旅と思考を往還する死なない旅行記――メレ山メレ子『メメントモリ・ジャーニー』

メレ山メレ子さんの『メメントモリ・ジャーニー』(亜紀書房、2016年)を読んだ。

gkmr
まとまらない話
6 min readDec 25, 2016

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「旅と死についてのエッセイ」であると冒頭で述べられているが、本全体では「人生についてのエッセイ」といってもいい内容だ。とはいえいわゆる人生論の凡百な本と明確に違うのは、夢や目標が叶えば幸せになるという構えがないことで、著者が旅で発見したり達成することも「道しるべ」、「駅の発車案内板」(21頁)くらいの暫定的な位置を占めるにとどまる。その抑制にリアリティがある。

「生きている限りは続く面倒くささ」(34頁)と著者が書いているのは、そういった暫定解がどれも最終的な解決にならないということを引き受けているからだろう。「面倒くささ」の源の最たるものとして著者は「自意識」を挙げているが(33頁)、人生の美しい瞬間を記憶に留めておいて辛いときには思い出そうといったようなこと(16頁)も自意識無しにはできないだろうから、自意識の重みを脱するために自意識自身を跳躍させるとでもいうような辛い構造が人生にはあるもんだよなあ、と他人事とは思えなかった。

本書の中盤は、著者がアフリカのガーナに渡って自分の棺桶を作る「ガーナ棺桶紀行」となっている。この棺桶の、著者にとっての意味というのは幾つかあるのだが、その1つはこのような自意識と他人の視線との関係性にかかわっている(詳しくは本書を読んで頂ければ分かると思う。特に127-128頁などに詳しい)。他人からどう見てほしいか、というところに誰しも自意識のシリアスさが露出するのだけど、「こういう人として自分を見てほしい」という要請のシリアスさを脱臼させるのが著者の選んだ棺桶のモチーフ(ポテトチップスとその原料としてのジャガイモ)なのだな。全体的なガーナテイストも相まってか、このモチーフははっきりと「ゆるい」し、形として面白いので、自意識のシリアスさを脱臼させるギャグとしてこのデザインが効いている。これがもっと「真面目」な、いかにも棺桶らしいデザインであったなら、見る側も笑っていられなかっただろう。とはいえこのような「笑える」意匠で自意識のシリアスネスを脱臼させることが半ば必然であるとしたら、そのこと自体は、やはりシリアスな風味があるものだ。著者はそれを明示的に書いてはいないが、当然気づいておられると思う。私もこれは他人事とは思えないし、著者の棺桶製作を単にぶっ飛んだパフォーマンスとして愉しんで見るだけという読み方は浅いだろう。

自身の棺桶のデザインについて、「意味のない人生には、意味のない棺桶がお似合いだ」と著者は述べているが(159頁)、この棺桶デザインには上述のような意味があると読めるし、「意味のない人生」とはいっても著者は人生そのものを幸福に生きること自体が人生の意味であるということを全く否定していないだろう。好きなものを通じて他者と繋がること(第10章など)も自意識の重さを脱する跳躍のようなもので、それはこの棺桶デザインの「ゆるさ」とはまた違うかたちでの、自意識や人生との付き合い方であろうと思う。

著者は昆虫や生物を好きだそうだが、棺桶のモチーフに昆虫や生物が選ばれなかったのは、好きな対象は変わる可能性があるからで、対象物よりも「人生との向き合い方」を会得することのほうが本質的に大事なのだ、というメタメッセージを私は読んだ。人生そのものの面倒くささを引き受けるその引き受け方も人それぞれの個性があるが、著者の引き受け方をこの本のように明るく・真面目に・面白く開示して下さることで、この本は「自分の幸せは自分の幸せであって他の誰のためでもない」(6頁)という明るい信号花火(21頁)として読者のところに届いていると思う。この本じたいが、著者が「面倒くささ」の源と名指ししている自意識というものの美しい跳躍の形なのだ。ともかく面白くかつ身につまされるところの沢山ある本なので気になったかたは読んでみてほしい。「旅と死についてのエッセイ」とはいっても、出来事の印象や思いを単に叙述しただけでは、この本のような洞察に満ちた旅行記は生まれないだろう。著者は各章の旅を振り返って執筆することによって、新しいことを次々に発見している。それはもしかすると旅の最中にはまだ明確になっていなくて、旅行記を書くことで初めて著者の心と言葉に形を得た洞察であるのかもしれない。その意味で、書くこともまた旅であることがよく分かる。最後に、その一つを第7章から引用させて頂こう(100-101頁)。

何か大きな決意を、旅先でしたくなる気持ちも分かる(知らない人を立ち会わせるのは、できればやめてほしいけれど)。いろんなことでどん詰まりになる気持ちも、それを旅や住みかを変えることで晴らしたくなる思いも、よく分かる。

わたしにとって旅行はただの移動であり気晴らしだ。自分がホームで抱えている問題がアウェイで解決することなんてない。と、ずっと自分を戒めてきたし今もそう思っている。どこにいても不安だったあのころよりも、わたしがわたしのままで楽しくやれる場所は確実に増えている。それは、とても幸せなことだ。

しかし、数年前のようなただの暗中模索ではなくて、いろんなことに目鼻がついてきた今ならではの不安もある。気持ちを投げ捨てに行くのではなく、不安から逃げ出すためではなく、自分が自分のままで生きていられる場所を探すための冷静な移動があるとすれば、それはどんなものになるだろう。

そういう場所を守っていくこと、そして駄目だと思ったら潔く次に飛び移ることは、生涯を通じてサボるわけにはいかない。奈良のあのおばあさんとわたしの人生は、ずいぶん違うものになるだろうけれど、あのおばあさんみたいに自分が年を取ったとき、ふと出会った人に思わず人生の報告をしてしまうような、勝ち鬨の瞬間がいくつかあれば面白いなと思う。

「気持ちを投げ捨てに行くのではなく、不安から逃げ出すためではなく、自分が自分のままで生きていられる場所を探すための冷静な移動があるとすれば、それはどんなものになるだろう」。このような洞察を含んだ問いは、旅と思考を往還しなければ得られないのではないだろうか。普遍的な洞察や問いは、言葉で形を与えられて世に出され、人に読まれることで死なないものになる。その意味でこの本は、「旅と死についてのエッセイ」でありながらも、読まれるたびに新鮮に生き返る「死なない旅行記」だと思う。

(※カバー画像は亜紀書房のウェブサイト「あき地」より引用。このカバーに描かれているものは各章の旅の内容と対応している)

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