音楽だから再提示できる、経済と社会の新しいあり方〜『WIRED』編集長・若林恵の独演会より

Kento Hasegawa
MEDIA BREAD
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36 min readFeb 14, 2016

2016年2月13日、雑誌『WIRED』編集長の若林恵さんによるトークイベント『若林恵の大独演会』の第二弾に参加してきました。

2月10日に発売された雑誌『WIRED』日本版Vol.21の特集は「音楽の学校」。

ヘッドフォンブランドのBeats by Dr.Dreを産み、Apple Musicの礎を築いたというジミー・アイオヴィンが2013年に始動させたのは、音楽の未来を救うための新しい学校「Jimmy Iovine and Andre Young Academy」でした。

この学校の取り組みを筆頭に、アデルやエイミー・ワインハウスを輩出したイギリスの音楽学校「THE BRIT SCHOOL」の取材、オーディオ・スタートアップのガジェット6選、アビーロード・スタジオが初めたインキュベーション機能、東京の音楽を進化させる3つのレコーディング・スタジオ……など、これからの音楽にまつわるポイントを特集しています。

その特集を作りながら、若林恵編集長が何を考えていたのかを話したのが、この独演会『「音楽の学校」について語るときにぼくらが語ること』。

会場は前回と同じく東京・渋谷の「Red Bull Studios Tokyo Hall」。エナジードリンクで有名なRed Bull本社5階にあるホールです。

最新刊にまつわる話に加え、エディター募集の告知も行われた本公演。

僕は先にあった予定で遅刻したため、開始30分ほどまで間に合わなかったのですが、その後の2時間弱にわたるトークを聞き書きしてきました。SNSなどの投稿もOKとのことで(そして「前回みたいなのもまた!」とお墨付き?をいただいたので)、見出しをつけてまとめてました。

今回は2時間分のトークを全文下記に掲載します。前回は3分割にトピックをまとめていったのですが、全文で1記事だとさらに「独演感」が出るかなと。

また、本トークは雑誌『WIRED』日本版Vol.21、そして若林恵さんが発刊にあたってWIRED.jpで公開したメッセージの併読をオススメします。

音楽だけでなく、ビジネス、批評、コミュニティ作りまで、あらゆる分野への「これから」を考えるための言葉が満載。独演会の幕が開きます。

俺はアイオヴィンに拍手喝采をした

今回の『WIRED』VOL.21は「音楽の学校」を特集で始めていて、これはUS版の『WIRED』のカバーストーリーになって、大きな反響を呼んだものなんですね。それで日本でもやったほうがいいんじゃないかと。

展開されているのは割とシンプルな話です。音楽産業というブイブイいっていた業界は、テック側の人の論理と仕組みに抵抗できずに、ここ20年近くずるずると撤退を強いられてきた。その最中にカバーストーリーのキーパーソンであるジミー・アイオヴィンとドクター・ドレーはいるんですが、アイオヴィンがいいことを言ってるんです。

「テック企業はカルチャーの見地から見れば無能である」

俺は拍手喝采をしたわけです。たとえば僕なんて出版の、紙の編集の仕事をしてきた人間なので、テック側の人、ウェブの人たちと意見や言語が合わないところがあって、戦わないといけない局面が結構あったんです。

今もそうで、WIRED.jpはリニューアル中ですが、「こうしたほうがPVが上がります」という話が至るところに出てくると。それはそれでいいんだけど、それが目的化していくところがあり、技術論にいってしまう流れがあるんですよ。技術要件、テクニカルな話はどこかで押し止めないといけなくて。むしろ僕らから「なんのためにやってるんだっけ?」と話さないといけない局面が出てくる。

これをこう読ませたい、こういう感じに受け取ってほしいと考えるときに、PVを犠牲にする判断もある。もちろんPVを尊重することもある。大事なのは判断することで、判断がないままに作業だけが進んでいくと、そういうテクニカルなものと戦わないといけなくなる。

でも、テック側のロジックは「数字」なので、具体的でやたらと強い。紙の雑誌はそれほど具体的な数字と直面する機会はなく、数万部くらいだとそれほど意味を持たない。「推定でこの号は8万5千部売れたね」みたいな感じ。あ、これは『WIRED』の実売数とは関係ない数字です。

でも、PVで1万だと、次は1万1PVを目指さないといけなくて、後者が強く、「いやいや……」と言うのは辛いわけです。それをアイオヴィンが言ってくれた、彼が大きなところに出てきてくれたというのに僕は喜んだ。

カルチャー“まで”理解できる人材がいない

アイオヴィンの場合も、どっちが良い悪いではないけれど、「この状況がよろしくない」というのが彼の言い分で、学校を作る。簡単な話で「テクノロジーの人間とカルチャー・アートの人間が、お互いを知らないとね。それなら両方わかるやつを育てよう」という話です。

逆に言うと、今頃出てくる話なんだなということでもあるんですよ。テックがこれだけ進化し、カルチャーが衰退して、かつてあった産業よりも衰えていく中で、「両方知らないといい感じにならないなら育てないとまずくない?」というのが出てくるのも、アメリカでさえ今なんだと。

Beatsが自社のエンジニア採用のときに、その両方がわかる人間がいなくて、つまりBeatsの採用にこない=世界にもいないって話じゃないかって。これは大変なことだと。

関係ないかもですが、この前、Beatsのプロモーション担当の人が日本に来ていて、そこで話をする時間があって、面白かったんです。もともと日本の大手メーカーにいた人で……今はBeatsでスピーカーの開発やっていると。僕は翌日に、そのメーカーに行ってしゃべんなきゃいけなかったんで、よし、ディスってやろうと話を振ったら、Beatsの人は真面目な女性でちゃんと返してくれました。

「私がいたメーカーはエンジニアドリブンで、速く、小さく物が作られて推し進められていく。一方でBeatsは、今新しいヘッドフォンを開発しているけれど、ファレル(・ウィリアムス)と打ち合わせをしてきました。ファレルと、どういう音楽で、どういうエモーションを伝えたいかを詰めていて、そこに決定的な違いがある」

正直、ヘッドフォンとしてはどうかなと思う点もあるけれど、ファレルがこの音というから、合っているんですよ、きっとね。だから両方が必要なんですよね。ファレルの言うことを受け取る感受性と、それを表現できるだけの技術がないとだめじゃんと。

また余談ですが、僕が日本の老舗楽器メーカーに呼ばれて、若い人にも聞いてもらるようにって意見を求められて、ヘッドフォンをつくる人と会ったときに、この人たちは何の音楽を聞いてるんだろうと思って質問したんです。ヴァン・ヘイレンとか言うんですよ。いや、ヴァン・ヘイレンはいいですよ。でも、ヴァン・ヘイレンの設定でヘッドフォンつくっちゃだめじゃないですか。

「若い子をターゲットにするなら、ヴァン・ヘイレンじゃないほうがいいでしょう」というシンプルな話で。Betasが言っているのは、オーディオメーカーではなくカルチャーメーカー、ハードウェアより文化的なソフトウェアを作っているということで、それをみんなが認識しづらいのかもだけど、割と大きいことなのかなって。

そういう新しいカルチャーと、テクノロジーの橋渡しの人材を作るのはいいことだと僕は思うと。それは音楽に限らずで、去年になんで僕だったかわからないけど、「スタジオの未来を考える」というパネルに呼ばれて、ライゾマの齋藤精一さんや海外のシンクタンクに詳しい人たちと話したんですね。

今のスポーツやスタジオビジネスって複雑でステークホルダーも多い中で、これからはどうしたらいいんだろうってなった時に、もはや「野球バカ」みたいな人たちじゃできないと。実際のプレーヤーマネジメント、器具の開発、コミュニケーションインフラまで包括的に観られる人間がいないと設計ができない。

音楽も一緒で、そういう人材ですよね。カルチャーとテクノロジー……カルチャーはなんでもよくて、スポーツでも建築でもいいんですけど、そういう人材が必要じゃんということが、いたるところで出てくると。

そもそも持ってないといけないスキルと国数理社みたいなことじゃなくて、「何をやらなくちゃいけないのか」だと思うんです。今回、アイオヴィンとドレーがつくった学校のカリキュラムを載せているけど、画期的なことではなさそうだ、と。基礎課程、専門過程、それからやりたいことをやっていくと。カリキュラムの中だと、ベンチャーマネジメントは今っぽいな。

学校は「結局、受験ですね」と言った

じゃあ、今の「学校」を考えるとき必要になるものって、基礎教養は変わってくるんじゃないの、と。これをやっていく中で生まれるものもあるだろうし、実際にこういう形でカルチャーとテクノロジーを結びつけようという動きはいたるところで起きていて、ハッカソンみたいなプロジェクトをやったりしているわけでございます。

そこは推し進めていく話はありつつ、その話はその話として、ちゃんとやりましょうってことだろうと。でもひとつの問題……問題ではないけれど、このアイオヴィンとドレーの学校があって特集を作りましょうというときに、新しい学校、新しいスキルを持った人、新しいカリキュラムは押さえないといけないから、それを基本の軸として企画をいろいろ入れていくわけです。そこまではいいんですよ。

ここからは俺の話で、迷走し始めることが起きるんですけど、「そもそも学校ってなんだっけ」とか入ってきて、ややこしい。とにかくこの考えが頭に出てきて思い悩んで、この時期に会った人には「鬱なんですよ」と言うくらい。

鎌倉のファブラボが主催している教育関係者向けのイベントでモデレーションをやったんですが、「デジタルファブリケーションが教育にどう役立つか」という話で、いい感じの会だったなとは思いつつ、ある東京の高校で3Dプリンタを導入したりっていうデジタルファブリケーションをやっていてですね、エリック・シュミットに公演してもらうみたいな。いい学校なんですよ。でも、そこの高校2年生だったかな……プレゼンはよかったんですが、その後で先生が出てきて、この取り組みの成果で生徒数も増えてきてますなんて話もされて……だんだんムカついてきたと(笑)

日本の理系教育ってそもそもそんなにレベルが低くなかったし、デジタルファブリケーションやってますなんて言うけど、そのプレゼンした学生さんはそれがなくても東大行ってますみたいな人だと、「それってデジタルファブリケーションじゃなくてもいいじゃん」って思ったりするわけです。じゃあ、学校は何を持って評価するかを聞いたら「まぁ、受験ですね」と。僕も六大学は出てますが、結局受験なんだよなーって思いながら帰ってきたところがあって。今までのカリキュラムに新しいものが増えただけじゃんという気がしたんです。

そこについて、僕は冷水を浴びせる役なのでそれで帰ってきたんですが、デジタルファブリケーションではよく知られた慶応大学の田中浩也先生と話していたら、結局同じことを考えているんです。デジタルファブリケーションのスキルを身につければ受験戦争を逃れられたり、生きていく道を見つけたり、そういうのでプロモートしたかった。そのはずなのに、今は「とても趣味的な話」になるか、「金儲けの話」になるかで、メーカーズムーブメントもふわっとしてきていて、田中浩也先生もそう思うと。「何のためにやるんだ」っていうのがスポッと抜ける感じがあるんですよね。

「企業の価値創出」に欠けている大前提

僕はいろんな企業に呼ばれて話すことも多くてですね……でも、だいたいテーマ設定が雑なんですよ。2030年の未来とか、IOTとビッグデータとAIどれやりましょうとか……知らないよ!っていう(笑)

新しいテクノロジーの導入=新しい価値が生まれるって信じているんだなって、そういうのを通じて思ったんです。そうかもしれないけど、AIでもなんでもいいですけど、新しいマーケットは見つかるかもしれない。そのマーケットを見つけたいのはいいけど、新しい価値を見つけるのとはちょっと違う話だと思うわけですよね。

価値創出みたいなことを今時の企業はよく言うんですけど、仕組みを導入すれば価値が生まれると思っているフシが大きいなというのをすごい感じて、なんだかなと思うわけです。価値っていうものはさ、自分で決めるものだろって。

企業として、さっきのBeatsに転職したエンジニアの話でいうと、Beatsは音楽家と非常に近い距離で、よりその音楽に沿うものをつくるのが価値だと思ってやっている。一方で、転職前のメーカーはエンジニアドリブンが価値だからやる。それが行き詰まった時に新しい価値が欲しいんだろうけど、何が新しい価値かを考える気がないんですよ、彼らは。

学校なら、評価するときには受験が一番の価値軸となっているというのが、高校から大学、就職まで、同じヒエラルキーの中での生成になっていて、他にも価値をもっているのにそこに収斂されてしまっている。企業は自分たちで価値を定義できていないわけだから、採用するときにも基本的にいい大学を出て……みたいなことになっているのは、大きい問題だなって思うんです。

音楽レーベルを考えてみると、いろんなジャンルのレーベルがあって、それぞれは微妙に違うだけかもしれないけど、その違いっていうのは「価値軸の違いの表出」であると。それは正しいわけですよ。いまの世の中だと、どんな大企業でもそれが大事になっているのは、Appleが世の中を支配した後の世界に必要なんだろうと。松下幸之助の時代ではもうなくて、松下幸之助が大事にした価値ってなんだったかを決めないといけない、定義しないといけないんだろうなと。

ここで余談で、ちょっとまた呼ばれていった時の話をしますが、そこは「未来の街を造りました」みたいな設定のショールームだったんです。でも、やること見ることなんだかしっくりこなくて、ムカついて、案内してくれるおねえちゃんに食ってかかって、彼女はかわいそうと……。

で、寝室を見せられて「ご意見をください」という話だったんだけど、未来の寝室もしょうもないんだよ。鏡の前に経つと、自分の服の色が変わるというのだって、それしたって自分の服は現実に増えないわけよ。それが家にあってたって、なんだこれって。ひどくない? 何も体現しようとしていない。それは技術要件だけ並べて人の生活がそこに組み上がるという話で、そんなの絶対やめたほうが良いと。ただ、こういうものができました、というだけの話で。それはそれで構わないけれど、そういう人たちが2030年の未来なんて考えつくわけないんですよ。

日本に足りない2つの洞察と、未来をつなぐ1つの教育

それは大問題で、たとえばアイデアソンやハッカソンにもよく呼ばれるんですけど、それもクソミソけなして帰ってくるんですけど、ほぼほぼ出てくるのもクソで、まぁ構わないんですけど、そりゃ2時間とか3時間くらいじゃアイデアも何も出てこないだろうけど、僕の感じで言うと「人間への洞察」と「社会への洞察」が決定的に足りない感じがするんです。

カルチャーとテクノロジーをブリッジしないといけない時に、片やテクノロジー、片や身体があると。ただ、身体も光学的なテクノロジーであると見れば、機能をテクノロジーにつなげば「身体拡張」ですと。そのレイヤーはいいんですが、おそらく人間とテクノロジーの間には「社会」があって、そこは直接つながらないだろうと。

でっかいロボットを作っているある先生がいて、そのロボットは5mの高さに立って動かせるという。「これこそ人間の視野の拡張である」と言われたんだけど…………微妙!みたいな話なわけです。それはそれでいいんだけど、それシルク・ドゥ・ソレイユがやっているよなって話なんです。身体拡張なら飛行機から見える景色のほうがよっぽど拡張している。

そういう雑さが結構あって、テクノロジーで人が拡張されるというのは極めてエンジニアリングな発想です。そういうのが、僕が去年からずっと見てきた日本のイノベーション領域で起きていることだって思うわけ。

それで田中浩也さんの話に戻すと、テクノロジーをどう編成するか、どう社会に結びつけるかをもっと考えないとねって話で、そこにくるのは人文知ではないかと。僕も「そうだな」と。年末の僕の鬱期にこういうのを話して、いま必要なのはリベラルアーツじゃないのって他の人にも言われて、僕ら個人とその間のブリッジを考えないといけないんですけど、そのときに何が必要なのかをいろんな人がいろんな領域で考えていて、でもリベラルアーツ的なものが必要とみんな思っているらしいと。

シンプルにテクノロジーとアートをつないで、デザインシンキングに近いメソッドで人を育てましょうとなっても、日本では今話したみたいな現象が起きるだけかなと、おそらくですけど。アイオヴィンとドレーの話は、半分以上かな、お金儲けの話ではある。もちろんそれが目的の人ではないけれど、もう一度ちゃんと音楽をちゃんとお金にするというのには新しいスキルが必要でしょうという話だけど、根本にあるモチベーションでいうと、簡単にお金儲けしたい人が入って儲けられちゃうのにすり替わっていくのかと思うと、ビジネススクールの新しい形なのかとも思うんですよ。そうすると一般教養のところとすりあわあなくて、僕はもっと鬱になると。

なぜ、イギリスの名門音楽学校は「やさしさ」で選抜するのか?

僕はイギリスの「THE BRIT SCHOOL(ブリットスクール)」に前々から興味があって、アデルやエイミー・ワインハウス、キング・クルールなんかを輩出した学校です。僕が興味を持った時には、イギリスの対外輸出戦略としても大事な存在になっていて、なぜならアデルがもたらした外貨はすごいわけで。それで、ブリットスクールを紹介しようと、今回の特集で取材したわけです。

でも、ライターが持ち帰ってきた話は、「単なる良い音楽学校の話」ではなく、この学校が何を目的にやっているか、何を価値・評価とするかで、結局は「やさしさ」だって言うわけですよ。

「やさしさ」っていうのは学校に入学する人たちの選抜基準でもあって、ここは音楽業界と行政がバックアップしているから学費が無料なので普通よりも厳しいんだろうけど、音楽的技術が高い子はむしろ排除しますと。それよりも、やさしい子を採りますと、言っているわけです。

今、14歳から19歳の子たちが1200人くらい学んでいます。授業の編成のされ方は、アイオヴィンとドレーの学校とも比較的似ていて、プロジェクト・ベースド・ラーニング。違う専門の子がチームとして組まされ、スキルを高めつつ、コラボラティブに何かを実現していく。産業的にも実践的ではあるけれど、でもそこで何が重要かというと「人の話が聞けるようなやさしさ」なんだと。俺はコレ、すげーことだと思うわけです。

それって何かって言うと、テクノロジーなり何なりの身につけないといけないスキルは時代で変わってきていて、それって結局は経済と紐づくような「お金儲けができる優秀な人たちのためのカリキュラム」が変わってきているよねっていうふうな話……じゃない基軸、その真ん中に空洞になっていたことの価値を言っているんだなと感動した。

取材して帰ってきたライターに「でかした!」と。俺が聞きたかったのはそういうことだわさと。これで良い特集になるかもしれないなと確信を深めていったわけなんです。

「やさしい子を育てます」という価値は、今の時代の要請的にも、ビジネスは複雑化していて、チャンネルが増え、それに連れてステークホルダーが増え、マーケットは今までみたいに一元化して見えるものではなくてほぼカスタマイズに近い形で人を編成しないといけない、顧客も固定した個人ではなくて朝夜で動態が違う。そんな複雑な要件を整理するというか、アラインさせないといけなくなるのが、今の俺らの仕事なんですよね。そこでコラボラティブに働ける重要性が出てくるところがあって。どんな業界でもサバイバルということになっていくんだろうと。

それはそれでいいんですけど、なんか別の話として、「人にやさしくあれ」って教えることって、しかもすげぇ大っぴらに言われることって、あんまりないんじゃないかと。さっき言った欠けている人文知にも近い……あまりにも人文知というにはシンプルすぎる言葉ですが、人間の真ん中に、「人間は人間を何として価値とするか」の話をしないと、すべてが経済原理でしか価値を見いだせないことに僕は不満で、特集を作っていく中でも抵抗があった。

結局、人は人として何を価値とするんだというのを僕は突き止めたいのがあった中で、やさしさ、というのが出てきて、それはいいことだよねと思ったりしたわけです。

ほんとうの、勇気とやさしさとは

でも、それもふわっとした話じゃないですか。僕としてはそこも哲学として捉えられないかと考えていて、そのときにウェブで書いたんですが、たまたまAmazonで『ヒトラーに抵抗した人々』という本に出会い、そこに印象的なフレーズがあった。

いつでも人には親切にしなさい。
助けたり与えたりする必要のある人たちにそうすることが、人生でいちばん大事なことです。
だんだん自分が強くなり、楽しいこともどんどん増えてきて、いっぱい勉強するようになると、
それだけ人びとを助けることができるようになるのです。
これから頑張ってね、さようなら。お父さんより

さようならって言っているのは、彼は反ナチの市民グループのメンバーで、処刑される直前に11歳の娘に宛てた手紙だから。うまいんですよ、担当編集者がこのフレーズをAmazonとか至るところに使っていて……(笑)……それはさておき、「なぜ学ぶ」とかをぐちゃぐちゃ考えていた時にこのフレーズに出会い、本のサブタイトルには「反ナチ市民の勇気とは何か」とあって、僕は非常に、死ぬほど感銘を受けたんです。

そっかそっか、自分が幸せになるために勉強する、自分が幸せになるためにやさしくするわけじゃなくて、それをするほど人を助けられるからこそのやさしさみたいなものであり、それがあるからこそ、人を助けられるんだっていう、勇気というのはそういうものだって、自分の中でストンと腑に落ちた部分があって。

……大変だろう?雑誌作るのにこんなこと考えて……。

そういう経緯をたどって、このやさしさ、勇気に価値があって、それが教育というもの真ん中に据えられて良いんじゃないかということを特集を作りながらたどっていくことになったと。

これは特集とは関係なく考えているだけじゃなくて、企画自体は先にバッと立ててはいて、それこそ僕とスタッフの矢代、それからそこにいらっしゃる柳樂先生(柳樂光隆さん)と考えて、じゃあ都内のいくつかの音楽スタジオを取材したらどうですかねっていうのがあって、面白そうだねってことで、矢代が取材行ってて帰ってくる度に……ちょっと真似してみると「そこは学びの場なんですぅ〜!」って言うんです。

記事読んでもらうとわかると思うけど、音楽もみんなの知見を持ち寄っての共同作業の面があって、これは誰かが言っていると思うのだけど、誰かがハードルを上げると、その空間の中のハードルになって全体が上がる。そして、そのハードルはみんなを前にドライブしていく。誰かが新しいことをやる、ある種の勇気を投じると、それに感化されて、それが何かを前進させ、それがひとつのハードルになり、スタンダードがそこになっていく。次にはその地平から誰が勇気をもってさらに先に張る……という連鎖になっているのは、今回紹介している東京のスタジオがあるよねって。

それはなんだろう、やさしさ、勇気とうまく符合したっていうことがあるわけなんですよね。そういう考えを持ちながら特集ができていって、最後に「それがなんで音楽じゃないといけなかったか」と言うと、僕もあんまりよくわかっていないけれど、音楽でなければこういう話にはなっていなかっただろうなと。僕も取材を通していろんな発見をしていくのは対象が音楽だからじゃないか、というのが僕の巻頭言でもあるんですけど。

音楽はここからA′ではなくBへ進化する

結局、あらゆる物事の価値が経済に紐付いてしかいないみたいのが、それがどんどん進んでいる状況にあって、音楽っていうのはいちばんそこから先に抜けだした、経済から弾き飛ばされたみたいなところがあると思っていて。

僕もそう思っていたし、そのことは微妙だけど、産業としては衰退している、そこで元のように産業をもう一回発展させますという話として「音楽の未来」みたいなことを考えていたような気もするけれど、ちょっと違うなって気が今はしていて。

つまり、産業とか、そういうものがなくても音楽は「ある」だろうと。その中でそれをもう一回経済的に価値あるものに進化させていくほう “じゃない” 進化のありようもあり得るんじゃないか、世の中もそっちに進むのではと漠然と感じるようになっているわけあなんです。

ミュージシャンはこれから食えないからバイトして音楽やってくださいって話ではなく、お金の流通はちゃんとあった上で、別の有り様がおそらくなんかあるのかなって気がしているんですよね。音楽が商品であるという話からまずは離れていくことになるかなという気がしていて。

それがどういうものか僕は今のところ全然わからないですけど、今回の音楽特集をやってみてなんとなくわかったのは、今まであった産業をリブートさせるっていう話は音楽関係者ならやってほしいと思っているけど、そういうふうにはならんのだろうということなんですね。

音楽が再提示する、経済と社会のあり方

巻頭言にも書いたんですけど、年末年始にかけてカール・ポランニーという経済人類学の人の本を読んでいて、まぁ、その前段で言うとイヴァン・イリイチって哲学者/歴史家が僕はすごい好きで、その人の師匠ってわけではないですが、イリイチはポランニーに多くのことを学んだそうなんです。

ポランニーが言うには、俺はその通りだなと思うけど、昔は社会がちゃんとあって、その中に経済もあった。人間がやっている、あるいはコミュニティの活動にあっては、経済が果たす役割はそんなに全的なものでなかったりする。

たとえば、ある商品みたいなものって、それが交換されるところにおいては商品だけれど、そのもの自体に関して言うと、日本の文化史的に言うと、そこにはおそらく宗教的な意味があったり、文化的な意味があったりもするので、人間や社会が営む暮らしにおいて、あらゆるものはもちろん経済的コンテクストをもっているが、社会、文化、政治的なコンテクストも同時に持っているだろうと。

ポランニーが言うには、いろんなコンテンツが複合的にある社会から、産業革命以降に経済だけが浮き上がって、社会の中に経済があったのに、経済の中に社会が埋め込まれていると。ポランニーは「もう一度、経済を社会の中に組み戻す必要があるんじゃないか」と言うわけです。僕はそれがしっくり来るな、と。

音楽は経済から見放されたというか、そういう意味においては良いポジションを真っ先に得たのかも知れない。それは、もう一回社会というものにちゃんと戻されるという話なのかも。

完全に商品しかなかった音楽が、商品として成り立っているなんてほぼここ最近の話。でもずっと音楽はあって、ある種のよくわからない形でコミュニティや社会に流通してたいんでしょうと思うけど、そこに戻っていくようなことになるのであろうという気がするんですよね。

もう音楽が経済的な価値をあんまり持たずに、ポランニーの言い方でいくと、「社会にちゃんと返される」ということかなという気がしていて。社会の中で音楽が存在し、文化的にも、音楽家やそれにまつわるスタッフが食うための経済的コンテクストを失うことはないだろうけど、昔に音楽がそうであったような姿に、デジタル化した社会の中でもう一回戻っているのかなと気がするんです。

たぶん音楽に限らず、いろんなことでそれが起きる。

この20年、常に音楽が最初にそれに直面してきて、ソリューションや道筋を示す役割になったんでしょうが、新しい社会のあり方を提示していくんだろうと思っていて。そうなるといいなぁと特集をつくり終えて思っていると。

いま新しい学校といって、ブリットスクールを除いて、アイオヴィンとドレーの学校のように既存の音楽産業をリブートするという発想には価値はあると思っているけど、結果として何を生み出すかというと、さらに産業みたいなことを解体していくような人たちが増えていって、それはおそらく、僕もいいことなんだろうなって思うかなっていう。

今回の特集は僕にしては珍しく苦労して、ムカつくことが多くて、それに対して何かメッセージを出さないといけない時に真剣に考えないと行けなかった特集として辛くて、他の内容ならもうちょっと気楽にできたのかもしれないですけど、自分的にムキにならざるをえないというのは、今お話したみたいな経緯があったんでございます。あぁ、疲れた。

なんでちょっとわかりにくい特集になっちゃたので、売れない、と(笑)。なので、何冊も買ってもらえると嬉しいです。

質疑応答

──『クーリエ・ジャポン』が雑誌をやめて、デジタルの有料会員制サービスになるという。それについてどう思いますか。

別にその判断が良いか悪いかはわからないけど、僕らの感じで言うと、やぱり紙は面白いんですよ。コンビニに『WIRED』が置かれるというのは複雑なコンテクストがある。複雑な流通機構を通って置かれていることを受け手は意識しませんけれど、ものが社会に存在することがもつインパクトって、やっぱりなんかあるですよねって思うんです。

たとえば、簡単にいうと、あるウェブマガジンがローンチしましたと。でもそれは、紙の雑誌の新装刊が持つ社会的なインパクトとはちがうんです。たとえ部数から見てリーチする数が少なくても、「話題」になるんですよ、単純に。

(※長谷川注 おそらく、この「話題」はマス的な意味合いだけでなく、人々の口に上る意味も含んでいると思う)

それはあんまりうまく言えないけど、非常に強いものだなと思っている。それ自体でビジネスを成立させないようとしないかぎり、紙だけではしんどいけれど、使いようによっては非常にインパクトを出せるものかなと。だから僕らは紙があることがいいと思ってますね。

むしろ、紙のほうが制作費が安いってことも一方であるなとも思っていて。ウェブって毎日の更新が基本じゃないですか。人件費もエネルギーもかかし、立ち上げの仕組みづくりも結構ストレスだし、人的にも金銭的にも負荷がかかる。でも紙の雑誌なら、まぁ、だいたい3ヶ月あれば1人でもできちゃうんです。たとえば、僕とADと印刷所でできると、紙って意外と安く上がる?って思うこともあるんですよねー……。

クーリエはうまくいくといいなっていうのは、会員っぽいのにして、ビジネスとしてもうまくいくと良い事例になるのかなという気はするので、頑張ってほしいなと思いますけどね。

──ミュージックスクールというテーマを掲げた時に、日本の学校に触れていない理由は? 一読者として見たときに、日本にいる者として、日本も暗い話ばりじゃないことを知りたかったんです。

ちゃんと調べてないってこともあるし、そこまでやんなかったってだけです。僕らのモチベーションとして、日本の音楽学校の人に何かを考えてくれたらと思いますけどね。

僕らのやり口としては「(日本の学校は)お前ら遅いんだよ」っていうので、最初から眼中にないんですよ。最初から発想になくて、だから特集でも「学校はスタジオにあった」と日本のことを取り上げているのは、どうせ日本の学校なんてダメだろって僕のバイアスとしてあるだけ。

日本の音楽学校も成果を出しているでしょうけれど、良い面もあって悪い面もあって、というのが取材の前段階としてヒアリングで行ったところで想像しているくらいの地点だったので、編集上の見切りをした、ということですね。

──質問の結論から言うと、日本の音楽シーンはどうなりますか。(以下質問者の発言を略す)

ミュージシャン自体の問題よりは、裏っかわの人間ですよね。プロデューサーとかのサポートする人間たちが、ひたすら日和ったという気がするんです。ジャーナリストを含めて、様式美にはまったアーティストなんてふつうは排除できるはずなのに、「あっちが売れたからうちもそれでいこうぜ」なんていうのは、ミュージシャンのせいじゃない。

僕も編集の仕事で単行本をつくることはあるけど、冒険ができなくなっているのはあると思うんですよ、1年間に20冊、全部赤字にするな、というときに、面白いものがあっても触手を伸ばせなくなってくる。ところがその範疇に入らないものがいっぱいあるし、でも彼らが会社で評価されないというのはあって。

今回の特集は、むしろそっちを意識させたかったところがあるんですよね。デジタル化以降の音楽、作り手と聞き手が直接つながったら良くないか、中間搾取していたレコード会社はもういらないだろうという話があるけど、中間搾取する彼が無能ならたしかに良きことなんですけど、必ずしもそういうわけでもなかったんですね。

まぁ、僕が中間搾取する側だからというもあるが、とはいえ、企画なりコンセプトなりを与えて作らせるのは、ミュージシャン側から出てくるアイデアばかりではない。「最初のリスナーとしての人間」も、編集者も含めて仕事として割に重要だと思ったりするわけでして、そこにいる人がもう少しちゃんと機能しないとだめなんじゃんとは思うんですよね。

志もあって、音楽に献身的な人ほど辞めていくのは損失だろうと。彼らが独立してやっていけるならまだしも、他の業界にいっちゃうなら、やっぱりよろしくなくて。でも、ミュージシャンはいつも面白いことをやってやろうという人はいっぱいいて、僕の見ている限りにおいては、優秀な、良いミュージシャンは、音楽含めてあらゆる情報へのアクセスが簡単になっているだけに、すごい情報を絞って咀嚼してレベルが上がっている気もするし、それも良し悪しだとは思うけれど。

現状でも、音楽そのものは面白いと思うんですよ。それはメディアやジャーナリストを含めてちゃんと機能してないんだろうなという気がします。様式でやっているミュージシャンなんて淘汰されればよくて、そこに客がいるからっていうのは俺は嘘だろうと思っていて、お客さんを教育していくのも含めて、「それは誰の仕事ですか」っていう話はあると思うんです。

──若林さんが今、学生だったら何を学びたい?

僕はやっぱり「未来のなんとか」って言っている割に過去のことが好きなんで、歴史が好きだなっていうのはありますけどね。僕は文学部で、フランス文学をやっていたんですけど、イギリス文学をやりたいって思いはありますね。というか、フランス文学はそんな好きじゃないなって(笑)。

イギリスが最近面白いなって思うことが増えましたね。エドワード・モーガン・フォースターのエッセイがいいと思っているんですけど、僕の好きな言葉で、フォースターが民主主義について語っていて、民主主義はいいものだけど3回万歳するほどのものではない。2回まではいい。でも3回はしなくていい、と。

フォースターは突っ張った、こわばったものが嫌いだっていうんですね。そのドグマに戦うスタンスとか、半分ひねた部分含めて、イギリス文学のその伝統が好きですね。

──社会をつくる上で、レビューや批評が重要だと僕は思っているんですね。世界を見ていると文学やテックにも批評の文化があり、海外でも「オープンレター」という存在があり、たとえば企業がプライバシーの何がしかを変えた時に個人の名前でそれをオープンレターでもって批評するということがあり、デジタル社会でも根付いていると思うんです。日本でこういう批評が根付かない、表に出てきて機能していないのは、音楽だけじゃなく、社会の中で文化的な価値が見出されていないような気がしていて。特に企業の中ではレビューを集める機能や仕組みだけが注目されがちで、そのレビューをどう評価するかのフレームワークがない。それは学校にも結びついて、先生と生徒という関係があって、その中でのクリティーク(批評または批判)される意味での学校という場所だと思うんです。クリティークされたからこう変えよう、という行動が起きるはず。でも、学校での批評や評価が「受験です」というような世界にあって、若林さんは批評文化についてどう思いますか。

批評文化みたいのものは、あんまり成立していないっていうのはあると思うんですけど、一方ですげぇ批評文化だなって日本の文化環境はあると思うんですよ。つまり、批評誌って結構あるんですよ。『現代思想』っぽいものがあって、それって割りとクリティークばっかじゃんってちょっと気もするわけ。俺が日本に欠けていると思うのは、ファクトベースで何がそこにあるのかを伝えるもの。でもそれがない限りは批評って成立しないじゃないですか。

あるものを聞いて、俺はこう思うって誰でも言えるじゃない。でも批評はそこから高いレイヤーで成立させないといけないと思うし、ちゃんと機能していると言えない感じはわかる。でもその前段階として、音楽ジャーナリズムはまったくないと日本にはないと思うのね。つまりそれは何かというと、たとえば、アイオヴィンとドレーが学校つくったみたいな話って、日本の音楽雑誌には出ないわけですよ。取り扱わないわけです。音楽の新しいサービスが出た時も、どういう目論見があるのかをちゃんと作った人に聞いて跡づけるのは手薄だと。音楽ならいくらでもあることなのに、たとえば俺なんて小学校の音楽の授業ってなにやってるかに興味あるけど、そんなのは音楽雑誌に載らない、でも載ってもいいわけじゃん、音楽のことなんだから。

音楽というフィルターを通して社会をどう見るのかがジャーナリズムの機能のひとつだとすれば全然ないし、批評性も重要だと思うけど、そっちの欠如のほうが由々しき問題かなって思っていて。

ピッチフォークをコンデナストが買ったじゃない? おそらくグローバルで使えるようになるかもしれないときに、直にWIREDの中でも記事が上がりはじめる可能性が見えてきているんだけど、あらためてピッチフォークを見てみたわけ。で、レビューのところはやっぱり難しい。ピッチフォークはレビューが売りなんだけど、あれを日本語に翻訳してあげていってもツラいかもなって思ったりしたわけね。もうちょっとジャーナリスティックなものは日本にない有り様だし、内容も良いなって思ったし、そっちのほうがもしかすると、そこが抜けている意味では、日本のマーケットには入れやすいかもとは思ったけどね。

(ここで取材協力などを手がけた、Jazz The New Chapterとして知られる柳樂光隆さんにマイクが渡る)

柳樂:ライゾマティクスの真鍋大度さんに最近会って取材したんですが、過去のインタビューを見ると真鍋さんがメディアアートの批評について話していて、「メディアアートに関するテクノロジーの部分ってブラックボックスになっているから、どこがどうなってどれが新しいかをジャーナリストはわかっていないし、それを知るべきだ」というようなことを言っていて。

つまり、「一見新しいもの」と「本当に新しいもの」はすごく似ているのだけど、その違いを明らかにするのが批評であって、それがメディアアートをもっと豊かにすると。真鍋さんは憤っているわけではないけれど、事実としてそうだと話していて。若林さんがさっきファクトベースって言っていたけれど、そういう部分は日本には足りない、現状ないのかもしれないと思います。

ただやろうとしている人はいて、岸野雄一さんがやっている映画美学校は、いわゆる音楽理論と、批評、ヒストリーの授業をセットでやっているですね。岸野さんは「批評性がないと作品に関しての最終決定ができないから」と入れているそうなんです。批評も大事だっていうので、それを海外の学校が取材しに来たらしいんです。そういう場所も芽生えつつあるというか。

日本の音楽教育みたいなものも、やっぱりアメリカやイギリスのほうが速いんですよ。でも日本も結構、尚美学園みたいなところが音楽教育を進めていて、たとえば菊地成孔さんのバンドの坪口昌恭さんが先生をやっていて、そこではアメリカで起こっている一番新しいジャズを分析して教え、必ず年に一度ニューヨークに現地視察をしたりと。

あとは菊地成孔さんも私塾をやっていて、そこから出身したアーティストもあらゆるジャンルで出てきているので、進んでいることは進んでいるけど、芽生え始めたところかなと。

※『WIRED』日本版でエディター募集中!

イベントの最後には、主にウェブ版のWIRED.jpに関わるエディター募集の告知も再度行われていました。

僕は常々「編集長の大きな仕事はビジョンを示すこと」と感じていますが、ここまでの独演会の内容を読んだ方であれば、若林さんについては説明不要でしょう。

望ましい資質として「英語力」「ウェブメディアでの編集業務」が挙げられていますが、あくまで「望ましい」条件。自分には無理かな……と思わず応募してみては。あなたが気づいていない魅力を編集部は見出すかもしれませんからね。

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Kento Hasegawa
MEDIA BREAD

長谷川賢人/86世代の編集者・ライター/日本大学芸術学部文芸学科卒/フリーランス