批評|公共性を空間からではなく、連関から考える

058 | 202108 | 特集:建築批評《MIYASHITA PARK》/Consideration on publicity not from space but from relations

塚本由晴
建築討論
Aug 3, 2021

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宮下公園における公共性の争点は何だったのか

2020年にオープンした「MIYASHITA PARK」は、複雑な都市計画的スキームをうまく着地させたプロジェクトだ。屋上の公園部分は公共の場として面積を保ちつつ、商業施設やホテルも同敷地内で多層的に展開し、立体的な土地利用がなされている。このような立体都市公園の実践は評価されるべきことだろう。

一方で、民間投資に基づく事業スキームに伴い、そもそも「公共性」の議論自体は成立していなかったのではないかと感じている。本来なら、計画・設計の入り口こそが議論の争点となったはずである。

われわれが関わった「みやしたこうえん」(2011年開園)の段階で、すでに公園下ガレージのRC造は新耐震基準に則っておらず、基準に適合させるためには基礎杭から入れ替える必要があった。しかし、区役所や学校、病院などの公共的な建築に比べれば、都市公園の耐震改修の優先順位は低い。そのため、「みやしたこうえん」は、耐震改修をせず、新しい構築物を設置する場合は、その場所に盛られていた1.5mの土厚に対応する積載荷重を超えない方針で設計が行なわれた。クライミング・ウォール部分が掘られているのは、そのためである。

しかし行政としては、渋谷駅直近に耐震性の劣った建物がある状態をいつまでも放置するわけにも行かず、ある段階で何らかの手を打たなければならない。2020年の東京オリンピックの開催決定に背中を押されるように、渋谷区は民間資金を導入した建替の方針を決めた。渋谷区は2014年に、敷地の一部に設定した定期借地権の対価により、新庁舎・新公会堂を建て替える方法を採用しており、今回も同じ方法をとった。民間事業者は、定期借地敷地で事業を行い、借地期間終了後区に土地を更地返還する。区役所の場合は、分譲マンション、「MIYASHITA PARK」の場合はホテルが建てられた。

この方法は税金を使わないで、公共施設を建て替える点が高く評価されているが、この建て替え方法についての議論こそが一番の公共性の問題だったのではないか。

この公園の前身は、第二次世界対戦中の建物疎開がきっかけで生まれた線路脇の空地である。そこが戦後に都市計画上の公園になり、1965年の東京オリンピックの際に駐車場が建設され、その屋上が公園になった。都市公園に建ぺいを使うような建築はできないので、屋上にたっぷり土を乗せ、木を植えて、そこを「地上階」、ガレージは地下の扱いとした。その超法規的なハイブリッドモンスターぶりは『メイド・イン・トーキョー』でも一事例として取り上げられている。それがPPPによって「みやしたこうえん」に改修され、反対運動を経験しながらも、新しい利用のされ方、人の集まり方を育くんできた経緯は、「MIYASHITA PARK」の構想段階で、「公共性」の中心課題としてもっと議論されるべきだった。だがその議論は、事業コンペになった段階で消えてしまった。建築と一体化した都市公園を作ることは、法律の解釈を積み上げないとできないので、経験豊富な組織や事業者に頼らないと難航するのは想像に難くない。それで事業性が第一義になり、「公共性」の間口はそれが許す範囲に狭められたのではないか。

「MIYASHITA PARK」では、立体都市公園制度や定期借地権を利用し、民間と自治体の協働による立体的な土地利用が展開されている。民間資本が投機的な事業を行うには、それなりの床面積がないと成立しない。だから「北街区」の4~18階にホテルが入り、3層分の商業床が公園の敷地に積まれ、実際は「公園」というより商業施設に付加価値をつける「屋上庭園」と呼ぶのがふさわしい形態になった。こういう公園の産業化が、公共性の新しい展開だと言われるのには、違和感がある。設計に関する議論の過程は、限られた会議体に閉じられ、人々が介入できる余地はなかった。ナイキ・ジャパンと協働し、「みやしたこうえん」を通してコモンズの再構築を目指したわれわれも、その議論には加われなかった。

いやむしろコモンズから見れば、これこそ「公共」なのかもしれない。コモンズとして共同で維持管理、利用されてきた資源を、個人の資本蓄積に移し換える制度を作ることで経済活動を促し、そこから税収を得るのも公共であるから。つまりコモンズの領域にあった「みやしたこうえん」は、資本主義のプレイヤーとしての「MIYASHITA PARK」に、公共のプロセスを通して仕立て上げられたとも言える。

当事者を限定する産業的論理と、当事者を拡張する「普請」

産業化された社会が「当事者」の範囲を狭めてしまうことも指摘されるべきであろう。「みやしたこうえん」の設計の過程で印象的だったのが、渋谷区の公園課の職員が、ホームレスの人たちの名前や生い立ちを把握しており、個々人の健康状態も含め、気にかけていたことだ。そういう意味では公園課の職員もホームレス問題の当事者であった。ホームレス問題の当事者は、家のない人だけでなく、設計者も含めた公園の改修の関係者にまで広がっている。「みやしたこうえん」では、プロジェクトに反対してスクウォッティングしていたグループを、建設開始前に強制的に立ち退かせるなど、緊迫した局面が何度かあった。それは、あの場所の将来をどうするかについての、当事者同士の意見のぶつかり合いだった。そうやって、当事者の裾野が広がったことも、「みやしたこうえん」の公共性と言える。事業プロポーザルのもと、産業的連関が強められた「MIYASHITA PARK」が標榜する公共性とは、鋭い対比をなすのではないか。

設計、建設、事業、投機、行政など、プロジェクト遂行にはさまざまな立場の主体が関与するわけだが、それを取りまとめる産業的ロジックは、必ずしも公共性や民主主義を担保しない。とくに公園という独特な場所なら、なおさらだ。公園は「建てないこと」を確保するためにつくられた社会的枠組みで、建てるために編み上げられてきた産業的連関では対応できないはずなのだ。

当事者の範囲を広げると仕事の「キレ」が悪くなるので、効率性を優先するなら当事者はできるだけ限定したいところである。「みやしたこうえん」の場合、ホームレスの居場所の屋上から側道への移動や、立て篭っていた反対派に対する強制代執行だけを見れば、「宮下公園」をそこに定着していた事物連関から解放したと言えるが、他方でスケートボーダー、ストリートダンサー、ウォールクライマー、フットボーラーなど、核となる潜在的な利用者のコミュニティを、「宮下公園」に繋ぎ込み、連関を再編成していくことを一貫して意識していた。それに対して「MIYASHITA PARK」は、資本主義のパワー・プレーヤーへの繋ぎ込みでプロジェクトを成立させ、公園がつくりあげてきた連関からあの土地を解放した。過去の連関を断ち切って自由になるという意味での「空間」が勝利し、産業による連関が、急にあの場所を占拠し始めたのである。だがそれを「公共空間」として論じれば論じるほど、連関の変化は見えなくなっていく。「空間」という批評言語は連関から解放された自由を主張することに長けているが、その先にある別の連関への繋ぎ込みを捉えることができない。20世紀の間、空間のそういう性格は、拡大成長を追い求める産業社会のイデオロギーとして利用され、不都合な連関を外部化してきた。その意味において空間を批判しない限り、いま人類が直面している様々な問題に、建築を通して向き合うことはできない。

産業的効率性を求める建築や、連関からの解放を標榜する空間と対照的な概念として、普請という言葉がある。もともとは仏教用語で、禅宗の寺院建立や行事の際に、相互扶助のようなかたちで広く協力を要請する意味合いがあり、「普く人々に請う」という二文字が当てられた。それが江戸時代の土木工事を担う「普請役」という言葉になり、近代以降の「普請業」、英語でゼネラルコントラクターに繋がっていく。普く様々な工事を請け負うからだろうが、業としての普請は資本主義が推し進めた技術の囲い込みである。それより、誰もが当事者になっていく囲い込まない本来の普請に、私は興味がある。昔は技術のない人は物を運び、女たちは料理を作って建設現場を支えた。今なら電動工具で女が木工事をする傍らで、インターネットのレシピを見ながら男が料理をするかもしれない。

「みやしたこうえん」の経緯

私自身は、建物に手を入れて寿命を伸ばし活性化を図ることや、ポテンシャルをもった利用者に合わせた公園のアップデートを行うことはとても意義のある試みだと考えている。それを公共の予算内で行うのであれば、それほど問題はないのだろうが、PPP/PFIをはじめとして民間投資に基づく枠組みを採用する場合には、複雑な合意形成や交渉が必要になる。

「みやしたこうえん」の場合、ナイキ・ジャパンと渋谷区という、向いている方向性が異なる主体間の合意形成に時間がかかった上に、2008年のリーマンショックや2011年の東日本大震災という予期せぬ事態が重なった。その経験を経て双方の思惑も少しずつ変化し、計画の想定が見直され、それに合わせて計画案は都度更新された。その間に漏れ聞こえてきた情報をもとに、反対派は様々に憶測し、批判を繰り広げた。誤解に基づいた批判が多かったが、双方の最終合意が得られるまでは計画案を公表できないので、黙して耐えるしかなかった。この仕組みの中どう公共性の議論を展開すればいいものか、いまだに私のなかで答えは見つかっていない。

開園時間についてもたびたび変更が発生した。当初は24時間開放を目指したが、夜間は施錠する方針に変わった。再び反対派に占拠される可能性を、行政としては無くしたかったのだろう。「みやしたこうえん」のオープンは東日本大地震の直後の、節電が謳われていた時期で、他の公共施設も閉館時間を早めていたので、それに倣った形だった。話が違うと異議を唱えたものの、拗らせてもどうにもならない。そこでオールナイトのイベントを仕掛けて、夜間施錠を考え直す機会を作ろうと、ナイキ・ジャパンとは話していた。タクティカル・アーバニズムだ。私たちは直接関わらなかったが、オールナイト・イベントは何度か開催されたようだ。

セミオープンなメンバーシップから広がる公園

「宮下公園」の周辺には、路上でスケートボードを楽しむ若い人たちがいて、よく地元の商店主などに怒られていた。夜になると明かりの消えたビルのガラスの前に集まるストリートダンサーがいた。ボルダリングをする人々は、小さな屋内スペースではなく、開放的な場所でやりたいと望んでいた。「みやしたこうえん」の設計では、そうした人たちからの聞き取りを行い、計画に反映した。彼らの振る舞いを核に、既存のケヤキや更衣室の壁を資源として読みかえ、ファシリティを決めた。その躍動する姿を眺める親子連れやお年寄り、学校帰りの中高生が現れることを期待して、外周フェンスの大半にベンチを組み込んだ。さらにその外側を、公園脇を走る電車、その乗客、明治通りの歩行者、自動車、隣接するビルの窓際席でコーヒーを飲む客などが取り巻く。この作戦は功を奏し、樹木が徒長して人気のなかった公園を、都市の多様な振るまいに繋ぎ直すことができた。ここで注意すべきは、私たちは「フルオープン」のメンバーシップを目指したのではなく「セミオープン」から始めたということだ。利用者の属性を決めるのは不公平だからと、間口を広げていたら、周辺のスケートボーダーは寄らなくなり、結局特徴のない場所となっていただろう。1950~60年代の団地計画なら、入居者の属性に細かく対応するよりも、大量供給することが急務だったろうが、今は人々の属性に目を向けない理由はどこにもない。

「宮下公園」には株立ちの立派なケヤキがあったので、路上の物体をハックしてトリックに変えるストリートスケーターに学び、木々を避け間を縫うようにスケートパークをつくった。そこには小学生から50歳まで、老若男女が集まっていた。小学生は技を盗もうと、大人のベテラン・スケーターの滑りを食い入るように見入り、逆に子供が滑り出すと、今度は大人たちが見守る。年齢層が厚いスケボー・コミュニティは、お互いが教え学び見守り合う場になっていて、スケボーを核に、都市型のコモンズが成立している雰囲気がある。ボルダリングやフットサルも同様で、みんなが身体を通して学び合う場が生まれていたことは「みやしたこうえん」の一番好きなところであった。この側面は「MIYASHITA PARK」にもぜひ引き継いでもらいたい。

資源にアクセスするクラブの可能性

最後に、その場所に存在する資源や人々のふるまいから公園の未来について考えたい。上で述べた都市型スポーツのコミュニティは、共通のルールの下、コート、ボールとして身体を関係させるふるまいである。一方、地域に根付いている習慣には、家族やコミュニテイのなかで受け継がれたふるまいが伴う。このふるまいは誰もが身につけていて、状況が整えば動き始める資源のようなものである。

『コモナリティーズ──ふるまいの生産』(LIXIL出版、2014)では、世界各所で人々が自らの身体で都市のオープン・スペースを楽しく領有している事例を集め、読み解いた。そこで見えたのは、ふるまいは資源との出会いによって生まれるということだ。だからこそ都市空間の公共性は、資源を始点にして連関の方から考えていくべきなのだ。誰もがアクセスできる何らかの広がりといった漠然とした概念、いわゆる空間からでは質を組み立てられない。

私は各地のビエンナーレや美術展で「マイクロ・パブリック・スペース」の社会実験をすることで、こうした認識に至ったのだが、最近は資源とふるまいの組み合わせから、フィクショナルな「クラブ」を提案している。長年遊泳禁止だったブルージュの運河の水質が改善されたので、水に浮く桟橋を作って水に近づきやすくした「Canal Swimmers Club」、深圳では街路樹の管理から発生する大量の枝や木を、街路での調理に結びつけた「Fire Foodies Club」、廃墟になった城を取り囲む湖の辺りで踊る「Lakeside Dancers Club」などである。クラブの面白いところは、ふるまいを共有するメンバーシップと、その活動場所のどちらをも指すところだと思う。このクラブの考えは、さらに農村、漁村、中山間地域にまで展開できる。荒廃した棚田や森林を整備し、遊水池の周りの大空で気球を飛ばし、竹を管理しながら竹細工を作り、松茸が生えるように松林の落ち葉を掃くなど、地域の資源にアクセスするスキルや道具を共有する「地域資源にアクセスするクラブ」により、都市農村交流が活性化され、里山などの環境が保全される。これら全てに共通しているのは資源と身体の出会いによりふるまいが生まれ、そのふるまいは繰返される中で洗練され、スキルとして定着し、道具も生まれ、文化になっていくことである。

建築学科の学生が課題の一環で街のリサーチを行うと、よく公園に人がいなかったので活性化したいと言う。商業施設のように人がたくさんいなければ失敗のように考えるのは、産業社会的連関を無意識化しした建築学科的空間病と言える。実務者も近隣住民の貢献に期待せず、資本主義的に維持できることを善としがちだが、果たしてそうだろうか。公園は人間もさることながら、植物や鳥などの居場所であり、そうした資源が健全に維持され、まずは近隣の人々がアクセスできれば十分である。近隣住民で公園や街路樹の管理をクラブ化するやり方もこれからは増えるだろう。人口構成的に役割を終えている児童公園を、個性豊かな児童公園に変えていくクラブも現れるに違いない。土、樹木、池、雨、風、太陽などの、資源にアクセスするクラブ化は、脱施設として現状のシステムを補完するであろう。

「MIYASHITA PARK」の公共性から話が逸れてしまったが、大事なのは空間から公共性を論じるのではなく、連関から公共性を論じることだ。20世紀を通して、過去の連関から解放された自由を標榜してきた空間という批評言語は、その先に繋ぎ込まれる連関を説明する言語ではないばかりか、その事実を外部化し、捉えにくくして、痛みを感じないようにしてきた。その点において空間は批判されなければならない。ではどのような連関が公共性を持ちうるのか?そのヒントが、普請が拡げる当事者性や、コモンズの再構築の試みにあると考え、資源/アクセシビリティ/メンバーシップの関係によるクラブへの展開を紹介した。空間という批評言語は、産業革命以降に建築を論じる言葉として現れたものだが、簡単に廃棄することはできない。空間がなければ、場所も時代も違う建築を比較することもできないし、連関を組み替える前提となる切断もできない。できるのは空間を活き活きとしたものにすることだけである。そのために連関の批評言語を組み立てることにより、空間を批判するのである。

※本記事は塚本由晴氏へのインタビューに基づき作成(聞き手:吉本、岩元、能作、編集:中村睦美)

「みやしたこうえん」©️Atelier Bow-wow

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塚本由晴
建築討論

つかもと・よしはる/1965年生まれ。建築家、東京工業大学大学院教授。貝島桃代とアトリエ・ワン主宰。著書に『空間の響き/響きの空間』(INAX出版、2009)『Behaviorology』(Rizzoli、2010)『図解アトリエ・ワン2』(TOTO出版、2014)『コモナリティーズ』(LIXIL出版、2014)他。