SFについての良い論考
「宇宙SF」の現在――あるいはそのようなジャンルが今日果たして成立しうるのかどうか、について : 稲葉振一郎 / 社会哲学
良い論考です。
宇宙SF(宇宙を舞台としたSF)が衰退したのはなぜかと論考しています。大雑把にはこんな感じかと。
- SETIなどの観測における否定的状況(なぜか知性体の手がかりが見当たらない)
- 物理学の発展がもたらした技術的限界という展望(超光速航行の困難さ(不可能かどうかはまだまだ分からないと信じたい)、そして宇宙のあまりの広さ)
- 異星以外の異世界というものの認識
ただ、どうしても最後に述べる疑問に私は行き着いてしまいます。
細かい所で気になる点がないわけでもありません。レンズマンを持ちだしていますが、果たしてそれが適切なのかどうか。レンズマンがというわけではありませんが、「それを宇宙を舞台にしてやる理由があるの?」と言われてしまうと困るという作品があることも確かです。
また、記事を読んでもらうだけでもわかると思いますが、通時的に見ても共時的に見てもSFはパラダイムに結構断絶があるジャンルです。大雑把には、「SFってどんなジャンルかを定義しろ」と言われると非常に困るという感じです。
もちろん、かつては宇宙がよく描かれており、今は少なくとも割合としては減っていると思います。ですが、実のところそこは問題ではないと思います。必要性、可能性という話でもないと思います。重要なのはパラダイム、あるいは舞台を開拓し続けているという事ではないのかと思います。開拓し続けているといっても、新しい場所が開拓されたら元の場所を捨てるわけではありません。開拓され、受け継がれ、何か面白いことがあれば再度訪れることができる所がある。それが重要なのだと思います。
さらに言えば、SFが他の文学と異なる点として、「誰かが開拓した場所を、他の人も利用するのが普通」という点があります。サイバーパンクは誰かに特有の世界、あるいはパラダイムではありません。トールキンのミドルアース、ル=グウィンのアースシーを、他の作者が書くことができるでしょうか(狭義のファンタジーの内部がどうなっているかという話になりますので、ここはちょっと書き方が難しいところですが)? 出来ないとは言いませんが、それなりの違和感があると思います。あるいは、クトゥルフ神話と比べることもできるでしょう。クトゥルフ神話はラヴクラフト以外にも多くの作家が使っています。ですが、それはSFと同じ状況でしょうか? 言い切るのは若干ためらいますが、違うように思います。例えて言うなら、SFはその中に、狭義のファンタジーやクトゥルフ神話という舞台を作り続けているようなものかもしれません。
ですから、SFが宇宙を捨てない限り、あるいは失わない限り、「宇宙SF」という視点で作品の多寡を見ることが果たして妥当なのかという疑問が生まれてしまうのです。現実の限界という話なのか、SFの限界という話なのか、それとも読者が望むものかという話なのかが、この記事では混同されているように思うのです。あと、単純な話として、舞台の数が増えれば、何らかの流行りがなければある特定の舞台が占める割合は当然減るだろうとも思います。
ですが、面白い論考です。