製材を用いた大規模木造建築

[201908 特集:建築批評 葉祥栄《小国ドーム》ーー 現代木造とコンピュテーショナル・デザインの源流を探る] Large-scale wooden architecture by lumber

腰原幹雄
建築討論
12 min readJul 31, 2019

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日本で大規模木造建築といえば,城郭や東大寺大仏殿にみられる伝統構法の社寺建築がすぐに思いつくが,明治以降には伝統構法とは異なる構造技術・材料によって大規模木造建築が建てられるようになる。この時期には,海外からは鉄とコンクリートといった材料だけでなく,構造力学の理論・構造技術も同時に流入し,木造建築に影響を及ぼすことになった。新しい技術は,新たな大規模木造建築を建設可能とした。

新興木構造(1900–1950)

昭和に入ると,1930年代には田邊平學★1 が,「最新の力学上の知識を応用して,木材の強さを充分に利用した所の,最も経済的な建物」として呼んだ「力学的木造建築」,1940年代には,堀口甚吉★2 が「科学的検討を加え,力学的理論を以て設計,構造されたもの。常に建物全体を力学的に考察して,建物のいずれの部分も一様の安全性を持つようにする。」として呼んだ「新興木構造」と,大工の経験と勘に頼っていた木造建物から構造工学に基づいた木造建築への転換が図られる。こうした転換の試みは,その後も「木質構造」「新木造」などと名前を変えて現在まで行われ続けられている。

第2次世界大戦中は,鉄やコンクリートの資材難もあって,多くの構造技術者が木造建築の構造技術の研究に携わることになり,トラス,ジベルといった構造技術の整備により格納庫などの大規模木造建築が実現し,新興木構造の最盛期を迎えることになる。当時の技術資料である「建築物耐震構造要項」★3 では,ジベル接合,膠着接合,組立柱,組立梁などが取り上げられている。組立柱では,ボルト締柱,格子柱,組立梁では,トラス梁,板打梁,波釘打梁,ジベル梁,格子梁,板重ね梁が掲載されている。ここでは,伝統構法で用いられてきた木組だけでなく,積極的に金物を用いた接合が特徴的であり,現在の金物工法の土台がここに生まれることになる。しかし,こうした大規模木造技術開発も終戦と戦争による木材資源の枯渇により下火になってしまった。

第1期黄金期(1950–1960)

1950年代になると,構造解析技術だけでなく使用材料も変化することになる。19世紀初頭にヨーロッパにおいて,帯鉄や釘,ボルト,ダボによる集成材の原型の組立材が登場すると,20世紀初頭には接着による集成材が出現,厚さ数cmの挽板を積層した集成材は,日本では,導入時には「膠着合成梁」「挽板積層材」などと呼ばれていたが,「航空機用構造部材に用いられた単板積層材と区別する意味と,挽板を層状のみならず側面或は端部接合して集成していく意味」★4 とを含んで「集成材」と称されることになった。木造建築に用いられる材料として製材だけでなく,エンジニアードウッドである構造用集成材が登場することになったのである。日本での集成材製造が本格化されると,1951年に日本林業技術協会の《森林記念館》が東京に建設される。

線材である集成材を用いて大規模木造建築を建設する際,集成材であれば容易に大断面の部材を入手することができたが,地震力などの水平力に対しては壁を設置しない場合,仕口接合部を剛接合にしてラーメン構造とする必要があったが当時の接合技術では実現が困難であった。そのため1950年代後半になると,湾曲集成材によるアーチ構造の集成材建築が次々と建設されたが,用途の大半は体育館であり公共施設がほとんどであった。

当時,集成材を用いた大規模木造建築に興味をもつ建築家は少なく,飯塚五郎蔵が集成材建築をリードすることになる。終戦直後より集成材の研究開発に携わりながら,多くの集成材建築を設計した。最初に手がけた集成材建築が,スパン7.3mの山形アーチをもつ《成城幼稚園》で建築作品として建築雑誌で初めて紹介された集成材建築でもあった。1962年に建設された新発田市立厚生年金体育館は,スパン36mの3ヒンジ・アーチ構造で架け渡している。この建物は当時,日本最大の集成材建築である。こうした大規模な体育館では,集成材架構は屋根部分に限定され,下部構造は鉄筋コンクリート構造が用いられていたが,一般化された体育館の構造形式はひろく普及することになった。

しかし,法令上の防火の規制強化,集成材を用いた学校建築への補助金打切りなどによって建設棟数は激減,都市の不燃化の方針,建築学会による「木造建築禁止の決議」(1959年)などもあり大規模木造建築の出番は大きく減少することになる。それでも集成材に関する技術整備は少しずつ進められ,1963年に日本木材加工技術協会で「集成材の製造規準」,1966年には集成材の日本農林規格が制定,1972年の建設省告示でようやく集成材で一般の木材より高い許容応力度を用いることができるようになった。

木造建築で製材のほかに,合板,集成材,その他の木材二次加工品が構造部材として多く用いられるようになったことから,杉山英男が「木質構造」という「木構造」と区別する言葉を提唱した。

復権期(1980–1990)

木造の復権と木造建築見直しの機運から「木造の合理化」が法令の上で検討され,1987年建築基準法と同施行令が改正された。これにより木造建築の高さ制限が解除されるとともに,大断面集成材による木造建築物の特例規定(燃えしろ設計)が新設されたことにより防耐火の面からも大断面集成材の使用範囲を拡げることとなった。

集成材の特徴である,湿気及び塩害に対する耐候性,塩素に対する耐腐食性等の耐久性,といった利点を生かして屋内プールの《太陽の郷スポーツガーデン(1983/神奈川)》が建設される。機能性に加えて材料が空間に与える心理的効果(落着き,温かみ)も有料老人ホームの施設として,重要視された。この建物は,竹中工務店の設計によるもので,大規模木造建築では,ゼネコンが木造建築の設計,施工に携わることになった。竣工時に,杉山英男が,「日本の建築家の多くは集成材を知らず,また木材を毛嫌いして逃げてきたから,世界の木造建築の新しい流れから取り残されてしまっている。この建物から木造建築のインターナショナルな流れを読み取ってほしい。」★5 と評している。この建物は,山形ラーメン構造ながら左右非対称とし空間に変化を加えている。大規模木造建築において技術的,構造的な合理性だけでなく建築としての空間を意識しはじめた建物といえる。

集成材を用いた大規模木造建築は,研究者,集成材メーカといった主に技術者主導で開発整備される中,建築家は「自然材料である木材は,無垢の製材をなるべく自然のままに建築に用いていきたい。」「集成材工場などを有しない地域では,地産地消として地元の材料と地元の技術で木造建築を実現したい。」「林業,製材業,大工といった木材にかかわる川上から川下の連携の中で地域のシンボルとなる木造建築を実現したい。」といった別の視点を持っていた。技術者は,自然材料をコンクリートや鉄のような工業製品と同じように扱えることを目指す中,建築家は自然材料を自然のままに使うことを目指していた。これらを融合するかたちで,大規模木造建築の構造解析技術の向上は,集成材建築だけでなく,製材,丸太を用いた木造建築にも適用されることとなる。《盈進学園東野高等学校体育館(1985年)》は,建設当時戦後最大規模の純木造建築としてクリストファー・アレギサンダーの設計で,中世英国の木造教会に多い伝統的な架構であるハンマービームトラスを変形し,曲げ材が混在するやや変則的な架構としている。この建物では,純木造,伝統的木造へのこだわりも見られ,使用される大径材は集成材ではなく,むくの製材が用いられているほか,主要なトラス接合部は,大工のデザインによる在来の仕口でボルトを込栓のように使用して処理をしている。構造計算においては,アレギサンダーが計算機による応力計算を繰り返し行ったほか,松井源吾が光弾性を駆使して構造的検証を加えている。

大規模木造建築に材として用いられる丸太,製材,集成材は基本的に線状の軸材であり,この軸材を接合しながら組み立てる架構形式が中心となる。このため,主に柱はり構造,トラス構造が用いられたが,接合が複雑にならないように一方向の架構,平面トラスといった立体的な架構とはならずに平面的な架構が基本となった。伝統的木造建築に用いられる木組接合は,構造的には完全な剛接合でもピン接合でもない半剛接合と呼ばれ有限な剛性を持つ接合部として評価する必要がある。当時の計算機の能力では,こうした接合部の性能を正確に把握することは困難であり,単純化したピン接合として評価できる金物接合が主流となり,亜鉄骨造とも呼ばれていた。

1980年代後半に入ると木質材料の整備,木質構造の解析手法,設計法の整備,実験などによる性能検証が行われ,大規模木造の形態,構造形式が多様化するようになる。アーチやドームなど構造的に合理的な形状の大規模木造建築が多い中,建築家が大規模木造建築に興味を持ち新しい挑戦を行うようになった。

小国ドーム

葉祥栄は,木造建築の特徴として,結露しにくい,温度伸縮が少ない,軽量である,許容引張力と圧縮力がほぼ等しい点といった性能面の長所を挙げている。★6

ドームは,桁行方向56m×梁間方向46mの大空間をアーチ状の木造大屋根で覆っている。大屋根は,木造立体トラス構造で,90×90~175×175mm角のスギの製材とボールジョイントで構成されている。当時の外国産の大断面集成材に対抗して,国産材,地域材である小径木芯持材の製材を用いた架構方法として提案されている。アーチ状の立体トラスでは各部材は軸力が支配的になっており,繊維方向の応力に強い木材の特徴を活かした架構システムである。また,梁間方向は,RCの柱および壁上に約2mごとに配されたピン支承により支持,桁行方向の側面は鉄骨フレームによるばね支持と大きな力の流れを制御して明確にしている。さらに,トラスせいは1,800mmに統一されアーチ半径は50m,地元小国杉の小径木芯持材から入手が容易な直材の径,長さを考慮したジオメトリとなっている。鉄に比べて性能の低い木材では,数で補うことが重要で,5,602本ものトラス材と1,455個もの接点グローブが用いられている。

ばらつき,欠点のある自然材料への信頼性は,ばらつきは部材の性能試験を行って材料性能を確保しており,電子計算機による構造解析を可能にし,構造計算では,製材として長期許容引張応力度70kg/cm2,短期許容引張応力度140kg/cm2,長期許容圧縮応力度60kgf/cm2,短期許容圧縮応力度120kg/cm2を採用するとともに,欠点対策として材全長にわたり材中央部に割れが生じたものとして断面設計が行われている。

接合方法にも工夫がなされ,ボルト接合の短期許容耐力の算定にあたっては,学会木構造設計規準の設計式を採用しながら林業試験所による実験で補正を行っている。また,引張力はボルト接合で,大きくなる圧縮力についてはボルトだけでなく直接鋼板を介して伝達するように接合部では接合ディテールに応じて方向によって異なる応力伝達の工夫がされている。

設計条件を現場で確実に実現するための現場管理も綿密に行われた。木材は含水率15%以下までの乾燥工程終了後,亀裂,反りなどの検査を行い,合格したもののみ寸法精度±1mm以内で加工し,金物を取りつける。建方中,建方後にも随時トラス材に新しく発生する亀裂の検査を行い,エポキシ注入による補修を行っている。圧縮力の大きい部材端部では,接合金物との密着を保証するためのエポキシ充填を行うなど細かな配慮が実施されている。施工方法も,設計の前提として木造立体トラスとしてトラス材に軸力以外の力(曲げ,せん断)を与えないこととしているため,サッシュの方立の支持は,すべて接点グローブからとるようにするとともに,ジャッキダウン後に,原寸をとりサッシュの方立にストレスを入れないように施工している。

また,大規模木造の防耐火として,床面上で火災が発生しても,木造トラス部分の温度が木材の着火危険温度260℃に達しないように,平面,断面計画をするとともに,万が一の火災に対しても,スプリンクラーを設置することで対処。具体的には,床面からトラス材までの安全な距離を計算によって求め,高さ6.2mを床面からの最低高として,火災時にトラス材が着火危険温度に達することがないことを設計条件にした。床面から8m以下の部分にスプリンクラーを設置し,木造部分への火災の延焼を防ぐようにしている。

当時,木造建築での実現が制限されていた床面積3000m2超える建築を実現するために,《小国ドーム》で実施された建物に要求される安全性を確保する方法は,品質保証のためのばらつき,欠点を考慮したJAS構造用製材の整備,木造建築の耐火性能検証法など現在の大規模木造建築の整備の基礎になっており,個々の大規模木造への挑戦の積み重ねが現在の木造建築の発展に貢献している。

《小国ドーム》(撮影:井上一)

★1 『耐震建築問答』田邊平學,丸善,1933

★2 『新興木構造学』堀口甚吉,竹原文泉社, 1941.5

★3 『日本学術振興会:建築物耐震構造要項』岩波書店,1943

★4 『木材工業6(8)』1951

★5 「建築技術者から見た大規模木造の可能性-竹中工務店の事例から」楠寿博,木材工業 Vol.53 No.8,1998

★6 「小国町民体育館」, 新建築, 1988.8

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腰原幹雄
建築討論

1968年千葉県生まれ。1994年東京大学大学院博士課程修了。博士(工学)。構造設計集団<SDG>を経て、2012年東京大学生産技術研究所・教授、NPO team Timberize 理事長。著書に『日本木造遺産』、『都市木造のヴィジョンと技術』、『感覚と電卓でつくる現代木造住宅ガイド』など。