「8年め」に書いた「衝動」について
マインズ・アイ[新装版], D. R. ホフスタッター, D. C. デネット, TBSブリタニカ, 1992.
8年めにおいて、つぎのように書きました。
「彼らにはそういう事―知ること、考える事―に対する抑えられない衝動があるんだな。それらは全て彼らによるものだというのか?」
この「衝動」、結構昔からお気に入りなのですが、なんでお気に入りなのか分からなかったんです。先日、上記の「マインズ・アイ」を再読していたところ、「たぶん、これでだ」と思う箇所がありました。「第20章 神は道教徒か」のなかに、こういう箇所があります。
神: [略] たとえば、「義務」についてのわしの考え方は、何よりもウォルト・ホイットマンの考え方の中で雄弁に物語られておる。いわく、
私は義務としては何も与えはしない
他の者らが義務として与えるものを、私は生きる衝動として与える
「仕事と生き方」ではこんなことを書いときまいた。
それに対して、幼少時に自分が何をするのかが降ってくる人がいる。もちろん、具体的なものが降ってくるとは限らない。だが、降ってきたものから逃れられ ず、せいぜい降ってきたものをどう解釈し、その解釈の中のどれに惹かれるかを知るだけだ。これは、もはや呪いのようなものであると言ってもいいくらいだ。 その人の人生に自由はない。
私にとっての衝動とは、呪いのようなものであって、それは「神が『私は生きる衝動として与える』」と言っているものに近いように思えます。この衝動、あるいは呪いがないという状態を想像できないほどに。そういう衝動、あるいは呪いを持っていないという人を、実のところ想像できないほどに。
「退職したら」にある”SFの書き方”からの引用もそのあたりに関係した事柄です。
「呪い」という表現を使った理由とでも言えそうな事が、うっすらとでも伝わるでしょうか?
というかですね、マインズ・アイ[新装版]ですけど、表紙に目が描かれています。若いころ(新装版が出た頃)に読んだのですが、その絵の印象で(ついでに「大学の図書館のあのあたりに置いてあったなぁ」というのも思い出します)、原題が”Mind’s Eye”だとばっかり思っていました。ですが、”The Mind’s I”なんですよ。「解明される宗教」か「解明される意識」だったか忘れましたけど、”The Mind’s I”とか参考文献に書いてあるのに、別の本だと思ってましたよ。「どっかで似た感じのを読んだことあるなぁ」という気はしてたのに。目の絵で、印象がズレてました。(参考文献の読み方がおかしかったのかも。それか、翻訳の時期の問題なのかも。)
まぁ、そうやって気がついてみると、ホフスタッターとデネット先生とは、ある意味、長い付き合いだなと思いました。
で、思うのは、既に指摘されていた問題が、改めて指摘されたとしても意味があるほど、解決あるいは理解が進んでいない事が大きな問題だよなと感じます。
今の流れをデネット先生とかどう思うんだろ? 逃げてると言われるかもしれないし、「それこそがそれだ」と言われるかもしれない。