後期近代と 建築家の「解体」

連載:後期近代と変容する建築家像(その1)

松村淳
建築討論
Feb 7, 2022

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後期近代とはなにか?

本連載の目的は、社会学者である筆者が、まちづくりや地域再生の現場で出会った建築家について、後期近代論と労働社会学・文化社会学・都市社会学、あるいは専門職論といった学問的リソースを援用しながら、彼らを後期近代における新しいタイプの専門家としての建築家の登場として位置づけつつ、彼らが果たす役割の今日的な意味について考察していくことである。後期近代論は、アンソニー・ギデンズ(Anthony Giddens, 1938〜)、ウルリッヒ・ベック(Ulrich Beck, 1944〜2015)、スコット・ラッシュ(Scott Lash, 1945〜 )ら欧州の社会学者によって提唱され、彫琢されてきた概念である。

したがって、後期近代という時代区分は、ポストモダンという時代区分が主流の建築界においては、いささか馴染みのない用語であるかもしれない。後期近代については、初回でまとまった解説をするのではく、連載の中に少しずつ概念の整理を挟んでいくことにするが、ここでポストモダンとの違いを軸に端的に解説を加えておきたい。ポストモダンが、それまでの時代(モダン)との断絶を強調する概念であったのに対して、後期近代(レイトモダン)とは、フォーカスを当てる側面によって様々な議論がなされるものの、基本的には近代の枠組みが先鋭化、徹底化されるという意味で近代の延長上にある、という定義が基本路線である。本連載において関連するキーワードとしては、脱埋め込み/再埋め込み、「空間」/「場所」、といった二項対立概念に加えて、専門家/専門家システムという用語が重要である。

後期近代という時代は何年から始まるのか? という疑問もあるだろう。戦前/戦後のような年代の決まった時代区分ではないため、明言することは難しい。概ね産業の中心が、工業からサービス産業へと移り変わっていく1960年代後半から1970年代にかけて、ゆるやかに移り変わっていくものと定義しておきたい。

建築の解体と主題の不在

その時代に書かれた建築家の著作を読み返してみると、後期近代という時代の到来を予感させるものがいくつかある。その一つが、磯崎新の『建築の解体』(1975)である。

『建築の解体』は、磯崎が1969年12月〜73年11月にかけておこなった『美術手帖』での連載が元になっており、近代建築がその前提としていた産業・社会構造の変容を受けて、外国の建築家の様々な取り組みを紹介・分析・考察したものである。建築や建築概念を拡張する試みをハンス・ホラインやアーキグラムの実験的プログラムなど当時の最先端の議論を渉猟しながら、磯崎が行き着いたのは「主題の不在」という主題であった。

磯崎が「巨大な空洞」と表現する、この「主題の不在」こそ、後期近代という時代を象徴するものである。後期近代は再帰的近代(reflexive modernity)とも呼ばれる。後期近代社会では基本的に人々は伝統的コミュニティから切り離され(脱埋め込みされ)て生きている。そこでは、前近代社会(人)が準拠してきた、伝統や規範、諸制度の正統性や権威が解体されており、そうしたものを参照できなくなる。その結果、人々は自らを省察する“reflexive”な態度を身に付ける必要がある。国家であっても、個人であっても、参照/批判すべきは内部/自分自身であり、外部ではない。後期近代を生きる人々は徹底的に自己を省察し、自分で決定を下す「自己決定」を宿命付けられている。

さて、磯崎は「70年代の中期になって、私たちの作業はその中心の空洞にむかい合うことを避けられなくなりつつある。おそらく私の次の仕事も、その点にかかわることになるだろう」(磯崎1984[1975]:405)と述べている。磯崎はすでに、1970年の大阪万博において、この「仕事」を具現化しているが、それは次節で述べる。

後期近代における建築家の職能

さて、ここでもう一度本連載の目的を確認しておこう。それは端的に言えば建築家の職能論の展開である。その問題関心は筆者の近著である『建築家として生きる』★1の延長上にあるが、そこではあまり言及できなかった現代の建築家の職能(その変容/拡張の方向性)について、今後記述していく予定である。

建築家の職能の変容をめぐる議論は今に始まったことではない。建築家の職能論については、1970年(代)、1995年、そして2011年に大きな画期があるということは、広く共有され議論もされてきた。連載第一回目の本論では、1970年代の二つのトピックから、後期近代と建築家の職能を考えてみたい。後の二つの画期(1995年、2011年)については分量の都合上、次回検討することにする。

1970年は大阪万博開催の年であるが、建築史的には、丹下健三チームが設計した「大屋根」を岡本太郎の太陽の塔がぶち破るという「事件」が重視されている。その理由は、建築の持つシンボリズムが「太陽の塔」に取って代わられたこと、それによって建築に不可分に内蔵されていたシンボルとシェルターという二つの表象機能が分離したことが現れされていると考えられるから、である★2。

とはいえ、大屋根は「太陽の塔」に突き破られなくても、はじめからシンボリズムとは無縁の設計がなされていた。具体的には、内部で展開されるアクティビティを重視したシェルターとして設計されていたのだ★3。設計チームの中心にいた磯崎新は、当時すでにハンス・ホラインやアーキグラムの仕事に強い影響を受けていた★4。彼らが建築の概念を根本から捉え直し、物質/非物質の垣根を超えて建築の概念を拡張させていたことはすでに述べたとおりだ。「大屋根」以降の建築は、内部のアクティビティを包摂するための安全で効率的なシェルターとしての役割を前景化させていくのである。

専門家システムの台頭──巨大建築論争

1975年には、日建設計の建築家である林昌二の論文「その社会が建築をつくる」が提出され、大いに議論を巻き起こした★5。林の議論は、建築批評家の神代雄一郎が1974年に発表した「巨大建築に抗議する」という論文への反論である。神代は当時建設されようとしていた「4000人のホール」が、その建築規模において「非人間的な」規模であり、それが「地域社会から切り離され根なしで大きすぎる」と論難し、人間のコミュニティの持つ適正な規模はせいぜい200戸の家と1000人の人口であると主張した。神代はそのような「非人間的な」スケールの建築を手がける建築家を「自らの社会的責任を放棄した」と舌鋒鋭い批判を浴びせた。

それに対する林の反論は、建築とは社会の要請によって創られるもので、すでに「個」としての建築家が影響を及ぼせるものではないということを論じたものであったが、それは取りも直さず後期近代における専門家の職能論である。ギデンズは後期近代という時代を駆動していく力の一つとして、「専門家システム」を挙げている。「専門家システムとは、われわれが今日暮らしている物質的、社会的環境の広大な領域を体系づける、科学技術上の成果や職業上の専門家知識の体系」(Giddens 1990=1993: 42)のことをいう。今日、我々が暮らすこの便利な日常世界は、「専門家システム」によって駆動している。そのシステムは、生活インフラ、交通機関、商品の流通や医療システムに至るまで、社会の隅々に至るまで張り巡らされている。

林は、空間に効率性と合理性を追求する後期近代における建築は必然的に規模も大きくなるし、「専門家システム」としての組織設計事務所が設計すべきである、と主張しているのである★6。「専門家システム」に包摂される専門家は基本的にアノニマスである。私たちは日々、地下鉄やバスや飛行機に乗る際、運転士の個人的な属性を気にすることはない。在来線やバスだと運転士の姿を目視することができるが、その姿を見て、この運転士は頼りなさそうだから一本後の電車に乗ろう、などという判断を普通はしない。遅延や事故などのトラブルが生じて、はじめて運転士や車掌の存在を意識する、という程度である。時代が前期近代から後期近代へと移り変わりつつある1970年代にあって、林の議論は、後期近代における専門家のありかたをいち早く読み取り、それを的確に言語化したものであった。

また、磯崎が1970年代にたどり着いた、建築家が向き合うべき「主題の不在」という主題は、1995年と2011年の二つの大災害からの「復興という主題」に関われないという絶望的な状況の中で、必死に建築家の職能を問い直す、反省的な姿として現前することになるのである。(続く)

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★1:松村淳、2021『建築家として生きる』晃洋書房
★2:「『お祭り広場』と『太陽の塔』は、シェルターと表象機能のこの分離を、すなわち建築デザインの失効を、見事に描き出していた」(森川 2003: 167)
★3:磯崎は、セドリック・プライスの「ファン・パレス」計画から示唆を得て、「お祭り広場」のコンセプトを「広場の装置を可動にして、不確定なイヴェントの発生に対応できるようにするべき」であると主張し、これが基本線として確認されたと述べている(磯崎 1984[1975]: 145)。
★4:磯崎新、1984 『建築の解体』美術出版社。
★5:彼らの論争はアトリエ事務所と呼ばれる作家性を前景化させる設計事務所と、組織系と呼ばれる組織・ゼネコン系設計事務所の「対立」の発生のきっかけとなった。これ以降前者が作家性を、後者が社会性を前景化させ、「アトリエ派は都市から、組織系は批評から、それぞれ完全に撤退し」それによって「都市空間における設計者の二層構造化は決定的となった」(藤村 2009: 81)のである。
★6:象徴的な分岐点としては、日本最初の超高層である《霞が関ビル》(1968)が挙げられるだろう。この頃からフリーランスの建築家がイニシアチブを取れなくなっていく(日埜直彦2021)。1970年代に入ると、「組織派」が都市の大規模な建築や開発を担い、「アトリエ派」は小規模ながら実験的な作品制作を中心的生業とする、といった「生態系」が安定していく。『建築雑誌』2019–05特集=34 アジアの〈組織派〉と〈アトリエ派〉─ジェネリック・シティの生態系を読み解くhttp://jabs.aij.or.jp/backnumber/1724.php

参考文献
藤村龍至、2009、『1995年以後~次世代建築家の語る建築』エクスナレッジ。
日埜直彦、2021、『日本近現代建築の歴史』講談社。
磯崎新、1984[1975]、『建築の解体』美術出版社。
Anthony Giddens ,1990, “The Consequences of Modernity”, (Stanford University Press,).
松尾精文・小幡正敏訳、1993、『近代とはいかなる時代か?――モダニティの帰結』而立書房。
松村淳、2021、『建築家として生きる』晃洋書房。

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松村淳
建築討論

まつむら・じゅん/1973年香川県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。京都造形芸術大学通信教育部建築デザインコース卒業。関西学院大学大学院社会学研究科博士後期課程(単位取得満期退学)。博士(社会学)・二級建築士・専門社会調査士。専門は労働社会学、都市社会学、建築社会学。関西学院大学社会学部准教授。