近代建築と大衆文化、新たな労使関係の模索

連載:連帯する個人:労働者・大衆の時代とその建築(その2)

Sumiko Ebara
建築討論
Apr 25, 2023

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プロムス(プロムナード・コンサート)
ストライキに驚いていたら7月になった。7月15日、ロンドンの夏の風物詩プロムスが始まった。プロムス(Proms: Promenade concerts)は1895年に始まるイベントで、通常はクラシック音楽を聴かないような人たちも訪れやすいようにと、格安のチケット料金で、一流のコンサートが提供されている。主催はBBCで、イギリス国内のオーケストラのみならず、ベルリン・フィルなどの国外一流オーケストラやピアノ・ソロ、合唱、コンサート形式のオペラまで幅広い演目がある。会場は約8,000人の収容人数を持つ巨大な円形状のロイヤル・アルバート・ホールで、通常、一番、良い席とされる平土間席がわずか7.12ポンド(1200円くらい)の立ち見席になっている。

人気のコンサートだと、入る前から長い行列ができ、会場は文字通り鮨詰めになる。当然、コロナ禍にあっては中止・縮小を余儀なくされ、ようやく2022年、通常の開催の形に戻った。

プロムスには、ドレスコードなど、もちろんない。仕事帰りのスーツ姿の人もいるが、短パン・Tシャツは当たり前。なにせ休憩時間は床に直接座るのだ。汚れが気にならない服装の方が良い。会場では1パイントサイズのプラスチック製カップでビールを飲んでいる人も多いのだが、そのビールをこぼす人がよくいるため、往々にして床はベタベタしている・・・

しかし、この“混沌”とした雰囲気も、プロムスの魅力の一つだろう。一流の音楽に拍手だけでなく口笛を鳴らしたり、足を踏み鳴らしてアンコールやカーテンコールを求める。交響曲の第一楽章と第二楽章の間で拍手をしてしまう人がいるのもご愛嬌。コンサートマスターが音取りのため、ピアノで中央の「ラ=A」の音を出しただけで拍手するのは悪い冗談だけど、ほぼ恒例。演奏が終わると、「よかったねえ」と隣の見知らぬ人から声をかけられることもしばしばあり、よく会う人とは挨拶も交わすようになる。まさに、「インクルーシブ」な場なのだ。

前回の連載で、ジョージ・オーウェルがさまざまな職種の中産階級の人々に連帯を呼びかけたことを紹介した。プロムスにはありとあらゆる人々がやってくる。人種も年齢層もさまざまで、私のような外国人も来る。同じ音楽を聴き、熱狂する経験を通して、職種や階級の壁を越えた連帯の素地が育まれて来たのではないだろうか。

開演前のロイヤル・アルバート・ホール

イギリスにおけるモダン・ムーブメントの建築の到来
さて今回は、20世紀初頭のいくつかの近代建築を紹介したい。
イギリスではモダン・ムーブメントの建築の到来は他国に比して遅かった。伝統を重んじるイギリス人の気質に合わなかったとも言われる。しかし、その「伝統」は実はそれほど古いものではない。産業革命を背景に社会が急速な発展・膨張を遂げる中で推進されたゴシック・リヴァイヴァル、そして機械に対抗し、手仕事の良さを再確認したアーツ・アンド・クラフツ運動は、時にナショナリズムや資本主義と手をたずさえて19世紀に選択的に強化されたものに過ぎない。

一方、19世紀は、急激な人口増が貧困層を生み出し、労働者の生活環境の悪化は大きな社会問題となった。労働者はストライキを起こすなどして連帯を強めた。「伝統」を重んじる人々とは、往々にして、労働者の台頭、その連帯と団結を苦々しく思うブルジョワであったと言えるだろう。

しかし、世紀をまたぐ1900年、労働代表委員会が発足し、1906年には労働党が生まれた。その勢いはなかなかのもので、かつて、保守・トーリー党の対抗勢力であった自由党に取って代わるまでに成長した。

この頃、ようやく、”モダン・ムーブメント“の建築がイギリスで生まれた。ジョゼフ・エンバートン(1889–1956)設計のロイヤル・コリンシアン・ヨットクラブ(1931)はジョンソンとヒッチコックによる「インターナショナル建築展」で紹介された唯一のイギリスの建築だった。オーウェン・ウィリアムズ(1890–1969)設計のデイリー・エクスプレス社屋(1932)は、外壁にカーテン・ウォールを用いた作品だった。だが、デイリー・エクスプレス社屋の内装は煌びやかなアール・デコで、ロイヤル・コリンシアン・ヨットクラブは会員制だった。これらの建築は限られた人が利用するもので、「大衆」のための建築だったとは言いにくい。

一般にモダン・ムーブメントの建築と呼ばれるものは、ル・コルビュジエが提唱した近代建築の5つの要点を押さえた建築で、工業生産の場である工場や、その産業に従事する労働者のための住宅等が含まれる。その意匠デザインは、即物的で非装飾。機能的で面白みがない、豆腐に目鼻の白い箱、とも言われる。

しかし、労働者は単なる“労働力”ではなく、ひとたび仕事が終われば、さまざまな消費の主体となる。歴史主義の建築のような大仰な装飾はないにしても、大衆にいかに気持ちよく購買活動をしてもらうかも重要なポイントだ。

ドゥ・ラ・ワール・パヴィリオン(1935)
イギリス南部、夏は多くの海水浴客で賑わうイーストボーンからほど近いベクスヒルにGrade I登録建造物として名高い「ドゥ・ラ・ワール・パヴィリオン」★1がある。

ドゥ・ラ・ワール・パヴィリオン

水平のスラブ、ガラス張りの階段室、流麗ならせん階段を持つ白亜のリゾート娯楽施設は、希望に満ちた新時代の到来を言祝ぐ象徴的な建物だった。

1924年、先に述べたように躍進を遂げた労働党が初めて政権を握り、マクドナルド内閣が成立した。この時、わずか23歳で大臣の一人に就任したのが、第9代ドゥ・ラ・ワール伯爵(1900–1976)だった。彼は世襲貴族で初めて労働党員となった人物だった。ドゥ・ラ・ワール伯爵は1933年にはベクスヒルの市長にも就任した。

ベクスヒル地域では、当初、過剰な観光客は生活環境を圧迫するとして、娯楽施設の建設はそれほど歓迎されていなかった。しかし、ドゥ・ラ・ワール市長は、観光業は地域の経済にとって不可欠だと市民を説得し、1934年、設計競技の開催にこぎつけた。審査委員長は王立英国建築家協会から推薦されたトマス・タイト(1882–1954)であった。

設計競技に勝利したのはエーリッヒ・メンデルゾーン(1887–1953)とサージュ・シェマイエフ(1900–1996)であった。シェマイエフは1900年ロシア生まれで10歳の時にイギリスに移住。メンデルゾーンは1933年、ナチス・ドイツが政権を握った2ヶ月後、オランダを経てロンドンに渡り、シェマイエフと設計事務所を開設した。また、構造技術者として起用されたのはウィーン生まれで、メンデルゾーンとショッケン百貨店での協同の実績があったフェリックス・サミュエリー(1902–1959)らによる事務所だった。建物の建設は、工期短縮および建設費削減のため、当時、イギリスではまだ珍しかった溶接鋼構造を使い、1年足らずで完成させた。

イギリス建築界は、外国人たちによるこの快挙を、歓喜をもって迎えた。また、世論も概ね好意的で、さらには外国からの視察も相次いだ。フランスの市長団による訪問時には、「この海岸は社会主義の実践の場ですね・・」と言われたそうだ★2。確かに、バルコニーに群がる鈴なりの人々の様子から、いかにこのパヴィリオンが観光業として成功し、大衆を魅了したかが窺われる。

Daily Mirror 1937 年7月 ★3

シンプソン・DAKS紳士服店(1936)
ロンドンのピカデリーにある、現在は書店のウォーターストーンズが入っている建物(Grade I登録建造物)は、元は1894年に創業したシンプソン、すなわち、後に英国王室御用達となるDAKSの店舗だった★4。

創業者のシメオン・シンプソン(1878–1932)はそれまで注文仕立てが常識であった紳士服の世界で、機械の助けを借りて、既製でありながら質の高い紳士服の製造販売を始めた。1930年代には「セルフ・サポーティング・トラウザー」つまり、ベルトやサスペンダーなしで履けるズボンを開発した。このズボンはテニスやクリケットなど、余暇を楽しむ人々の圧倒的支持を得た。1932年にシメオンが亡くなると、二代目社長となった次男のアレクサンダーはさらなる躍進を期して高級ショッピング街の代名詞であるリージェント・ストリートのあるピカデリー地域へ進出した。

設計は前述のロイヤル・コリンシアン・ヨットクラブの設計者ジョゼフ・エンバートン、構造はこれまた前述のフェリックス・サミュエリーであった。

元シンプソン・DAKS店舗、現在は書店のウォーターストーンズが入っている

店舗は各階の窓は水平連続窓だが、外装はアレクサンダーの意向で鉄筋コンクリートではなくポートランド・ストーンが張ってある。内装はトラバーチン、ガラスとクロムメッキを多用したもので、スタイリッシュでありながら高級感もある。インテリア・デザインはバウハウスで活躍したモホリ=ナジ・ラースロー(1895–1946)。1階の湾曲したガラスのショーウィンドウは光の反射を考慮したものだった。アレクサンダーは店の広告にも気を配り、ウィーン出身のマックス・ホフ(1903–1985)を起用し、婦人服の販売にも着手した。

しかし、アレクサンダーは白血病を発症。建物の竣工後わずか1年の1937年、34歳にしてあっけなく亡くなってしまった。

シンプソン・DAKSは第二次世界大戦時には、軍服の生産を行い、苦難の時代を切り抜けた。だが、ゴルフやテニス、海辺のリゾートといった余暇の過ごし方は次第に時代の潮流に合わなくなって行った。1991年、シンプソン・DAKSは日本の三共生興の傘下に入り、1996年この建物は書店のウォーターストーンズに売却された。書店になって、より庶民に入りやすくなったのは嬉しい。だが、一抹の寂しさがある。DAKSの路面店は今現在、ロンドンにはないようだ。

左:モホリ=ナジのデザインした1階ショーウィンドウ
右:階段の波板ガラス

ピーター・ジョーンズ百貨店(1936)
ピーター・ジョーンズ百貨店(Grade II*登録建造物)も大衆化の時代における挑戦的な建築だったと言えるだろう。しかし、その挑戦は単に売り上げを伸ばし、販路を広げることにとどまらず、経営者と従業員の関係の新しいあり方を目指したものだった。

イギリス大手百貨店ジョン・ルイスの創始者ジョン・ルイス(1836–1928)は幼い時に両親をなくし、生き馬の目を抜くロンドンで、生地販売からはじめて一代で富を築き上げた叩き上げのビジネスマンだった。ピーター・ジョーンズ百貨店は経営不振に陥っていたところ、ジョン・ルイスに買収された百貨店だった。ジョン・ルイスの息子のスピーダン・ルイス(1885–1963)は1906年に21歳になると、店の権利の1/4を得ることとなった。だが、スピーダンはその財産を受け継いで満足かというとそうではなく、むしろ、普通の従業員との賃金格差に居心地の悪さを感じるような人物だった。そして、一般的な労使の関係でなく、社員自身が会社を所有・管理する“パートナーシップ” — — 現代で言うところのワーカーズ・コープ(労働者協同組合)に近い形を構想し、1914年、父からピーター・ジョーンズ百貨店の経営を任されるとその実践を試みた。当初は順風満帆とはいかなかったようだが、社員の意識改革を行い、コミュニケーションの充実を図ることで、次第に経営は上向いて行った。1920年にはついに収支は黒字に転じた。父のジョン・ルイスが1928年に亡くなると、翌1929年、スピーダンは自らの権利の一部を信託する形でジョン・ルイス・パートナーシップ・リミテッドを設立した★5。

この頃、スピーダンはリヴァプール建築学校の校長で、近代建築運動にも熱心であった建築家のチャールズ・ライリー(1874–1948)と出会い、1932年頃からピーター・ジョーンズ百貨店の店舗の建て替え計画を相談したようだ。しかし、ライリーはそろそろ隠居の年齢にさしかかっていたため、自身は監修という立場で、実務者としては弟子のウィリアム・クラブトリー(1905–1991)を紹介した。クラブトリーはエンバートンの事務所に勤めた経験もあった。クラブトリーはまず大陸諸国の最新の百貨店建築の視察に派遣された。そこで、メンデルゾーンのショッケン百貨店などを見て感銘を受け、ガラスのカーテンウォールの建築を構想した。

スピーダンが社内誌 (Gazette)に書いたところによれば、デザイン・チームは「百貨店というものを見たことがない人は、どのような空間が欲しいと思うか」と考え、「明るいこと、すなわち自然光が差し込み、開放的で、歩き回りやすいこと」を目指したとのことであった★6。より大衆化が進んでいたシネマや喫茶店のようなイメージで、それまでの豪壮なハロッズやセルフリッジズのような百貨店からの脱却を図ったのであった。

ピーター・ジョーンズ百貨店

アーカイブズを訪ねて
正直、私はこのスピーダン・ルイスの物語★7に感動してしまった。それで、ピーター・ジョーンズ百貨店の店舗建設の経緯についてより深く知りたいと思い、調べ物をしていると、ジョン・ルイス・アンド・パートナーズは、企業アーカイブズを持っており、毎土曜は一般公開、平日は応相談で研究者の訪問も受け入れていることが分かった。

ロンドンから電車で1時間程度のクッカムという駅から徒歩10数分。緑あふれる公園のような場所の一角にそのヘリテージ・センターはあった。到着するとすでに閲覧を希望していた図面の類は出されており、他にどのような史料が見たいかと訊かれた。スピーダンと建築家のクラブトリーのやりとりの分かるものや、建物の改修にまつわる史料があれば見てみたいと伝え、まずは図面の閲覧を始めた。

大きな図面には、雑誌記事ではよくわからなかった、バックスペースの部屋名も書き込まれていた。そこで気づいたのが、現在は一般客のカフェ・レストランになっている最上階の6階が「従業員食堂」になっていたことだった。そこは窓がめぐらされ、テラス越しに外に眺望が開けるとても気持ちの良い空間だ。その一番良い空間が「従業員食堂」に充てられていたのだ。ちなみに創建当初、買い物客用のレストランは4・5階の吹き抜けとなった空間だった。吹き抜けも良いけれど、私は6階の広々とした従業員食堂の方が魅力に感じた。

左:6階は従業員のレストラン、休憩室となっており、テラスに面していた
右:ダイヤグラム 4,5階が吹き抜けのRESTAURANT、6階がSTAFFとの記載がある
(Architectural Review, 1939 June, p. 292, 293)
現在の6階カフェ。壁面にJohn Lewis Partners の歴史が展示されている

あまりに驚いたので、そばで仕事をしていたアーキビストに声をかけて、この発見を伝えると、彼女は「ジョン・ルイスは従業員の食事スペースはとても重要視していて、提携スーパーのウェイトローズでも社員の食事スペースには良い空間が与えられている。自分も以前の職場では昼は車の中で取っていたけれど、今のこの職場に来て、すばらしい場所でランチできるようになったのが嬉しくてtwitterに投稿したことがあった」と言って、その投稿画面を見せてくれた。

あとで分かったことだが、ヘリテージ・センターを囲む公園のような空間はオドニー・パークというジョン・ルイス・アンド・パートナーズの社員保養所だった。週末に従業員がロンドンから日帰りで気軽に訪れることが可能な距離に保養所をつくることによって、社員の福利厚生を図ったものだった。

その後、アーキビストがスピーダンとクラブトリーの書簡など関連史料を山のように出してくれた。アーカイブズのコレクション・ポリシーを尋ねると、「会社のガバナンスに関わるあらゆるもの」との回答で、さらにそれは「ジョン・ルイス・アンド・パートナーズはトップがすべてを決める株式会社ではなく、社員による運営がなされている会社で、何か方針を変える際には、過去に遡って、経緯を確認する必要があり、その根拠となる史料を提供することは、パートナーシップ制度の根幹に関わることだと考えられている」とのことだった。なんとすばらしい。感動を新たに、山のような史料に後ろ髪を引かれながら、ヘリテージ・センターを辞した。

John Lewis Heritage Centre

より公平な配当
1954年、スピーダンは『より公平な配当:文明において可能な進化の一方向、おそらく共産主義に代わる唯一の手法として Fairer Shares: A possible advance in civilisation and perhaps the only alternative to communism』という本を出版した。

ここで気になるのが“共産主義に代わる”という言葉である。前述のとおり、イギリスでは資本主義の行き詰まりはすでに19世紀から顕著となり、それに代わる社会主義の形が模索されていた。しかし、ロシア革命を経て成立したソビエト連邦ではファシズムにも匹敵するような全体主義が進行していたにもかかわらず、第二次世界大戦中はイギリスにとって同盟国であるソ連を表立って批判することは難しかった。

だが、第二次世界大戦末期、アメリカ合衆国をはじめとする資本主義陣営とソ連を中心とした共産主義陣営による東西冷戦がはじまった。オーウェルの『動物農場』(1945)や『1984』(1949)が圧倒的な売れ行きとなったのはこの冷戦構造へと世界の情勢が変わったからであった。なお、この「冷戦」という言葉は、オーウェルによる「あなたと原爆」(1945年10月9日)というトリビューン紙に掲載されたエッセイが初出だそうだ。

しかし、オーウェルにしてみれば、盗人猛々しいとの思いもあったのではないか。なぜなら、オーウェルはもう随分前からソ連による全体主義的な国家共産主義体制に対する警鐘を鳴らしていたからである。『カタロニア讃歌』(1937)にはスペイン内戦の折、オーウェルが義勇兵として参加したマルクス主義統一労働者党軍(POUM)が、いつの間にかソ連の支援を受けた共和政府によって“非合法組織”化されていたことに対する憤激が綴られている。喉を射抜かれる重傷を負うまでして戦ったのに、内ゲバの煽りで追われる身になるなど不条理にもほどがある。オーウェルの反ソ精神はこのスペイン内戦時に決定的なものとなった。

だが、オーウェルの怒りは全体主義国家ソ連のみならず、イギリス本国のブルジョワにも向けられていた。POUMの弾圧は、労働者の団結を快く思わないブルジョワ階級も加担しているとオーウェルは喝破したのだった。案の定、イギリス政府は1939年にはフランコによるファシズム政権を承認した。

オーウェルに一言。
イギリスにおけるモダン・ムーブメントの建築の導入は一筋縄では行かないものだった。本稿で取り上げた建築に携わった人たちの多くが、ナチス・ドイツの迫害を逃れてやむなく渡英した人々だった。これらの建築の背景には彼らの辛苦があったことを忘れてはならない。だが、彼らに活躍の場を用意した人たちがいたこともまた事実である。大衆・労働者のニーズを捉えた娯楽のあり方や商品開発を模索/開拓した人、ブルジョワでありながら、非人道的な労働搾取から脱却し、従業員を“パートナー”として迎える決断をした経営者。彼らの協同があって、辛うじてモダン・ムーブメントの建築はイギリスにもたらされた。

資本主義、共産主義、いずれでもない“第三の道”の模索は現在も続いている。ジョン・ルイス・アンド・パートナーズのオックスフォード店の入り口には下図のような銘板が掲げられている。

左:オックスフォード・ストリート店に掲げられた銘板
右:オックスフォード・ストリート店の外壁に掲げられた彫刻はバーバラ・ヘップワースによる「Winged Figure」。
建築は1941年の戦災後、1961年に再建されたもので、Slater and Urenの設計)

ここでは私たちは単なる従業員ではなく、所有者であり、ゆえに私たちは皆、パートナーと呼ばれています。

そして、それゆえにこそ、私たちは、お客様という最も大切な人たちに高品質の製品と優れたサービスを提供するために、より一層の高みを目指すのです。

なぜなら、私たちにとって、それは自分ごとだからです。

オーウェルに一言、言いたい。オーウェルは鉄やガラスのインテリアは好まなかった★8。しかし、少なくともモダン・ムーブメントの建築のいくつかは、実はあなたと思いを共にしたものでしたよ、と。

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★1:英語綴りは「De la Warr」。ブドウの「デラウェア」種はここから来ているが、多少のゆらぎはあれども、単語ごとに区切って記述するのが通例であるので、本稿では「ドゥ・ラ・ワール」と記した。
★2:Graham Whitham (2010) De La Warr Pavilion.
★3:Daily Mirror, July 1936. 画像はこちらのURLから拝借 (Accessed on 20th April 2023)
★4:Tessa Boase (2022) London’s Lost Department Stores. London, pp. 64–67.
★5:John Lewis & Partners Memory StoreはJohn Lewis Heritage Services Partnersとボランティアによって運営されている同社の歴史を紹介するサイト。
★6:Victoria Glendinning (2021) Family Business. London. pp. 216–220
★7:この経緯については、以下の記事に大変詳しい。名越 美千代「ジョン・ルイスが愛される秘密」『ジャーニー』2014年8月7日 (Accessed on 20th April 2023)
★8:例えば「暖炉の火」(イヴニング・スタンダード紙1945年12月8日付)というエッセイでは金属パイプを使った椅子やガラス板をのせたテーブルが批判されている。

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Sumiko Ebara
建築討論

えばら・すみこ/建築史・建築保存論。千葉大学大学院工学研究院准教授。著書『身近なところからはじめる建築保存』、『原爆ドームー物産陳列館から広島平和記念碑へ』