考え方(ロジック)は1つなのか?

身近なところだと、神話や昔話というのは、「なんでそうなるの?」という、非合理的に思える話の進行があったりします。そういう点について、よく言われるのかなと思うのは、次のようなもの。

  1. 「使っているロジックが違った」という説がある。確かに、その説に従うと、結構すんなり受け入れられる神話もある。だが、もしかしたらその説は違うかもしれない。
  2. 人間には理解できなかった自然現象の理由付けとして自然神が現れたという説もあるが、これももしかしたら少し違うかもしれない。
  3. あと、古代ギリシャ時代から言われているが、英雄譚が神話になったという説もある。これは、まぁあるだろうなぁとしか言えない。ただし、すべての神話がそうだとは言いきれないのも事実(いや、頑張れば言い通せるけど)

1つめについては、ロジックが違う必要はない。単に、「何を知っているか」&「何を信じているか」と、「どのように考えるか」を分離して考えれば良い。その考え方で読みなおしてみると、「どのように考えるか」は神話が成り立った、あるいは語られ始めたときから変わっていないかもしれない。ただし、神話は毎日書き換えられてきたと考えなければならないので、本当に最初の神話がどうだったかは分からない。だが、このように分けて考えると、神話というのは実は非常に論理的であることが分かると思う。

2つめの自然現象の理由付けというのも、本当に望んだり必要としたのだろうか? そうだとしても「どのように考えるか」が違っている必要はない。おそらくは「何を知っているか」&「何を信じているか」についての問題だと言えるだろう。だが別の可能性もある。誰かがいつかどこかで、「何かが稲妻とかを操っているとしたら面白くね?」と思いついてしまっただけかもしれない。それは現在の小説、演劇、マンガ(コミック)、映画などにずーっと続くものだろう。

3つめは、歴史でもあり、まさしく娯楽でもあったのだと思う。

そうすると、結局神話やらなにから今まで、人間がどう考えるかは変わっていないのかもしれない。

ただし、本当に「どのように考えるか」が変わっていないとすると、1つ問題がある。人間は1つのロジックしか知らないのだ。量子力学とか数学とか訳の分からないものはあるけれども。プログラミングだって、慣れていない人には人間にとって自然なロジックとはかけ離れているように思えるかもしれない。だが、慣れてしまえば、同じだということは分かるだろう。

誤解を恐れずに言えば、人間が知っているロジックはこれだけだ。Prologというプログラミング言語の入門書の最初の方にある例をあげよう:

human(ソクラテス). ; ソクラテスは人間である。
mortal(X) :- human(X). ; Xが人間であれば、そのXは不死ではない。
?- mortal(ソクラテス) ; ソクラテスは死にますか?
yes ; (ここだけシステムからの出力。)はい。死にます。

上の2行は「何を知っているか、何を信じているか」だ。では3行目の質問に対して、上の2行からどのように結果の”yes”が出てくるのだろうか? もちろんPrologではそこのところが定式化されているわけだが、実は人間自身が実際にどうやっているのかはいまいち説明できない。だが、そこにあるものがロジックだ。


補足的に2つ書いておきます:

実際には上記のロジックの他にもう一つ、比喩の類があります。ですがこれまたどうなっているのか分からない。ただ個人的には、上の例と比喩の類を別物と考えることに疑問を感じています。

おっと、もう一つあります。次の2文を続けて読んでください:

私は買い物に行った。
私は本を買った。

おそらく、「買い物に行っている途中(帰りかもしれない)に、『私』は本を勝った」と解釈する人が多いと思います。ですがこの2文を読み直してください、1文がいつどこでの話なのか、2文めがいつどこでの話なのかは何も書かれていません。さらには「私」が同一人物なのかすら明らかではありません。にもかかわらず、どうして2つの文が関連していると読んでしまうのか? ある分野では、それは理屈ではなく人間の脳がそうなっているからだと言っています。ですが、そのように読んでしまうところ、そこもまた人間自身がうまいこと説明出来ないところではあるけれども、また1つのロジック、あるいは上に挙げたロジックを形作るロジックの一部なのです。

実際にどうなのかは分からないのですが、私はこれは結局人間が知っているたった一つのロジックの構成要素ではないかと考えています。

補足ここまで。


どのような生物でも ―理由は分からないが― どうしたって人間が知っているロジックに至るのだろうか?AIの特異点なんて話があるが、そこで人間は異なるロジックに対面することになるのだろうか?特異点の先に、人間と異なるロジックに至る可能性はあるかもしれない。もっとも、定理の証明系で、人間が思いつかなかった証明を計算機が発見したという前例はある。だが、それも人間に理解可能だった。人間の知らない論理というものがあるのだろうか?

そこで問題だ。仮に宇宙人が来た時、我々のロジックと彼らのロジックは同じ、あるいは翻訳可能、あるいは注釈付で翻訳可能なのだろうか? 興味があるので、ぜひ早くどっかの宇宙人に来て欲しいくらいだ。いや、通信だけでもいい。とにかく意思疎通が可能かどうかを見てみたい。

宇宙人とのコミュニケーションには、おそらく言語を使うだろう。語彙(単語)がそれぞれどのように世界を切り分けるかは、当然違うだろう。だが、結局のところ言語(特に文)は修飾-被修飾の関係の集まりと、有標性を用いたものだと思う。他に再帰性とかいろいろあるが、ピダハン語が本当にその研究者の言うとおりなら、ひとまず置いておいてもいいだろう。あるいは、再帰性もその内部での、および外部への修飾-被修飾だと言ってしまってもいいだろう。

修飾-被修飾は、日本語での係り受け文法(古文とかでの係り結びではない)を考えてもらえばいいだろう(複文あたりの扱いは議論があるところだろうが)。

有標性は、当然名詞なんかにもあるが、例えば動詞の例を挙げる。動詞の働き方を示すものとして、tense(時制)、aspect(相)、voice(態)、modeあるいはmood(法)がある。

tenseは未来、現在、過去だ。

aspectは、完了、継続、繰り返し、未然とかだ。ちなみに、日本語にはtenseはなく、tenseもaspectでまかなっていると言われている。英語の過去完了とかを日本語に訳そうとするとややこしくなるのは、大まかな話としては、そのためだ。

voiceは、とりあえず能動態と受動態と言っておけばいいと思うので(一応面倒なこともあるが)、それだけで済ましておく。

modeあるいはmoodは、ややこしい。tense、aspect、voice以外のすべてがここに詰め込まれているからだ。とはいえ、とりあえず動詞を使うときの気持ちのあり方と思ってもらえばいいだろう。「希望」とかまぁいろいろだ。

で、例えばvoiceだ。日本語だと「〜られる」が受動態と可能と尊敬だかなんだかが一緒くたになっているので話が面倒になる(ちなみに、20年とか前から言われている「ら抜き言葉」は、受動態と可能の表現を分けようという動きとしても見ることができる)。なので英語を使おう。能動態は、someone do somethingとかなんとかと書けるだろう。それに対して受動態は、someone be done somethingとかなんとかだ。”do”に対して”be done”となっていることで、それは”do”とは違うという事が示されている。これが有標性だ。”do”が有標であり”be done”が無標であるとするか、”do”が無標であり”be done”が有標であるとするかは、どっちでもいい(情報的に考えるならば、有標としたことで情報が増えるようにする方が望ましい。つまり、出現確率が低いものを有標として扱うのが望ましい。だが有標/無標の区別は優劣を示すものではない)。違うことを示すのが有標性だからだ。

非常に大まかに言えば、文はこの修飾-被修飾と有標性で構築されている。

問題は、ロジックを表現するのは、概ね1つの文ではないということだ。2つ以上の文がどうしてそのように並ぶのか。大雑把に言えば、そこに ―「そこ」と言っても必ずしも見えないわけだが。接続詞などで部分的に表明されることもある― ロジックがある。まさに宇宙人のそこのところを人間が理解できるのか? あるいは人間のそこのところを宇宙人が理解できるのか?

そこのところを見てみたい。とても見てみたい。誤解が生じて、そのために宇宙人が惑星破壊爆弾を地球に落とすことになるとしても、とにかく見てみたい。