国語教師が日本語を、英語教師が英語を教える資格があるか

「国語教師が日本語を、英語教師が英語を教える資格があるか」という問いを立ててみよう。

答えは、おおむねその資格はないである。

なぜか? 答えは簡単である。言語とはなにか、つまりは言語学の知識が不十分であることがままあり、下手をするとまったくない場合があるからだ。

こういう話題の場合、日本語教育側や英語教育側からの反論にはこういうものがある:

言語学は語学教育に役にたたない

あるいは、これはこう言われる場合もある:

語学の教授法は言語学とは別物である

まぁ、日本語文法での係り受け文法は否定するつもりはない。わかりやすいと言えばわかりやすい。だが、問題は、係り受け文法は文脈自由文法の一方言であるとみなせるという点である。ここのところがわからなかったら、すこし調べればわかることだから、ちょいと調べてもらいたい。

では英語はどうか。チョムスキー系統の文法理論は、原則的に英語を対象として展開されている。あるいは先に英語でやってから、他の言語への適用が検討される。チョムスキー系統の文法理論と書いたが、現在チョムスキーの提唱したものから研究が進み、現状ミニマリスト・プログラムという段階に至っている(たぶん、まだその段階だ)。これは、理論としてはミニマルかミニマルに近いのだが、その分、わかりにくくなっているかもしれない。個人的にはXバー理論がいろいろとバランスがいいんじゃないかと思う。

チョムスキーの統語理論、とくに文脈自由文法で、簡単な英語の文法を書いてみよう:

S → NP VP
NP → N | DET N | NP CONJ NP | NP NP | PP
N → book | computer
DET → a | the
CONJ → and | or
VP → VERP | NP VP | VERB NP
VERP → look | run | write
PP → PREP NP
PREP → on | in | with

寝ぼけて書き下した文法だから、妥当かどうかは知らない。大体形容詞や副詞なんぞ含まれてもいない。また、この書きかただと読みにくいというのはあるだろう。

さて、英語の授業で未だにでてくるSVとかSVOとかという5文型がある。これが無用だとまでは言わない。だが、このような、あるいはもっと正確ではあるが、完璧に英語を記述できる文法を教師が理解しているかどうかによって、SVOなどの5文型についての説明にも違いが出るだろうことは想像できるかと思う。

つまりは、SVOOっていう文型だからSVOOなんだよではなく、英語の大まかな文法はこうなっている。この書き換えの順路をたどると、SVOOが出てくるという説明にはなるだろう。もちろん、これはしっかりとした説明を先送りにしたにすぎない。だが、SVCだからSVCなんだよというような、そういう決まりだからそういうものなのだという、発展も進展もしない教育とは違うだろう。

後は、発音についてだろうか。英語の発音記号は国際音声字母に近いものではあるが、あるいはすくなくともそれに近い使い方が教育現場ではされているが、それにこだわるのは馬鹿である。辞書に乗っている発音記号は、それはそれで意味がある。だが、教育現場において細かく言うのは、馬鹿である。試しに米国あたりのなんかの会社のコールセンターに電話してみるといい。時間帯にもよるのだろうが、結構インドあたりに繋がる。問題は、そこのオペレータの発音だ。米国から買ったkindleのディスプレイに問題が生じたので電話をしたが — というか電話番号を入力したら、あちらからかかってきた — 、あまりに聞き取れないで、ボスを呼べと言った経験がある。だが、考えてみよう。そうでありながら、地球のあちこちからの質問や、中にはクレームに対応しているし、対応できているのだ。

なお、人間の聴覚は生後1年から2年で、その人の母語の音素に合わせた聞き取りをするようになる。これは脳の聴覚の低次の処理の部分が、もうそうなってしまう。それ以後に、他の言語の音素を聞き取れるようになるというのは、たんに面倒くさい。現在もモーター理論が教育現場で使われているようだが、それは音 (おん) の話であり、音素の話とはちと違う。言語において重要なのは、音ではなく音素だ。その意味ではモーター理論は、かならずしも教育現場に持ち込むのに適切なものではない。

話を国語に戻せば、文法についてはもう書いたものとするが、作者は何を考えてこう書いたのかというようなことが未だにあるようだ。そんなものは読み手の知ったことじゃないし、知るすべもない。作者にインタビューしたら答えが聞けるだろうという声もあるかもしれないが、作者の答えが本当にそういうものであるという保証などどこにもない。

このような際、ロラン・バルトのテクスト (text, textile) という概念、同じく作者の死という概念、そしてウンベルト・エーコ (あるいはエコ) による読者の概念は、教師は知っていていいだろう。というか、知っていて欲しい。作者がなんらかの意図を持ってなにかを書いたとしても、その書かれたものは作者が特権的に「このように読め」とか「こういう解釈が正しい」と言えるものではない。読むという行為は、作者と読者の対話・議論である。そう考えるなら、読者がどれほどの知識を持っているのかは重要な問題だ。少ない知識、紋切り型の知識、偏った知識であれば、それらに応じた読み方しかできない。つまり、題材となっている文章がいかに広大なテクストの海に存在するものであろうとも、読者がアレなら、アレな解釈・理解しかできない。

話がまったく変わるが、日経サイエンスにチョムスキー系列の文法への疑問があるというような話題があった。実は未読ではある。以前からピダハン語の問題があるのだから、チョムスキー系列の文法が前提としている再帰性に疑問が呈されても不思議ではない。だいたい、チョムスキー系列の文法で自然言語の統語をきっちり書ききれるのかなど、そもそもわかっていなかった。あるいは言語獲得装置 (LAD) なりし、その概念への疑問が呈されているのかもしれない。LADについては、チョムスキー自身、「探しても見つからないだろう」と言っていたわけだし、装置という、いかにも特定の部位が存在するかのような考え方に疑問が呈されてもなんの不思議もない。疑問がはっきりしたものになったなら、別の方向で考えればいいだけの話である。

チョムスキー系列の文法理論が、自然言語においては不十分であるとか、不適切であるとなったとしても、チョムスキー系列の文法理論の価値がなくなるわけではないことは注意が必要だろう。PC、スマートフォンなどなど、チョムスキー系列の文法理論 — この場合、とくに文脈自由文法と正規文法だが — の恩恵を受けているものは多い。プログラミング言語 (ただしすべてではない)、ICやLSIの設計など、チョムスキーの文脈自由文法が存在しなかったら、実現がほぼ無理だったものがある (ただし、最初期のFORTRANコンパイラのように、なんとか頑張るという方向は残っていただろうが)。正規文法についていえば、かなり便利と実感している人は多いはずだ。

というわけでまとめよう。

このstory程度のことは参考文献なし、寝ぼけた状態、書き散らしで書ける程度には言語学について勉強して欲しい。それは国語でも英語でも、教える際に役に立たないはずがないのだから。


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