沖縄リージョナリズム試論

取材を終えて[201806特集:沖縄戦後建築史ノート]

青井 哲人 AOI, Akihito
建築討論
19 min readJun 2, 2018

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中心と周縁

沖縄戦後美術史の整理として、たとえば1995年と翌96年に2回にわたり沖縄県が主催した「沖縄近現代美術家展」がある。2回の展覧会はそれぞれ「シリーズ1 モダニズムの系譜」、「シリーズ2 固有性へのこだわり」と題された ★1。このふたつ、すなわちモダニズムないしアヴァンギャルディズムと、これを軸として見出される差異、すなわち風土性・地域性の主題化が、対をなすのである。

むろん、こうした整理で絵画がふたつに截然と分かれるわけではない。しかし一般に(つまり沖縄にかぎらず)中央画壇との接続と差異化は、「地方」の「美術」にとって否定しがたい背景構造をなすものである。前者(モダニズム)はつまり中央−地方に共通の規準ないし文法となる。沖縄のそれは東京から、東京のそれはヨーロッパやアメリカから、それぞれ与えられる。言い換えれば、地方の美術をめぐる価値判断は否応なく中心−周縁図式において行われる。こんな枠組みなど拒否すればよさそうだが、そんなことをすれば価値規準自体が失われてしまう。そこで目指されるのは、このふたつをどう結合するか、である。つまりローカルな場においては、固有性そのものが中央との関係において見出され、それを中央と通底する文法に乗せる方法が競われる。この構図自体を逃れることは容易ではない。

本特集内の取材レポートでは「沖縄リージョナリズムの条件」を多角的に捉えるべく、論点抽出を試みた。本稿では、取材を終えて、あらためて美術への参照をふまえつつ建築論としてのリージョナリズムの桎梏をときほぐし、そこからズレていく方法を探りたい。

民芸としての地域性

風土性・地域性は一般に何に求められるか。

沖縄の戦後美術史を辿ってみればすぐにわかるように、紅型(びんがた)、焼物(やちむん)をはじめとする伝統工芸、舞踊や芸能、信仰文化、農耕や漁業などの生産文化、あるいは民家や集落の風景がそれだ。初期の代表的作家には紅型の女性像を描いた名渡山愛順(1906–70)や、赤瓦の集落を俯瞰で描いた大嶺政寛(1910–87)などがいる。

左:名渡山愛順「白地紅型を着る」1946年/右:大嶺政寛「糸満」1963年(出典:琉球文化アーカイブ)

これらモチーフは、端的にいえば「工芸」ないし「民俗」といった、生活に根ざす文化をあつかう範疇に属す。やや乱暴だが、「民芸」の一語で括ってもよいかもしれない。この範疇の沖縄文化の評価は、すでに戦前期にかなり進んでいたことが知られる ★2 。大正〜昭和戦前期の鎌倉芳太郎(1898–1993)と伊東忠太(1867–1954)、柳宗悦(1889–1961)、あるいは田辺泰(1899–1982)らがその役割を果たしており、沖縄には伊波普猷(1876–1947)がいた。実際の「民芸」は、ある程度まで琉球王朝によって中央化されており、必ずしも民衆的なものとばかりはいえないが、いずれにせよ西欧由来の「美術 art」からは外される。しかし、それは(暗黙のうちに)「美術」を規準として、その外側をとりまく周辺的な価値として見出される。使用価値に根拠を置く交換価値という、両義的なありようにおいて。

実際、「民芸」として再発見された(本来は生活と一体的であった)モノたちが、沖縄の洋画のなかにモチーフとして登場することで、紅(赤色)の鮮やかな、沖縄的な油彩がたくさん描かれてきた。これこそ、中央的な規準と、ローカルな差異・固有性との、ひとつの典型的な結合の仕方であろう。油彩は統語論的なシステムとして振る舞い、ローカルな固有性はそのうえに乗って意味を発する語彙となる。

統語論の位置を占めるものは、印象派的な技法から、やがてより構成的な方法、シュルレアリスム、あるいは抽象表現主義などへと変遷する。そのつど、それらの文法に適合させるべく、「民芸」的なものを組み込み直す努力が払われる。しかし、再び強調すれば、統語論的システム(グローバル・スタンダード)と語彙(ローカル・キャラクター)との関係性そのものを斥けるのは容易ではない。

左:安谷屋正義「残照」1961年/右:安次嶺金正「侘住」1958年 (出典:琉球文化アーカイブ)

ブルータルな文法に同居できる沖縄

戦後、1950年前後に産声をあげ、成長していった沖縄の「建築家」たちが、「建築 architecture」の規準として捉えたのは、ひとつには機能主義的な米軍施設や白い米軍住宅として目の前に現れた「近代建築(A)」、もうひとつは日本本土の1950–60年代の「近代建築(J)」であったと考えられる。前者は(A)=アメリカと直結していたが、おそらくプラグマティティックな技術観や経済的豊かさのイメージにつながっていた。対して、後者は公共性を背負う建築家の英雄性を示す造形としてあったように思われる。こちらは(J)=日本の丹下健三やメタボリズム・グループなどとつながっていたが、世界的なネオ・ブルータリズムの潮流がその向こうにあった。乱暴な想定かもしれないが、ひとつの仮説としておく。

この仮説の妥当性は、1967–68年の那覇市公会堂の設計競技に提出された指名建築家たちの案に、ある程度までうかがうことができるように思われる[★3]。取材レポートでも述べたように、「本土復帰」を控え、「沖縄の地位」をめぐって政治的・文化的な議論が激しく巻き起こった時期に、大規模なプロジェクトにおいて沖縄の地域性の表現を求めた、エポック・メイキングなコンペである。米軍施設の仕事を通じて学んできた鉄筋コンクリートの知識(経験的な集合知)は、彼らにとっては日本の他の地方よりも優位性を誇りうる「技術的基盤」であった。しかし、7つの応募案の「建築」としてのありようが示すのは、必ずしもすべてではないにせよ、おおむね1950–60年代の本土の鉄筋コンクリート打ち放しにみられた、ダイナミックな構造や力強くデフォルメされた造形表現といったものである。つまり国際的な規準でもあったブルータリズムである。丹下に典型的にみられるように、ブルータルなRC表現はしばしば日本的伝統の表現と結合させられもした。

左から、(1)国建設計工務(国場幸房)/(2)宮里栄一建築設計研究所/(3)安元建築設計事務所/(4)現代建築設計(金城信吉)/(5)宮平建築設計研究所/(6)我那覇建築設計事務所/(7)ライト工務店

実際、案のいくつか(上図中の6,7)は日本風の表現を示し、また他のいくつか(2, 4)は沖縄民家の石積み・瓦あるいは雨端(あまはじ、軒びさし)などの表現を取り込んでみせている。この両者、つまりブルータルなRC表現に何らかのローカルな部分を乗せるやり方は、その部分が日本風であろうが沖縄民家風であろうが、基本的に同じである。

技術的にはSRC(鉄骨鉄筋コンクリート)、大胆なキャンティレバー、諸種の混構造が試みられているようだが、それをテコに、ブルータルな同時代の「近代建築」と地方性を示す「民芸」的要素とを力強く統合することが試みられているとしてよい。ここに、先に絵画について見たモダニズム−固有性、すなわち中心−周縁図式の、建築的な解法の模索がみてとれる。

民衆的沖縄

これより先、60年代前半の琉球政府立博物館の設計競技では、首里城のイメージで、という琉球政府の指示が出されている ★4 。首里城は、鎌倉芳太郎らの戦前期の努力で保存が決まっていたが、沖縄戦で無残にも破壊されていた。琉球政府をはじめ、政財界や市民にとってその回復は悲願だったようだし、敷地が首里の尚家跡地であったことも、首里城が焦点化した背景とみられる。しかし、当選案は米軍側に(文化政策上の憂慮もあり)19世紀的な非機能的な懐古趣味として拒否されてしまう。

上述の那覇市公会堂コンペが行われたのは、そのたった数年後である。しかし今度は、ブルータルなコンクリートの「近代建築」を下敷きに、いくつかの案では沖縄民家の要素、つまり王朝の建築ではなく、「民芸」的な範疇の要素が組み込まれた。この変化はかなり大きいのではないか。第一に、モチーフ選択の政治からみればこれはローカルな中心権力からより無名的・民衆的なものへのフォーカスの移動である ★5 。第二に、美学的にみれば、モダニズムとローカリティとの関係が、近代建築/伝統建築(あるいは19世紀折衷主義)の対立において衝突するのではなく、「統語論/語彙」、「建築/民芸」という階層性において安定的な結合形式を見出したといえそうだからである。

那覇市民会館(元那覇市公会堂、現代建築設計事務所(金城信吉他)、1972年)(撮影:青井、2018年)

しかし、これでは沖縄はどこまでも「語彙=民芸」の位置に置かれるほかない。かといって、統語論としての近代建築を放り投げてしまうと、そもそも「建築」的評価が成立する保証がない。ならばと、この語彙としての沖縄に、「手懐けられた差異」の域を超え出ていく自律的な力や乱雑な運動を与えようとする発想はあろう。しかし、その先にありそうなのは、地方性が規準文法=「建築」のレールから外れてしまい、キッチュに陥る事態だ。中央との地続きを確保する統語論は、このような美学的逸脱の監視人でもある。

生態学的なもの

象設計集団の衝撃は、この難問の乗り越えの可能性を示唆したところにあったのではないか。

今帰仁村中央公会堂(1975)や名護市庁舎(1981)といった象の作品は、建築の統語論そのものを、ブルータルな機能主義的・構造デザイン的な構成論から、生態学的あるいは民族学的な自然と人間との共生の環世界論といったものへと置き換える試みであったと理解できるかもしれない。手持ちの建築に風土を乗せるのではなく、まずもって風土に埋め込まれた生の民族誌 ethnography を描き、あるいは構想し、それ自体を建築の統語論とすること。名護市庁舎のパーゴラ状の廻廊に感じる魅力はこのように理解できそうな気がする。

今帰仁中央公民館(象設計集団、1975年)
名護市庁舎(象設計集団、1981年)

しかしながら、これも取材レポートで書いたように、沖縄ではこれら作品は「本土の建築家」による地方性の過剰な形象化と受け取られることも少なくない。言い換えれば、むしろ象の生態学・民族学が、現実の(少なからずアメリカ的な色をもった近代をくぐってきた)生活実感からはズレた、建築家の想像力や理念の「表現」として受け止められたのであろう。そうしてエギゾチシズムないしオリエンタリズムの脈絡が回帰してしまう。中心−周縁図式は容易には消えない。

空間の身体的特質

それゆえにこそ、国場幸房のムーンビーチ・ホテル(1975)は、沖縄建築界においてもうひとつの際立った位置を与えられることになる。彼は「民芸」的な表徴の混入にはきわめて慎重であり、骨太の力強い構造と大らかな空間の構成だけで沖縄性をにじみ出させる線をいく。ムーンビーチのような国場作品は、しばしば「ガジュマル建築」と称される。この言葉は、沖縄の建築界では「共通言語」であるという ★6 。文字どおりの意味としては、強靭な幹から大きく張り出した枝、硬い葉の重なりによる木陰、そこに集まる人々、吹き抜ける涼しい風、といったイメージである。いわば貴族的=本土的な洗練や衒いのない、素朴な身体的経験の直接性・真正性を規範とする感覚であろうか。この立場からは、沖縄はあえて形象化・表徴化される必要はない。しかし、この立場を支える、中世主義的な(モリス主義的な)身体的直接性の重視や、それと結びついた技術者的な真正性への信念のようなものは、造形の方法論化には結びつきにくい限界がある。

那覇市民体育館(国場幸房、那覇市1986年、撮影:青井、2018年)

転位する《沖縄性》

このようにいくつかの典型的な沖縄リージョナリズムの行き方がすでに70年代を通じて見出されていた。リージョナリズムが中心−周縁図式を超えて独自の方法を持つことはなかなか難しい。もとより、リージョナリズムは政治の概念で、(EUのようにに国家を超える地域主義を意味することも多いが、ここでは)国家から地方への権限委譲、つまり分権的な地方主義を意味するのであって、中心−周縁図式に基づく概念である。

そこで問われるべきは、中心−周縁図式を(棄却することはできないとしても、それを)ズラす効果をもつ別の枠組みにおいて、沖縄を語り直すことであろう。

この視角からは、「復帰」前後の新左翼的な沖縄論の数々は、再読の意義を見出しにくいように思われる。たとえば、あのころ強烈なインパクトと牽引力をもった吉本隆明の思想にあっては、沖縄を日本国家への対抗的な運動の思想的根拠として位置づけており、中心−周縁図式は、それを転覆させるダイナミズムの前提とされており、したがってむしろ強固であった ★7 。これはしんどい。

むしろ1990年にはじまる、世界中で活躍する沖縄系移住者を互いにつなげようとする「世界のウチナーンチュ・ネットワーク」の運動には視界の拡がりがあって可能性を感じる ★8 。ただし、それは地方ナショナリズムの確認の場であってはあまり意味がない。世界各地で混淆を生み、変質した沖縄性を通して、沖縄の本来的な多数性が清々しく肯定される場となれば面白いだろう。

しかしここでは、もうひとつの提案として、美術家・美術評論家の黒瀬陽平による「転位 transposition」論に注目したい ★9 。黒瀬は1950年代後半に沖縄を訪ねた岡本太郎の眼が、64年の同じ岡本による韓国訪問で反復されることを指摘する ★10 。いずれも近代日本に取り込まれつつ外部化された場所である、というだけではない。米軍統治下の沖縄と、朴正煕軍事政権下の韓国。そこに岡本は、近代以前から続く活き活きとした文化と、植民地支配や軍事支配などの政治環境が生み出した荒野とが、「鮮烈なコントラストを生みながらぶつかりあう風景を発見した」。つまり、岡本は沖縄をみた眼を、韓国に「転位」させている。それは政治的位相に通底するものがあるために、風景に相似的なものが見出され、それを見る眼やそこから立ち上がる表現もまた、転位を促される、ということであろう。しかし、通底性は転位の回路がスッと開き、つながる契機なのであって、実際に赴き、そこにある風景をなぞるとき、相似性はむしろズレを生み出していく基盤であり、認識や表現はダイナミックな運動性を伴うだろう。

韓国と北朝鮮の国境付近にある非武装地帯(DMZ)の風景と、福島の帰還困難区域の風景、そしてそれらにコミットする芸術家の活動について。あるいは、50年代の岡本太郎や安部公房らの「新しいリアリズム」運動が、80年代の韓国における「民衆美術」運動として再生されることについて。黒瀬が説明するこうした「転位」は、おそらく中心−周縁図式を解消するものではない。異なる場所や時代に政治的位相の通底性が見出されるとき、この位相はむしろ中心−周縁の関係がつくり出したものだろうから。しかし、複数の周縁を、中心からの政治的な力の作用線に沿って見るのではなく、いわばヨコからの眼差しによってつなげること、言い換えればある周縁から別の周縁へと転位のルートを開く、つまりトンネルでつなぐようにして横断していく運動には、何か生産性の予感がある。

90年代から台湾に通い続けてきた筆者には、沖縄の風景や人々の語りにふれるたびに、それらが台湾に通底するのを幾度となく感じる。あるいは、台湾で学んできた文化や心性の理解の型が、沖縄の風景や語りに反応する、ということかもしれない。そこに、日本、アメリカ、中国などの中心との関係から見るのとは違う、ヨコのトンネルが開く。

たとえば台湾でも沖縄でも、人々の日常のなかに政治が織り込まれている。その織り込まれ方の明るくもシニカルな感じが似ていると気づいたとき、すっと小さなトンネルが開く。しかし、このトンネルはふたつの場所をつなげる視点をつくると同時に、その通底性のなかにある否定しがたい差異を意識するよう促す。台湾では若者たちがネットで知り合って飲み屋で政治論を闘わす。沖縄では酒場に居合わせた人々が島唄の哀しい政治的メッセージに乗って踊りだす。その違いは何によるのだろうか。

セメント(コンクリート)は台湾でも沖縄でも戦後風景の支配的マテリアルだ。なのに、なぜ台湾ではコンクリート・ブロックは使われないのだろう。そういえば、ヴェトナムやカンボジアでは川辺の家々が庭でコンクリート・ブロックを天日干しにしていた。戦後の沖縄でもコンクリート・ブロックは素人が自分でつくり、運び、積み上げていくことができた。素材こそ違うが、アメリカの西部開拓のなかで開発され普及したバルーンフレーム(ツーバイフォー)工法と似ている。F・L・ライトはその非熟練労働の木造住宅生産文化を土台に、プレーリー・ハウスに到達した。V・スカリーはそうしたストーリーをアメリカ独自の近代建築史として歴史化し、その歴史的パースペクティブからR・ヴェンチューリなんかが出てきたではないか。ということは沖縄なら ── 。次々に転位のトンネルが開く(黒瀬の議論からはすでに外れてしまっているかもしれないが)。

繰り返すが、中心−周縁図式はたぶん消えるわけではない。それでも、視線を多数化することはできるし、そこに新しい時空の地図が見えれば、新しい実践の回路が現れる可能性がある。

象設計集団は、たぶんそんなトンネルを自ら穿って沖縄から台湾へと活動を展開した。それが台湾の建築家や学生たちの新しい建築的感性を刺激してきたが、それはまた象と同じではない。ズレが生まれる。すばらしい。そこから語り直される沖縄は、ちょっと違うのではないか。いま、世界の建築家と建築史家たちが、そうした転位のトンネルをあちこちに開けはじめているのではないか。

注:
★1 『沖縄戦後美術の流れ シリーズ1・モダニズムの系譜』(沖縄県、1995年)、『沖縄戦後美術の流れ シリーズ2・固有性へのこだわり』(沖縄県、1996年)。『戦後50年 1945–95 沖縄の美術』(那覇市、1995年)も参照。
★2 与那原恵『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(筑摩書房、2013年/中公文庫、2016年)、土屋誠一「一九四五年以前の「沖縄美術」? ── 鎌倉芳太郎の沖縄美術研究から仲松弥秀の「神と村」まで」『ゲンロン3』東浩紀編、2016年7月、147–165頁)、並松信久「柳宗悦と沖縄文化 ── 周縁における民芸運動」(京都産業大学論集、人文科学系列、49号、2016年3月)
★3 前田慎・小倉暢之「那覇市公会堂設計競技の企画運営について ── 戦後沖縄の地域主義的建築活動に関する研究その1」(日本建築学会計画系論文集、79巻703号、2031–2038頁)および小倉暢之『戦後沖縄の近代建築における地域性の表出』(平成15–17年度科学研究費補助金 基盤研究© 研究成果報告書、2006年、72–80頁)。
★4 小倉暢之、前掲書(49–72頁)
★5 1957年頃を焦点とする本土の「民衆論・伝統論」との関係もひとつの論点たりうるだろう。以下を参照。「戦後空間の萌芽としての民衆論・伝統論」(『10+1 website』2018年2月)、「特集:イベントレビュー 戦後空間シンポジウム 01 民衆・伝統・運動体」(『建築討論』、2018年3月)
★6 當間卓・前田慎のおふたりのご教示による(2018年3月27日聞き取り)。親泊仲眞氏もインタビューのなかで国場作品に言及しながらこの言葉を使われた(同年3月28日聞き取り)。
★7 吉本隆明『情況』(河出書房新社、1970年)、『叢書 わが沖縄 第6巻 沖縄の思想』(木耳社、1970年)
★8 新垣誠「沖縄移民とチャンプルー文化:世界のウチナーンチュ・ネットワークがもたらす文化的多様性」(『沖縄文化の軌跡:1872–2007』沖縄県立博物館・美術館、2007年、230–235頁)
★9 黒瀬陽平「転位の美術史」(『ゲンロン3』東浩紀編、2016年7月、128–146頁)
★10 岡本太郎『沖縄文化論 ── 忘れられた日本』(中公公論社、1961)および岡本「韓国発見」(平井敏晴『岡本太郎が愛した韓国』河出書房新社、2004年、32頁)

名護の市街地にて(撮影:青井、2018年)
ある小さな図書館でのスナップ(撮影:青井、2018年)
ガジュマルの下で、擬木タイル(那覇市内、撮影:青井、2018年)

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青井 哲人 AOI, Akihito
建築討論

あおい・あきひと/建築史・建築論。明治大学教授。単著『彰化一九〇六』『植民地神社と帝国日本』。共編著『津波のあいだ、生きられた村』『明治神宮以前・以後』『福島アトラス』『近代日本の空間編成史』『モダニスト再考』『シェアの思想』『SD 2013』『世界住居誌』『アジア都市建築史』ほか