今夜も独り飲み (2)I.W.ハーパーの章
「ハーパー、ください。水割りで」
一人飲みする女性客の中でも、妙に色気があって男性客にも人気のヨーコはそう言って、スツールにどっさと腰を下ろした。もうすでにどこかで何杯か飲んできているようだ。
「かしこまりました」
I.W.ハーパーは、数あるバーボンの中でもちょっとエレガントなタイプといえるだろう。スムーズな飲みやすさで、女性客の愛飲者も多い。バーボンというと少し雑味があって「通好み」というイメージがあるかもしれないが、ハーパーはその中でも洗練されていて飲みやすい。
「マスター、私、離婚することにした」
宵の口、まだ店には他の客がない隙を狙ってか、彼女はいきなりプライベートな話を始めた。できるだけ驚いた表情をしないように努めながら、
「そうですか」
とだけ、返した。
「…なあに、マスター。理由とか、聞いてくれないの?」
やはり、もうすでに少し酔っているらしい。甘えたような声を出すのは、ヨーコがいい気分になってきている証拠だ。これに男性客が惹かれるのは至極当然のこと。
「どうしてですか?」
少し微笑んで彼女に尋ねた。ヨーコはハーパーをごくごくと飲みほして、グラスをカウンターに置くと、ふーっと長い溜息をついた。
「ぜーんぶ、私のせいなの。私みたいな女と結婚した彼は運が悪かったのねぇ」
空になったグラスを見つめながら、ひとり言のようにそうつぶやいたとき、店の扉が開いて女性が一人、入ってきた。
「いらっしゃいませ」
見たことのない女だった。おそらく三十代後半、オフホワイトの上品なスーツと有名ブランドのサングラスを身につけた、上流階級の奥さんという雰囲気だ。私の店の客にはあまりないタイプ。
その女性は店内をぐるっと見回して、ヨーコから一つ席を空けた隣に座った。
「マスター、おかわりちょうだい」
ヨーコがカウンターの上で空になったグラスをこちらに押し出しながら言った。
「私も、同じものを」
新規の女性客が言った。
「かしこまりました」
私は二人の女性客に等しくハーパーの水割りを作り、それぞれの目の前にグラスを置いた。なみなみと注がれたバーボンに、待ってましたとばかりに手を伸ばし唇を付けるヨーコから視線を外し、スーツの女性に微笑みかけた。
「こちらへは初めてですね。どなたかの紹介でしょうか…?」
すると彼女は、グラスには手を付けず、まっすぐに私の眼を見たまま静かに言った。
「私、シンイチさんの妻です」
ヨーコの手にあるバーボンのグラスが宙で停まった。
「シンイチさんの妻」といった女性のサングラス越しの目は、にこりとも笑わず、私の方を見据えたままだった。
ヨーコは、いったん固まったグラスにまた口を付けてグイっと飲むと、その女のことは見向きもしないで前方をじっと見つめていた。
「…私の後を、つけてきたんですか」
「ええ、あなたたちがホテルで別れたところから」
ヨーコの顔がみるみる紅潮した。キッとその女の方を睨みつけたので、激高するのではないかとヒヤヒヤしたが、彼女が必死に感情をコントロールしようとしているのがわかった。一方の女は、相変わらず冷ややかに私の方だけを見つめている。
「あなた、旦那さまとは別れない方がいいわよ」
はっきりと落ち着いた口調でそういって、その女は初めてハーパーに口を付けた。ヨーコはますます顔を赤くほてらせたものの、何を言っていいのか分からないのか、口をぽかんと開けたままだった。
「飲みやすいわね。マスター、これは何というお酒?」
「I.W.ハーパーです。ドイツ系アメリカ人が作ったバーボンの一種です」
「そうなの、初めて飲んだわ。素敵なお酒を教えてくれてありがとう」
彼女が初めて笑顔を見せた。
「私の夫はね、これが初めてじゃないの。だから、彼を鵜呑みにして突っ走るのはやめた方がいい。でも」
残りの水割りを一気に飲みほして、その女性は続けた。
「おかげで美味しいお酒に出会うことができたわ。素敵なお店も」
そういって一万円札をカウンターに置いた。
「彼女の分もいっしょに。ごちそうさま、おいしかったです」
スツールから立ち上がり、一糸の取り乱しもなく、女は店を出て行った。
ヨーコは唇をきゅっと引き締めたまま、空になったグラスを握りしめ、カウンターの中をじっと睨みつけていた。
「もう一杯飲みますか?」
ぽろぽろと大粒の涙を流す、まだ二十代の女性に聞いた。
「いいえ、もう結構です。ハーパーは二度と飲まない」
そのままカウンターに突っ伏してしまった若い女性の空グラスを片付けながら、今夜はもう誰も来なければいいのに、と思った。
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