疑え

知性定理においては、知性をなす事柄による構造は位相的構造、あるいは位相変換(これは構造主義でまじにある言葉です)によって、様々な知的存在における知性をなす構造を対応付けられるという設定を用いています。では、菌と人間で、そのような位相変換が可能でしょうか? 可能かもしれません。では、菌と人間に大きな違いはないのでしょうか

まぁ知性とか、知性に見られる構造とか考えると面倒です。ただし、そういう位相変換が不可能ではないことは想定できると思います。では、やはり大きな違いはないのでしょうか?

しかし、菌と人間の間のどこにあるのかは知りませんが、違いがあることも否定しがたい考えです。よく、人間はメタ道具を作ると言われます。では細菌は作るでしょうか? もしかしたら環境の変化を誘引する物質を出し、それにより好ましい物質を周囲に呼び寄せるとか作り出すとか、そういうことはあるかもしれません。でも、細菌と人間がまったく同じということもなさそうに思えます。少なくとも、知覚は違うと思います。知覚が違えば、他の部分にも違いがあってもおかしくないと思います。

その違いとは何か? おそらくその一つは「疑うこと」でしょう。そこで、人間が持つ特権の一つは「疑う」能力だとしましょう。人間以外の動物も持っているのだろうとは思いますが、どこで区切れるのか分からないので、ここでは人間の特権としておきます。実際にはシグモイド関数みたいになっているのかも知れませんが。あるいはカタストロフィー曲線(その一例はこちらの図4を見てください)。左から右に(あるいは逆に)進んでいくと、ある点で跳躍が起きるようなものです。

ですが、社会や組織においては、疑う能力は脅威になります。例えばソビエトにおいて、「社会主義・共産主義は実際どうなのだろう?」と疑った人はどうなったでしょうか。中国の文化大革命で、「知識層を糾弾することは、社会にどういう影響をおよぼすだろう」と疑った人はどうなったでしょうか? まぁ疑うということは極めて危険な能力です。

そこで、為政者にかぎらず行なう方法は、疑うことを禁止することです。これは現在においても同じことです。法律、規則、ルールなどを神聖化することにより、疑うことを(明示的ではないにせよ)禁止するという方法です。そして疑わないことを美徳とすることです。

さて、そういう禁止を受け入れるということはどういうことでしょうか? 善き人間になるということだと言えるでしょう。ソビエトでも中国でも、善き人が弾圧していたわけです。言い換えれば、外部プログラムに依存することが善き人である条件だとも言えるでしょう。これは宗教やカルトやその手のセミナーでも同じです。

そういう―規模はどうあれ―集団において善き人になるには、疑ってはいけません。ですが、それは人間の特権である疑うという能力を放棄することを意味しています。組織・社会において善き人であろうとしている人は、自分の知性を放棄し、外部プログラムに従うことを是としているように思います。外部プログラムに従う事こそがが、そういう人たちにとっての知性の証なのかもしれません。あるいは文明人であることの証なのかもしれません。知性を放棄して人間であると言えるのであれば、そういう言い方も可能でしょう。しかしここではそうではないという立場を取っています。観察の結果ですが、そういう人たちよりもフェレットの方が賢いと思えます。


ちょっとフェレットについて書いておきます。フェレットが流しに登れるようになりました。棚の段を登れは行けるだろうと思っていただろうは思います。これだけでも凄い。その上、段を登る時に背中を壁に預けて、上の段に前足をかけ、そこからウンショと上の段に登ります。これ、環境の脳内へのモデリング、プランニング、そして脳内でのシミュレーションが行なわれていると思います。こんなことをやっている人間がどれほどいるでしょうあ?


閑話休題。

そこで、人間たらんとするならばどうしたらいいのかの答えも出てきます。つまり、疑うことです。疑わないのであれば、人間であることを放棄していると言えるでしょう。

疑え、疑え、疑え。それが人間であることを証明する、あるいは確認する、もしかしたらたった一つの方法です。それを手放したら、人間―あるいはヒト、つまりは一定の知性も持った存在―ではなくなります。

ただし、疑うには一定の知性が必要です。一定の知性を持たずに疑っても、マヌケな結論に飛びつくだけです。例は挙げるまでもないでしょう。そう考えると、疑うとはかなり高度な知的能力なのかもしれません。そのラインに達していない人間は一体何者なのでしょうか? おそらくここでどうにかして一線を引く必要があるのかもしれません。これはこれで結構危険な考えではあります。

もちろん、このStoryも疑ってください。


さて、私のStoryでは、どれを見ても、「べき」(「~するべき」とか、そういうのに類する言葉。まぁこれはこのてのことについての自分ルールの一つです)という言葉を極力避けていることにお気づきの方がおられるかもしれません。

その理由はこの記事で書いたとおりです。「べき」という言葉は、疑うことを禁止します(少なくとも私はそう感じます)。「べき」と言う側も、実は「べき」という言葉にしばられ、考えることを放棄し、その人が「べき」といったことに対しての疑問など受付もしないからです(少なくとも私はそう感じます)。

「べき」という言葉に限りませんが、それは人間が持っていると前提される知性への冒涜です。知性を放棄させ、善き人たらんとさせるには逆に便利な言葉です。

言葉狩りをするつもりはありませんが、私自身にそういう制約を課すことは、このStoryで書いたような事を私に意識させる簡単な方法なので。なので他の人にそういう制限を課す意図はありません。あくまで自分ルールです。


補:小説家になろうにても、知性定理と構造主義あたりについて書きました。

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