「先見の明」と新しさ

gkmr
まとまらない話
3 min readDec 30, 2016

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先見の明が重要視されるネットの世界で、今読んでもらえるものを書いても仕方ないのかもしれない、と。

ある人が「先見の明」になるとき、そのなり方にはたぶん二種類あって、1つは「ありそうな未来像を描いて賛同されること」、もう1つは「実際に実現した事柄を過去に予言していたということが発見されること」だと思います。前者のなり方の場合は、「先見の明の人」に〈今、なる〉。後者の場合は「先見の明の人」だったことに〈後から、なる〉。

興味深いのは後者のほうで、「あの人には先見の明があった」という評価そのものは〈後から〉生まれたにもかかわらず、その評価は遡って適用されていることになります――「我々が評価するよりも前から、あの人には先見の明があったのだ」と。ただし、ある人が予言なり願望した「未来の出来事」が本当に実現するかどうかは、当人のコントロール下にはありませんから、実現しないこともありうるので、「先見の明の人」に〈後から、なる〉という後者のなり方のほうが、前者よりも賭けっぽく見えます(良し悪しではなく、性質として)。

一番いいのは、書いてから1年とか2年とか経ってバズる記事ではないでしょうか。

(中略)

“キモズム” の側へ行くためには、こういう努力が必要なんじゃないかなあ。

新しい機器は一般に普及する前は「キモく」見え、普及すると「格好いいもの」と言われるという評価の転換点を「キモズム」というそうです。これを上述の「前者/後者」にあてはめてみると、新しい機器が「もともとキモくなかったということに、後からなる」という評価のされ方のほうが、実現のハードルがやはり高そうに思えます。前者なら「機器ができあがったその時点で、べつにキモくない」わけですから。

そして、「新しい」という評価そのものも、「先見の明」の後者と同じように「新しかったということに、後からなる」という成立の仕方をしているかもしれません。もしそうだとすると、「新しい」と言ってもらえなかった新顔たちは、ただ「へんなもの」として忘れられていったのかも、と思います。

先見の明が重要視されるネットの世界で、今読んでもらえるものを書いても仕方ないのかもしれない、と。

「先見の明」であることを目指す文脈の下で〈今だけ読まれる〉ものを書くのみだと、たしかに後者のように「もともと先見の明があったことに、後からなる」というなり方を獲得しづらいと思います。私自身は、どちらかといえばいつ読んでもうなずけるようなことを書き残しておいて、それが読み手に「先見の明」をももたらす文章として自立してほしいと思っているところです。これは書き手として強欲が過ぎるかもしれませんが。

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