学びをテーマに発表することで自分が「学んだ」ワケ

自分の発表が、実は発表内容のリアルな体験であったことに気づいたという話

Takeshi Kakeda
kkd’s-remarks
8 min readFeb 28, 2019

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https://t.co/0wN9tb3Vwo

2/23に、広島市で行われたオープンセミナー2019@広島で発表させていただく機会があり、登壇させていただきました。

今回「学び方Hack」をテーマにということだったのですが、学習法の理論や体系は様々な本が出てますし、ただ単に読んだ本の紹介をするのではなく、単に自分の経験だけを語るのでもなく、実体験に基づく・覚えがある内容を、関連する書籍も含めて紹介することにしました。

学びというと、このところ「身体知・身体性」ブームだったので、そこを中心に含めたいと考え、カラダとアタマが不可分、そしてココロも不可分、というつながりで学びの全体性というキーワードを発想し、内容を組み立てました。

それぞれのつながりをイマイチ整理しきれていない感が強くありますが、このような機会を頂くことで、少しは自分の中で一歩先に進めた気がしています。本当にありがとうございます。

https://www.slideshare.net/kkd/20190223-132981562

アタマ編について

自分がよくやる参考文献のリンクを辿ることから始まり、異業種交流、雑談などを経て学びはツリーではないと言いたくて『都市はツリーではない』の挿絵を使いました。参考文献についての講演資料はこちらになります。

メタファーについては、今回は概念メタファーの文脈ではなく、学んだものを喩えるツール・テストとして紹介しました。メタファーは知識創造の文脈でも重要な位置を占め様々な文脈と繋がります。メタファーについての以前の講演資料はこちらになります。

カラダ編について

からだメタ認知については、身体性の文脈からたどり着いて、2年ほど前にマイブームになったコンセプトで、普段から意識しており「できる/かたる/わかるの関係仮説」の図につながりました。

「コトバにするのが難しい」というようなフィードバックがありましたが、自分なりの言葉、例えばオノマトペ(擬音)でもいいんです。

「こつ」と「スランプ」の研究』に創作オノマトペというワークショップが紹介されています。かいつまんで言うと、ある身体感覚に対して自分なりの音素を当てはめるものです。一般的に使われているオノマトペでなく、まったくの創作でよいのがポイントです。

たとえば「し」と「じ」という別の音素の微妙な差異を表現することで、身体感覚がコトバに分節化されます。このワークショップは自分でオノマトペを作ってそれで表現しようという内容で非常に興味深いです。

SPARK理論については、最近はかなり有名になってきているようですが、個人的には外せないのでちょっと唐突ですが含めさせていただきました。Tweetみてると走る人より自転車乗る人の方が多そうな雰囲気でしたが、休憩時間にZwiftでも使って心拍計見ながらカラダを動かすのがいいんじゃないでしょうか。

ココロ編について

ココロ編については、谷本さんが「トキメキ」をテーマにすると聞いていたので軽めに扱うことにしました。動機づけ(XXX駆動)については人それぞれなので、自分が何に駆動されるのかのかを認識しておくことは重要だと考えています。

ホモ・ルーデンス』、『デカルトの誤り』の「ソマティックマーカー仮説」については説明が足りず消化不良でした。本家を読むより、その解説書(『遊ぶが勝ち』、『身体知性』)の方がとっつきやすいです。

謙虚さについては、自戒を込めて含めました。自然から、子どもたちから学ぶことは日々多いです。

ちなみにこんまりメソッドは、ソマティックマーカー仮説で言うところの「あるモノに関連する身体的体験が引き起こす情動」を使って取捨選択するという、身体感覚と情動を用いた選択メソッドではないかと気づきました。

学びのプロセスについて

できる/かたる/わかるのマトリックス

今回のスライドの中で反応が多かったできる/かたる/わかるの関係仮説の図ですが、実は、最初からシーケンシャルに知る→わかる→できるという階段上になっているモデルに疑問を持っていたわけでなく、今回のテーマで話の構成を組み立てていた時に「あれ?」と違和感を覚えて、前日に図を思いつき急遽差し込んだのでした。

自分の仮説としては

  • 「できる」は主に運動を司る領域を使う
  • 「かたる」は主に言語を司る領域を使う
  • 「わかる」は「できる」と「かたる」のつながりができた状態

というものです。

このモデルが正しいかどうかは検証が必要ですが、からだメタ認知のように、身体感覚をコトバにすることで、身体感覚のフィードバックにもなり得るのと、自分がやってきたことに対して、誰かの講演や書籍を読んで「自分がいいたかったのはそれだ!」という瞬間のメカニズムはこんな感じではなかろうか?と考えます。

インナーゲーム』の話は、カラダ編に含める予定だったのですが、学びのプロセスに移動しました。ここで言うセルフ1とセルフ2の話は、禅の話にも繋がり『弓と禅』と近いテーマです。本文の中でも鈴木大拙氏の著作が引用されていました。(懇親会でも指摘されました)

ヘヤーインディアンの話は『古武術に学ぶ身体操法』で紹介されていたのですが、セルフ2の学習と同義だと思い紹介しました。本はまだ読んでないので、これからもう少し調べたいです。

身体知はすべてコトバにできない、でもコトバにする意味

身体知を調べていけばいくほど、「身体知はすべてコトバにすることはできない」という思いが強くなる一方で、それでも尚コトバにする意味があると実感しています。

SEKIモデル(http://www.osamuhasegawa.com/wp-content/uploads/2009/11/SECI%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB.png)より

知識創造の文脈でよく使われるSECIモデルで言うところの、表出化(Externalization)についても改めて深く考えさられました。恐らく世間一般に理解されているSECIモデルの表出化は「言語や概念にする」くらいにしか捉えられていないと思います。

しかし身体知(暗黙知)をすべて形式知化することは、不可能あるいは非常に困難であり、たとえ形式知化されたとしてもそれを自分のものとする内面化(Internalization)もとても困難であると気づきました。この点については別途考察したいテーマです。

アタマとカラダとココロがつながる

アタマに特定の分野の知識のみインプットするだけでなく、

・様々な分野から学び繋げること

・カラダを使って体験しそれをコトバにすること

・自分のココロ(内面)に向き合い動機・方向づけをすること

・自分のココロ(感情)を大事にしてイマココに集中すること

・多くの人と交わり繋げていくこと

これが織りなすのが、学びのフラクタルなネットワーク構造であり、学びの全体性ではないかな、という私の仮説でした。

Twitterの反応にまとめてリプライ

雑談の雰囲気づくりについて

学ぶタイミングについて

タバコ部屋に似てるよね

どこで読んでるの?

セルフ1を騙せばいいの?

「わかる」ためには「コトバ」にしないといけない

私は言うほど多くの本を読んでるわけではなく、積読もかなり多いです。また私以上の読書家を何人も知っているので決して胸を張れるものではありません。

ただ、何かと何かをつなげて考えることはスキなのは間違いなさそうです。一見関係なさそうなものの関連を見つけ、深掘りしてみることに好奇心を持っていますが、結局それらもコトバにしないことにはわかったとは言えないということに改めてに気付かされました。

今回の登壇の機会は、来場者に対して発表して提供するだけでなく、自分自身がコトバにすることで改めて「わかった」自分自身の学びの場であったのです。

私の学びの場でとりとめもない話を多くの人に聞いて頂きありがとうございました。皆さんの興味期待のフックに引っかかれば幸いです。

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Takeshi Kakeda
kkd’s-remarks

I’m Thinker, Doer, Maker, iki-iki Generator and Runner in Ehime, Japan. My blog is https://tkskkd.com/