく感じ、そこに幸福感を覚える。その意味で、完璧を目指そうとするロボットやサービスは、その利便性が高くとも、一方でわたしたちの主体性や様々な工夫を行う機会を奪ってしまう側面もある。このことは経済的合理性の下でデザインされ、一方的に提供されがちな「居住空間」と住人との関係にも当てはまるものだろう。

本稿では、筆者らの進める〈弱いロボット〉の研究★1やイヴァン・イリイチの指摘した「コンヴィヴィアリティ」の概念★2 ★11を手がかりに、人とロボット、そして人と建築とがほどよく自立共生しあう姿について考えてみたい。

すこし手の掛かる〈弱いロボット〉って?

すこし手の掛かる〈弱いロボット〉――。その一つは〈ゴミ箱ロボット〉である。愛知で開催された「愛・地球博」でのプロトタイプロボット展にむけて、「自らではゴミを拾えないけれど、まわりの子どもたちの手助けを上手に引き出しながら、結果としてゴミを拾い集めてしまうゴミ箱ロボットはどうだろう」とプロポーザルを書いてみた。しかし残念なことに書類審査の段階でボツになってしまったのだ。審査を担当された先生方は、「人の手を借りないとゴミを拾えないロボットなんて、ロボット技術としてどうなの?」、「もっと未来志向のロボット技術を提案して欲しい!」などと考えたのだろう。当時としては致し方のないことだったのだ。

この〈ゴミ箱ロボット〉のアイディアは、乳幼児の備える「関係論的な行為方略」をヒントにしている★3。彼(彼女)らは養育者の腕の中に抱かれ、一人ではなにもできないような「か弱い」存在にもかかわらず、ちょっとぐずりながら必要なミルクを手に入れ、まわりの積極的な解釈を引き出しつつ、行きたいところに移動できてしまう。いつの間にか、お兄ちゃんの玩具までも奪ってしまうなど、家庭の中で最も「強い存在」となっている。あらためて考えれば、これまでのソーシャルなロボットには備わっていなかったスキルなのである。

そこで、ランドリーバスケットにモータとホイールを付けただけのシンプルな〈ゴミ箱ロボット〉を作り、子どもたちの遊んでいる広場で動かしてみた。しばらくすると、風変わりな「ゴミ箱」の姿に気づいた子どもたちが「なんだコイツは?」と集まってきて、取り囲みはじめた。そうして、その気持ちを察してなのか、一人の子どもが手に持っていた紙袋を投げ入れてあげると、それに合わせて「ゴミ箱」もペコリとお辞儀を返す。そんな仕草に気をよくして、子どもたちはあたりからゴミを探してきてくれるようになり、「ゴミ箱」の中はゴミで一杯になってしまったのだ。自らではゴミを拾えない、ちょっと手の掛かるロボットは、子どもたちの手助けを上手に引き出しながら、「ゴミを拾い集める」という目的をしっかり果たしていたわけである。

子どもたちと〈ゴミ箱ロボット〉とのかかわり|写真:豊橋技術科学大学 ICD-LAB

当初は、ソーシャルなロボットとしての「社会的なスキル」に着目していた。けれども、ロボットを取り囲んでいる子どもたちは、「ゴミ箱ロボットの手助けをするのも、まんざら悪い気はしない!」というふうに、その表情も晴れやかで、どこか満足そうにしている。このロボットの不完全さや拙さは、子どもたちの強みや工夫を引き出し、同時に「自らの能力が十分に生かされ、生き生きとした幸せな状態」、つまりウェルビーイングをアップさせていたようだ。

リチャード・ライアンとエドワード・デシらの自己決定理論★4によれば、ウェルビーイングを支える要素として、「自律性」や「有能感」、「関係性」などの要素をあげている。〈ゴミ箱ロボット〉に当てはめるなら、子どもたちはゴミを拾うことを強いられてはいない(=自律性の担保)。ゴミを意識的に拾ってあげる(=能動態)でも、拾わされている(=受動態)でもなく、思わず手助けしてしまう(=中動態★5 )。加えて〈ゴミ箱ロボット〉の手助けとなれたことや、みんなできれいにできたことによる達成感や有能感もある。そして、「わたし( I )」と「あなた(You)」との関係を越えて、ロボットと子どもたちとが一緒に「わたしたち(we)」として、貢献しあえたことの喜びもあるのだろう(=関係性やつながり感)。

ティッシュをくばろうとする〈アイ・ボーンズ〉|写真:豊橋技術科学大学 ICD-LAB

こうした観点に着目しながら、筆者らの研究室(ICD-LAB)では、「他者の手助けを上手に引き出しながら目的を達成してしまう」、ちょっと他力本願なところのある〈弱いロボット〉の構築を進めてきた★6。上記の〈ゴミ箱ロボット〉にくわえ、街角にたたずみ、そこを行き交う人にモジモジしながらティッシュをくばろうとする〈アイ・ボーンズ〉、子どもたちに昔話を語って聞かせようとするも、時々、大切な言葉を物忘れしてしまう〈トーキング・ボーンズ〉、今日のニュースをネタに言葉足らずな発話でヒソヒソ話をはじめる〈PoKeBo Cube〉などである。

昔話を語り聞かせようとするも時々物忘れしてしまう〈トーキング・ボーンズ〉|写真:豊橋技術科学大学 ICD-LAB
言葉足らずな発話でヒソヒソ話をはじめる〈PoKeBo Cube〉|写真:豊橋技術科学大学 ICD-LAB

もし、先に紹介した〈ゴミ箱ロボット〉が自らの手で勝手にゴミ拾いを行うものだったらどうか。「ゴミを拾ってくれるロボット」と「ゴミを拾ってもらう者」、その役割の間に線が引かれた途端に、相手との間に距離が生まれ、共感性を失ってしまう。便利、便利といいつつも、「もっと早く、もっと丁寧に、もっと静かに!」と、その要求を益々エスカレートさせてしまう。あるいは、ゴミ拾いの最中にちょっとでも粗相するなら、「ちゃんとやってよ、あなたはロボットなんでしょ!」と叱りつけてしまうことだろう。一方的な利便性やサービスの提供は、わたしたちの傲慢さや不寛容さを引き出してしまうようなのだ★7。

それと、わたしたちはそこで何もできずに、マニピュレータの拙い所作をながめているだけで終わってしまう。利便性に強く依存するのもいいけれど、その一方で、わたしたちの主体性や工夫する余地を奪っている側面もある。イヴァン・イリイチが1970年代に『コンヴィヴィアリティのための道具(Tools for Conviviality)』の中で指摘したことである★2。

ゆるく依存しあうも、人と道具(あるいはロボット)との間でコンヴィヴィアルな(=自立共生的な)かかわりをどう生み出すのか。このことは季間テーマにある「生きつづける建築への道」に関する議論とも無縁ではないだろう。

コンヴィヴィアルな(自立共生しあう)関係とは?

「コンヴィヴィアリティ」とは、どのようなものか。その輪郭をつかむために、これまで興味を抱いてきた事例をいくつか紹介してみたい。

その一つは、「注文を間違える料理店」である★8。ときどき注文を間違えるかもしれませんが、どうぞご承知おきください。その代わり、どのメニューもここでしか味わえない、特別においしいものだけを揃えました…。こんな風変わりなレストランがある。これはどういうことだろう。

注文をまちがえる料理店 at とらや工房│提供:注文をまちがえる料理店

実はホールで働くスタッフの多くは認知症の方々なのだとか。お客さんのところに注文したのとは違う料理が運ばれてきても、「こっちも美味しそうだし、まぁいいかぁ」と、それを受け入れ楽しんでしまう。このゆるい雰囲気はとても心地よさそうだ。

これまでのレストランといえば、どこかキリっとした緊張感があった。お料理をテーブルに並べる所作にも、その料理に対してもプロの技を期待する。一方のわたしたちも姿勢を正しながら、料理を楽しむ。そんな張りつめた場所だったように思う。ところが「注文を間違えるかも…」と、ほんの少し自らの弱さをさらけ出してみたら、お店の中のモードが一変してしまった。「大丈夫かなぁ」と、一つひとつの所作に思わず寄り添う。懸命な仕事ぶりを労いつつ、片付けに手を貸そうとする。お互いの立場を越えて助け合う。まさに、スタッフとお客さんとは、ゆるく依存しあいつつも、お互いの主体性を奪うことなく、自立共生しているのだ。

これと同様の風景は、最近のファミレスなどにも見られるようになった。猫の顔をした「配膳ロボット」がトコトコと動きまわり、お客さんに料理を届けようというのだ。ただ、ロボットの仕事はそこまで。肝心のテーブルへの配膳はお客さんの手を借りてしまう。このちゃっかりした仕事ぶりはとてもかわいい。そうして、わずかに愛嬌をふりまくように厨房へと帰っていくのだ。

とても興味深いのは、手を貸してあげた方もどこか満足げなところだろう。いつの間にか、お店の中の雰囲気も変えつつある。料理を運んでテーブルに配膳する。ぶつからないようにホールの中を縦横に動きまわる。このシンプルなゴールを皆で共有しあい、お互いの得意なところを持ち寄り、貢献しあう。ここでもお互いの主体性を損なうことなく、自立共生しあった関係を生み出している。

このように自立共生しあうポイントは、どのようなところにあるのか。視覚障がい者などのマラソン競技である「ブラインドマラソン」では、障がい者ランナーと伴走者との間をつないでいる「ロープ」がとても大切な役割を果たすのだという。相手を導こうとしっかり手を握ってあげれば、安全に走れるのかもしれない。ところがそうした配慮は相手の主体性をも奪ってしまう。一方的に誘うのでもない、誘われるのでもない、そんな「ゆるさ」も大切な要素となるようだ。お互いがゆるく依存しあいつつも、その主体性を奪わない。コンヴィヴィアルなかかわり、つまり自立共生のために必要なことなのだろう。

このことは、人と人、あるいは人とロボットとのかかわりに限られない。ここしばらく気になっていたのは、チキンラーメンの麺に施されている「くぼみ」の存在である。正式には「Wたまごポケット」と呼ばれているようだ。生卵をのせると黄身がポケットに収まり、まわりの縁で白身をしっかりキャッチしてくれる。なかなかのアイディアなのだ。でも、どうしてこれがコンヴィヴィアルな関係を生み出すのか。

この「くぼみ」は、必ずしも卵をのせることを強いてはいない。なにも気にせず、お湯を注ぐだけという人も多い。「あっ、今日はタマゴを切らしていた!」、「そんなのをのせていては、折角のスープがぬるくなってしまう!」と人はそれぞれ。こうした配慮はありがたい。

この「くぼみ」に触発され、生卵だけでなく、きざみノリやネギなど、ちょっとした工夫を加え、オリジナルな味を楽しむこともある。「今日のは、なんだかおいしい!」、「次第にコツもわかってきた!」など、ちょっとした有能感を覚えることも。こうしたトッピングを楽しんだり、その味をアップさせることができるのも、チキンラーメンのベースにしっかりした味付けがあってのことだ。わたしたちの工夫と食品メーカとの協働のなせる技なのである。

このように「工夫した甲斐があった!」、「なんだか幸せ!」という、ちょっとした幸福感を生み出す上で、この「くぼみ」の存在が鍵となっている。すべてを提供してもらう、あるいは完全に調理してもらうことで「利便性」を選ぶのか、それとも余白を残してもらい「なんだか幸せ!」の気分に浸るのか。後者の価値観は、利便性や効率性に対して、コンヴィヴィアルなかかわりから生まれる「ウェルビーイング」そのものだろう。

「コンヴィヴィアリティのための建築」にむけて

さて、わたしたちと「建築」とがともに生きつづけるとはどういうことか。本稿では、イヴァン・イリイチの「コンヴィヴィアリティ」の概念を手がかりに、作り手と使い手とがお互いの主体性や創造性を損なうことなく、ほどよく依存しあいながら自立共生する姿として、〈弱いロボット〉などの事例を重ね合わせてみた。

居住空間は、わたしたちの身体の不完全さや「弱さ」を補うべく機能しており、一方で、その「弱さ」は居住空間の本来の価値や「強み」を引き出している。同様に居住空間にも不完全なところはたくさんあり、その「くぼみ」はむしろ住人の工夫や創造性を引き出すための「クリエイティビティ・ポケット」として機能するのかもしれない。

こうしたことを考えていく上で脳裏に浮かんだのは、レヴィ=ストロースが『野生の思考』の中で紹介した「ブリコラージュ(bricolage)」である★10。

このブリコラージュは、エンジニアリングや合理的思考と対比されて、議論されることが多い。目の前の社会的課題に対して、最適な理論に基づき設計し、選りすぐりの素材を集めてロボット(あるいは建築物)を作り上げ、効率よく課題解決を図る。これはエンジニアリングだろう。レシピ通りに調理を行うようなもので、その味は確かだけれど、予定調和的で、自己完結したシステムとなりやすい。

一方で、筆者らの〈弱いロボット〉は「あり合わせをかき集めながら、その場を凌ぐ」ようなブリコラージュの中で生まれることが多い。冷蔵庫の中のあり合わせで料理を作るようなものだろうか。いつも確かな味とは限らないが、ときどきオリジナルな味にも出会うのだ。「ゴミを拾い集めるためのアームを取り付ける予算も技術もない。ならば子どもたちの手を借りてしまったらどうか…」というわけで、〈ゴミ箱ロボット〉などもブリコラージュの産物なのである。その特徴は、自己完結せずに、外に対して開いていること。そのことによって、まわりの子どもたちの参加を上手に引き込めたわけである。

生物の進化のプロセスも、目的や方向性がないといわれている。ブリコラージュと同じで、その場その場で淘汰されずに生き残った者同士でいいとこ取りをしながら、次の世代にバトンタッチしていく。そこには環境との確かな交渉の余地があるようなのだ。

いま「生きつづける建築」を再考しようとの流れは、経済的合理性の下で生み出された規格化された住居空間やその大量生産など、やや「エンジニアリング」に偏りすぎた建築手法をもう少し「ブリコラージュ」に引き戻そうとする動きなのだろう。ちょうどフランス語のブリコラージュには「器用仕事」や「日曜大工」との意味もある。それは、そこに暮らす住人とのコンヴィヴィアルなかかわりを取り戻そうとする流れとも呼応しているように思われるのである。

★1 岡田美智男; ロボット 共生に向けたインタラクション, 2022, 東京大学出版会
★2 イヴァン・イリイチ(渡辺京二+渡辺梨佐 訳); コンヴィヴィアリティのための道具, 2015, ちくま学術文庫
★3 岡田美智男;弱いロボット, ケアをひらくシリーズ, 2012, 医学書院
★4 ラファエル・カルヴォ+ドリアン・ピーターズ(渡邉淳司+ドミニク・チェン監訳); ウェルビーイングの設計論 人がよりよく生きるための情報技術, 2017, BNN新社
★5 國分功一郎; 中動態の世界 意志と責任の考古学, 2017, 医学書院
★6 筆者らの研究室(ICD-LAB)のホームページ; https://www.icd.cs.tut.ac.jp/
★7 岡田美智男; 〈弱いロボット〉の思考 わたし・身体・コミュニケーション, 2017, 講談社現代新書
★8 小国士朗; 注文をまちがえる料理店, 2017, あさ出版
★9 伊藤亜紗; 手の倫理, 2020, 講談社
★10 クロード・レヴィ=ストロース(大橋保夫訳); 野生の思考, 1976, みすず書房
★11 コンヴィヴィアリティ全般の概説書として、緒方壽人; コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ, 2021, ビー・エヌ・エヌ

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岡田美智男
建築討論

おかだみちお/豊橋技術科学大学情報・知能工学系教授、工学博士。専門はヒューマン・ロボットインタラクション、社会的ロボティクス、認知科学。人との関係性を志向する〈弱いロボット〉の研究に取り組む。近著に『ロボット 共生に向けたインタラクション』(東京大学出版会)など。