生き方全体に安定を欠く人

本当に、それを信じているか

Rachel
BE A FREE SPIRIT in JESUS
4 min readFeb 14, 2017

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「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」(ヤコブ1:6–8)

今日は、仕事をしながら「生き方全体に安定を欠く人」という聖書の言葉が思い浮かびました。一瞬手が止まりました。私の心をそのまま表しているように思えたからです。

「引き寄せの法則」というものがあります。別名、宇宙の法則です。昔から、多くの成功者たちがこの法則を知って思い通りの人生を歩んだということで、8年ほど前、一躍注目を集めました。たとえば、ガンディーは
人間はその人の思考の産物にすぎない。 人は思っている通りになる。
A man is but the product of his thoughts. What he thinks, he becomes.」
と語っていますが、人間が持つ「信念」や「思考」が、人生に大きな影響を及ぼすのは、間違いありません。

個人的には、引き寄せの法則をはじめとした、世の中にあふれている成功法則などは、聖書に書かれていることが多いなと感じています。ただ、ほとんどすべてのものにおいて、その中から「神様の愛」の部分だけがすっぽりと抜けているのは悲しく感じますが・・・
いずれにしても、この御言葉にあるとおり、信じる心がない者、つまり疑う者は、生き方全体においても中途半端になって、何も手に入れることができなくなってしまうのでしょう。

では、疑う、というのはどういうことか?

疑うという言葉を聞くと、消極的な姿を想像しますが、たとえば、自分の力で必死で何かをやらなければ、と積極的に動いているときはどうでしょう。心の根本を探ってみると、そこには一種の疑いが入っているのではないかと思います。なぜなら、信じる心は、余裕を生み出すからです。
今、自分がやっていることが、本当に使命感に基づいていて、あるいは、心の奥底から望んでいることで、同時にそれが成し遂げられるという確信があるならば、焦ることなんて全くないはずだからです。

あれをしなければ、これをしなければ。あれがほしい、これがほしい、と焦っているときには、間違いなく視野が狭くなって、疑い深くなっているように思います。そして、自分の思考によって、自分を完全に不自由にしています。がんじがらめです。

そうではなく、もっと大きな感覚 — 自分はこの宇宙に受容されているんだ、という心から湧き上がってくる感覚—に意識を集中すれば、自分の存在そのものがとても自由になります。考えてみれば、私たちをあまりにも愛した故に、自分の命さえ惜しみなく与えてくださったイエスのことを思えば、何も、心配しなくて良いはず。焦る必要などないはず。
神様は、良い方で、私たちに何が必要かも知っているのだから。
この宇宙のすべてを所有しており、何一つ欠けたところのない、完全な神が、私たちと共にいて、しかも惜しみなく与えてくださるのだから。

先週、教会で聞いたメッセージも、「 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイによる福音書 7章7~8節)」でした。

頑張ることは、良いことだと思います。日本人は頑張り屋さんが多いし、私も例にもれず頑張り屋さんです。笑

でも、もしそれが何かに到達するためだったり、今の自分を否定することからくるエネルギーなのであれば、きっと考え直したほうがいいですね。そうする必要は全くないはずです。

そうではなく、ただ、感激と感謝で。喜びと平安で。使命感と信仰をもって自分の道を走り通せたらいいなと思います。

間違いなく神様は、生きている間、すべてを備えてくださり、命を全うした後は、天国で両手を広げて待っていてくださると思います。

GOD BLESS YOU

「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」
マタイ7章

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Rachel
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“書くこと”がスキ。”新しい世界を見ること”がスキ。イエスを信じ、神を愛する立ち位置から「信仰とは何か」という究極の問いを投げかけるWEBメディアを運営中。