想像の吉祥寺における冒険

azusa yamamoto
limelight
Published in
3 min readAug 30, 2017

10代の終わりから20代にかけて、10年近く中央線沿線で暮らしたけれど、吉祥寺の街に住むことは一度もなかった。いちばん近い繁華街ではあったものの、連れ立って繰り出すような友人はいなかったし、ショッピングを楽しんだり家族連れで賑わう公園を散歩したりする趣味もなかったので、そう頻繁に訪れたわけでもない。そのせいか、わたしにとって吉祥寺はどこか実体の知れないところがある。

それでもわたしがこの街を特別に感じるのは、大学時代に友人が住んでいたことに端を発する。土地そのものに思い出はないが、彼女のアパートにはよく遊びに行った。

『動物たち』(白泉社)を読んでいると、そこでした数々の悪だくみを思い出す。

この本に収められているのは、日常に潜むささやかな不可思議をテーマにした短編漫画と著者の日記。荒唐無稽、だけれど世界のどこかにはきっとこんな秘密が隠れてるのだろうと思わせる物語が、読む者の想像力をそれはそれはあまりにも軽やかに飛び越えて展開していく。

こんな風に世界を感じ、生きていきたいと当時のわたしは思っていた(たぶん今もそう思っている)。つまらない世間を尻目に、この本にあるようなワクワクする冒険をわたしたちはいつでもはじめることができる。そんな予感が吉祥寺の街にはあった。そうやって作り上げた想像の吉祥寺が、わたしにとっての吉祥寺だ。

大学を卒業し就職をして、その友人とは住む場所もバラバラになり、わたしたちの吉祥寺における冒険はあっけなく終わった。実際そのときにたくらんだことたちは、ほとんど実現しなかった。そして、客観的な事実のない思い出ばかりが残った。

その後、思いがけず吉祥寺界隈の人たちと付き合うようになり、わたしの想像の吉祥寺は成長を再開した。通なお店を知っているわけじゃない、そこで重大な出来事があったわけでもない、それでもわたしが吉祥寺を「自分の街」だと思えるのは、彼らのおかげであるように思う。

中央線沿線の土地を離れ、仕事を変えて、人付き合いも変化してきた今では、吉祥寺は随分と遠い場所になってしまった。だけどこれらの自由奔放な物語を読むときに、確かにその瞬間自分自身が吉祥寺で生きているような錯覚に陥る。吉祥寺ーーその実体のなさゆえに、冒険の舞台はいつでもここだと思えてしかたがないのだ。

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