状況整理:まちづくり批評のパースペクティブ ── なぜ官民連携のまちづくりは疲れるのか

018 | 201804 | 特集:プロジェクトと「疲労」

谷亮治
建築討論
17 min readMar 31, 2018

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様々な社会的課題の持続的な解決にあたって、官民連携のまちづくりという手法が期待され、現に実施されて久しい。各地の事例をつぶさに見ていけば、それはもう華々しい成果を挙げているものもあれば、一方で期待された成果を挙げられないまま頓挫していく残念なものもあったことだろう。しかし、個々別々の事例に注目するだけでは、どうしても近視眼的、場当たり的、感情的な評価に陥ってしまう。今後も各地で実施される官民連携のまちづくり事例を、より良いものとしていくためには、過去に実施された事例を、個々別々に判断するのではなく、共通の土台のもとで比較分析を行い、議論を蓄積していくことが必要だ。本特集は、こういった今後まちづくりをめぐる状況の良し悪しを判断し論じていく「まちづくり批評」を行っていくための土台を構築しようと試みるものと筆者は理解している。

さて、この本特集において筆者に託された役割は、これから本特集を読み進めていく読者の理解を促すために、「まちづくり批評」をするための状況整理に貢献することである。とはいえ無論のことながら、まちづくりには膨大な研究と実践の歴史が積み重ねられており、そのすべてを網羅的に論じることを目指すものではない。本稿で編集部から筆者に期待されているのは、とりわけ以下の問いについて回答することである。

①「まちづくり批評をするにあたって“疲労”という概念が使えるか否か」という問い
②「疲労の原因はなんなのか」という問い
③「疲労と良い付き合い方をするためには、どのような準備が必要なのか」という問い
④「官民連携のまちづくりを批評するにあたって、何に注目すべきなのか」という問い

1:「まちづくり批評をするにあたって“疲労”という概念が使えるか否か」

ではまず、本特集の鍵概念である「疲労」について考えるところから始めてみよう。そもそも本特集の鍵概念でもある「疲労」とは何か。ありふれて身近な言葉だが、じっと考えてみることはあまりないのではなかろうか。

人間の身体には三大アラームと呼ばれるものがある。痛み、発熱、そして疲労である。疲労は一般に、なんらかの行動に伴って、精神あるいは身体に負荷が加わることで、パフォーマンスが低下する状態のことを指す。とりわけ、疲労が主観的に認知される場合「疲労感」と呼ばれるものになる。これは通常、不快感を伴うもので、これを解消したいという欲求を生み出す。この欲求が作用した結果、現在の行動を中止し、休息が促される。

さて一般に知られるように、まちづくりとは、本来まちの人々のボランタリーな意思で行われ、まちの人々の幸福のためになされるものである。とすると、当事者であるまちの人々のやりがいや喜びにつながりこそすれ、不快感や疲労感につながるとは一見考えにくい。

にも関わらず、「まちづくりは疲れがち」なのである。筆者はこれまで18年ほどまちづくりの研究と実践に関わる中で、まちづくりに疲れている人々の存在を各地で繰り返し確認してきた。なぜこのような現象が起こるのだろうか。このメカニズムについて筆者は、拙著『モテるまちづくり−まちづくりに疲れた人へ。』(2014、まち飯叢書)およびその続編『純粋でポップな限界のまちづくり−モテるまちづくり2』(2017、まち飯叢書)にて論じた。そこでの論考の一部を紹介するかたちで、答えてみよう。

谷亮治『モテるまちづくり—まちづくりに疲れた人へ。』(2014、まち飯叢書)
続編:谷亮治『純粋でポップな限界のまちづくり—モテるまちづくり2』(2017、まち飯叢書)

まず、まちづくりとは多義的な言葉であることを確認しておこう。例えば町内会による道路の清掃から子どもたちの見守り活動、お年寄りや子育て世代の集まるサロンづくり、商店街イベント、地域ブランド作り、中心市街地の再開発、都市計画の策定などなど、さまざまな主体、様々なレベルの営みが「まちづくり」の一言で言い表されている。では、「まちづくり」とは一言で言えば何かというと、なかなか的を射た説明を得られないか、解釈の幅の広い感情的な表現でまとめられてしまうかする事が多い。しかし、これから批評を試みようとする対象が、ぼんやりとしていたのでは困るので、まずは一旦定義をしてみたい。

筆者は「まちづくり」を、「まちの人なら誰でも使える財やサービスを供給する活動」と定義する。いわば「まちづくり」とは「まち(の人なら誰でも使える財やサービス)づくり」の略なのだ。現実に営まれるまちづくりと呼ばれる営みは、大抵この定義で説明することが可能だ。逆にこの定義に当てはまらないもの、例えば利用にあたって特別な資格、権力、地位、お金が必要だったり、供給者の友達や知り合いでない人は排除されたりする財やサービスを供給する活動というのを、まちづくりという語で説明されることはほとんど目にしない。

まちの人なら、特別な資格や権力がなくても、地位やお金がなくても、友達や知り合いでなくても、誰でも使える財やサービス。これを供給する営みとしてのまちづくり。まさに分け隔てなく、差別なく、平等にまちの人々の抜苦与楽に貢献する善行であるということができよう。まちづくりという言葉には、どこかしらロマンティックで善良なイメージが付随するものだが、その理由もまたこの定義で、理論的に理解できるだろう。

一方で、この定義を示すことで、まちづくりには本質的に大きな困難が備わっていることもまた見えてくる。そのすべてを列挙することはできないが、筆者がまちづくりの現場に関わっていてよく観察されるものを列挙するならば、以下のとおりである。

1–1:フリーライダー問題
第一に、「フリーライダー問題」である。「まちの人なら誰でも使える」ということは、正当な対価を支払わず利用する、つまりタダ乗りする人(=フリーライダー)が必然的に発生するということでもある。それゆえ、まちづくり活動が多くの人に届き、利用されるようになればなるほど、フリーライダーは多く発生するようになる。活動に勢いがあるうちはよいが、恒常化、マンネリ化が進むうち、「なんで私ばかり苦労してこんなことをしているんだ、納得行かない」という自分ばかりに労力を負担させる受益者への不快感が脳裏をかすめる。ビジネスなら、求められれば求められるほど、財やサービスが売れて、それに見合った報酬が得られる。また一緒に働いて負担を分け合える仲間の雇用も増やすことができる。しかし、まちづくりでは求められてもタダ乗りする人が増えてしまう。その上、求められるということと仲間を増やせるということも連動しない。この結果負担ばかりが意識されるようになる。パフォーマンスが下がり、辞めたくなる。つまり、疲れる。

1–2:誤配問題
第二に、「誤配問題」である。「まちの人なら誰でも使える」ということは、その財やサービスを望まない、不利益につながる人のもとにも、それは届いてしまうということだ。これを、郵便物が想定したのと違う宛先に届いてしまうことになぞらえて「誤配問題」と筆者は呼んでいる。例えばみんなが喜ぶだろうと考えて、地域のお祭りを企画したとして、やってみると、会場の付近に住む住民から、音がうるさいとか、煙が臭いとか、自己満足で迷惑をかけるなとかいった心ないクレームが返ってくる。まちのために良かれと思ってやったことが、まさか身内から矢が飛んできて傷つくことになるとは。そうしてまた不快感が脳裏をかすめる。この結果パフォーマンスが下がり、辞めたくなる。つまり、疲れる。

1–3:過剰ステークスホルダー問題
この誤配問題から派生的に発生する問題が、第三の「過剰ステークホルダー問題」である。先述の通り、「まちの人なら誰でも使える」ということは、ステークホルダーが無制限に増えるということでもある。その財やサービスに期待を寄せる人も、不利益につながる人も膨大な数に及んでしまう。まちづくり活動をしたいが、やろうとするとその地域のボスや長老層が口出ししてきて思うようにできないというような話はあちこちで聞く。あるいは、地域の集会所などのまちの人なら誰でも使える財の利用権を独占しようとする輩が現れたりするなんていうこともあるようだ。まちづくりは、まちの人なら誰でも使える財を供給する活動なので、予め背景や問題意識を共有でき、人格的にも信用できる身内だけでことを完結できるわけではない。予想もつかないような利害を持つステークホルダーの関与を排除し得ない。そういう状況でリスクヘッジをしようとすると、その財を生み出すことで期待できる価値に見合わない大変な調整コストを負うことになる。結果、パフォーマンスが下がり、辞めたくなる。つまり、疲れる。

このように、まちづくりは「まちの人なら誰でも使える財やサービスを供給する活動」であるという善行であるが、その本質に備わる必然として、同時にフリーライダー問題、誤配問題、過剰ステークホルダー問題といった「疲れる」諸問題を生じさせてしまいがちな営みなのである。

こうしてメカニズムだけ理論的に説明されれば、読者は「そりゃそうだろう」と思うかもしれない。しかし、まちづくり活動の当事者は、こんな俯瞰した視点でものごとを眺められないのが常だ。さらに、そもそも本来的に善行であるまちづくりを志そうとする人というものは、気の優しい善人でありがちだということも、この傾向に拍車をかける。こうしてまちづくり活動は持続しない傾向を帯びていくことになる。

それにしても、なんとも皮肉なことであろうか。まちづくりとは、本来、受益者であるまちの人々の分け隔てない、差別ない幸福を願うという清い気持ちから始められることだ。にもかかわらず、そのまちづくりが、こともあろうに受益者であるまちの人々への不納得感、不快感という後ろ暗い気持ちへと結実していくだなんて。まちづくりとは、なんと恐ろしい代物であることか。

ここで、①「まちづくり批評をするにあたって“疲労”という概念が使えるかいなか」という問いに対する筆者の見解として、「以下のように有効だ」と回答することができる。第一に、ここまで見てきたように、疲労という概念を通じて、まちづくりの本質の所在を示すことができる点で有効だ。第二に、持続的なまちづくりを阻むこの疲労感を、どのように軽減あるいは回復するのか、という具体的な戦略を検討、分析する視点を提供できる点で有効だ。

2:「疲労の原因はなんなのか」

次いで、②「疲労の原因はなんなのか」という問いに対して、以下のように回答することができる。まず、まちづくりの本質である「まちの人なら誰でも使える財やサービスを供給する営み」に備わる性質上、例えばフリーライダー問題、誤配問題、過剰ステークホルダー問題といった諸問題が必然的に発生する。これらが疲労の大きな原因となっている。

3:「疲労と良い付き合い方をするためには、どのような準備が必要なのか」

ところで、まちづくりはしばしば疲労によって持続困難に陥りがちであるといっても、高いアクティビティを長期間維持しているまちづくりプレイヤーも存在している。そういったプレイヤーは、この疲労発生メカニズムとどう付き合っているのだろうか。ここで③「疲労と良い付き合い方をするためには、どのような準備が必要なのか」という問いに答えてみたい。

この点については、筆者は各地のまちづくり活動のフィールドワークを通じて、「モテ」という概念で説明できると提唱した。もっとも、ここに深く立ち入ることは本特集の趣旨から外れてしまうので詳細は拙著をご覧戴くとして、ごく簡単に原則のみを述べれば以下の通りである。

第一に「自分のために自分ですること」だ。まちづくりは、対価を支払わない人でも使える財を供給する活動なのだから、ビジネスのようにその財の利用者に対価を課すことができるわけではない。利用者からの見返りが期待できないからこそ、まちのために、自分を犠牲にしてはいけないのだ。ましてや、自分以外の誰かを犠牲にするのももっての外だ。自分が得たいものを、まちづくりを通じて、自分自身できちんと得ていくことが、疲労を回避する上で重要だ。

第一と連動して、第二に「何を得たいのかを明確にして、やりすぎないこと」だ。自分がまちづくりを通じて何を得たいのかはっきりしなければ、どれだけの労力や時間をまちづくりに費やせるのかもわからない。先述の通り、まちづくりはそれが高い利用価値を生み出せば生み出すほど際限なくフリーライダーが増える性質を持つので、求めに応じ続ければ無制限に負担が増え続けてしまう代物だ。ましてや、受益者に望まれて喜ばれる分にはさておき、受益者と見込んだ相手から意図せず批判される場合だってある。受益者からの反応や対価に一喜一憂していたのでは続けられない。だからこそ、自分に問わねばならない。自分が求めているのは何か。金銭か、賞賛か、承認か、栄誉か、地位か、やりがいか、仲間とのつながりか、あるいはまちの平穏と幸福か。そしてそれはどれくらい欲しいのか。そのことを見定めて、過剰に求めてしまわないことが、疲労を回避する上で大事だ。

第三に「小さく始めて大きく育てること」だ。先述の通り、まちづくりはまちの人なら誰でも使える財を供給する営みであるという性質上、ステークホルダーが多くなりすぎる。だから、予め大きな組織の合意を取ろうとしたり、大きな資金を用意しようとしたりすると、複雑な利害関係に絡め取られて何もできなくなるか、得ようとする価値に見合わない負担を背負うことになって疲れてしまう。自分の意志と手で始められるところから小さく始めて、だんだん大きくしていくことが、疲労を回避する上で大事だ。

4:「官民連携のまちづくりを批評するにあたって、何に注目すべきなのか」

さて、ここまで、まちづくりの本質を定義するところから、その有益性と困難性について論じてきた。ここからは、④「官民連携のまちづくりを批評するにあたって、どんな論点に注目すべきなのか」という問いに対する回答を試みたい。

先述の通り、まちづくりはフリーライダー問題、誤配問題、過剰ステークホルダー問題といった、素人にはいささか荷の勝ちすぎる諸困難がつきまとう。しかし、私達の暮らしの質を高めるために、まちの人なら誰でも使える財やサービスは必要不可欠だ。それゆえに戦後我が国におけるまちづくり活動は、「その道のプロ」が独占的に分担してきた。そう、国家や自治体といった公的セクターである。

公的セクターは課税権や警察権という権力を有しているので、人々に等しく課税することができるし、脱税者を取り締まって処罰することもできる。つまり、理論上フリーライダー問題に対処できる。また、誤配問題や過剰ステークホルダー問題に関しても対処できる。公的セクターの供給するまちづくりの内容は、よく知られるように国会議員や地方議会の議員といった代議員を選挙して、彼らを代表として議会で合意形成した上で決定される。つまり、公的セクターの供給するサービスは人々の合意に基づいて決定、実施されるわけだから、手続き上、誤配問題も過剰ステークホルダー問題も対処できることになる。

しかしまちづくりが国家や自治体に独占されて近代的な中央集権体制が敷かれていくということは、まちづくりの供給プロセスが人々にとって遠い世界の他人事になっていくことと同義であった。それはやがて、公的セクターの供給するまちの財に対する人々のバンダリズムやシニシズム的な対応を誘発することにつながっていったことはよく知られている。

一方で後期近代に入って生じた、経済成長の鈍化と福祉国家の限界、人々の価値観や欲望の多様化といった諸変化は、公的セクターがまちづくりを独占することの限界を示してきた。その結果、20世紀末ごろからはまちづくりを公的セクターが独占するのではなく、その供給内容の決定プロセスに人々が参加する「市民参加」や、供給作業の実施プロセスに、企業や地域団体といった民間セクターがパートナーとして参加するという「協働」といった概念も出現してきた。本書でも主要なキーワードとして用いられる「官民連携」というところの「連携」とは、ここまで記したような、公的セクターが独占しがちであったまちづくりの決定、実施プロセスに、民間セクターが一緒になって行うことを指すものである。

しかし当然ながら、連携と一言でいっても、民間セクターに課税権や警察権、代議員を選出して合意形成をする権利が委ねられたわけではない。民間セクターはまちづくりという営みにおいては、相変わらずフリーライダー問題や誤配問題、過剰ステークホルダー問題を克服できるようになったわけではないのだ。つまり、ここまでのような道理を踏まえず単に公共セクターのコストを節約するために民間セクターに転嫁しようとすれば、フリーライダーや誤配、過剰ステークホルダーといったまちづくりに必然的に伴う諸問題に対して無防備なままの民間セクターはやはり疲労してしまい、持続は困難になるだろう。

本特集が批評の土台にあげようとしている、官民連携まちづくりに疲れる民間プレイヤーが出現するプロセスというものは、拙著の理論に従うならば、こういう構図において出現してきたものであると仮に説明することができるだろう。

さて、ここまで「疲労」という概念をとっかかりとして、まちづくりの定義と、まちづくりをめぐる諸現象のパースペクティブをごくごく大雑把に示してきた。

もしこのパースペクティブを採用する場合、まちづくり批評、すなわちまちづくりを巡ってものごとの良し悪しの判断を論じていこうとする我々は、具体的に何をしていくべきなのか。この点について後続する論考へのバトンを繋ぐことを期待して、付記することで④「官民連携のまちづくりを批評するにあたって、どんな論点に注目すべきなのか」という問いへの回答としたい。

先述の通り、私達の社会が、公的セクターと民間セクターとの連携でまちづくりを担っていく戦略を今後も採用するとして、民間セクターがまちづくりを担う場面ではやはり疲労原因は必然的に発生し、持続は困難となるだろう。

では、そうであるとして、官と民が具体的にどのような連携をすれば、持続可能な、すなわち「疲れない」まちづくりは可能になるのだろう。おそらく、疲労が発生しやすく頓挫しがちな連携の仕方と、疲労が発生しにくく、持続可能な連携の仕方というものがあるだろう。疲れない、持続可能な連携の仕方とは、どんな哲学、技術、態度、制度、役割分担でもって行っていくべきなのか。逆に、どんな連携をうかつにしてしまうと、関係者が疲労してしまうのか。そういった論点について、多様な事例を踏まえて論じていく必要があるだろう。

本特集ではこの後、官民連携の当事者が、官の立場から、民の立場から、あるいは連携の制度設計をする立場から、それぞれの経験を語っていくことになるものと筆者は期待している。まちづくりが、関係者の疲労によって頓挫してしまうことなく、本来の幸福な姿を実現できる官民連携のあり方とは何か。そして、いま現に行われている官民連携の到達点と問題点は何か。筆者自身も、期待して読み進めていきたい。本稿が読者の本特集への理解を助けるものとなるならば幸いである。

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谷亮治
建築討論

たに・りょうじ/1980年大阪生まれ。博士(社会学)。京都市まちづくりアドバイザー。代表作に『モテるまちづくり−まちづくりに疲れた人へ。』『純粋でポップな限界のまちづくり−モテるまちづくり2』(いずれも、まち飯叢書)。