「枠」は「枠」に過ぎない、という考え
だからもう正しさで悩まない。

しばらく前に流行ったアドラー心理学。ベストセラーとなった「幸せの勇気」に書かれていた、宗教と哲学の違いについて考えてみました。
アドラーは、二者の違いは、分かりやすく言えば「物語があるかどうか」だと言います。
宗教は神を主人公としてすべての世界を説明する。神が絶対で正しいと疑わず、学びや思考を止めてしまった時に、それは「宗教」になる、と。
なるほど、と納得してしまいました。
確かに、クリスチャンとして生きる、ということは、何かの物語の中に生きている感覚があります。実際に、日常の事柄すべてが神様によって意味づけされますし、イエスの贖い、救いを信じると、それまで住んでいた世界と、住む場所が変わるような感覚もあります。人格が変わる、というよりは、住む場所—生きる場所が一気に変わるかのような感覚です。
たとえば、その「住む場所」を一つ「国」と表現するのなら、人はそれぞれ、何かしらの見えない「国」を選び、生きている、ともいえる気がします。ある国は、〇〇教、と呼ばれ、ある国は〇〇主義、ある国は〇〇学という呼ばれるかもしれません。哲学も、然り。
所詮、私たちは、この肉体なしに生きることができないことからも明らかなように、何かに依拠しないと生きていけない存在です。
目という枠に頼って世界を捉え、脳という枠に頼って世界を解釈し、言葉という枠に頼って世界を表現している。
それと同じように「生き方」も、あくまで「国」という土地枠の中で創り上げられているだけなのではないか、と思うのです。
そう思った時に、クリスチャンという枠の中で生きることが、楽になりました。
当たり前のことですが、キリスト教それ自体は、真理を捉えようとしている「枠」に過ぎない。それ自体が真理ではない。これは信仰と矛盾しません。聖書を信じるなら、イエスという存在そのものが、真理だということがわかります。イエスは、この世界に存在するすべての構成物のコード「ロゴス」なのです。
人は完璧ではない。枠も完璧ではない。表出しているものはすべてが不完全で何かが足りなくて、歪んでいる。
だけど、そんな世の中で、完全な何かが存在してると私は聞いた。
私はそれを神とか福音と呼ぶし、ある人はそれを、愛とか希望と呼ぶ。
それでいいかな、と。
真理を探究するのでなく、定義するのでもなく、真理と寄り添い、共に生きる。それが、私にとっては自由で、幸せなことだな、と今は思います。
そうすれば、この国こそが正しいと争う必要も、正しさを押し付ける必要もなく、全ての枠組みの背後にある、もっともっと大きなものに身を委ねることができる気がするのです。

「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです」コロサイ信徒への手紙
1:15-16

