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論考|実践としての継承 ── 真木集落に学ぶ

両川厚輝
建築討論
Published in
Nov 2, 2021

はじめに

私は2018年から長野県小谷村にある真木集落という場所に通っている。真木集落は、小谷村の中心部から歩いて1時間半程の山間にある集落だ。車道が通っておらず、徒歩でしか行けないこの集落には、現在、NPO法人・共働学舎という人たちが住んでいる。集落自体は1972年に住民が全戸離村したことによって廃村になっており、その後1978年頃に新たに住み着いたのが共働学舎の人たちだった。彼らは残された茅葺き民家の建物に住みながら、田畑を耕し、自給自足に近い生活を送っている。

写真1. 真木集落

この集落は私の祖父が生まれ育った集落であり、私の先祖代々の土地でもある。私は小さい頃から祖父に集落の話を聞かされてきた。雪が2m以上も積もる中、道をかきわけて学校に通った話や、朝起きたら家の前に熊がいた話など、祖父は事ある毎に集落の話を持ち出した。私自身はこの集落で生まれ育った訳ではなく、集落には小さい頃に家族で一度訪れたことがあるだけだが、今でもその時に見た野山の風景は記憶に残っている。おそらく祖父の話をずっと聞いていたことも影響しているのだろう。小さい頃から真木の話を聞いて育った私にとって、真木は先祖代々の土地として、また自分のルーツのある場所として、いつも頭の片隅にあった。

実際に集落を訪れてみようと思ったのは、数年前にたまたま祖父の家で見た真木の写真がきっかけだった。その写真には深雪の中に佇む数軒の茅葺き屋根の姿が写し出されていた。建築を学んでいた私にとって、その光景はとても魅力的なものであり、改めて真木を訪れたいと思うようになった。また同時期には、現在の真木の様子を映し出したドキュメンタリー映画『アラヤシキの住人たち』が公開されており、そこで共働学舎の生活について改めて知るとともに、共働学舎の人たちによって住み続けられている集落に更に関心を抱いた。そうして2018年、修士1年の頃に真木集落に通い始めて、今年で4年目になる。

写真2. 手前が新屋敷(アラヤシキ)と呼ばれる家
写真3. 冬の真木集落

私にとって真木集落は自分の先祖代々の土地であり、自分のルーツでもある。しかし、先の映画のパンフレットを見ると、真木集落は消滅した集落として一言説明があるだけだった。そこに私はほんの少しだけ違和感を覚えた。確かに真木集落は一度全戸離村によって廃村になった。しかし、今でも当時の茅葺き民家や田畑は残ったまま使われている。また、そこが私たちにとって先祖代々の土地でなくなった訳でもない。少なくとも土地や建築など、実際に存在する空間としての真木集落は受け継がれているはずである。そこで本稿では、実体としての真木集落がどのように継承されてきたのかということについて、筆者の体験を交えて考察していきたい。

真木集落の変遷

まずは離村前の真木集落について見てみたい。真木集落は元々、江戸前期に起源を持ち、下村と呼ばれる中村姓8軒と、上村と呼ばれる両川姓4軒の計12軒からなる集落だった。戦前はどの家も子どもが多く、集落全体で100人程が暮らしていた。12軒の家にはそれぞれ屋号が付いていて、今でも集落の人たちはお互いを屋号で呼び合う。例えば、私の家の屋号は「中和出(なかわで)」と言い、祖父は集落の人たちから「中和出の父さん」と呼ばれている。

離村前の真木集落の生業は、田畑と養蚕、林業が中心だった。特に養蚕は「お蚕様」と言われたように、大切な現金収入源として重宝されていた。実際に集落内の田畑の大半が桑畑として使われ、現在も一部にその名残がある。また、冬期には多くの男性が県内の酒造へ出稼ぎに行った。一方で女性たちは集落に残り、子どもの面倒を見たり、ボロ織りなどの内職を行ったりしていた。

写真4は、1960年頃の集落の様子を写したものである。集落には12軒の家に加えて、家ごとに土蔵があったほか、脱穀などを行うための水車小屋(クルマヤ)や麻を煮るための麻釜小屋などの存在も確認できる。また、今よりも田んぼや畑の枚数が多く、集落全体がより開けていたことが分かる。更に周辺の山に目を向けると、集落の周りには植林された杉林が広がっており、更にその周りには共有地の茅場が広がっていて、遠くから見ると禿山になっている。以前は山を挟んだ向こう側にも集落があり、人の往来も頻繁にあった。というのも、真木集落には真木分校という分校があり、近隣にあった集落から児童が通っていたからだ。そのため、集落同士を繋ぐ道も集落の人たちの手で整備されており、その道沿い、山の中腹あたりにも田畑が点在していた。このように、離村前はいくつもの集落によって山全体に手が加えられており一つの生態系として維持されていた。

写真4. 1960年頃の真木集落と各家の屋号

一方で、現在の真木集落の様子を写したものが写真5である。現在は4軒の民家と3棟の土蔵、農作業のための作業小屋などがあるだけで、集落全体の印象も大きく異なる。また、集落周辺の茅場はなくなって雑木林に覆い尽くされ、杉林との境界も曖昧になっている。

写真5. 現在の真木集落と各家の屋号

現在の真木集落では、真木共働学舎の人たちが数名ほどで生活をしている。全員、新屋敷(アラヤシキ)という屋号の家で共同生活を送っており、メンバーの中には真木で40年以上生活をしている方もいるが、若いメンバーは数ヶ月から数年で入れ替わる。自分探しの旅に出たり、新しい仕事を見つけたりと理由は様々だ。また、時期によっては、国際ワークキャンプ団体から派遣されてやってくるボランティアの人なども一緒に生活をしている。

真木共働学舎では規則正しい生活が送られている。毎朝5時半に起き、6時から家畜の世話などの朝仕事、7時に朝食を取り、9時頃から午前の仕事が始まる。10時半のおやつ休憩を挟んで、12時まで働く。昼食を取ったら、13時半頃から午後の仕事が始まり、途中おやつ休憩を挟んで18時まで働く。そこから夕食を取って、あとは各自自由に時間を過ごす。仕事の内容は生活に必要なこと全般で、家の掃除や料理に始まり、田畑の世話、建築の修繕や増改築、道具や機械の修理、木の伐採、山菜採り、冬は雪かきなど多岐に渡る。

こうした生活の中で、集落の田畑や建築は管理されている。それは生活に根付いたものであり、修繕などが緊急の時には人手を割き、それほど緊急でない時は手が回る範囲で行われる。真木での生活について、真木共働学舎の代表の方は、「その時いる人たちで、あるもので」と語る。人が少ない年は耕す土地を減らし、逆に人が増えたら耕す土地も増やす。そうして臨機応変に対応しながら集落の土地や建築と付き合っている。周辺にあった集落はなくなり、共有地であった茅場も放置されてしまうなど、以前の集落同士で支えられていた生態系を維持するのは困難になっているが、その代わりに同じ村内の別の茅場から茅を持ってくるといった新しい循環も生まれている。また、集落周辺の茅場をもう一度取り戻そうという動きもあり、元の集落とは異なる、現在の状況に寄り添った生態系が作り出されようとしている。

普請に学ぶ

以前、真木の元住民の方が保管していた古い文書を見せて頂く機会があった。その中に、「家普請覚帳」という史料があった。この覚帳は、持ち主の方の出自である重屋という家の建設の際に記録として書かれたもので、普請に参加した人たちの役割や出身集落、参加した日付などが記載されていた。

写真6. 家普請覚帳の表紙(左)と記録頁の例(右)

近世民家を中心に普請の研究を行った宮澤(1982)[1]によると、普請とは「家の新築はじめ、屋根葺替えなどの修理、増築や移築」などひろく建設工事を指し、「あまねく同志に請うて共に事をなす」ものだった。普請にはこうした、人々が集まって共に建設を行うというニュアンスが含まれている。ここでいう同志とは大工や屋根屋といった職人だけでなく、その大半が近隣の集落などから集められた一般の人たちだ。実際に先程の覚帳に記載されていた参加者の内訳を整理してみると、参加者120名のうち95名が、役割の記載のない、いわば素人の参加者たちであった。こうした参加者たちは、普請が行われる度に、縄などを持って駆けつけ、工事の手伝いをした。覚帳は、そうして手伝ってもらった分を後代になってもしっかりお返しできるように、その責任を果たすためにつけられたものである。このように家は、家同士、集落同士の相互扶助による社会システムによって協力しあいながら建てられていた。これもまた一つの社会的な生態系だと捉えることができる。

こうした普請によって建てられた家は、安藤(1983)[2]が指摘するように、「個人の所有であると同時に社会財であるという認識」を育む。自分たち自身の手で作った建築が集落を形成していることは、「たとえ他人の家であろうと粗末にした結果の負担は直接集落全体に及ぶので、それをより良く維持しようとするのはむしろ当然のこと」という意識に結びつく。普請で建てられた家は、そこに住む人だけのものではなく、同時にそこに関わった人たちのものでもあった。これは、集落の土地はみんなの土地であるという総有(鳥越, 1993[3])の概念とも通じる。

水車で民家を直す

現在、真木集落では水車製材プロジェクトが進められている。水車を回して、その動力によって周辺の山から切り出してきた木の製材を行うというものだ。共働学舎が主体となって取り組んでいるプロジェクトだが、私もそのお手伝いをさせてもらっている。

先程も見たように、真木の周辺の山には元住民たちが植林した杉林が多くある。まだ真木が集落として健在だった頃は、集落付近から山の麓までを結ぶ架線が通っており、それを使って伐採した木を運び出していた。しかし住民の離村とともに架線は使われなくなり、山から木を下ろすことが困難となってしまった。また、元住民たちは離村していく際に、将来の子孫のためにと、至るところに杉を植林していった。しかし、当時に比べて杉材の価格は大幅に下がっており、それらは伐採されないまま放置されている。水車を回すプロジェクトは、真木にあった民家のうちの1軒が老朽化と積雪によって倒壊したことをきっかけに立ち上げられたもので、こうした周辺にある資源を有効活用して集落内の建築を維持していくことを目指している。

写真7. 水車で製材を行っている様子

今年は、その一環で「水車で民家を直す」と題したワークショップを計3回開催した。内容は各回で異なり、第1回では現状の水車小屋の増築工事を、第2回では中和出という家の床や建具の修繕を、第3回では茅葺き屋根の葺き替えを行った。いずれも普請に倣って知り合いを中心に参加者を募り、数日間に渡って施工を行った。

真木集落での施工は、立地上、普段とは勝手が異なる。普通だったら施工をしていて必要な材などが出てくれば、車でホームセンターまで買いに行くことができるが、真木集落ではそうはいかない。施工に必要な道具類はある程度揃っているが、それでも施工をしていると、あれがあれば、みたいなことはよく起こる。そういう時はあるものでどうにかしないといけない。例えば、第2回のワークショップでは、床板や敷居を作るのに、集落内で出た端材や廃材を再活用した。また、床の張り直しをしていた際には、床板を仕上げるためのオイルがなく、結局、台所にあったサラダ油を使うことにした。それでも量が沢山あった訳ではなく、節約しながらの仕上げとなった。ありあわせの間に合わせという改修だ。

写真8. 中和出の茶の間の修繕前と修繕後。仕上げはサラダ油で。

また、人に関しても、技術の上達度合いや作業の向き不向きなどは実際に作業をしてみないと分からないことが多い。やってみて上手くいくこともあれば、やってみたら想像以上に作業が難航し時間がかかってしまうこともある。そういう場合は、大工さんと相談しながらその日の目標を決める。例えば、第1回の水車の増築工事では、思ったよりも早く仕口の刻み作業が終わってしまい、共働学舎の人と参加者を総動員して、当初予定していなかった柱の立ち上げを行った。もちろん、大工さんがいなければ難しい作業だが、一方で大工さん一人ではできない作業でもあり、大勢でやることの力強さを実感させられた。

写真9. 水車製材小屋の増築部分の柱を立ち上げている様子

このように真木での建築実践は、「今いる人たちで、あるもので」その時々の状況に応じて行われていく。水車製材を行うことやワークショップで家を修繕することは昔の集落にはなかったことだが、結果として新たなモノや人の流れを生み出し、集落を維持していくことに繋がっている。たまたまそこに居合わせた人やモノという偶然性を受け入れながらも実際に建築に手を加え続けていくことで、集落やそれを取り巻く生態系が更新され続けていく。そう考えれば廃村によって集落の時間が途絶えた訳ではなく、むしろ主体が変わるという偶然を乗り越えながらも集落は実体として存続していると考えられるのではないだろうか。

中和出の家に学ぶ

私は昨年の冬、中和出という家に籠もって、ちまちまと改修(と言っても実際は大半が掃除だったが)を行っていた。この家は私の祖父の家であり、先祖代々の家でもある。未だに玄関先には曾祖母の名前が書かれた表札が掛かっている。

写真10. 中和出の家

この家で実測をしたり、自ら手を動かしたりしていると、過去の様々な痕跡に遭遇する。古材を転用したと思われる箇所や、最近になって改修したと思われる箇所、動物によって穿たれた穴など、本当に様々な痕跡が重なり合っている。そうした痕跡に対して、私自身も自分が住みやすいように、使いやすいようにと手を加える。

人類学者のインゴルド(2017)[4]は、理論家と職人の思考法の差異について、「前者が考えることを通してつくる者であり、後者はつくることを通して考える者だ」というふうに述べている。更に、「職人の方法は、周囲の人や事物との実践的で観察に基づいた結びつきから、知識が育まれることを許容する」と言い、これを「探求の技術」と呼ぶ。「探求の技術」においては「実際にやってみて、何が起きるのかを試す」のであり、その中で世界との関係を調整することを「応答(コレスポンダンス)」と呼んでいる。

真木集落で私たちが行っているのも、この応答の連続ではないかと思う。それは過去の人たちの痕跡や自然の営みに対して、一度それを受け入れ、それに対して手を動かしながら何らかの答えを探し出すことだ。そうすることで、自分自身の痕跡も家や土地に残されていき、生態系の一部に取り込まれていく。そう考えると、応答をすることは、過去の事象や事物、あるいは自然の営みに対して排他的になるのではなく、むしろ自分もその一部に入ることなのではないだろうか。こうして、人が作ったものと自然が生み出すものの境界のない生態系の中に入り込み、生活をしていくこと。それが実践として家、あるいは集落を住み継いでいくことになるのではないだろうか。そうした生態系がどのように形を変え続けていくのか、今後も手を動かしながら考え続けたいと思う。

写真11. 元養蚕室を改修したアトリエ

注:

[1] 宮澤智士(1982)「普請帳成立の社会的背景」, 『普請研究』, no.1, pp.2–20

[2] 安藤邦廣(1983/2017)『新版 茅葺きの民俗学:生活技術としての民家』はる書房

[3] 鳥越皓之(1985/1993)『家と村の社会学 増補版』世界思想社

[4] ティム・インゴルド著, 金子遊・水野友美子・小林耕二訳(2017)『メイキング:人類学・考古学・芸術・建築』左右社

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両川厚輝

Written by 両川厚輝

1993年長野県生まれ。2020年東京大学大学院新領域創成科学研究科修了。同年より同博士課程に在籍。日本学術振興会特別研究員DC1。2016–17年にエクアドルの建築設計事務所Al Borde、2018–19年にコロンビアのEAFIT大学urbam都市環境研究所にて研修。専門は建築まちづり。

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