#4–2 : チリ / イースター島(番外編)
長らく温めて(≒サボって)いましたが、再開します!
イースター島では、Exploraのツアーで地元の学者から話を聞きながら島中を歩きます。よく歩いたな・・・(たまに洞窟とか行きます)。その時に聞いた話をまとめました。
イースター島といえばモアイ。その謎に包まれた存在は、色々な人たちの色々な研究をもってしてもまだ解明されていません。
私も行くまで勘違いしていたのですが、島にあるモアイ像は実はほとんどが内陸を向いています。モアイ像の役割は、村を見守る存在と言われており、その目(モアイ像には目が入っているんです)が届くところまでが村の範囲とされているとのこと。
また、台座(Ahu)から人骨が多数発見されていて、村の有力者の墓碑だったのではという説もあります。
初期のモアイは実は小さく、後期になる程大きくなっていったそうです。有力者の墓標であるならば、同時に権力の象徴にもなるため、後期になると部族間抗争に巻き込まれて行きます。
イースター島は1722年にオランダ人のヤコブ・ロッヘフェーンが初めてたどり着いたとされていますが、その時には部族間抗争で多くのモアイ像が倒されていたと言われています。その52年後(!)、1774年にジェームズ・クックが島を訪れた時にはほとんどが倒されていたそうです。
実は部族間抗争という説と、もう一つ、守り神であるはずなのに守ってくれないことにがっかりして自分たちで壊した、という説もあるそうです。なぜ「あるそうです」と説明するのか聞いてみると、実は何も“残っていないから”という答えが。なので多くの言い伝えと、推測と、近代の分析で話が成り立っているということ。
さて、よくガイドブックなどに載っている“モアイ像のイメージ図”が、ラノ・ララクと呼ばれる場所です。
ここは、モアイの製造所と呼ばれています。また、島の中でもここにある凝灰岩でしか作られていないことがわかっています。つまり、ここで造られて島のあちこちに運ばれたということ。ただ、大きさは3.5m、重量20トン程度のものが多く、大きいものでは90トンのものもあるモアイを“どう運んだのか”は謎のままです。歩いた、という説もあるんですよ(!)ちなみに、島のあちこちに行き倒れたモアイを発見することができます。運びきれず損傷したため、放置されているとのこと。
そして、このラノ・ララクはタブーエリアでもあったそうです。限られた人しか入ることができず、だからこそ様々なことが謎に包まれています。ここでは造りかけのモアイをみることもできます。
このモアイは島最大級のもの。山の斜面から切り出していって、背中まで掘り切って斜面を滑らせて下に下ろすとの説が有力だそうです。
中が柔らかいため、切り出して半年ほど置いて硬化させるということもやっていたそう。
島全体には900体、このラノ・ララクには400体ほどあると言われていますが、なぜここに多くのモアイ像が残っているかも様々な説があります。
有力なのは何らかのミス(掘りかた、または頼んだ人が気に食わなかったなど)、素材的な問題という製造上の問題。あとは、そのうちの何体かはマスターカーバーの骨がある、彼らのお墓でもあるという説もありました。
基本的に立っているのがモアイ像ですが、ここラノ・ララクでは正座をしているモアイ像もありました。
他にも島内には様々なモアイがあります。例えば、唯一島の外を向いているモアイがあるアフ・アキビ。イースター島に初めに渡った7人の使者とも言われ、彼らの故郷を向いているのだとか。また、50トン近いモアイ、15体が並ぶアフ・トンガリキは圧巻です。
思い出して書いていて、対峙した時の圧巻な感じを思い出しました。本当に不思議な土地、というのが素直な感想です。日本からは遠いですが、おすすめの地でもあります!