2017年いい話 「心の貴い空」

大竹麗子
おはなしかご
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4 min readDec 31, 2016

「人は昔、鳥だったのかもしれない」と言う歌がある。
その歌詞は「こんなにも空を飛びたい!」と続く。
「悲しみのない国へ飛んでゆく翼がほしい」という歌もある。
「あなたの空を飛びたい」という歌もある。
「飛びたい」と願う時、人は上を向く。
いつか、誰かが「上を向いて歩けば涙がこぼれない」と歌ってくれた。
歌った本人は、ある日突然、天に昇ってしまったが・・・

この言葉が、どれほどの人の涙を支えてくれたか、知っているだろうか・・
「泣いてはいけない」と、どんなにこらえても、たまらない悲しみが心の奥からこみあげてきて、こらえきれない涙を流した思いは誰の胸の奥にもあるだろう。

そんな時、どこからかこの歌が聞こえてくる。
「上を向くのだ」と聞こえてくる。
そして涙でぬれた顔を上に向けるのだ。・・するとそこには空がある。
その空をじーと見つめていると、誰も皆「まだ飛べる高い空」があることを知るのだ。

昭和26年頃、私は沖縄である日本の建設会社の渉外部通訳として、米軍関係機関との折衝を担当していた。
その作業現場は、米軍の下士官の家族住宅に隣接していたので、時々子供たちが入ってきて仕事の邪魔をしたり、事故の危険性もあったので米軍の上部機関から米軍の家族に「子どもが現場に入らないように厳重に監督せよ」と通達がでていた。・・そんなある日のことだった。日本人の若い運転手が作業現場で整地用のグレーダーを走行中、その前に突然、飛び出してきたアメリカ人の子ども(四歳)をはねた。その子はすぐに救急車で病院に運ばれたが、まもなく亡くなった。

それから大変なことになった。MP(米軍の憲兵)が来て、一言の事情も聞かぬまま、運転手をジープに乗せて本部へ連行した。現場にはすぐに司令部から安全係官が来て状況調査を始めた。すると家族住宅から下士官の妻達が何人も来て、まるで見ていたかのような証言をしはじめた。グレーダーはルール通り時速15マイル以内で走っていたのに「グレーダーはものすごいスピードで走っていた」と連呼の嵐だった。戦後まもない米軍占領下では、それに正面切って異議を申し立てることなど全く不可能だった。

そのような状況下で、瞬時にして最愛のわが子を失った両親は、その仲間の妻達の証言を振りかざし自分たちの「子どもの監督義務」には一切ふれず、かなりの処罰を求めてくることを覚悟せねばならなかった。
私はその出来事の通訳をすることになった。

その子の父親の第一声は「運転手と直接話させてほしい」だった。
やがて、連れてこられた運転手は、下を向いたまま震えていた。

父親は私に言った。
「今から私の言うことを、正確にこの人に伝えてください」・・
そして運転手の手を握ると、一言ずつゆっくり話しだした。・・・・
私はその言葉に耳を疑った。

彼が言ったことは・・・
「今回のことは、あなたにはなんの責任もありません。すべて私と妻の責任です。許してください。あなたは一切、何の罪もないのです」そして私に向かって言った

「この事故は子どもの監督義務を怠った私達の責任です。ですから会社もこの人に不利な扱いをしないように伝えてください。
必要なら宣誓書も書きます。裁判になったなら法定で、この人の為に証言します」

あれから長い年月が経った・・・
だが、今でもまるで昨日のようにこの出来事を思いだす。
人というものは、なんと「高い、貴い 魂の空」を飛べるのだろうか!

人生というものは、上を見つめれば 「青く 高く 澄みきった空」があるのだ。

その空を、やがて美しく、雄雄と飛びたいものだと、心の底から思った出来事だった。

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大竹麗子
おはなしかご

詩・物語・絵本・人形劇・パネルシアター・言葉で届けられるすべてを、魔法のほうきに乗り全国に届けている「言葉の魔法使いです!」 美しい言葉で話せる人になりたい!楽しい話を子ども達に届けたい!心が温まる話を、力が生まれてくる話を疲れている大人の人達の心に届けたい!そんな願いから「おはなしかご」を生み30年が経ちました。