gkmr
まとまらない話
3 min readDec 1, 2016

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子どもさんの立場を想像してみると、〈親御さんから提示された選択肢のなかから選ぶ〉というチョイスのほかにも、〈選択肢を自分で作ってそこから選ぶ〉というチョイスもありえますし、〈今は何らチョイスをしない〉という身の振り方も本来ありえてよいとも思うものです。

これは「選択の仕方を選択する」ということですから、「紅茶かコーヒーか」とか「スキーか読書か将棋か」といったように同列の選択肢からチョイスするのとは違う種類の選択だと思います。そしてしばしば、人生にはこれがないですね。選択の仕方を選ぶ自由がない。

もっと深刻なのは、「選択しない」というあり方を続けられないことです。これは切ない。「選択」ということをするためには、自分の意思を決めて、選んだ結果を自分に課すという主体として生きることが必要になるわけですが、そもそもそういうあり方の主体になることを我々はほとんど当然のように強いられていて、「僕は〈選択主体〉にはなりません」という拒絶を選ぶことは非常に難しい。このレベルまで下りてみると、選択の自由というのは実は殆どなくて、否応なく決められてしまっている舞台の上で我々は生きていかざるを得ないんじゃないか、それって受け入れないといけないのかなあ、しんどいなあ、と尻込みしても不思議ではないですね。そう思います。

こういう舞台の中に投げ込まれていることを感じ取ったうえで、それを引き受けるには度量が要ります。なぜかといえば、人生の中で〈選択の主体〉として色々な選択を迫られるのは、単に事実として「この舞台」がそうなっているからそうせざるを得ないだけであって、価値的に尊いことだと決まっているわけではないからでしょう。「事実であるものは全て尊い」という立場はあり得ますが、事実から価値へのこの跳躍を誰もがすんなり跳べるわけでもない。跳ぶためには誰かが力を貸さなければならず、「跳ばせてくれた」・「跳ばせてあげた」ことによって初めて、共に価値を創りうる地盤ができる。「先人」というのはただ先に生まれただけではなくて、そういう人であるべきだと思います。

先ごろ、原発事故によって数年前に横浜市へ避難してきた中学生の手記が公表され、そのなかで彼は「しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」と述べています。この「いきるときめ」るという跳躍を彼に跳ばせたものが何であったのかは分かりませんが、彼の跳躍に敬意を注ぐ一人であり続けたいものです。

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