ディストピア

PsychoHazard
kuzu/NULL
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4 min readMar 19, 2017

昨日今日という話ではありませんが、米国ではトランプ大統領の言動から「1984年」〔オーウェル〕が売れており、日本でも「虐殺器官」など〔伊藤計劃〕の影響もおそらくあり、やはり「1984年」が売れているらしい。ハヤカワのツイートを見る限りではありますが。

「すばらしい新世界」〔ハクスリー〕も、新訳版が出たことと合わせて、やはり売れているらしい。

ここで、ふと思うことがある。では、「われら」〔ザミャーチン〕はどうなのだろう?

この3作品をすこし考えてみる。

「われら」の原著は1927年に出版されている。「すばらしい新世界」の原著は1932年に出版されている。とくにザミャーチンについては、ロシア革命周辺の様子を見て、その上で書いたとザミャーチン自身が語っている。「すばらしい新世界」もおよそおなじものを見て書かれたものだ。

対して、「1984年」はというと、1949年に原著が出版されている。

「われら」、「すばらしい新世界」に対して、「1984年」はたかが20年の違いと片付けることはできない。

というのも、「われら」と「すばらしい新世界」は、言葉はアレだが言ってしまえば、「馬鹿が覇権を握ろうとしている社会」に対する風刺だった。対して、「1984年」は全体主義への風刺であるとともにレッド・パージ(赤狩り)に対する風刺だった。

こう書くと「すばらしい新世界」には特徴がないように思われるかもしれない。だが、総統が — それも無能ではない総統が — 明確に存在するという点は、「われら」のあまりあきらかではない存在や、「1984年」のやはりはっきりしないビッグ・ブラザーとは異なる。

さて、「すばらしい新世界」の最大とも言えるだろう風刺は、有能、あるいは優秀な総統がいるにもかかわらず、「馬鹿が覇権を握っている社会」、より細かくは「大衆が社会を作っている社会」であるという点だろう。作中ではほんの1シーンに過ぎないが、総統の、いうなら無力感を感じさせる部分は、重いシーンであるように思う。

ユートピアもの、あるいはディストピアものは、すくなくともプラトンの「国家」にまで遡ることができる。プラトンは哲学者が国家を治めるべきだと述べている。これは「すばらしい新世界」に、部分的にではあっても重なるものだろう。(なお、「ユートピア」〔トマス・モア〕や「ガリバー旅行記」〔スウィフト〕も忘れないで欲しい。)

現在、あるいは東西冷戦がともかく終わった後の時代、「私たち vs あいつら」という理解や理屈は通用しない。つまりは、「1984年」は、元来現在において現実に対応させて読むことはできない。「二重思考」や、一部「ニュースピーク」を挙げている書評もあるようだ。しかし、それはトランプ大統領の言動と、言葉の上で似ているという程度以上のものではない。

東西冷戦がとりあえず終わったのは、はたして良かったことだったのだろうか。日本を見てもいい。他の国を見てもいい。国家にとってのはっきりした敵は見つからず、選挙においては候補者は敵を作り出して演説をする。結局、「私たち vs あいつら」という構図が、人間にとって理解しやすく、あるいは理解できる限界なのかもしれない。

小説や著作は、その時代に合わせた読まれ方というものがあるだろう。だが、それで済ますことなく、いつの時代にはどう読まれていたかという包括的な読み方を試みて欲しい。そして言うなら、今、読むべきは「1984年」ではないという点を確認してもらえればと思う。

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PsychoHazard
kuzu/NULL

ショートショートのコレクションについて:ショートショートの作法を無視しています。あとシリーズものっぽいのは、すべて計画の上で書いています。ごめんなさい、「計画の上で」というのは嘘です。思いつきの順番です。