「生活世界」の崩壊と再建のアポリア

連載:後期近代と変容する建築家像(その3)

松村淳
建築討論
Jun 23, 2022

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はじめに

第2回では、阪神淡路大震災と坂茂、東日本大震災と伊東豊雄の、それぞれの復興への取り組みを「生活世界の再建」への貢献として記述した。

両者とも当初は、復興のフェーズにおいて、建築家に対して行政側から公式の要請が無いことを嘆いていた。それでもプロフェッショナルとして、未曾有の大災害からの復興に資するべく奮闘した。震災によってシステムは崩壊し生活世界がむき出しになった。特に、坂や伊東が入った地域は震災以前から生活世界が色濃く残っている場所であった。彼らは、それぞれ、一人の建築家として現場に入り、被災者に寄り添い、寝食を共にすることで対話を重ねたのである。その結果、坂茂は焼け落ちた教会を、紙管を使って再建し、伊東は「みんなの家」と称するコミュニティハウスをそれぞれ実現させた。

彼らの事例は、「後期近代」と呼ばれる現代社会における一つの専門家像として示唆に富むものであった。

第4回目以降の連載は、こうした「生活世界の再建や創造」への建築家の関わりの可能性と課題について、具体的な事例を交えつつ検討していく。それに先立って第3回目の連載に当たる本論では、問題意識の共有と、前提となる概念的な検討を行っておきたい。

システムとしての住居、生活世界の器としての住居

ここで、住居を、「システムとしての住居」と「生活世界の器」としての住居という視角から考えてみたい。筆者は、学生時代から30代を通して、古い木造住宅の学生寮の離れに住んでいた。昭和30年代に建てられた木造モルタル仕上げの建物だ。共益費込みで2万5千円であった家賃は、大家宅に「家賃通い帳」と現金を持って行き、手渡しで支払っていた。大家宅は、自室がある建物の裏庭を介して繋がっているので、大家が在宅している気配を察して訪問していた。その際、大家といろいろな話をするのが楽しみであった。ときには30分から、長いときは1時間以上話し込むこともあった。話題は様々であったが、仕事が不安定であった私の不安を聞いてもらうことも多かったように思う。大家から差し入れをもらったりすることもあったし、こちらが旅行の手土産を渡しに行くということもあった。

阪神淡路大震災前には、通っていた大学の周辺には、筆者が住んでいたのと同じような木造の学生寮がたくさんあった(fig.1)。こうした学生寮は、風呂無し、トイレとキッチンは共用というタイプが多かった。筆者の住居にはキッチンがなかったし、キッチンがあるタイプの学生寮でも、そこに設えられていたのは、一口のガスコンロと、小さなシンクのみである。そうしたキッチンであれば、インスタントラーメンを作るのが関の山である。そこで、学生たちは、少しでもマシな夕食を求めて、近隣にある定食屋に食べに出かけるのである。多くお学生は毎回外食できるほどの余裕は無かっただろうが、当時(1990年代後半)は500円前後で食べられるメニューも多かったので、それほど無理なことでもなかった。

fig.1 下宿先だったアパート[撮影:筆者]

当時、安くて量が食べられる定食屋は、筆者が住んでいた学生街に十数件あった。そうした定食屋の建物からは、明かりと食欲をそそる料理の匂いと、学生たちが談笑する声が漏れていた。学生たちは食事を済ませると銭湯に向かった。そして風呂でスッキリして、自動販売機でビールを買って下宿に戻り、友人たちと夜が深くなるまで飲みながら語り合う、そんな日々を過ごしていた。夜の学生街は、週末の夜の温泉街のような賑わいがあった。

こうしたライフスタイルは、ワンルームマンションと異なり、生活が住宅の内部で完結しないからこそ可能だったのである。

しかし、筆者が青春時代を過ごした学生街は1995年の阪神淡路大震災によって壊滅してしまった。災害からの復興はシステムが全域化する契機を与える。全壊した学生寮はもとより、一部損壊程度の学生寮も取り壊され、ワンルームマンションに変わっていった。木造の建物が嫌われた理由は、阪神淡路大震災における死者の多くが建物の倒壊による圧死であったからだ。1階部分が潰れ、瓦屋根が地面に覆いかぶさっている無残な姿を目の当たりにすれば、積極的に瓦屋根が載った木造住居に住みたいとは思わなくなる。それは筆者も経験したことだ。

震災から20年以上経った今でも、被災地では木造建築物に対する「体感不安」を語る声を聞くことがある。震災後は、学生の親たちは、古い木造住宅に子どもを住まわせることに抵抗感を持ち、多少家賃が高くても「安心・安全」な鉄筋コンクリート造のワンルームマンションに住まわせることが増えた。木造建築物が一掃されて、震災復興後の下宿街は大きく様変わりした。住宅政策の研究者である平山洋介はそうした震災後の住宅街の変容を次のように指摘する。

市街地の復興は乾燥した景観を作り出した。プレハブ住宅の外壁材料として使用されるのは乾式塗装パネルである。新しい一戸建て住宅の敷地では駐車場が設けられ、震災以前に比べて植樹面積が減少した。3階建て住宅の1階部分は駐車スペースに割り当てられる。残存している“原っぱ”は駐車場として利用されることが多い。市街地を歩くときに目線レベルに形成されるのは、塗装パネルと駐車場が連なる平板なシークエンスである。市街地の空間からは陰影と湿潤が奪い去られた。マンションの外壁ではタイル張りが増加した。タイルが覆いつくすダブル・スキンは景観をいっそう乾燥させた(平山 2003: 48)。

実家が阪神淡路大震災で倒壊した経験を持つ、社会経済学者の松原隆一郎も、平山と同様の指摘をしている。いずれも、「新建材」によって被覆された住宅が立ち並ぶことによって出現した「景観」への違和感の表明である。たしかに、こうした違和感は筆者も覚える。学生街に長年住んでいた筆者にとっては、建物の外壁や設えの変容がもたらす景観への違和感に加えて、住人の行動の変容がもたらした景観への違和感を強く覚える。

遊歩者が減った学生街

震災前後の学生街で大きく変わったことは、街を遊歩する学生の姿がめっきり減ったことである。先ほども述べたとおり、その理由は、キッチンや風呂を備えたワンルームマンションに暮らす学生が増えたためである。学生は風呂や食事のために、外を出歩く必要はなくなった。

学生寮は、生活のためのインフラの多くが共用であったため、何かにつけて部屋の外に出ていく必要があった。そのため、扉が開けっ放しになっている部屋も多く見られた。もちろん、防犯上は問題があるが、多くの学生が出入りすることによる衆人環視の状況が成立していたためだろうか、窃盗などのトラブルに遭ったという話を筆者は聞いたことがない。

阪神淡路大震災前に立ち並んでいた学生寮は生活世界を柔らかに包み込む器であった。それを点とすれば、学生街は、いわば面としての生活世界であった。生活に必要なインフラは街に点在し、住人の学生はそれを求めて街を遊歩した。しかし、学生寮は、震災後の復興過程で、「安心・安全」というリスク回避の題目の下に、鉄筋コンクリート造のマンション建て替わった。学生と顔を突き合わせて生活をともにしていた大家は、マンションのオーナーとなり、学生の前から姿を消した。建物は管理会社によって見守られ、時折社員がマンションの共用部分の清掃を行っている。エントランスにはオートロック分厚い扉が設置され、監視カメラが来訪者を常にチェックしている。こうしたマンションは内部で生活のほとんどすべてが完結する住宅であり、学生たちを街から切り離した。

店主の高齢化で街の飲食店は次々と閉店し、空きテナントに飲食店が入ることは少なくなった。しばらく「入居者募集」の張り紙が貼られたあとは、住居や、介護施設の事務所などとして利用されている。深夜0時で閉店していたコンビニは24時間営業となり、そこだけが煌々と灯りをともしつづけている。

生活世界であった学生寮も、学生街もシステムによって合理化されていった。さまざまなリスクの想定とその回避という合目的的な建物と街は、学生の行動を変容させ、学生街の景観を大きく変えた。

生活世界の再建をシステムで代替させるとどうなるのか

前節では、筆者が阪神淡路大震災以前、以後と住み続けた学生街の変容について述べた。この変容を一言で言えば、生活世界のシステムへの代替である。これは日本全国の多くの都市や町で起こっていることであるが、災害からの復興過程ではそれがドラスティックに生じる。もっとも、その是非を問うのは簡単ではない。安心・安全を担保されたワンルームマンションで完結した便利で清潔な暮らしを送れることに、何ら不満を感じない学生のほうがむしろ多いだろう。

しかし、明らかに失敗した例がある。それは神戸市長田区の再開発事業である。神戸市長田区は、阪神淡路大震災でも最も被害の大きかった地区の一つである。駅前は大幅に区画整理され、大規模な商業施設と高層マンションが建設された。商店街を構成していた商店のいくつかは、その施設に移転し商売を再開した。しかし、現在、多くの店は撤退し、商業施設は閑散とした状況となっている。この、長田の再開発の失敗の理由はいくつがあるが、それは数多く出版されている先行研究を御覧いただきたい★1。

筆者が考える、長田区の復興計画の失敗要因を一言で言えば、「生活世界の再建をシステムで代替しようとしたことによる失敗」、になる。長田区は町工場と商店街と漁業の町である。職住一体、もしくは職住近接型の街であった。つまり「生活世界」が面的に展開していた地域である。震災の猛火に焼失したこの地域の再建にあたって最優先されたのは、リスク回避である。「安心安全」という錦の御旗の下、木造の建物は一掃され、鉄筋コンクリート造の高層マンションに建て替わった。道路は拡幅され、遊具の少ない殺風景な公園が設置された(fig.2)。

fig.2 長田商店街[撮影:筆者]

復興過程で建設されたショッピングモールや拡幅された道路、公園といったシステムは、コミュニケーションを分断するものである。そもそも、システムとは生活世界に対置される概念であり、生活世界の本義は人々のコミュニケーションを円滑化させる諸資源である。極論すれば、システムの中では、人々はコミュニケーションを必要としない。貨幣というシンボルを用いることで、大抵のことは間に合うように構築されている。コミュニケーションをコストと捉え、それを縮減させる方向で発展を続けてきたのがシステムである★2。

商店街を構成していた個人商店は、商品と貨幣を交換する施設でもあるが、それ以上に、店主と客との言語を媒介としたコミュニケーションが取り交わされる場である。こうした生活世界としての場所を、システムとしての空間に包摂させていくことには無理があることは自明である。しかし、長田の商店街の復興で試みられたのは、生活世界のシステムによる強引な代替であった。

次回は、「生活世界の再建や創造」に建築家がどのように関わるのか、その可能性と課題について具体的な事例を挙げながら検討していきたい。(続く)

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★1:たとえば、出口俊一らが中心となってまとめた、再開発事業の問題点を詳細に検証した、兵庫県震災復興研究センターの『負の遺産を持続可能な資産へ 新長田南地区再生の提案』(2022年、クリエイツかもがわ)などが詳しい。
★2:システムと生活世界概念について、詳細に検討する紙幅が無いが、社会学者の田中耕一の簡潔なまとめを参照すると、生活世界とは「顕在的な体験の背後あるいは基底にある、潜在的な背景や前提の総体のこと」(田中2021.142)であり、また、「システムとは言語による了解過程にもとづいて調整されるのではなく、非言語的な媒体である貨幣や権力によって、行為者の意味理解を経由することなく調整される行為どうしのつながりを指す」(田中2021.144)というものである。
このようにそれぞれの本義には、フッサール現象学に端を発するコミュニケーションの前提を問い直していくための概念である。またハーバーマスは生活の諸側面にわたる物象化の状況を生活世界の植民地化と呼んでいるが、彼が危惧していたいのは市民の政治参加が後退することによる政治的公共圏の弱体化である。翻って、こうした議論をミクロな生活空間に敷衍しようとしているのが筆者の試みである。

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参考文献
平山洋介、2003、『不完全都市―神戸・ニューヨーク・ベルリン』、学芸出版社。
鈴木玉緒、1992、「生活世界概念をめぐって」『社会分析』№20、社会分析学会。
田中耕一、2021、『社会学的思考の歴史:社会学は何をどうみてきたのか』関西学院大学出版会。

松村淳 連載「後期近代と変容する建築家像」
・その1 後期近代と 建築家の「解体」
・その2 システムの綻びと建築家
・その3 「生活世界」の崩壊と再建のアポリア

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松村淳
建築討論

まつむら・じゅん/1973年香川県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。京都造形芸術大学通信教育部建築デザインコース卒業。関西学院大学大学院社会学研究科博士後期課程(単位取得満期退学)。博士(社会学)・二級建築士・専門社会調査士。専門は労働社会学、都市社会学、建築社会学。関西学院大学社会学部准教授。