批評|公共性の揺らぎを体感するためのMIYASHITA PARK マニアックツアー

058 | 202108 | 特集:建築批評《MIYASHITA PARK》/MIYASHITA PARK Maniac Tour to Experience the Fluctuations of Publicness

馬場正尊
建築討論
Aug 3, 2021

--

複雑だからおもしろい、公共性のデザイン

この特集のタイトルでもあり、2013年に書いた『Re PUBLIC/公共空間のリノベーション』(学芸出版)の理論的な背景にもなった、齋藤純一の『公共性 (思考のフロンティア)』(岩波書店)。その中に、僕が公民連携プロジェクトで公と民の板挟みになるたびに、心の支えとなっている一節がある。

「公共性の条件は,人びとのいだく価値が互いに異質なものであるということである.公共性は,複数の価値や意見の〈間〉に生成する空間であり,逆にそうした〈間〉が失われるところに公共性は成立しない」齋藤純一『公共性 (思考のフロンティア)』(岩波書店,2000)P.5

複数の価値や意見が持ち寄られ、対立したり調整したりを繰り返す人間の営み自体が、公共性を担保するための方法であり、それが起こることが豊かな公共空間であることの必然。だから公共性を追求するデザインは複雑でおもしろい。

MIYASHITA PARK マニアックツアー

MIYASHITA PARKを丁寧に見て回ったとき、まさにこの「複数の価値や意見の間」が、いたるところに垣間見える。それが点在していることで多様な人、多様な出来事が、ある秩序の下で許容される優しい場所の出現につながっている。

この論考ではまず、MIYASHITA PARKを歩きながら、公共性の追求の痕跡や、試行錯誤、葛藤などをマニアックに探していきたい。そこには、様々な設計の工夫だけではなく、時に滑稽ですらある制度のギャップ、現代の公共性を表象したようなデザインがある。

境界を感じさせず、でもはっきり見えている管轄の線

MIYASHITA PARKを歩いていて、まず気になったのは「境界線」の表現。そこには所有と共有が重なり合いながらバランスしようとする、現在の公共空間が抱える課題が見えている。

歩道橋の真ん中にエクスパンションの黒い線が入っている。

明治通りからMIYASHITA PARKに登っていく階段。人々は、なぜ階段のど真ん中に黒いゴムのエクスパンジョンの線が入っているか、なんて事は気にもせずそこを上り下りしている。

歩行者にとってはどうでもいい線だが、行政の資産区分、管理区分にとっては重要な線だ。この黒い線の左側は東京都の道路で、右側は渋谷区の公園。右側だけに賃料が発生している。

これを1つの歩道橋の中で実現するには、おそらくかなりの協議や調整があったんじゃないかと推測できる。

ここには道路と公園の境界をいかにさりげなく曖昧に、でもはっきりさせるための意図がにじみ出ている。

一発でコンクリートを打てば合理的だし、構造的にも有利なはず。でも、資産区分上それができない。

日本の縦割り組織が顕在化してその溝が表出した。なんだかとてももどかしい黒い線である。それにしても、設計者はよくこれを調整しきったと思う。頭が下がります。

所有と共有の中間的な幅1mの活性面

何気ない通路へのにじみ出しだが、よく考えられている

施設の中に入ると、今度は通路に引かれた白い線が気になった。これはなんだろうか。

柱の外面までが店舗の賃貸部分。そこから先は共用の通路だが、白い線までは店舗が使っても良い。商品や看板などを出すことが許容、いや奨励されているようだ。ちなみに、避難通路の有効幅員は当然、この中間領域から外してある。

この細やかな工夫によって、通路にノイズがにじみ出し、歩行者がゆっくり歩く行動を導いている。かつてはどこにでもあった商店街の風景だが、現代においては絶妙なマネジメントと白線によって実現する。

それは人間のコモンセンスの進化なのか、それとも退化なのか。この幅1メートル前後の活性帯が問題提起しているかもしれない。

公共空間のわずかな領域を、そこに接する事業者に委ねるルール設定と白線だけで、ストリートの風景はごく自然に賑やかになってゆく。このシンプルな手法は今後、日本中の商店街にも応用することができるはずだ。

今、国土交通省も「まちなかウォーカブル推進事業」や「歩行者利便増進道路(通称:ほこみち)制度」で、それを推進しようとしている。けれど警察や道路管理者、組合等各方面への調整に苦労していると聞く。この風景を見ると、どうすれば良いか答えは出ている気がするのだが、それでも時間がかかってしまうのが今の日本。道のデザインとマネジメントが都市の風景をドラスティックに変えていくはずだ。

道路を占拠しているように見えるが、賃料を払っている合法的スクウォッティング

道路にはみ出し、占拠している屋外居酒屋。

一見、居酒屋からはみ出してきた座席が道路を占拠しているように見える。そのスクウォッティング(不法占拠)の感覚で、気分が盛り上がる。しかしここはしっかりと賃貸面積に入った占有空間。要するにここは道路ではなく、道路のように振る舞っている古くて懐かしい軒先なのだ。

道路にはみ出しジャックすることを演じることで、ここの場所は大きな収益を店舗にも、そして行政にももたらしているのだ。屋台街的空間の経済効果の迫力を改めて認識させられる。

にもかかわらず、日本の制度は、長い時間をかけて培ってきた軒先文化やそれが醸し出す魅力的な風景を失わせてきた。

パブリックとプライベートの線がはっきり引けない、曖昧で不安定で魅力的な領域を、なぜか排除してきた。

衛生面と安全面からの指導であることはもちろんわかっているが、なぜいまだに昭和中期の基準と価値観で制度を運用しているのだろう。

コモン的な境界面が活性化することで、都市の風景は変わり、そこが大きな経済効果をもたらしている事例が目の前にある。これは道路活用制度の変革、そして加速を後押しする風景なのではないだろうか。

フェイクと本物のすばらしき共存

のんべい横丁が忽然と残っている。

渋谷駅からMIYASHITA PARKに向かうルートの1つに、のんべい横丁を通る道がある。僕も学生時代から時折訪れていた懐かしい風景。

ただ、今となってはあまりにも忽然と残っているので、それがシュールですらある。

渋谷区はこれを文化的、歴史的な遺産として積極的に残したのか、土地の所有や協議が複雑すぎて面倒がゆえに残したのか、実情はわからないが、エリアのスパイスとして、このレトロな一画が情緒をもたらしているのは間違いない。

その、のんべい横丁を抜けて行くと、また違った横丁が姿を現す。こちらは人工的に新しく作られたフェイク。でも、それがまた良くできている。

新旧が対立しているのかと思いきや、なんだかうまく共存しているように見える。そもそも、のんべい横丁がなければ、このフェイクも生まれてこなかったはず。

日本は今まで、再開発によって数多くの横丁を潰してきた。でもここで新旧のシークエンスを見てみると、古い方が残っているからこそ、新しい方にも説得力や物語が生まれやすいことがよくわかる。

ここは旧市街と再開発との共存や、空間的な連続性のある解答が示されている。新旧の境界をはっきりするよりも、それらを相互に取り込みながら共存する。新しい再開発は古い横丁から物語をもらい、古い横丁は再開発から人通りをもらう。その交換が相互価値を生み出している。

全部ぶっ壊わさず、他の再開発でもやればいいのに。

仮設性がもたらす公共性

明治通り沿いから見るMIYASHITA PARK

MIYASHITA PARKをちょっと引いた場所から見渡してみると、独特の仮設的な空気を醸し出しているのがわかる。

それは、この建物が渋谷区と事業主である三井不動産との契約上では、30年間の借地の上に建っていることに起因しているのではないかと思う。

30年後、建物を解体し更地にして渋谷区に引き渡すか、もしくはそのまま譲渡することになっている。だからMIYASHITA PARKは30年間の仮設建築でもあるのだ。もちろん、建築基準法上では仮設ではないが、やはり期限を切らずに、ずっと建っていることを前提にした建築とはおのずと質感が変わってくる。

当然、期間中に事業収支を合わせるために、イニシャルコスト抑制への圧力は強かっただろう。

だからこそ、建築から感じる空気は仮設的で、素材の選択は割り切りがあってさっぱりしている。道路や歩道橋と地続きであるから、土木的なスケールやラフな収まりが全体のトーンとなっている。

その粗野な質感の中に、ルイ・ヴィトンやグッチ、プラダのようなハイブランドが入っているから、そのギャップも、なんだかある種の不安定な空気を醸し出している気がする。

ここで気がつくのは、この仮設性が公共性にもつながっているのではないか、ということだ。

所有の期間が限られ、30年後にはなくなってしまう可能性もあるから、この建築の存在感はなんだか危うい。どこか刹那な空気が漂っていることで、この場所がどこかの誰かのものではない、少し中立的で、ふわふわと漂っている船のような印象を受ける。敷地が細長いから、結果的に船のようなフォルムになっているからかもしれない。

それは豪華客船ではなく、パッチワークで安くつくった難破船のような感じ。所在のわからない不特定多数の人々が乗り込んできて、そして降りていくような。

誰かの永遠の所有下にないことが、おのずと公共性を醸し出す要因になっているのかもしれない。

お金のない高校生たちの居場所と「滞在者」の定義

4階に広がる屋上公園

ルイ・ヴィトンやグッチの直上には、お金のない高校生たちが、おそらく何の目的もなく仲間たちと、暗くなるまで話し込んでいる。

「お金がない」という状況が、ここではとても大切なこと。彼らはただ、たたずんでも良いという権利を謳歌しているようにも見える。「無目的であること」が許容されること。そこに公共性の最も大切なことが潜んでいる。

国土交通省が推進し、僕もその成立に少しだけ関わった「まちなかウォーカブル推進プログラム」。都市を車中心の機能的空間から、歩行者中心の居心地の良い空間へと変えていくための政策。都市としての生産性が高く、クリエイティブな人材を集め、活発な経済活動が行われている都市は、機能性を超えて、多様性を享受し、居心地が良い空間を有していることが統計的に明らかになった。だから日本の都市を、その方向にシフトさせるための法制度の立案や変更。現在、様々な都市でその実験が始まっている。

そこで法制化のために新たに定義されたのが「滞在者」という言葉。今まで「歩行者」という法律用語として定義されていた。A地点からB地点に目的を持って歩く人のこと、らしい。しかし、目的を持たずに都市をさまよう人々を、日本の法律は定義していなかった。目的なく街に存在する人は、理論的には存在しないだろうという考え方。まさに機能主義。しかし一昨年、初めて「ただそこにたたずんでいるだけの人」」すなわち「滞在者」が法的に認知された。

一見、どうでもいい話のように聞こえるが、でもそこに何か本質的な価値観の変化を感じていた。

MIYASHITA PARKで、目的もなく1人でぼんやりしている人も、うだうだと友達と話している高校生たちも、法的にその存在価値の重要さが認知されたのだ。そして、それがあたたかく許容される場所の存在こそが、洗練された都市の証である。そして、それを支えている基盤が、公共性そのものなのではないかと思う。

様々な形が生んだMIYASHITA PARKの複雑性

このように、MIYASHITA PARKには公共性の揺らぎがいくつもの風景として立ち現れている。渋谷という日本でも最も多様性が許容される街で、ここに至るまで様々な経緯があったMIYASHITA PARKだからこそ生まれた複雑性なのではないだろうか。

もちろん、立地がケタ外れに良くて、あらゆる民間企業が投資したい場所であることは間違いない。だから他の街の公園にそのまま当てはまるわけではないが、それでも数多くの厳しい視線が事業全体を見守る中で、それを全てクリアしながらここまで辿り着いた事業者、設計者、そして渋谷区、近隣の商店街、複数の道路管理者などの努力や試行錯誤はすばらしいと思う。成立までの物語をゆっくりと聞いてみたい。そのプロセスにはおそらく、公民連携の様々なノウハウが詰まっているはずだ。

公共性を問う、試行錯誤と方法論のショーケース

今、日本における公共空間は、不安定で微妙なバランスの中に漂っているように感じる。公共空間を行政が「管理」する時代から、民間が「経営」する時代に大きく舵が切られようとしているのだ。しかし、その変換に向けてのルールや方法論はまだ未熟で、行政側も民間も、さまざまな法律の解釈や説明責任の言葉を持ち寄りながら、未知の領域の航海を乗り切って行く、そんな感覚だ。

だからこそ今、公共空間はおもしろい。

国を含め日本中の行政は、財政的にひっ迫した環境下にある。福祉や社会保障などの義務的経費の増加の勢いは止まらず、それらに伴う業務は増加し、そこに人手を持っていかれる。結果的に、人材不足が続き、それが改善される見込みはない。

当然、公園などの公共施設、公共空間に資金や人材を投じる余裕はどんどんなくなり、それを民間に委ねたいというベクトルが働く。行政は今、洗える資産を整理して身軽になるしかないのだ。

ただ、その委ね方がまだわからない。かつては「払い下げ」という言葉に象徴されるように、上から目線で、行政の資産を民間に下ろしてあげますよ、というスタンスだった。ただ、需要と供給のバランスが逆転し、今や行政側が売先を必死で探さなければならない状況にある。ただ、この構造変換に気がついていないか、もしくは理解していても体質改善ができない自治体が多い。発想と行動を転換できた自治体から変化は起こっている。自分たちの所有する資産をいかに魅力的に見せ、その可能性を提示し、パブリックマインドを持った民間企業を見つけ出せるか。そしていかにスマートに、お互いwin winの関係でその空間を活用できるか。

これからの日本は、行政資産の民間への委ね方について、さまざまな試行錯誤や実験が行われるだろう。

このプロジェクトに関わった行政、事業者、そして設計者たちはそれにいち早く取り組んだ人々であり、MIYASHITA PARKは、その複雑さ、ステークホルダーの多さ、ダイナミックな変化の幅から見ても、実験と試行錯誤、そして方法論のショーケースのような場になっている。

参考文献:

齋藤 純一『公共性 (思考のフロンティア)』(岩波書店,2000)

--

--

馬場正尊
建築討論

1968年佐賀生まれ。1992年早稲田大学理工学部建築学科卒業。1994年早稲田大学大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了。 博報堂、早稲田大学博士課程、雑誌『A』編集長を経て、2003年オープン・エーを設立。 現在、東北芸術工科大学教授。