取り留めなく宗教的に

オンライン世界でのコミュニケーション。荒れやすいねえとよく聞きます。ただ、私のTwitterタイムラインではそうしたことはほぼありません。「こんな意見が出てるね」といったリツイートはあっても、フォロワーさんどうしがののしり合うことや、誰かを攻撃していることを見かけないのです。

ではTwitterは平和なんだと短絡的に楽観視するわけにはいきませんししません。どうも「不寛容が跋扈する」とでもいうようなところがあるようです。政治的な意見で特にそうした面が多いようですね。お互いに自分の土俵に引きずり込みあおうとし、相手にマウンティングをかける……といったことが。

とある意見に反対や反論すること自体は悪いと思いません。むしろ、「こうしたらよりよくなるのに」といった前向きで未来的思考な対案をだすのは良いと思うのです。ところが実態そうではない事例が、悲しいながら漏れ聞こえてくるのです。

影響力もあり著作も良く売れるとある作家先生が、そんなマウンティング合戦の渦中にいることを目にします。「俺は正義! 俺と違う意見は認められない!」といった「立ち位置」で。それもまあ意見の発露。そうした渦中にいる方々の人格そのものに支障ありとは思いません。

ただ、どうかなあと思う面があります。「自分は正しい」を通り越した、「我は正義、異論のあいつらだけが間違っていて愚か者」という見方、本当にできるものなのかと、常々疑い気味にとらえております。これは私が聖書の影響を受けているからかもしれません。新約聖書ローマ人への手紙3章10~18節あたりを思い出すのです。「ただしさ」そのものの定義や基準の高さが、日ごろ人間(私たち)が思うほど低いことはないなあと示されているからです。また、「ただしさ」と同時に「悪」も示されています(旧新約いずれの箇所においても)。自分のうちに悪が無いと思うのは、欺きであると痛烈に述べられている箇所もあります。等々。

話が右往左往しました。この文をお読みくださる方が、聖書の教えを受け入れるか否かをここでは論じません。私が今回申したいのは「自分が思っていること、確信してしまっていること以外のものの見方や、高い基準がある」という意識をもっているか、常に自問したいというのが一点。さらに「相手も人間であり、自分が思っているより深い尊厳を有している。たとえ今、愚かであろうともどうであろうとも」という点です。

マルティン・ブーバーの「我と汝」ではありませんが、モニタや回線の向こうの存在を「汝」ではなく「それ」程度にしかとらえていない方、多くなってきているように感じます。或はただ、ネットが普及したことで、「対話」の視点視野の薄い方がネットになだれこんできただけなのかもしれませんが。

オンライン世界での「荒れる」現象。「意見を言う俺を認めてくれ」と言った、承認欲求云々の範囲だけなら、まだ未来は暗くないように思います。ただ現実は……もっと厳しいかと見ています。声の大きい者が虐げを行うだけの世の中……。これ以上そんな世の中にならないようにと願ってやみません。

つらつらと書きました。我もまた、善にあらずして愚か。今回の文章の破たんした点などご指摘いただけましたら感謝です。

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